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スレッド一覧

  1. “出羽の「エミシ」の興亡”(42)
  2. 邪馬台国畿内説の論拠(104)
  3. 万事一滴さんのスレ(4)
  4. 秋の花 新(97)
  5. 日本中世史に於ける対外交流と「偽使」(56)
  6. 日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」(6)
  7. その他(討論室)(2)
  8. 出雲と大和 新 by トミー(21)
  9. 安本美典氏の平均在位論の検証(46)
  10. 米田の系図を議論するスレ(85)
  11. 伊都国歴史博物館で特別展開催中(6)
  12. 邪馬台国九州説の論拠(355)
  13. 石見介さんの議論を中心に語るスレ(48)
  14. 「倭の五王の系譜」と「日本書紀の王統譜」(39)
  15. さきたま「稲荷山鉄剣銘」の謎を解く(108)
  16. 秋の吉野ヶ里(1)
  17. 健御名方神(2)
  18. 船原古墳から鉄製兜(新羅系)(5)
  19. 高天原にあった卑弥呼の墓(75)
  20. 日本人は三層(1)
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P君さんへ

 投稿者:いとな  投稿日:2021年12月 5日(日)14時44分1秒 KD175132050029.ppp-bb.dion.ne.jp
返信・引用
  11月10日付けで「青谷上寺地の復顔胸像」について、レスを頂いていたことが
今日になって分かりました。大変失礼しました。
画像のアップを再度試みます。上手くいったらお慰みというところです。
 
 

米田さんへ

 投稿者:奇妙奇妙  投稿日:2021年12月 2日(木)20時24分30秒 p2056066-ipbf1807funabasi.chiba.ocn.ne.jp
返信・引用
  秋田城の主も、元慶の乱後だったと思いますが、
百済某が数人トップに赴任しています。
これは何を意味するのでしょうか?

お考えご教示いただければ幸いです。
 

Re:進化論???

 投稿者:万事一滴  投稿日:2021年11月29日(月)13時13分11秒 p2464153-ipbf2514souka.saitama.ocn.ne.jp
返信・引用
  イツカこうへいさま

回帰する機会に考証させていただきます。


歴史は一見不連続に、然し、並列に浮沈するも、連綿と46億年つづいているのであり、事実に拘わり、直視する取り組みが求められるのではないでしょうか。




貴ご寄稿

万世一系説の亜種 ?   投稿者:いつかコウヘイ   投稿日:2021年11月28日(日)21時28分18秒 kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp   返信・引用


   万事一滴様の説 2021.11.28  談話室
【貴種も、初期王統以来、母系で継承されているようです。】

私から万事一滴様への問い合わせ 初期王統とはどの王統を初期 ?



私の見解 貴種崇拝は 21世紀の日本 いつでも復活を志向している。
     山口県のトアル地区 約70年 第一級戦犯と彼の親族が 首班になっている。
     福岡県のトアル地区 戦前から 炭鉱成金/石灰石成金  首班と副総理歴任
     皇室と姻戚関係




 

万世一系説の亜種 ?

 投稿者:いつかコウヘイ  投稿日:2021年11月28日(日)21時28分18秒 kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
返信・引用
  万事一滴様の説 2021.11.28  談話室
【貴種も、初期王統以来、母系で継承されているようです。】

私から万事一滴様への問い合わせ 初期王統とはどの王統を初期 ?



私の見解 貴種崇拝は 21世紀の日本 いつでも復活を志向している。
     山口県のトアル地区 約70年 第一級戦犯と彼の親族が 首班になっている。
     福岡県のトアル地区 戦前から 炭鉱成金/石灰石成金  首班と副総理歴任
     皇室と姻戚関係
 

東北地方の経営と征夷事業

 投稿者:米田 喜彦  投稿日:2021年11月26日(金)06時43分4秒 fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
返信・引用
  『百済王氏(くだらのこにきしうじ)』(ウィキペディアより)
:歴史
:奈良時代末期には俊哲が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、武鏡は出羽守となるなど、
:敬福以来東北地方の経営と征夷事業に関わった。平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が
:百済系渡来氏族の和氏出身であったため天皇の外戚とみなされ厚遇を受けた。
:一族の娘を桓武天皇・嵯峨天皇らの後宮の宮人とし、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。
 

東北の主な「神社」と「お寺」

 投稿者:米田 喜彦  投稿日:2021年11月24日(水)10時14分11秒 fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
返信・引用
  <主なお寺>

・清水寺(きよみずでら)は、大同2年(807年)、征夷大将軍坂上田村麻呂による開基と伝わる。
・瑞巌寺は、延福寺は(828年) 淳和天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開山した寺であったという。
・毛越寺(もうつうじ)・・・歴史:寺伝によれば850年(嘉祥3年)、中尊寺と同年に円仁が創建。
・中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。
・立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗の仏教寺院。
:創建:寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。


<「神社」>(福島を除く)東北地方の「一之宮神社」

(津軽国一宮)__「岩木山神社(いわきやまじんじゃ)」
(出羽国一の宮)_「鳥海山大物忌神社(ちょうかいざんおおものいみじんじゃ)」
(陸奥国一之宮)_「塩釜神社」
(陸中国新一の宮)「駒形神社」令制国の一宮ではないが、「陸中国新一の宮」として認定されている。


『岩木山神社(いわきやまじんじゃ)』(ウィキペディアより)
:歴史
:創建については諸説があるが、最も古い説では、宝亀11年(780年)、
:岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされる。

:延暦19年(800年)、岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に
:社殿を再建し、その後、十腰内地区に下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、
:山頂の社は奥宮とされた。また、田村麻呂は、父の刈田麿も合祀したとされる。
 

律令の柵

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2021年11月24日(水)06時59分21秒 p2056066-ipbf1807funabasi.chiba.ocn.ne.jp
返信・引用
  律令の柵は秋田市ー盛岡市のラインで止まっています。

この柵設置後は律令政府は「エミシ」征討は止めました。
川で言えば雄物川で止まりです。
そこから北は律令政府に入りませんでした。
 

「秋田城」と「渤海」

 投稿者:米田 喜彦  投稿日:2021年11月23日(火)22時51分39秒 fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
返信・引用
  『秋田城(あきたじょう/あきたのき)』(ウィキペディアより)
:(曖昧さ回避)この項目では、奈良時代から平安時代にかけての城柵について説明しています。

:秋田城は、出羽国秋田(現在の秋田県秋田市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されており、
:かつての城域の一部は現在高清水公園となっている。
:また、秋田県護国神社も秋田城の城址に遷座したものである。

:秋田城の創建は、733年(天平5年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことに
:さかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている。
:秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持したと
:考えられており、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、
:出羽国北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った。

:歴史・沿革
:8世紀には、沿海州付近にあった渤海国からの使節がたびたび出羽国へ来着した。
:そもそも出羽柵の秋田移転には、なぜ庄内地方から一挙100kmも北進して人口希薄な秋田地方へ
:突出したのかという疑問が生じるのであるが、そこで秋田城の海上交流の拠点としての性格が着目され、
:秋田城が渤海使や北方民族との外交施設としての役割を担ったとする説が示されている。


『渤海(ぼっかい)』(ウィキペディアより)
:水上交通
:日本への海上交通は「日本道」とよばれるものである。起点は上京府を基点とし
:陸路塩州(現在のロシア連邦クラスキノ)に至りそこから海上を進むというものである。
:現地クラスキノのポシェト湾近くには、主発拠点の塩州城跡と推定されるクラスキノ土城遺跡がある。
:海路は大まかに3ルートに分類することが出来る。
:その一つが「筑紫路」であり、塩州を出発した船は朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を経て筑紫の
:大津浦(現在の福岡)に至るルートである。(省略)
:第2のルートが「南海路」と称されるルートである。(省略)
:第3のルートが「北路」であり、塩州を出発した後、
:日本海を一気に東南に渡海し、能登、加賀、越前、佐渡に至るルートである。
:当初は航海知識の欠如から海難事故が発生したが、その後は晩秋から初冬にかけて大陸から流れる
:西北風を利用し、翌年の夏の東南風を利用しての航海術が確立したことから海難事故も大幅に減少し、
:また航海日数の短縮も実現した。


平安時代の日本と、隣国「渤海」の不思議な外交関係(ネットより 抜粋)

「日本と渤海、190年の長い付き合い」_堀井佳代子:国際日本文化研究センタープロジェクト研究員

:日本と渤海の長いつきあい
:渤海(ぼっかい)という国をご存じだろうか。現在は高校の教科書にも取り上げられているが、
:かつては謎の国とされていた。奈良・平安時代に日本が外交関係を取り結んだ国のひとつが渤海である。
:渤海は現在の中国沿海州・ロシア・北朝鮮にまたがった地域にあたり、
:高句麗の遺民たちによって建てられた国とされる。

:地理的に農耕は難しかったようだ。渤海王から天皇に対しては、トラ・ヒグマ・ヒョウの毛皮や人参
:(朝鮮人参)・蜜が送られている。また、日本に来た渤海使には、特別に毎日鹿二頭が準備されていた。
:彼らは肉食を好んだのだろう。渤海が狩猟・採集を基盤とした社会であったことがうかがえる。

:渤海王大武芸(だいぶげい)が神亀4年(727)に日本に使者を派遣してきたことから、
:日本と渤海との交渉が始まる。渤海にとってこの交渉は、日本と結びつくことによって、
:対立していた黒水靺鞨(こくすいまっかつ)や新羅を牽制することを狙ったものであった。

:一方、日本の朝廷は、渤海が「自身は高句麗の後身である」と名乗ったことから、かつて滅亡前後に
:辞を低くして日本に遣使してきた高句麗との関係を思い起こした。その結果、
:渤海を自分より下位の朝貢国とみなした。これが日本と渤海交渉の出発点である。

:他にも日本は新羅とも使者を送りあい、唐にも数十年に一度、遣唐使を派遣していた。新羅については、
:宝亀10年(779)を最後に新羅使が日本に来ることはなくなった。朝廷は新羅も朝貢国として位置づけて
:日本上位の立場を主張したが、新羅はこれを容認せず、関係悪化を招いたのがその一因である。

:遣唐使も寛平6年(894)に菅原道真によって派遣停止の建議がなされる。ただ、そもそもこのときは
:約60年ぶりの遣唐使派遣であり、宇多天皇が主導したきわめてイレギュラーな計画であった。
:実際の遣唐使派遣自体は承和5年(838)が最後である。

:しかしその間にも、渤海は定期的に日本に使者を派遣してきている。その交渉は延喜19年(919)まで
:続く。渤海滅亡後の延長7年(929)にも、渤海を滅ぼして建国された東丹国の使者として、かつての
:渤海大使であった裴璆(はいきゅう)が来朝している。つまり、平安時代を通じて安定的に日本が外交を
:おこなっていた国は渤海だけであり、日本は意外に大きな影響を渤海から受けているのである。


(掲載図:上段):米代川についての図・・・大館市新水道ビジョン(案)より
 

「米代川」と「雄物川」と「比内(ひない)」

 投稿者:米田 喜彦  投稿日:2021年11月23日(火)22時24分13秒 fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
返信・引用
  日本の川 - 東北 - 雄物川 - 国土交通省水管理・国土保全局

雄物川は、秋田・山形県境の大仙山(標高920m)にその源を発しています。
東部及び南部には奥羽山脈があり、ここから発する皆瀬川、横手川等の各支川を合わせながら
横手盆地を北上し、玉川を合流した後、進路を北西に変え、秋田市新屋で旧雄物川を分派し、
本川は放水路を経て日本海に ...

幹川流路延長: 133km
河川名: 雄物川
水系名: 雄物川水系
流域面積: 4,710km2


比内(ひない)出典 ブリタニカ国際大百科事典

秋田県北東部,大館市南部の旧町域。大館盆地の南半分を占める。
1955年扇田町と東館村,西館村,大葛 (おおくぞ) 村の3村が合体して発足。 2005年大館市に編入。
江戸時代,中心地の扇田は米代川の河港として繁栄。北部は純農村地帯で米作が盛ん。
比内地鶏の飼育が行なわれ,トンブリやシイタケ,ホップを特産する。
南部にはかつて多くの鉱山があり,銅,鉛,亜鉛,硫化鉄などを産していた。


比内(ひない):出典 小学館日本大百科全書(ニッポニカ)「比内」の解説

秋田県北部、北秋田郡にあった旧町名(比内町(まち))。現在は大館(おおだて)市比内町で、
市の南部を占める。米代(よねしろ)川の中流域、大館盆地の南半分を占める。
旧比内町は、1955年(昭和30)扇田(おうぎた)町と東館(ひがしだて)、西館、大葛(おおくぞ)の
3村が合併して成立。2005年(平成17)田代町(たしろまち)とともに大館市に編入された。
大館盆地一帯の歴史的呼称である比内(アイヌ語で平野の中を流れる川の意)を名称とした。
JR花輪線、国道285号が通じる。中心地区の扇田は江戸時代には米代川舟運の船着き場であり、
物資の集散地として栄えた。地下資源が豊富で、金、銀、銅、亜鉛を産し、
とくに大葛金山は江戸時代には全国でも有数の金山として知られた。
農業は米作中心であるが、近年酪農、葉タバコの栽培が増加している。特産品としては、
ホウキグサの実であるトンブリと、国の天然記念物に指定されているヒナイドリ(比内鶏)がある。

[宮崎禮次郎]『『比内町誌』(1964・比内町)』▽『『比内町史』(1987・比内町)』


『比内町(ひないまち)』(ウィキペディアより)

:比内町は、かつて秋田県北秋田郡にあった町。
:2005年6月20日に同じ北秋田郡に属する田代町と共に、隣接する大館市に編入され廃止された。
:編入後、大館市比内町として地名が残った。
:歴史
:町内には縄文時代のものと思われる遺跡があり歴史はかなり古いと思われる。
:この地域が初めて文献に登場するのは9世紀である。
:町名の語源はアイヌ語の「ピ・ナイ」(小石が多い沢)または「ピン・ナイ」(細く深い谷川)に
:由来するといわれる。1955年の町村合併時に成立した新町の名称として「比内」が採用されたが、
:本来は大館周辺も含む陸奥国比内郡(のち出羽国秋田郡)という広域地名であった。

:878年(元慶2年) - 『日本三代実録』によれば元慶の乱で夷俘側についた秋田城下の12村の中に
:「火内」という村がある。これが比内の初出であると思われる。
:中世には比内郡(大館盆地)を治める比内浅利氏の居城が独鈷におかれ(独鈷城)、
:やがて扇田にもおかれ(扇田長岡城)、比内郡の中心部が旧比内町域となる。
:扇田は米代川に面した街道筋の要衝として街場になる。

:脚注
:^アイヌ語の「ピル・ナイ」(良い沢)が語源だという説も菅江真澄(『菅江真澄全集 第十巻』、
:内田武志 宮本常一 編集、未来社、1974年、p.132)が唱えているが、この用例は
:『地名アイヌ語小辞典』などでは確認出来ない。「シ・ナイ」(大いなる沢)という説もあるが、
:北海道のアイヌ語地名では「シ・ナイ」に対応する「モ・ナイ」があって、本流と支流の関係に
:なっている。比内地方では「モナイ」は確認出来ない。中世の文書に「吉比内」と表記している例が
:あり、これを「サッピナイ」と解釈すれば、「サツ・ピ・ナイ」(乾いた石の沢)と解釈できる。
:(『大館風土記』、伊多波英夫、秋田文化出版社、1985年)
 

(無題)

 投稿者:万事一滴   投稿日:2021年11月23日(火)12時35分7秒 p2464153-ipbf2514souka.saitama.ocn.ne.jp
返信・引用
  中世史以前

諸氏の学殖に感服し、この方法では、歴史の復元は叶わないとの思いを深くしています。

文献から追おうとすれば、やはり、記紀、続日本紀、日本紀の痕跡(あります)、釈日本紀、水鏡、等の検証に立ち返らなければ先には進めないとの思いを深くするばかりです。



 

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