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Re: (無題)

 投稿者:石見介  投稿日:2022年 5月30日(月)01時30分29秒 flh2-133-206-98-96.osk.mesh.ad.jp
  通報 返信・引用 編集済
  > No.3660[元記事へ]

 以前、ここまで読んで、コメントを付けようか迷い、結局、止めましたが、ここで挙げられた、米田さんの仮説は、新討論室でも挙げられていたので、そこでコメントすればよい、と考えていました(が時間が無く、未投稿)。

 しかし、本日、今日時点までの投稿をすべて読み、米田さんが、難升米さんとの議論用に、この、「旧討論室のロビー」を、宛てておられる事に気付きました。
 討論の基礎となる、基礎的な知識の共有には、新討論室に出禁の難升米さんも、コメント出来る、このロビーが、良いように思えるので、こちらにコメントします。
 尚、私としては、共通の認識の為の、史料批判的部分の「提示」が、主目的なので、
議論は、控える場合があります。
 又、米田さんの。文章の引用部分は、適宜、削除させて戴きます。

> (新しく書きました。仮説のひとつくらいには、なると思います。)
>
> *****************

> 「そもそも邪馬台国はどこか、」(仮説:邪馬臺国は、狗奴国だった。)
>
> 後漢書倭伝:後漢(AD25年~220年の、国の歴史)
>
> :大倭王は、邪馬臺国に居住している。(←小さなクニです。)

  范曄『後漢書倭伝』には、戸数記事は、ありません。
 従って、「戸数7万戸の大国」であるとも、米田さんの仮説の「小さな国」とも、確定は出来ません。『魏志倭人伝』を参照すれば、後漢代も、それなりの「大国」であった可能性は、高いように、思われますが。

> :拘邪韓国から、7000余里離れている。(←もしかすると、水行7日。)
> :桓帝・霊帝の治世(147~189)の時代に、卑弥呼を共立した。

 「倭国乱」、即ち、安定的な、「男王」が「大倭王」=倭人諸国の盟主=として、7~80年(以上?)継続して治めていた時期の「後の」、倭国内乱時代が、「桓霊の間」で、卑弥呼が、自立ではなく、「共立」によって、大倭王に即位し、大国邪馬台国の地に、王都を置いたのは、その後ですから、女王国となるのは、霊帝の末期、光和年間になる。

> :(これを女王国という。)
> :女王国から東へ海を渡ること1000余里で、拘奴国に至る。
>
> 魏志倭人伝:魏(220~265年の、国の歴史)
>
> :狗弥韓国から、女王国に至る間の距離は、5000余里である。
> :邪馬壹(やまいつ)国は、女王の都している所である。

 これは、史料批判から、「邪馬臺国」が正しい事は、「確定的」で、「邪馬壹國」は、現行刊本『三国志』の元となった、写本の「誤写」である事は、明白です。
 古田武彦氏が、史料批判を理解していなかっただけです。
 米田喜彦さんが、その誤謬の上に立って、推論すれば、誤謬が相乗的に増加する事になります。

> :(〇〇から、水行10日・陸行1か月)
> :奴国は2万余戸。投馬国は、5万余戸。(←、合わせると、7万余戸)

 『魏志倭人伝』の、恣意的解釈です。
 戸数記事が、邪馬台国九州説にとって、不利に働くので、戸数記事(等)を、虚数として無視する(松本清張氏など)か、勝手に合計して、無理矢理、九州島内に納めるか、陳寿もしくはその原史料の、意図的或いは伝聞等による、誤情報であると、考える。
 逆に、邪馬台国近畿説論者にとっては、戸数記事は、最重要な根拠なので、これを、絶対に正しいと主張する。
 この戸数合計論を出した時点で、米田さんの、邪馬台国九州説論者としての、基本的立場が、明確化される事になります。


> :邪馬壹(やまいつ)国は、7万余戸。 (←、ほぼ、九州島の大きさ)
> :伊都国には、代々国王がいて、女王国に統属している。
> :女王国の南に、「狗奴国」があり、男王がいる。
> :女王国の東、海を渡ること1000余里のかなたに、また国がある。
> :いずれも倭種の国である。
>
> ********************************
> ※:そもそも、日本書紀では、連続した複数の天皇が、
> _:同じ都を使ったということは、ないのです。

 その通りです。

> ※:ですから、後漢の時代に、拘邪韓国から、水行7日の処にあった、

  この「水行7日」という日程も、米田さんの「解釈」です。

> _:大倭王が居住していたという、「邪馬臺国」という国は、後漢の
> _:時代の末期には、つまり、魏の時代の前には、(「邪馬臺国」は、)
> _:(似た名前の邪馬壹国はあるが)無くなっていたのです。

 この部分は,米田さんの「解釈」であり、文献読解上、誤解があります。
 女王国連合の「首都」は、邪馬臺「国」であって、「邪馬臺」という名の「城」「邑」であるとは、記述されていない。
 米田さんは、自説に合わせる為に、卑弥呼時代以降の「邪馬臺国」を、戸数7万戸の広域の大国ではなく、「小さな国」という、「前提」を、先ず、仮説の出発点とされた。
 史料批判の観点からは、極めて成立困難な、解釈です。

> ※:そして、女王国の東にあった国は、「拘奴国」から「倭種の国」に
> _:変わったのです。そして、「邪馬臺国」のあったところには、
> _:(女王国の南に、)「狗奴国」が出来ていて、男王がいるのです。

 二つの「奴国」同様、何故、二つの「クナ/クマ」国があっては、いけないのでしょうか?
 熊本県も、紀伊半島の熊野も、どちらも、現代では、「くま」です。

> ※:国の変遷というものは、こんなものでしょう。後漢書に出てくる、
> _:邪馬臺国に居住している「大倭王」は、男王だったと考えます。

 范曄は、『後漢書』の扱う年代を、後漢代までに、限定して、史料を集め、校勘、考証して、『後漢書倭伝』を書いた。卑弥呼は、後漢の霊帝末年に、大倭王に共立され、献帝の時代を経て、魏の時代になる。
 彼の協力者の集めた資料には、倭人諸国の国名リストや、行程にある諸国の史料が無かったから、倭人諸国の名は、倭奴国、邪馬臺国、狗奴国とおそらく同音の「拘奴国」の名前しかなかった。
 范曄の、史料に対する、史家としての姿勢、矜持が、窺える、と私は、判断しています。
 石原道博氏の言うような、『後漢書倭伝』は『魏志倭人伝』の「下手なパクリ」ではない。

> ※:それにしても、この後漢書倭伝を書いた人物は、相当のへそ曲がりですね。

 この点は同感です。

> _:魏志倭人伝そっくりに書いているように見せかけています。

 それは違いでしょう。
 范曄は、六朝貴族の一員で、その才能を同時代人にも、広く認められ、左遷中の暇つぶしに、後漢代史書の決定版を書こうと思い立ち、協力者を募った。
 「多くの学徒を集め」と書かれているように、皇帝の意思に逆らって左遷された地方官の彼に、協力者が、多数集まった。
 金なし、協力者なしの、陳寿とは、そのあたりが、全然違う。
 米田さんは、伝統的な史書の執筆パターンを、陳寿を真似たと、誤解されておられると、思われます。

> _:けれども、同じように見せておいて、実は、違うことを書いています。
> _:筆者は、相手を混乱させて、喜んでいますね。

 そうではなく、范曄が、史料を読み込んでの、彼なりの考証を行った結果だと思います。
 范曄は、獄中から、一族の子弟に宛てた書信の中で、「六夷」即ち、列伝の中の夷蛮伝6巻の文章などを、自慢しています。
 余程、自信があったのでしょう。
 その夷蛮伝6巻の最初が、「東夷列伝」です。
 范曄の『後漢書』が現れるや、直ちに評判になり、先行した、正史『(東観)漢記』以下の後漢代をあるかった、所謂七(八)家後漢書と称される史書群を、圧倒し、後世には、范曄『後漢書』と袁宏『後漢紀』のみしか、残らなかった。
 文意が同時代人に理解でき名あい様な史書が、しかも、著者が皇帝の意に添わずに左遷され、一族ともども刑死した様な人物の著作が、そこまで、支持される筈がない、と私は、考えます。
 范曄が、獄中で死を前にして一族子弟(大半は、連座して、刑死する)に宛てた書信で、その文章を自慢したように、范曄には、史才の他に、文才もあり、世人に広く認められていた。難解な文章ではなかった、と思います。

> _:「読めるものなら、読んでみろ。」感、満載です。
> _:テクノクラートのささやかな「お遊び」といったところでしょうか。

 皇帝の要望である、琴の演奏を、拒絶するぐらいの自由人で、『宋書』の編纂者沈約の功績とされる、「四声」を、吉川忠夫氏らによれば、既に発見していたという、天才ですから、「史官」といった存在ではなく、むしろ、近現代の自由な文化人の様な、気質だったのではないか・と私は、考えています。

 尚、范曄の協力者,謝儼の手になる、范曄が、本紀、列伝を書く際の参考にした、「十志」は、范曄が刑死した為、連座を怖れた謝儼によって、廃棄され、失われました。
 その結果、現行の范曄『後漢書』の「郡国志」等の、志、表は、司馬彪の『続漢書』の物なので、地理誌や郡国志の類を、范曄が参考にしたものと受け取ると、問題が生じます。


 尚、范曄の「考証」が行われた部分として、「倭国王帥升」の部分が考えられ、これが、私が、スサノヲを「帥升」だとする見解を、否定する根拠となっています。

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