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  • 邪馬台国畿内説の論拠

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2021年 5月24日(月)00時31分43秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
 
邪馬台国畿内説のスレを作りました。

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  • [626]
  • Re: 桜井市太田地区 現状 王都未発見。奈良盆地で判っている王都の初検出は南郷遺跡  

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 7月 4日(月)20時24分48秒
  • 061-113-037-014.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
>>625
>  王権とは、王の日常生活が 王様にふさわしい生活環境が必要条件。
> 畿内 特に奈良盆地の古墳時代前期の巨大古墳、王都未発見。
> 奈良盆地東南麓の前期古墳群に 王都は併設していない。 墓域として 奈良盆地東南麓が選定されたのてあり、ここが前代の弥生拠点集落とは相違。


大和盆地東南・纏向地域の巨大古墳の主、例えば行灯山古墳の崇神天皇の宮は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、
今の桜井市金屋にある志貴御県坐神社で間違いないのではないかと思っています。
後の平城宮のような巨大な宮を想像してる人には、驚くほど小さい宮ですが、私はここで間違いないのではないかと思っています。
ただしこれらは、4世紀初頭に、崇神が大物主を倒し大王になったという意味の宮であり、
それ以前の天皇の宮は、そもそも初期八代の天皇は「大王「(おおきみ)」ではないので、それらの宮はまだ見つかってはいませんが、仮に見つかったとしても、大王の王宮ではないわけです。

崇神より前の時代、つまり3世紀の大和の主神は大物主と呼ばれ、その宮は、おそらく葛城の「高天原近辺」であったろうと推測できます。
卑弥呼やトヨもそこにいたわけです。
おそらく御所市名柄の「姫の宮」でしょう。

また各地域の始祖王的人物の墓が山稜にあるという考古学的事実、
これは後の人間が、その墓域を始祖王より高い位置にすること、始祖王より高い位置で永眠することは不敬であるとされた、
そんな観念があったのではないかと思っています。

そう考えれば纏向古墳群が大和盆地の平地にあること、これはどういう事であろうか、私の中で長年の謎でしたが、
崇神の行灯山以前の纏向古墳群の主が、箸墓古墳の被葬者を含めて「大王(おおきみ)」ではないということであろうから、
納得もできるわけです。

卑弥呼やトヨを含め、この時代の王族の墓は、大和盆地の山稜、標高435mの「高天原」にあったわけです。

  • [625]
  • 桜井市太田地区 現状 王都未発見。奈良盆地で判っている王都の初検出は南郷遺跡  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 7月 3日(日)06時55分34秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 王権とは、王の日常生活が 王様にふさわしい生活環境が必要条件。
畿内 特に奈良盆地の古墳時代前期の巨大古墳、王都未発見。
奈良盆地東南麓の前期古墳群に 王都は併設していない。 墓域として 奈良盆地東南麓が選定されたのてあり、ここが前代の弥生拠点集落とは相違。

 墳墓も 弥生期は 基本 三次元的構造を意識していない。
古墳時代から意識的に 高さ・墳丘を求めている。
地山を削って一段目の墳丘を形作る前方後円墳と それ以前の墳墓の工法では、土木工事の手数が相違。
突出付円墳は基本低墳丘墓、同様 東日本の前方後方形周溝墓や前方後方形低墳丘墓も、各地で形状相違。
この、古墳と弥生の中間期の墳墓で 版築が想定されるのは キビ・サヌキ系の双方中円墳。こちらが畿内系定型化前期古墳のルーツ。

円形周溝墓・方形周溝墓から派生した突出部付きの低墳丘墓は、土を踏み固めて墳丘を高くするという工法が浸透していないので、低墳丘。





 

  • [624]
  • Re: 色メガネ思考 突出部付き円墳 / 前方後円墳は物部 という固定観念  

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 7月 2日(土)14時13分44秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>623
> 播磨か和泉の突出部付き円墳は、奈良の東南麓の不定形前方後円墳に先行する。
> キビの双方中円墳は 日向~うきは~キビ・サヌキ~奈良盆地に展開。
>  定型化前期古墳は 盛り土をする前に 一段目の地盤を整形して(地山削り)前方後円墳の外形を形作り、その上に土を盛り上げてゆく。
>  奈良盆地東南麓の不定形低墳丘墓とは 設計思想が違いすぎる。



突起付円形墳丘墓のルーツは讃岐や和泉などの東瀬戸内。
それが纏向古墳群に先行するわけです。

設計思想などと抽象的かつ恣意的な反論を言わないでください。



>
> 日本の古墳時代の古墳の特色、無記名、海外と違い 墓誌が出ない。
> 古墳時代の支配者層は 文字を嫌っていたと思えるほど 古墳時代は文字資料が出土しない。
>
> 物部氏が 文献史的に確認できるのは 雄略期 部民制の確立期前後。
>
> 古代人が 神話として提示した 後世・8世紀以降の文献、物部氏がヒミコ期から活躍するのは 秀吉の貴種ご落胤と同類、フェイク。


大王で初めて纏向に宮を造り、前方後円墳を造った崇神天皇の母君は誰ですか。
適当でいい加減な事を言わないでください。


>

  • [623]
  • 色メガネ思考 突出部付き円墳 / 前方後円墳は物部 という固定観念  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 7月 2日(土)11時17分39秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
播磨か和泉の突出部付き円墳は、奈良の東南麓の不定形前方後円墳に先行する。
キビの双方中円墳は 日向~うきは~キビ・サヌキ~奈良盆地に展開。
 定型化前期古墳は 盛り土をする前に 一段目の地盤を整形して(地山削り)前方後円墳の外形を形作り、その上に土を盛り上げてゆく。
 奈良盆地東南麓の不定形低墳丘墓とは 設計思想が違いすぎる。

日本の古墳時代の古墳の特色、無記名、海外と違い 墓誌が出ない。
古墳時代の支配者層は 文字を嫌っていたと思えるほど 古墳時代は文字資料が出土しない。

物部氏が 文献史的に確認できるのは 雄略期 部民制の確立期前後。

古代人が 神話として提示した 後世・8世紀以降の文献、物部氏がヒミコ期から活躍するのは 秀吉の貴種ご落胤と同類、フェイク。


  • [622]
  • 神武の墓はどこか? 葛城の葛は別名・ウラミグサ

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 7月 1日(金)23時42分8秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
「ガラクタ置き場」というホームぺージの筆者・S.Minaga という方の文面
【 国源寺は神武陵の陵寺との伝承があり、中世、塔垣内廃寺の跡地に建立された可能性が高いとも云われる。
そしてこの国源寺は何時の頃か不明ではあるが、塔垣内廃寺の跡地から付近(寺内)の大窪廃寺跡に移転したものと思われる。
 ※国源寺は、もとは神武田にあったが、明治初年御陵修築に際し現在の場所に移転との記事が散見される。
しかし、伝承のように神武田から現在地に移転した可能性は高いが、明治初年の移転ではない。
なぜならば、江戸期の神武田の様子を示す諸資料は多くあるが、これらには神武田に国源寺の存在を記したものはなく、移転したとするとかなり以前のこと といわざるを得ない。 】
この方の塔の現地調査はとてもリアル。

中世・南北朝という暦が二つの時代、南朝・天台宗の寺院は焼き討ち・廃寺に追い込まれた事例が多く、 宗派を変えている寺院も。
 焼き討ち事例 愛知小牧 大山廃寺  福岡久山・首羅山遺跡/頭光寺
 宗派変更   宮城 松島/ 端厳寺
たぶん神武の墓と墓守り/墓戸と彼ら用の田んぼ、が有った。 【破墳】で墳丘を失い、給田も横領され、中世期には 位置が判らなくなってしまった。

葛/クズ 神武が畿内を征服する時の通路、吉野川・紀の川の 上流に国栖くずという地名が葛という名前の由来。
葛の別名 ウラミグサ   雄略系統から滅ぼされたのは葛城氏=神武系統。
允恭~雄略は 葛城の女性を 妃の一人として 婚姻している、 女系の血液を維持。


ただし 現在の江戸時代製の神武陵と同様に、桓武期前後の歴史改変と創作の空気の中で、日本書紀の記載に合わせて、上記の神武陵が創作された、という可能性もありうる。

  • [621]
  • Re: P君さん

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 7月 1日(金)18時09分51秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
>>620


> > それはもう考古学的にも否定されています。
>
>
>  吉備や阿波や讃岐の、纏向式墓制の前段階の要素を持つ、弥生墳丘墓でも何でもよいですが、その墳墓から、墓誌が出土して、「物部だああ~」と書いたものが発見された、という話は、寡聞にして、聞いたことがあ栄ません。
>  文献によらず、考古学者の「解釈」によるものは、証拠能力は、低い。
>
>
> > 突起付き円形墳丘墓は、纏向石塚より早く讃岐、播磨、和泉など東瀬戸内に展開しています。
> > つまり瀬戸内から纏向に持ち込まれたのです。
>
>   そんな「考古学的事実」を、「否定」しているのではなく、それらの要素を、畿内に齎した、各地域の集団が、「物部氏親氏族」という、父系血縁集団(リネージ)だという、「考古学的証拠」等、無いと言っているだけですよ。
>
>




墓誌が出ていないなんて反論は古代史で言ってはいけない事です。

纏向遺跡の場合は、寺沢さんがその主要要素として筑紫、吉備、讃岐、播磨と言われています。
そして纏向古墳群に先行する墳墓として、播磨の加古川の西条52号墳墓を挙げておられるようです。
小山田宏一さんは和泉の突起付き円形墳丘墓を纏向古墳群に先行するものとしておられたのは以前にも言いました。

筑紫、吉備、播磨、讃岐、和泉はことごとく物部の痕跡の強い地域です。
物部という呼称が後世であろうがそれはかまわないのです。

そして纏向遺跡が物部の遺跡である理由は何度か言ってますが、神武東征でニギハヤヒが神武に屈した金鵄伝承の場所が、
纏向遺跡のある桜井市外山(とび)がその有力候補地の一つであること。
そんな神話などは信じられないと言われるなら、
崇神天皇の宮も墓も纏向地域にあること、これは崇神が生まれ育った場所が纏向であり、当然、崇神を産み育てた母親の物部のイカガノシコメが纏向にいたことを示します。

また6世紀後半においても物部守屋がツバイチ(桜井)に、尼さん3人を鞭打つために引き連れて来たこと、
これはツバイチが守屋の領地だからこそそれができたのであろうし、
その守屋の死後に、(大和において)纏向発祥の前方後円墳がピタリと造営されなくなること、
つまり6世紀末の丁未の乱(ていびのらん)での物部宗家滅亡とともに前方後円墳の造営が終わること、
これら複数の要因から、纏向遺跡、纏向古墳群は物部の遺跡であると断言できると思われます。



> > また特殊器台や双方中円墳も播磨・吉備→纏向だし、竪穴式石槨のルーツも吉備です。
> > ですから「畿内大和で、纏向古墳群形成後に、物部氏親氏族が、畿内邪馬台国の先兵として、それら地域に、赴任した」のではありません。
>
>  ?どうして、それが、証明できるのですか?
>  考古学的に、纏向古墳群の墓制の、各要素の起源地や、その経由地も、証明できる。
>  それは、「確定的」definiteの事実として、今後の議論の、共通基盤になる。
>  しかし、墓誌の様な同時代史料もなく、後代の偽書の記載が根拠で、物部親氏族の集団が、持ち込んだ、等という、証明など、出来るわkrがない。



突起付き円形墳丘墓や特殊器台や竪穴式石槨も大和より吉備や讃岐や播磨のほうが早いからですが?
古い方が新しい方のルーツになるのは当たり前だと思いますが。



>
>
> > 和泉の例でいえば纏向石塚に先行する突起付き円形墳丘墓が存在することから、和泉→纏向と言えると思います。
> > その後、4世紀になって久米物部の地に摩湯山古墳、弦田物部の地に和泉黄金塚古墳ができます。
> > 物部が国造として君臨したのかもしれません。
>
>
>  物部氏と大伴氏(大部氏)は、大王家の、先兵です。
>  畿内大和から、外延に進出する時には、両者のいずれか一方か、両方が、必ず、出て来る。その「時期」を、文献で絞れるようになるのは、甘く見ても、5世紀以降でしょう。
>  それ以前は、確定できないでしょう。



大王で初めて前方後円墳を採用した崇神天皇以降の4世紀以降はそうでしょうが、
今は纏向古墳群を基点としてその前の2世紀、3世紀の話をしています。




> > 後付けも何も年輪年代で纏向石塚177+18というのは、ほんの2.30年前の事です。
> > 「偽史書である事の確定している」と言われますが、先代旧事本紀の信憑性は0%ですか。
> > 近年の考古学との一致などから60%は信憑性はあるでしょうから、その60%の中の話をしてるわけです。
>
>
>  後付けですから、先行史書より、情報量が多く、一見、信頼性が高いように見える。
>  それこそが、偽書の目的なのでしょう。
>  それを防ぐための手段が、文献批判なのです。
>  まあ、p君さんは、この点では、確信されていて、説得は無理ですから、以後は、「見解の相違」で、無駄な議論は、やめましょう。


何を言っておられるのか分からない。
千年以上前の先代旧事本紀の記述を、20世紀の年輪年代法という科学が証明したと言ってるわけです。



> > まるで信憑性0%であるかのように偽書と決めつけて、まったく無視してるから、先代旧事本紀と最新考古学の驚くべき一致に気づかないのです。
>
>
>  偽書には,その著者の「思い」があって、書かれた著作物です。
>  SF小説を書くつもりでなければ、可能な限り、読者に、「真実の書」だと思って、信じてほしいので、著作当時判明している「事実」は、可能な限り、主題と矛盾しない限り、「正しく」、書き込みます。
>  何らかの事情で、その部分が、他書から失われれば、その「偽書」も使用せざるを得ない。
>  『先代旧事本紀』も。そのような、扱いの難しい「偽書」です。
>  ウガヤフキアエズを、70世代にも膨らませたような、全く使用できない様な、偽書ではない。
>
>  『先代旧事本紀』は、物部氏系の「偽書」であり、物部氏の古代の栄光を、喧伝するのが目的です。
>  従って、物部氏の事績は、誇大に記載されていると、慎重に、考える必要がある。



そんなことを言われるなら、神武即位BC660年の日本書紀も偽書で良いですか?
私が言ってるのは、上記、先代旧事本紀の崇神時代から神武時代の時間軸が、最新考古学と合うと言ってます。
それ以外の部分が合おうが合おまいが知ったことではない。



>  p君さんは、まさにその、「物部氏」配下の品部の「分布」という、その部分を、何の批判もなく、使用されておられ、「時期」を古くしていないか、針小棒大に書いていないか、と言った、批判を、念頭に置かず、受容されているのです。


「「時期」を古くしていないか、針小棒大に書いていないか、と言った、批判を、念頭に置かず、受容されているのです」
というのは、日本書紀に対する石見介さんの態度であって、自分の事を他人事みたいに言うのはやめてください。
批判すべきは日本書紀の方です。
モモソヒメと吉備津彦は崇神の2世代上ですか?
それはありえないでしょ、2人は崇神とほぼ同時代です。
ならばその時点で、あなたの言う崇神から神武まで10世代という論拠は崩れています。
考古学的にも約120年、6世代であって、先代旧事本紀のほうが正しいです。




> > あなたは崇神から神武まで10世代と言ってるから合わないのです。
> > たとえばモモソヒメと吉備津彦は崇神の2世代上ですが、崇神30歳で四道将軍の詔を出したのなら吉備津彦は70歳近くになります。
> > モモソヒメはさらに年上で大物主と結婚したことになります、こんなことはありえない。
>
>
>  范曄『後漢書』倭伝の件は、私の情報提供ですが、その上で、「帥升」あるいは「師升」を、飽く迄も、「スサノヲ」とされたいのであれば、ご自由に。
>  但し、文献批判上は、無理筋だと思われます。
>  記紀の世代数短縮も、帥升=スサノヲが「前提」になっての、論考のように思えますが、そうでなければ、幸いです。
>  まあ、平均在位年数論者は、安本美典氏を含め、神話上の神格を、卑弥呼にしたり、その着想が先行して、記紀より信頼度の劣る、諸豪族の系譜を根拠に、欠史八代の世代数短縮を、主張するように思えますが、私の偏見でなければ、幸いです。
>
>
> > 石見介さんの「崇神から神武まで10世代」は、この時点で間違いだとお気づき下さい。
>
>
>  上記、アマテラス=卑弥呼とか、スサノヲ=帥升、とかが、先行しての、欠史八代の足切りでなければ、良いのですが、少なくとも、資料としての古さは、記紀に及ばない、各豪族の「系譜」の、資料批判は、きちんと行ってから、ご批判下さい。
>


繰り返しますが、崇神から神武まで10世代という、日本書紀を「史料批判」していないあなたの論拠は崩れています。
吉備津彦・モモソヒメが崇神時代である事から、「崇神から神武まで10-2α世代である」という論拠で自説を組み立ててください、正解は考古学的にも6世代です。
そうするとトヨも卑弥呼も誰なのか浮かび上がり、そして帥升とスサノオの時代が重なります。




> > 伊都国や末盧国のような海の向こうに異民族がいるそんな危なっかしい所に倭国王がいるはずはないです。
> > 卑弥呼即位の7~80年前の男王とこの帥升は同一人物か、あるいは帥升の息子あたりでしょう。
> > 帥升が、大量の奴婢がいた王都を説明できるわけでもない九州にいるわけがない。
> >
> > 日本の古代王で海を渡った記述のあるのはスサノオしかいません、倭国王帥升とはスサノオです。
>
>
>  スサノヲは、先ず、半島の「ソシモリ」に降臨したのですよ。
>  それから、出雲に渡った。
>  それが、「神話」です。
>  新羅には「牛首州」という地域があり、スサノヲは、仏典の「牛頭天王」と習合しています。高天原の乱暴は、暴れ牛のようにも思える。
>  又、射日神話の変形のように思われる。アマテラスは、別名「オホヒルメ」ですが、『日本書紀』の一書や『先代旧事本紀』では、妹の「ワカヒルメ」が、死んでいる。
>  記紀の神代の客観的解釈で、史実の復元を試みるのは、難しい。


なんで急に神話そのものを正しいかのように言い始めてるのでしょうか。
こんなものは実際にあったことをベースにしていることもあるでしょうが、後世にいろんな部分が創作されて付け加えられた官製神話です。
スサノオが帥升であったとして、生口160人を連れて渡海し、ソシモリから楽浪に行きました、なんて書けるわけもない。

どちらにしても「海を渡った古代王」は日本の歴史上スサノオしかいません。



> > 亡父の庶長子と再婚する前の状況は、「夫がいない」「宮に出入りするただ一人の男子がいる」という事で卑弥呼と一致します。
> > 時代をごまかさないでくださいよ。
>
>
>  で、「子供」複数人に就いては、記載しない?
>  どちらが、誤魔化しているのか、お判りにならない?
>


宮に出入りするただ一人の男と卑弥呼がその後にどうなったのかも書かれていないでしょ。
魏志の卑弥呼の記事は、古代の一時期を切り取った描写です。
その一時期を切り取った描写が何回か書かれているわけです。



> > 上記、神武亡き後のタギシミミと結婚する前の状況です。
> > 問題はありません。
> > 自分は卑弥呼が誰なのかを全く言えないのに嫌がらせのような反論はやめてください。
>
>
>  被害妄想ですね。
>  子の2~3人いる寡婦について、例え、再婚前でも、『魏志倭人伝』のあの文章には、なり得ない。弟のことは書いて、息子のことは書かず、タギシミミは、出入りの男子と、都合よく解釈する。


週刊誌ではありませんから何でもかんでも書きませんし、そもそも中国側は、興味のない倭人の女王の事など聞いていないのでしょう。
一時期の描写が一致すればそれでいい。



> > 中国側が卑弥呼を描写したその時点で夫はいない、宮に出入りするただ一人の男子がいる。
> > その卑弥呼が倭国大乱の2世紀末という過去に即位したということであって、問題はないです、
> > なんで30歳過ぎて即位するのでしょうか。
>
>
>  「年已長大」の、「長大」の意味する年齢の解釈で、巾がありますが、30歳以上でしょう。
>



長大の解釈はその通りでしょうが、その歳で即位したなんて何の根拠もない。
189年に仮に35歳で即位して、247年に死んだのなら何歳になるのですか、ばかばかしい。



>  記紀という文献を根拠とする以上、世代数を「変更する」根拠は必要でしょうが、私は、記載を信じるだけで、十分な答えになります。
>  その上に、平均世代間隔や、他氏族系譜との世代のずれも、説明済みで、複数Φ王の並立も、倍暦も、想定している。
>   それにしても、傍系親族と、直系親族の、世代数のずれを、あれだけ説明しても、ご理解されないのは、残念です。



上記、崇神とモモソヒメ・吉備津彦が同時代なので、あなたの崇神から神武まで10世代という根拠は崩れます。
日本書紀の史料批判を的確にしてください。




> > 穗積氏忍山が4世紀前半の景行・成務天皇時代であるのが最古、
> > それ以前、3世紀後半でも日本書紀で「穗積臣達祖欝色雄命之妹」や「穗積臣遠祖大水口宿禰」ですから、
> > 物部の欝色雄命や大水口宿禰が、穂積の祖や遠祖と書かれてるわけであり、3世紀に穂積なんて氏はありません。
>
>
>  勿論、7世紀の政治情勢の反映でしかない。
>  物部氏⇒石上氏は、中央の大豪族だった。



穂積氏が4世紀以前に存在したという根拠は何もないですね。



> > 卑弥呼は日本書紀の解釈で十分見つかります。
> > そして平均在位、奴婢殉葬痕跡、また国宝中平銘鉄刀の和邇氏の祖がトヨであること。
> > それらから卑弥呼が見つかります。
> > 崇神天皇が4世紀前半、その100年前の女王を見つけられないのは、
> > 間違えた固定観念が植え付けられているからです。
>
>  自然科学分野の訓練を行けた人間の限界と、受け取って下さい。
>  SF小説は好きですが、客観性、科学性の担保は、私の古代史や中世史の解釈の、譲れない最後の一線です。
>  p君さんのお説は、その一線を、越えています。


私の説は考古学的にも文献史的にも裏付けられています。
あなたは卑弥呼が誰なのかの説すら出していない。



>  蛇足ですが、天トヨツヒメは、和爾氏の一族ではなく、和爾氏の始祖の祖母でした。
>  p君さんの提示された系譜を、きちんとチェックしなかった、私のミスであり、従って、アマトヨツヒメ=臺與説については、現時点で、可能性が殆どない、と判断します。
>  中平銘鉄剣が、和爾氏の墓域から出たのであれば、和爾氏の中の女性から、候補者を探すしかないが、アマトヨツヒメは、和爾氏族ではないので、外れます。


卑弥呼がもらった二口の五尺刀の一つが(あるいは二つが)、女王トヨ(天トヨ津媛)に受け継がれ、
その子である「みまつひこ(後に孝昭天皇と呼ばれる)」に受け継がれ、さらに子の天足彦国押人命に渡り、以後和邇氏に伝わる。
中平銘鉄刀が発掘された東大寺山古墳は神功皇后時代の難波根子武振熊命でしょう。
何も問題はないと思います。



>  『日本書紀』で、懿徳紀と孝昭紀をざっと見ましたが、アマトヨツヒメの陵墓は、見当たりませんでした。視力の関係で、見落としたのかもしれません。


天トヨ津媛は、ヒメ(踏鞴五十鈴)后と同じく高天原の神々の一人ですから、その墓も高天原(御所市高天)にあります。
単独墓ではありません。

  • [620]
  • Re: P君さん

  • 投稿者:石見介
  • 投稿日:2022年 6月30日(木)23時54分8秒
  • flh2-133-206-98-96.osk.mesh.ad.jp
  • 編集済
  • 返信
 
>>617
> >>614


  なるべく、繰り返しは避けて、補足説明に、とどめるつもりです。

 (略)


> >  この氏族を、「物部氏」と称する事の不適切さは,p君さんも、理解されておられますが、私は、『先代旧事本紀』という偽書の記述による、穂積、物部(或いは、ひょっとしたら、尾張連氏も?)氏を含む「饒速日命後裔を称する氏族」というこの「親氏族」が、吉備、阿波、讃岐に、3世紀以前に分布して、3世紀に、大和の、上記地域の、特徴的な組み合わせの「墓制」を、持ち込んだ、ということを、疑っているのです。
> >  この墓制の淵源を為した地域に、「物部氏親氏族」が、分布していたのではなく、畿内大和で、纏向古墳群形成後に、物部氏親氏族が、畿内邪馬台国の先兵として、それら地域に、赴任した。
> >  その可能性が高い、と主張しているのです。


> それはもう考古学的にも否定されています。


 吉備や阿波や讃岐の、纏向式墓制の前段階の要素を持つ、弥生墳丘墓でも何でもよいですが、その墳墓から、墓誌が出土して、「物部だああ~」と書いたものが発見された、という話は、寡聞にして、聞いたことがあ栄ません。
 文献によらず、考古学者の「解釈」によるものは、証拠能力は、低い。


> 突起付き円形墳丘墓は、纏向石塚より早く讃岐、播磨、和泉など東瀬戸内に展開しています。
> つまり瀬戸内から纏向に持ち込まれたのです。

  そんな「考古学的事実」を、「否定」しているのではなく、それらの要素を、畿内に齎した、各地域の集団が、「物部氏親氏族」という、父系血縁集団(リネージ)だという、「考古学的証拠」等、無いと言っているだけですよ。


> また特殊器台や双方中円墳も播磨・吉備→纏向だし、竪穴式石槨のルーツも吉備です。
> ですから「畿内大和で、纏向古墳群形成後に、物部氏親氏族が、畿内邪馬台国の先兵として、それら地域に、赴任した」のではありません。

 ?どうして、それが、証明できるのですか?
 考古学的に、纏向古墳群の墓制の、各要素の起源地や、その経由地も、証明できる。
 それは、「確定的」definiteの事実として、今後の議論の、共通基盤になる。
 しかし、墓誌の様な同時代史料もなく、後代の偽書の記載が根拠で、物部親氏族の集団が、持ち込んだ、等という、証明など、出来るわkrがない。


> 和泉の例でいえば纏向石塚に先行する突起付き円形墳丘墓が存在することから、和泉→纏向と言えると思います。
> その後、4世紀になって久米物部の地に摩湯山古墳、弦田物部の地に和泉黄金塚古墳ができます。
> 物部が国造として君臨したのかもしれません。


 物部氏と大伴氏(大部氏)は、大王家の、先兵です。
 畿内大和から、外延に進出する時には、両者のいずれか一方か、両方が、必ず、出て来る。その「時期」を、文献で絞れるようになるのは、甘く見ても、5世紀以降でしょう。
 それ以前は、確定できないでしょう。

 (略)


> 後付けも何も年輪年代で纏向石塚177+18というのは、ほんの2.30年前の事です。
> 「偽史書である事の確定している」と言われますが、先代旧事本紀の信憑性は0%ですか。
> 近年の考古学との一致などから60%は信憑性はあるでしょうから、その60%の中の話をしてるわけです。


 後付けですから、先行史書より、情報量が多く、一見、信頼性が高いように見える。
 それこそが、偽書の目的なのでしょう。
 それを防ぐための手段が、文献批判なのです。
 まあ、p君さんは、この点では、確信されていて、説得は無理ですから、以後は、「見解の相違」で、無駄な議論は、やめましょう。


 (略)


> まるで信憑性0%であるかのように偽書と決めつけて、まったく無視してるから、先代旧事本紀と最新考古学の驚くべき一致に気づかないのです。


 偽書には,その著者の「思い」があって、書かれた著作物です。
 SF小説を書くつもりでなければ、可能な限り、読者に、「真実の書」だと思って、信じてほしいので、著作当時判明している「事実」は、可能な限り、主題と矛盾しない限り、「正しく」、書き込みます。
 何らかの事情で、その部分が、他書から失われれば、その「偽書」も使用せざるを得ない。
 『先代旧事本紀』も。そのような、扱いの難しい「偽書」です。
 ウガヤフキアエズを、70世代にも膨らませたような、全く使用できない様な、偽書ではない。

 『先代旧事本紀』は、物部氏系の「偽書」であり、物部氏の古代の栄光を、喧伝するのが目的です。
 従って、物部氏の事績は、誇大に記載されていると、慎重に、考える必要がある。
 p君さんは、まさにその、「物部氏」配下の品部の「分布」という、その部分を、何の批判もなく、使用されておられ、「時期」を古くしていないか、針小棒大に書いていないか、と言った、批判を、念頭に置かず、受容されているのです。
 私は、その部分を、疑う。
 それが、私達の相違です。


  (略)

> あなたは崇神から神武まで10世代と言ってるから合わないのです。
> たとえばモモソヒメと吉備津彦は崇神の2世代上ですが、崇神30歳で四道将軍の詔を出したのなら吉備津彦は70歳近くになります。
> モモソヒメはさらに年上で大物主と結婚したことになります、こんなことはありえない。


 范曄『後漢書』倭伝の件は、私の情報提供ですが、その上で、「帥升」あるいは「師升」を、飽く迄も、「スサノヲ」とされたいのであれば、ご自由に。
 但し、文献批判上は、無理筋だと思われます。
 記紀の世代数短縮も、帥升=スサノヲが「前提」になっての、論考のように思えますが、そうでなければ、幸いです。
 まあ、平均在位年数論者は、安本美典氏を含め、神話上の神格を、卑弥呼にしたり、その着想が先行して、記紀より信頼度の劣る、諸豪族の系譜を根拠に、欠史八代の世代数短縮を、主張するように思えますが、私の偏見でなければ、幸いです。


> 石見介さんの「崇神から神武まで10世代」は、この時点で間違いだとお気づき下さい。


 上記、アマテラス=卑弥呼とか、スサノヲ=帥升、とかが、先行しての、欠史八代の足切りでなければ、良いのですが、少なくとも、資料としての古さは、記紀に及ばない、各豪族の「系譜」の、資料批判は、きちんと行ってから、ご批判下さい。


 (略)


> 伊都国や末盧国のような海の向こうに異民族がいるそんな危なっかしい所に倭国王がいるはずはないです。
> 卑弥呼即位の7~80年前の男王とこの帥升は同一人物か、あるいは帥升の息子あたりでしょう。
> 帥升が、大量の奴婢がいた王都を説明できるわけでもない九州にいるわけがない。
>
> 日本の古代王で海を渡った記述のあるのはスサノオしかいません、倭国王帥升とはスサノオです。


 スサノヲは、先ず、半島の「ソシモリ」に降臨したのですよ。
 それから、出雲に渡った。
 それが、「神話」です。
 新羅には「牛首州」という地域があり、スサノヲは、仏典の「牛頭天王」と習合しています。高天原の乱暴は、暴れ牛のようにも思える。
 又、射日神話の変形のように思われる。アマテラスは、別名「オホヒルメ」ですが、『日本書紀』の一書や『先代旧事本紀』では、妹の「ワカヒルメ」が、死んでいる。
 記紀の神代の客観的解釈で、史実の復元を試みるのは、難しい。


(略)


> 亡父の庶長子と再婚する前の状況は、「夫がいない」「宮に出入りするただ一人の男子がいる」という事で卑弥呼と一致します。
> 時代をごまかさないでくださいよ。


 で、「子供」複数人に就いては、記載しない?
 どちらが、誤魔化しているのか、お判りにならない?


> >  謎々や、回文の様な、特殊な文章を、書くのではありません。
> >  史書で、しかも、「正史」に採用される見込みのある書籍で、スポンサーというか、パトロンというか、後援者の張華や杜預のメンツも立て、何より、晋の帝室の司馬氏の功績を称えるのが目的で、前代の史書に無い「東夷伝」を(*)、書く。
> >
> >  原文は、「年已長大、無夫婿(異体字で「女」ではなく「土」)」となっています。
> >  ヒメラララについて、正確な情報があって、記載するのであれば、「年已長大、寡婦(而)有三子」というような、表現になるでしょう。
> >


> 上記、神武亡き後のタギシミミと結婚する前の状況です。
> 問題はありません。
> 自分は卑弥呼が誰なのかを全く言えないのに嫌がらせのような反論はやめてください。


 被害妄想ですね。
 子の2~3人いる寡婦について、例え、再婚前でも、『魏志倭人伝』のあの文章には、なり得ない。弟のことは書いて、息子のことは書かず、タギシミミは、出入りの男子と、都合よく解釈する。

 まともな漢文解釈ではあり得ませんね。


> >  「年已長大」は、共立されて、倭国の女王、大倭王になった時の年齢が、数え年で、30才以上、という意味でしょうが、その状態で、未婚か、寡婦(未亡人)か、婚姻歴がある場合は、子の有無や人数は、当然、記述される。
> >  それが、史書の常道でしょう。



> 中国側が卑弥呼を描写したその時点で夫はいない、宮に出入りするただ一人の男子がいる。
> その卑弥呼が倭国大乱の2世紀末という過去に即位したということであって、問題はないです、
> なんで30歳過ぎて即位するのでしょうか。


 「年已長大」の、「長大」の意味する年齢の解釈で、巾がありますが、30歳以上でしょう。


> >  そういう意味の「語学のセンス」の問題ですよ、という意味なのです。
> >  「已」の一字の解釈からも、結婚して、とっくに子の数人もいる筈の年なのだが、という、ニュアンスを感じるべきで、逆接の語は、不要なのですよ。


> あなたに時系列を組み立てるセンスがないことは崇神から神武まで10世代という言われてる事で分かります。
> 吉備津彦とモモソヒメの時代が崇神の2世代上ではありえないという疑問に答えてください。


 逆切れですか?
 記紀という文献を根拠とする以上、世代数を「変更する」根拠は必要でしょうが、私は、記載を信じるだけで、十分な答えになります。
 その上に、平均世代間隔や、他氏族系譜との世代のずれも、説明済みで、複数Φ王の並立も、倍暦も、想定している。
  それにしても、傍系親族と、直系親族の、世代数のずれを、あれだけ説明しても、ご理解されないのは、残念です。


> > > >  「中平銘鉄刀」が、和爾氏の墳墓と考えられる地域から出土し、『魏志倭人伝』で、卑弥呼に下賜された二つの刀剣の何れかの可能性があり、且つ、記紀の伝承で、和爾氏が、大王家から初期に分出した「皇別氏族」である以上、大王家と同じ、父系氏族=宗族に属しますから、和爾氏の女性で、「トヨ」が名に在れば、臺與の有力候補となり得る。
> > >
> > >
> > >
> > > 私には当時に存在しなかった「物部氏」の事を批判してくるのに、ご自分は当時にありもしない「皇別氏族」という表現をなされる。
> >
> >  あのねえ、「物部氏」という「氏名(うぢな)」の氏族は、早くとも、4世紀以降の成立ですが、「穂積氏」「和爾氏」と言った、地域名を背負った「うぢ(氏)な(名)」の氏族は、3世紀以前でも、問題はない。


> 穂積氏が3世紀に存在したという根拠は何もない。


 投稿途中なので、コメントはお控えください、と書いた仮投稿に、コメントされていますね。
 もう少し、判り易く、誤記等も訂正して、投稿したものは、読んでおられないようですね。
 物部氏は、4世紀以前には、存在し得ない「氏名(うぢな)」ですが、「穂積」氏は存在し得る氏族名です。


> 穗積氏忍山が4世紀前半の景行・成務天皇時代であるのが最古、
> それ以前、3世紀後半でも日本書紀で「穗積臣達祖欝色雄命之妹」や「穗積臣遠祖大水口宿禰」ですから、
> 物部の欝色雄命や大水口宿禰が、穂積の祖や遠祖と書かれてるわけであり、3世紀に穂積なんて氏はありません。


 勿論、7世紀の政治情勢の反映でしかない。
 物部氏⇒石上氏は、中央の大豪族だった。


> >  実は、「データ不足で、卑弥呼が、記紀の人物の中の誰かを、特定できない」というのが、私の、現時点での、「見解」です。
> >  私から見れば、p君さんの見解の、「帥升=スサノヲ」説などは、単なる語呂合わせにしか、おもえませんし、そこからの記紀の解釈も、「固定観念」にしか、見えません。
> >  新たな、考古学的発見や、何らかの新資料が、発見されない限り、みんなが納得するような、合意は、邪馬台国問題では、得られないように思います。



> 卑弥呼は日本書紀の解釈で十分見つかります。
> そして平均在位、奴婢殉葬痕跡、また国宝中平銘鉄刀の和邇氏の祖がトヨであること。
> それらから卑弥呼が見つかります。
> 崇神天皇が4世紀前半、その100年前の女王を見つけられないのは、
> 間違えた固定観念が植え付けられているからです。

 自然科学分野の訓練を行けた人間の限界と、受け取って下さい。
 SF小説は好きですが、客観性、科学性の担保は、私の古代史や中世史の解釈の、譲れない最後の一線です。
 p君さんのお説は、その一線を、越えています。

 蛇足ですが、天トヨツヒメは、和爾氏の一族ではなく、和爾氏の始祖の祖母でした。
 p君さんの提示された系譜を、きちんとチェックしなかった、私のミスであり、従って、アマトヨツヒメ=臺與説については、現時点で、可能性が殆どない、と判断します。
 中平銘鉄剣が、和爾氏の墓域から出たのであれば、和爾氏の中の女性から、候補者を探すしかないが、アマトヨツヒメは、和爾氏族ではないので、外れます。
 『日本書紀』で、懿徳紀と孝昭紀をざっと見ましたが、アマトヨツヒメの陵墓は、見当たりませんでした。視力の関係で、見落としたのかもしれません。

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  • [619]
  • 修正

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月30日(木)11時20分50秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
行を間違えてレスしたので>>617を修正します。


>  そういう意味の「語学のセンス」の問題ですよ、という意味なのです。
>  「已」の一字の解釈からも、結婚して、とっくに子の数人もいる筈の年なのだが、という、ニュアンスを感じるべきで、釈説の語は、不要なのですよ。


「已」の一字の解釈は、(筆者が見た時の)卑弥呼は「すでに」「もう」年が長大であるというだけですね。

分かりやすく言うと「もうオバハンである。夫はいない。」

何度も言いますが逆接の接続詞がないのに、文体の意味を逆接にはできませんよ。

センスだなんだ以前の問題です。




  • [618]
  • 篠川賢 物部氏 吉川弘文館 2022

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月29日(水)22時59分20秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
篠川氏は その著述にて、 いつかコウヘイのいいかげんな記憶では  物部氏は河内の出。 雄略期以降 部民制度が確立化。 天理・石上地区は 物部氏 遅れて支配。
 南郷遺跡という王都、王都を維持する為の組織作りが始まり 部の民制度が少しづつ成立していった。 それ以前の奈良盆地内の王都  南郷以前が見つかっておらず、前期古墳時代の王都を成立させていない。 見つかれば 話の展開が変わりますが。
南郷遺跡の神武系統(日向一族)により、アマテラスという神格も持ち込込まれた。
たぶん 日向一族に物部氏は同行していないのでは?

雄略が 神武/葛城を滅ぼすときに 河内から連れてきた配下に 物部と大伴と平群氏。 と私は想定。

六国史、本来の初刊は日本記。 続日本記に葛城氏どの程度 記載されているのか調べていませんが、 記紀における葛城氏記載の数多くの矛盾点は、雄略による殺害・焚書行為、そして 【破墳】行為。そして桓武により 日本記の改変、改変されたものが日本書紀。改変が重複している。

 石舞台古墳に土が無いのは、蘇我氏の支配期への反感の現れで、次の支配者が墳を破壊した。
同様に 蘇我氏以前でも 古墳時代中期の神武の墓の墳丘は 誰かが除去した、と想定。

pさんに期待しているのは この仮説のどこに ホコロビがあるのか?   そうした批判を期待している。

pさんの葛城高天原説を 批判的に 私流に検証して、葛城氏=神武・日向系統、
雄略が日向系統を追いやり、河内から奈良の覇者になった。 という仮説でもある。

須恵器が定型化するのは 河内・スエムラ古窯群、雄略系統が定型化させて、葬儀用品として、全国各地の在地支配者層へ 販売訴求・技術指導・技術者派遣をした。









  • [617]
  • Re: P君さん

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月29日(水)22時05分54秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 編集済
  • 返信
 
>>614
長いのでかいつまんで書きます。


>
> > だから「物部氏」と言ってません、前方後円墳という特異な形の首長墓を持つ一つの血族・リネージが後世に「物部」と呼ばれたと言ってるわけです。
>
>  やはり、私の文献批判の意味が、お判りではないですね。
>  物部氏の祖先と言うか、「親氏族」というか、弥生時代後期には、当然、日本にも、中国の「宗族」に例えられるような、「父系氏族」は、少なくとも、支配層には、成立していた、と私は、考えています。


そうでしょうね。


>
>  この氏族を、「物部氏」と称する事の不適切さは,p君さんも、理解されておられますが、私は、『先代旧事本紀』という偽書の記述による、穂積、物部(或いは、ひょっとしたら、尾張連氏も?)氏を含む「饒速日命後裔を称する氏族」というこの「親氏族」が、吉備、阿波、讃岐に、3世紀以前に分布して、3世紀に、大和の、上記地域の、特徴的な組み合わせの「墓制」を、持ち込んだ、ということを、疑っているのです。
>  この墓制の淵源を為した地域に、「物部氏親氏族」が、分布していたのではなく、畿内大和で、纏向古墳群形成後に、物部氏親氏族が、畿内邪馬台国の先兵として、それら地域に、赴任した。
>  その可能性が高い、と主張しているのです。


それはもう考古学的にも否定されています。

突起付き円形墳丘墓は、纏向石塚より早く讃岐、播磨、和泉など東瀬戸内に展開しています。
つまり瀬戸内から纏向に持ち込まれたのです。
また特殊器台や双方中円墳も播磨・吉備→纏向だし、竪穴式石槨のルーツも吉備です。
ですから「畿内大和で、纏向古墳群形成後に、物部氏親氏族が、畿内邪馬台国の先兵として、それら地域に、赴任した」のではありません。

和泉の例でいえば纏向石塚に先行する突起付き円形墳丘墓が存在することから、和泉→纏向と言えると思います。
その後、4世紀になって久米物部の地に摩湯山古墳、弦田物部の地に和泉黄金塚古墳ができます。
物部が国造として君臨したのかもしれません。


>

>  結局、「考古学と文献と一致する」というのも、後付けの史書『先代旧事本紀』が、根拠でしかない。
>  偽史書である事の確定している文献を、信頼しない人間には、p君さんの説は、受容できないのです。
>


後付けも何も年輪年代で纏向石塚177+18というのは、ほんの2.30年前の事です。
「偽史書である事の確定している」と言われますが、先代旧事本紀の信憑性は0%ですか。
近年の考古学との一致などから60%は信憑性はあるでしょうから、その60%の中の話をしてるわけです。




>   前レスで説明したように、「他の文献」が、考古学的に、ある記載が、「正しい」事が証明されても、その史書の他の部分が、正しいという証明にはなりません。
>  まして、国も時代も異なる,他文献の「ある記載内容」の、「正しさ」の証明には、なり得ません。


だから上記、先代旧事本紀という信憑性60%の中の話ですから、それでいいじゃないですか。
まるで信憑性0%であるかのように偽書と決めつけて、まったく無視してるから、先代旧事本紀と最新考古学の驚くべき一致に気づかないのです。



>
>
>  (略)
>
> > 「殉葬奴婢百余人」の記述を全く説明できない纏向古墳群に卑弥呼墓があるという学界の定説など間違えていると思います。
>
>  これは前にも述べましたが、陵墓参考地を発掘していないので、否定も肯定も出来ない事項の一つになります。


百余人もの奴婢を殉葬したのなら大事件ですから、風土記を含め何らかの史書に載っている可能性が高い。
実際には日本書紀に載っているわけで、崇神を4世紀前半として、それ以前の記述を見れば、
それは神武東征紀のヤマト先住民・土蜘蛛誅殺以外にありません。

土蜘蛛は女王の死に際して殺害されたわけではありませんが、日本で唯一の奴婢大量誅殺痕跡です。
そしてその隣に径百余歩の楕円形の塚も確認できます。
なぜそこにあるのかの理由もはっきりしています、卑弥呼は高天原の神々だったので、高天原(御所市高天)に墓があるのは当然なのです。



>

>

>  范曄『後漢書倭伝』の「倭国王帥升」という「文面」を信じ、且つ「帥升」を、「スサノヲ」と、語呂合わせで重ねることで、漸く、成立する議論です。


音韻の類似は一番重要だと思われます。
あと帥升とスサノオの時代も合います。

あなたは崇神から神武まで10世代と言ってるから合わないのです。
たとえばモモソヒメと吉備津彦は崇神の2世代上ですが、崇神30歳で四道将軍の詔を出したのなら吉備津彦は70歳近くになります。
モモソヒメはさらに年上で大物主と結婚したことになります、こんなことはありえない。

石見介さんの「崇神から神武まで10世代」は、この時点で間違いだとお気づき下さい。


>  しかし、唐代の類書などからは、范曄の原史料である、『東観漢記』には、帥升は、倭国王ではなく、「倭面土国」「倭面上國」「倭面土地王」などとなっています。
>  范曄は、どうせ、後漢代も、「大倭王」は、邪馬台国にいるのだから、その配下の小国の王であっても、大倭王の使者に過ぎないと解釈したのでしょう。
>  『東観漢記』の異本の校勘、考証を兼ねて、あっさり「倭国王帥升等」とした。
>  大倭王が、朝貢するのであれば、その使節団に「等」は不要で、王名だけで良い筈です。
>  倭の小国の王である可能性のある「帥升」という名の「正使」他(「等」に含まれる)のの「副使」などの使節団が、来朝した、と考えたか、それとも、倭の小国の「帥」(首長、もしくは軍事指揮官)の「升」という人物を、「正使」とする使節団が、皇帝に、拝謁を、もとめた、と考えたのでしょう。
>
>  因みに、遣唐使は、唐で、書籍を漁ったが、この『東観漢記』も、日本に入っていますが、残念ながら、その後、失われています。宮内庁書陵部等に、残寒でもあれば、世紀の大発見になるのですが・・・。
>
>  帥升を、どうしてもスサノヲにしたいのであれば、彼が倭の大王ではなく、伊都国か、末盧国の王だった、という解釈で、日本史を、組み立てて下さい。


伊都国や末盧国のような海の向こうに異民族がいるそんな危なっかしい所に倭国王がいるはずはないです。
卑弥呼即位の7~80年前の男王とこの帥升は同一人物か、あるいは帥升の息子あたりでしょう。
帥升が、大量の奴婢がいた王都を説明できるわけでもない九州にいるわけがない。

日本の古代王で海を渡った記述のあるのはスサノオしかいません、倭国王帥升とはスサノオです。




>
>  上記、「帥升」が、「大倭王」ではないのであれば、隠す必要もありません。


倭国王だから隠したのです。



>  かつて結婚し、男子を数人産んで、無事成長させ、亡父の庶長子と再婚した、ヒメタタラが、女王に共立された場合、中国に史書が、どのように、記述するのか?という、話なのです。


亡父の庶長子と再婚する前の状況は、「夫がいない」「宮に出入りするただ一人の男子がいる」という事で卑弥呼と一致します。
時代をごまかさないでくださいよ。



>
>  謎々や、回文の様な、特殊な文章を、書くのではありません。
>  史書で、しかも、「正史」に採用される見込みのある書籍で、スポンサーというか、パトロンというか、後援者の張華や杜預のメンツも立て、何より、晋の帝室の司馬氏の功績を称えるのが目的で、前代の史書に無い「東夷伝」ウィ、書く。
>
>  原文は、「年已長大、無夫婿(異体字で「女」ではなく「土」)」となっています。
>  ヒメラララについて、正確な情報があって、記載するのであれば、「年已長大、寡婦(而)有三子」というような、表現になるでしょう。
>


上記、神武亡き後のタギシミミと結婚する前の状況です。
問題はありません。
自分は卑弥呼が誰なのかを全く言えないのに嫌がらせのような反論はやめてください。



>  「年已長大」は、共立されて、倭国の女王、大倭王になった時の年齢が、数え年で、30才以上、という意味でしょうが、その状態で、未婚か、寡婦(未亡人)か、婚姻礫がある場合は、この有無や人数は、当然、記述される。
>  それが、史書の常道でしょう。


中国側が卑弥呼を描写したその時点で夫はいない、宮に出入りするただ一人の男子がいる。
その卑弥呼が倭国大乱の2世紀末という過去に即位したということであって、問題はないです、
なんで30歳過ぎて即位するのでしょうか。



>
>  そういう意味の「語学のセンス」の問題ですよ、という意味なのです。
>  「已」の一字の解釈からも、結婚して、とっくに子の数人もいる筈の年なのだが、という、ニュアンスを感じるべきで、釈説の語は、不要なのですよ。


あなたに時系列を組み立てるセンスがないことは崇神から神武まで10世代という言われてる事で分かります。
吉備津彦とモモソヒメの時代が崇神の2世代上ではありえないという疑問に答えてください。






>
>
> > >  「中平銘鉄刀」が、和爾氏の墳墓と考えられる地域から出土し、『魏志倭人伝』で、卑弥呼に下賜された二つの刀剣の何れかの可能性があり、且つ、記紀の伝承で、和爾氏が、大王家から初期に分出した「皇別氏族」である以上、大王家と同じ、父系氏族=宗族に属しますから、和爾氏の女性で、「トヨ」が名に在れば、臺與の有力候補となり得る。
> >
> >
> >
> > 私には当時に存在しなかった「物部氏」の事を批判してくるのに、ご自分は当時にありもしない「皇別氏族」という表現をなされる。
>
>  あのねえ、「物部氏」という「氏名(うぢな)」の氏族は、早くとも、4世紀以降の成立ですが、「穂積氏」「和爾氏」と言った、地域名を背負った「うぢ(氏)な(名)」の氏族は、3世紀以前でも、問題はない。


穂積氏が3世紀に存在したという根拠は何もない。

穗積氏忍山が4世紀前半の景行・成務天皇時代であるのが最古、
それ以前、3世紀後半でも日本書紀で「穗積臣達祖欝色雄命之妹」や「穗積臣遠祖大水口宿禰」ですから、
物部の欝色雄命や大水口宿禰が、穂積の祖や遠祖と書かれてるわけであり、3世紀に穂積なんて氏はありません。



>
>  実は、「データ不足で、卑弥呼が、記紀の人物の中の誰かを、特定できない」というのが、私の、現時点での、「見解」です。
>  私から見れば、p君さんの見解の、「帥升=スサノヲ」説などは、単なる語呂合わせにしか、おもえませんし、そこからの記紀の解釈も、「固定観念」にしか、見えません。
>  新たな、考古学的発見や、何らかの新資料が、発見されない限り、みんなが納得するような、合意は、邪馬台国問題では、得られないように思います。



卑弥呼は日本書紀の解釈で十分見つかります。
そして平均在位、奴婢殉葬痕跡、また国宝中平銘鉄刀の和邇氏の祖がトヨであること。
それらから卑弥呼が見つかります。
崇神天皇が4世紀前半、その100年前の女王を見つけられないのは、
間違えた固定観念が植え付けられているからです。

  • [616]
  • 古代でも現代でも同様 もれなく歴史は記載されている という固定観念  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月28日(火)16時48分20秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
【 神武の墓が破壊されなければいけないのか、その理由も分からないし、もちろんそんな記述はどこにもないです 】

 歴史として記載されていない。そんなの 原始古代ではあたりまえの事。文献が少ないから原始古代。

明治期からの、歴代天皇名の暗記 という教育で学んだ、戦前戦後の偉い学者さんの、【歴史】。次の世代は その文面を史料批判して、固定観念から離脱しないかぎり、日本文献・日本の考古学に対して、世界の歴史研究家が 相手にしないのでは?
  すでにバカにされる対象になっていて、若い海外研究家は 東大や京大で考古学を学びたがらない。
 戦前の日本の学会と同様に徒弟制度で 先輩の覚えの良い イエスマンが教授候補となり、上司の論文を史料批判する後輩は疎んじられる。

中世史での一例
 韓国の若い 日本中世史研究家 倭寇の中に 九州の戦国武将を発見、(小弐氏)、論文として提示したが 日本人側研究家 先行で提示した事にジェラシー。

石舞台古墳は大型方墳、なぜ土が無いのか 思考する力が無いと、単なる大型石材の横穴式石室という遺跡。







  • [615]
  • Re: 神武も崇神もハック二シラスメ

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月28日(火)10時15分21秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>613
>  文化レベルが違いすぎる漢族の王、服装や持ち物が違う文明人と接して恩恵にあずかりたいと考えれば、文明国側が要求する方法で接するしか手段はないのでは ?   それが土下座なのか 拝礼なのか 柏手カシワデなのか 相手に合わせるのでは?    話の論点がすり替えられている。
>

渡海し、14歳の後漢皇帝・安帝に会いたいと願い出てるのだから、倭国王帥升は、跪き、頭を地に付けたでしょう。


> Re:10月云々へ  p氏の返答や反論 どこに書いてあるのだろう?


何の話ですか。


>
> 石舞台古墳
> 先行の後期古墳を破壊し、その石舞台古墳が 次?の政権で墳丘の膨大な土が取り除かれた。
>
> 岩戸山古墳
> 火の君・磐井は 敗戦し、たぶん彼の寿陵として作っていた岩戸山古墳という前方後円墳の外区の石人石馬は 破壊された。
> 後の時代 律令期の戸籍で志摩郡大領として 奴隷所有する権力者として 筑紫君の子孫?が登場。
> 蘇我氏は 墳丘破壊され、筑紫の君磐井の墓は 別区の破壊。マウンドは残された。
>
> 筑紫の君は 新羅と交渉できる立場。 蘇我氏は 後に天皇を殺害するが、先祖筋が他国と交渉できる立場ではなかったのでは?
>


なんで神武の墓が破壊されなければいけないのか、その理由も分からないし、もちろんそんな記述はどこにもないですね。
まず「5世紀初頭」の神武墓がどの地域にあったのか具体的に言って下さい。
言えないからと言って、破壊されたので「ない」などと逃げないでください。

  • [614]
  • Re: P君さん

  • 投稿者:石見介
  • 投稿日:2022年 6月28日(火)01時05分40秒
  • flh2-133-206-98-96.osk.mesh.ad.jp
  • 編集済
  • 返信
 
>>604
>  >>600
> > >>585
> > > >>584
> >
> >  (略)

 (略)

> だから「物部氏」と言ってません、前方後円墳という特異な形の首長墓を持つ一つの血族・リネージが後世に「物部」と呼ばれたと言ってるわけです。

 やはり、私の文献批判の意味が、お判りではないですね。
 物部氏の祖先と言うか、「親氏族」というか、弥生時代後期には、当然、日本にも、中国の「宗族」に例えられるような、「父系氏族」は、少なくとも、支配層には、成立していた、と私は、考えています。

 この氏族を、「物部氏」と称する事の不適切さは,p君さんも、理解されておられますが、私は、『先代旧事本紀』という偽書の記述による、穂積、物部(或いは、ひょっとしたら、尾張連氏も?)氏を含む「饒速日命後裔を称する氏族」というこの「親氏族」が、吉備、阿波、讃岐に、3世紀以前に分布して、3世紀に、大和の、上記地域の、特徴的な組み合わせの「墓制」を、持ち込んだ、ということを、疑っているのです。

 この墓制の淵源を為した地域に、「物部氏親氏族」が、分布していたのではなく、畿内大和で、纏向古墳群形成後に、物部氏親氏族が、畿内邪馬台国の先兵として、それら地域に、赴任した。
 その可能性が高い、と主張しているのです。
 結局、「考古学と文献と一致する」というのも、後付けの史書『先代旧事本紀』が、根拠でしかない。
 偽史書である事の確定している文献を、信頼しない人間には、p君さんの説は、受容できないのです。

 (略)


> > > 百濟の武寧王墓発見で、その墓誌が12世紀に編纂された三国史記の干支と符合し、武寧王の年代が確定しましたが、
> > > これらは、例え後世に編纂された史書であっても、その当時まで「正しく伝承されていた」という事の証拠であり、
> > > それは先代旧事本紀も同じくです。
> > > 『先代旧事本紀』の、うたい文句の「本朝史書の始め」が否定されたからといって、現代科学(考古学)と合致するその内容まで否定はできないでしょう。
> >
> >  武寧王墓誌の話は、『先代旧事本紀』の記事の、「正しさ」の傍証には、なり得ません。
>
> 三国史記の武寧王の記述は、たとえ後世に編纂された史書であっても、それまで伝承が正しく伝えられてきたという証拠です。
> 先代旧事本紀も崇神時代から神武時代まで6世代という記述は、年輪年代に裏打ちされた最新の考古学と一致します。


  前レスで説明したように、「他の文献」が、考古学的に、ある記載が、「正しい」事が証明されても、その史書の他の部分が、正しいという証明にはなりません。
 まして、国も時代も異なる,他文献の「ある記載内容」の、「正しさ」の証明には、なり得ません。


 (略)

> 「殉葬奴婢百余人」の記述を全く説明できない纏向古墳群に卑弥呼墓があるという学界の定説など間違えていると思います。

 これは前にも述べましたが、陵墓参考地を発掘していないので、否定も肯定も出来ない事項の一つになります。


> 偉い先生が言ってるから正しいわけではありません。


 当然です。
 寺澤氏の「伊都倭国」説などは、「モノ」に依拠して考える考古学者の、限界を、感じさせます。

 (略)

> 神武の即位年を西暦でBC660年にまで引き延ばした理由は、いわゆる辛酉革命説なのでしょうが、
> その間延びした時代の「「註」にわざわざ「卑弥呼」を引いて」いるわけですね。
> 7世紀の朝廷は、魏志倭人伝の卑弥呼の時代を充分意識して、神功皇后をその時代にあてたという事ですね。
> これは、7世紀の朝廷が「真の卑弥呼を知っていた」以外に理由はないと思われますが。


 前レスで私の解釈は、十分、述べましたので、「見解の相違」で、お開きにしましょう。


> しかしその真の卑弥呼は、100年前の倭国王帥升の時代がスサノオになってしまう事になり、
> 日本古代史の最大の屈辱である「倭国王自ら渡海しての土下座」をスサノオが行った事実を表ざたにしてしまうので、
> 大変都合が悪い人物であったわけです。
> だから隠したのです。


 范曄『後漢書倭伝』の「倭国王帥升」という「文面」を信じ、且つ「帥升」を、「スサノヲ」と、語呂合わせで重ねることで、漸く、成立する議論です。
 しかし、唐代の類書などからは、范曄の原史料である、『東観漢記』には、帥升は、倭国王ではなく、「倭面土国」「倭面上國」「倭面土地王」などとなっています。
 范曄は、おそらく、どうせ、後漢代も、「大倭王」は、邪馬台国にいるのだから、その配下の小国の王であっても、大倭王の使者に過ぎないと解釈したのでしょう。
 『東観漢記』の異本の校勘、考証を兼ねて、あっさり「倭国王帥升等」とした。
 大倭王が、朝貢するのであれば、その使節団に「等」は不要で、王名だけで良い筈です。
 倭の小国の王である可能性のある「帥升」という名の「正使」他(「等」に含まれる)の「副使」などの使節団が、来朝した、と考えたか、それとも、倭の小国の「帥」(首長、もしくは軍事指揮官)の「升」という人物を、「正使」とする使節団が、皇帝に、拝謁を、もとめた、と考えたのでしょう。

 因みに、遣唐使は、唐で、書籍を漁ったが、この『東観漢記』も、日本に入っていますが、残念ながら、その後、失われています。宮内庁書陵部等に、残寒でもあれば、世紀の大発見になるのですが・・・。

 帥升を、どうしてもスサノヲにしたいのであれば、彼が倭の大王ではなく、伊都国か、末盧国の王だった、という解釈で、日本史を、組み立てて下さい。


> > > すべて7世紀の朝廷が、魏志に書かれた真の卑弥呼を誰なのか理解していたからこその所業だと思われます。
> >
> >
> >  「親魏倭王」卑弥呼の他、後漢光武帝に王号を授与された「倭奴国王」、南朝劉宋に朝貢した「倭の五王」、全ての、倭国の王たちの、中国への朝貢を、「否定」「隠ぺい」するためでしょう。
> >  現実に、卑弥呼以外は、更に、記紀には見えない。
> >  逆に言えば、『日本書紀』の、この「原註」部分が、例外的存在であり、何故、記述が許されたのかを、「考察」しなければならないのですが、p君さんは、出発点である、漢籍の解釈が間違っている為、本末転倒の、議論になってしまった、と私には、思われます。


> 卑弥呼やトヨの朝貢は、使者を立て、お互い「プレゼント交換」などしていて、
> ある意味、中国側と対等ともいえるものであったと思いますが、
> 上記の倭国王帥升の、日本古代史の最大の屈辱である「王自ら渡海しての土下座」はそうではありません。
> この古代の最大の屈辱を隠す事、それが記紀編纂の最大の理由でしょう。


 上記、「帥升」が、「大倭王」ではないのであれば、隠す必要もありません。
 『日本書紀』神功紀の「本文ではない、注釈」にのみ、漢籍からの引用が、載せているのです。
 しかも、倭奴国王や倭の五王に関する、本文記事や原註は、ない。
 これは、大和朝廷が、中国に朝貢した、或いは叙爵された、上記諸王と無関係であるか、それとも、中国への過去の大王の朝貢を,否定する意思があった事になります。


> > > 文体が「逆接」かどうかは一番肝心な部分です。
> > > 逆説の接続詞「~にもかかわらず」「~だが」がないという事は逆接ではありません。
> > > 逆接なのに、これらの接続詞がないという事はそもそも文体として成立しません。
> >
> >  「逆接」を表わす「漢字」が使用されていないが、その漢文の述べていることを、どう理解するか、という語学のセンスの問題なのですよ。
> >  p君さんの、あの文章の解釈は、日中の古来から、現代までの、当時の古文の解釈として、「有り得ない」物なのです。
> >  当時の中国人も、現代の日中の、漢文の専門家も、誰もそう読まない。
> >  文法云々以前の問題なのです。



> センスなど関係ありません、ごまかさないでください。
> 逆説の接続詞がないのに逆説を意味する文体などどこにもありません。
> どちらにしても卑弥呼に「子供がいない」まで言ってたあなたは間違えているのです。
> 魏志倭人伝にはそこまで書かれていませんから。


 かつて結婚し、男子を数人産んで、無事成長させ、亡父の庶長子と再婚した、ヒメタタラが、女王に共立された場合、中国に史書が、どのように、記述するのか?という、話なのです。

 謎々や、回文の様な、特殊な文章を、書くのではありません。
 史書で、しかも、「正史」に採用される見込みのある書籍で、スポンサーというか、パトロンというか、後援者の張華や杜預のメンツも立て、何より、晋の帝室の司馬氏の功績を称えるのが目的で、前代の史書に無い「東夷伝」を、書く。

 原文は、「年已長大、無夫婿(異体字で「女」ではなく「土」)」となっています。
 ヒメラララについて、正確な情報があって、記載するのであれば、「年已長大、寡婦(而)有三子」というような、表現になるでしょう。

 「年已長大」は、共立されて、倭国の女王、大倭王になった時の年齢が、数え年で、30才以上、という意味でしょうが、その状態で、未婚か、寡婦(未亡人)か、婚姻歴がある場合は、子の有無や人数は、当然、記述される。
 それが、史書の常道でしょう。
 勿論、遠方で情報が不足する場合は、記載が漏れる。

 しかし、冊封する相手の個人情報、特に、後継者の有無は、当然、確認する。
 「佐治」する弟の存在は、記述されているが、息子のことは、全く触れない。
 そんな史書の記載の仕方など、中国史書の解釈で、あり得ない。

 そういう意味での「語学のセンス」の問題ですよ、という意味なのです。
 「已」の一字の解釈からも、結婚して、とっくに子の数人もいる筈の年なのだが、という、ニュアンスを感じるべきで、逆接の語は、不要なのですよ。


> >  「中平銘鉄刀」が、和爾氏の墳墓と考えられる地域から出土し、『魏志倭人伝』で、卑弥呼に下賜された二つの刀剣の何れかの可能性があり、且つ、記紀の伝承で、和爾氏が、大王家から初期に分出した「皇別氏族」である以上、大王家と同じ、父系氏族=宗族に属しますから、和爾氏の女性で、「トヨ」が名に在れば、臺與の有力候補となり得る。


> 私には当時に存在しなかった「物部氏」の事を批判してくるのに、ご自分は当時にありもしない「皇別氏族」という表現をなされる。


 「物部氏」「海部氏」という「氏名(うぢな)」の氏族は、早くとも、4世紀以降の成立ですが、「穂積氏」「和爾氏」「鴨氏」「磯城氏」と言った、部民制やヒト制と無関係な呼称や、地域名を背負った「うぢ(氏)な(名)」の氏族は、3世紀以前でも、問題はない。
 父系制氏族社会自体は、3世紀以前、おそらく、弥生時代中期以前に、倭人社会の支配層には、成立していたでしょう。
 で、大王家とそこから分出した氏族を併せた「宗族」の中で、後の本宗家とされる「大王家」以外の氏族は、「皇別氏族」と表現するしかない。
 少なくとも、3世紀後半にはは、多氏や和爾氏などは、成立していたでしょう。


> 「天皇」なんて7世紀に創作された称号なので、初期の和邇氏に「皇別氏族」なんて表現を使うのはダブルスタンダードもいい所です。


 大王家宗族などという、聞き慣れぬ表現よりは、判り易いからですが。
 実の所、「多臣」という、地名を背負っていない氏族まで含めた適切な表現が、無かったからです。
 今後も、議論する必要がある場合は、「神武後裔氏族群」と仮称し、その女系子孫は、含まない、ということにします。


> >  ただし、『時代」が合わなければ、なりません。
> >  それと、卑弥呼と、同じ「宗族」、即ち、父系制氏族に属するという、条件もある。
> >  この部分で、卑弥呼候補は、見当たらない。
> >  ヒメタタラは、神武の皇后ではあるが、和爾氏と、同じ宗族には属さないし、漢文解釈上、卑弥呼足り得ない。
> >  もっと後の世代で、「独身」の卑弥呼と、「トヨ」の付く、和爾氏族の女性(既婚でもよい)を、セットで探す必要があるが、和爾氏の分枝は、春日臣、大宅臣など、多くあり、探せない状況です。



> トヨは和邇氏の祖・孝昭天皇の母君ですから時代が合いますし、ヒメ(踏鞴五十鈴)后と同じ「天(あま・あめ)」という宗族ですので問題はありません。
> また二人が住んだ地域に殉葬奴婢百余人を説明できる場所もあります。
> 崇神から神武まで10世代に拘ってしまい、卑弥呼を見つけることが出来なかったからと言って嫌がらせのような反論はやめてください。


 上記、漢籍の解釈で、根本的に異なっており、私の史料批判からは、簡単には、卑弥呼は、発見できません。
 それを、ご理解苛抱ければ、後は、『先代旧事本紀』の信頼性の問題や、物部氏の成立に関する議論、考古学的な部分への質問など以外は、見解の相違は、明確ですから、コメントは、控えます。
 同じ近畿説なので、特に考古学的な見解は、私には、貴重な情報ですし、何とか、卑弥呼と臺與が、見つからないか、ヒントが得られるかと思い、質問していたのですが、そううまくはいかなかった。
 残念です。


> >  (略)
> >
> >
> > > 候補者が出せないのなら卑弥呼の墓の場所もどこに住んだかもわからないはずなのに、
> > > 人の意見にだけは反論するという態度はいかがな物でしょうか。
> >
> >
> >  自説に強い自信を持つ人は、往々にして、他人から見れば、簡単に受容できない、いくつかの「前提」があり、それを自明の事実として、他者にも、認める様、要求する。
> >
> >  ご本人は、それが、史実だと信じて疑わないから、その踏み絵を早く踏んで、自分の土俵に来るよう、求める。
> >  その意識的、無意識的前提を,受容しないで、立ち止まるのを、非難されても、従えない
> >  そういう状況なので、「お互いの見解が、理解できた時点で、見解の相違は埋まらないから、そこで、議論を中止しよう、という、提案は、最初から、言っています。
> >
> >  私としては、議論の共通基盤が、どれだけあるか、議論の共通基盤が、どれだけ作れるかを、確認する意味で、何回か、コメントした。
> >
> >  p君さんと私は、同じ邪馬台国近畿説派で、記紀の記載も、出来るだけ活かしたい、という思いも共通するが、中国史書の解釈、記紀の神代や神格に関して、立場の相違があり、そこで見解が分かれて、議論の共通基盤は、無くなる。
> >  それを確認すれば、これ以上、議論しても、余り得る物はない。
> >
> >  私の苦手な考古学的な事項についての情報は、今後も注視していますが、それについての質問はあるかも知れないが、文献解釈については、情報提供はするが、議論はしない。
> >  そういう事で、レスの交換は、基本的に、中止したいと思います。
>
>
> 「お互いの見解」ってあなたは卑弥呼が誰なのかという見解を出せていないわけです。
> 出せないのは何かが間違っているという事にお気づきください。
> その間違えた考えを固定観念のように持ち続けておられるわけです。


 実は、「データ不足で、卑弥呼が、記紀の人物の中の誰かを、特定できない」というのが、私の、現時点での、「見解」です。
 私から見れば、p君さんの見解の、「帥升=スサノヲ」説などは、単なる語呂合わせにしか、おもえませんし、そこからの記紀の解釈も、「固定観念」にしか、見えません。
 新たな、考古学的発見や、何らかの新資料が、発見されない限り、みんなが納得するような、合意は、邪馬台国問題では、得られないように思います。

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  • [613]
  • 神武も崇神もハック二シラスメ

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月28日(火)00時03分46秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 文化レベルが違いすぎる漢族の王、服装や持ち物が違う文明人と接して恩恵にあずかりたいと考えれば、文明国側が要求する方法で接するしか手段はないのでは ?   それが土下座なのか 拝礼なのか 柏手カシワデなのか 相手に合わせるのでは?    話の論点がすり替えられている。

Re:10月云々へ  p氏の返答や反論 どこに書いてあるのだろう?

石舞台古墳
先行の後期古墳を破壊し、その石舞台古墳が 次?の政権で墳丘の膨大な土が取り除かれた。

岩戸山古墳
火の君・磐井は 敗戦し、たぶん彼の寿陵として作っていた岩戸山古墳という前方後円墳の外区の石人石馬は 破壊された。
後の時代 律令期の戸籍で志摩郡大領として 奴隷所有する権力者として 筑紫君の子孫?が登場。
蘇我氏は 墳丘破壊され、筑紫の君磐井の墓は 別区の破壊。マウンドは残された。

筑紫の君は 新羅と交渉できる立場。 蘇我氏は 後に天皇を殺害するが、先祖筋が他国と交渉できる立場ではなかったのでは?




  • [612]
  • Re: 10月が正月、さまざまな神様は集合した

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月27日(月)19時47分30秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
>ひょっとすると 神武は本当に神話の人、β群支配者がα群書記官へ 業務命令で創作させたのかもしれず。


創作した人物を、子供にも笑われるような年齢である127歳にする理由がわからないです。

大和朝廷の「古さ」を強調するなら、50歳くらいで亡くなる天皇を50人ほど創作し、
中国にも勝る古さをアピールすればよいのにそんなことはしていない。

これは実在した神武という人物を127歳にしてまで、またその即位年を紀元前7世紀にしてまで、
何かを隠してたとしか考えられません。

また日本書紀において神武東征紀がなぜあれほど誇張されているのか、まるで手品師が手に持ったカードに客の意識を集中させるがごとく、意図的に読み手の意識を神武東征紀に集中させているのか、
それは神武の時代こそが魏志倭人伝に書かれた女王の時代であったから以外に答えはないでしょう。

4世紀後半の神功皇后を卑弥呼の時代に無理やり当てはめていることでもそれがわかります。

7世紀に天皇という新称号を創作した理由も同じく、女王と、その先立つ婿の関係を、
男子優先の「天皇・皇后」という新称号の創作で、まるで男王国であったかのような演出を施し、
そしてその時代をBC7世紀に設定したわけです。

ゆえ、今でも記紀に卑弥呼は登場しないと考える人、つまり7世紀の朝廷の策略にすっかりだまし続けられてる人ばかりなのです。

すべて、日本古代史の最大の屈辱であるAD107年の「倭国王帥升=スサノオの渡海しての謁見要請(=土下座)」を隠すためです。

  • [611]
  • 10月が正月、さまざまな神様は集合した

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月27日(月)14時09分2秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
pさん 神武上書き説は仮説
ひょっとすると 神武は本当に神話の人、β群支配者がα群書記官へ 業務命令で創作させたのかもしれず。
 現状の私の想定は 國學院雑誌の日本書紀の現在と未来をたたき台に、( 本当はp君氏とのやり取りで) わたしが 仮説提示として上書き説を提示。

 戦国期の破城行為と類した 古墳の破壊・抹消を これも仮説として提示。

 エジプトは本来 多神教。ツタンカーメンの父親が アテン神という一神教にしようとしたが アテン信仰は太陽信仰。

 日本の場合、イヅモへ神様が集合するのは10月、他地区は神無月。
伊勢神宮の正月は1月、ここに エジプトと同様に宗教改革がある。

その時期は 私の想定では 4末から5世紀初頭 家形埴輪・船型埴輪を畿内に持ち込んだ。 そして彼らは 薄手の土師器を駆逐し 弥生時代前期~後期と同様の肉厚に戻した。


  • [610]
  • Re: 明治期の刷り込み 全天皇初代からの丸暗記は 今でも悪影響 

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月27日(月)08時44分45秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>609
> 平城京は
> 前方後円墳を破壊して王都造営。
> 平城京を必要とした王、自分の先祖筋と見ていないから前方後円墳を抹消できた
>
> 石舞台古墳は
> 数基の後期古墳を破壊して、その時期の最大級方墳を構築している。
> 明日香の石舞台の地、蘇我氏に先行する地域支配者がいたが、血脈の無い蘇我氏が土地を横領した。
>
> と私は想定している。
>
> 徳川家の重臣 石川数正、秀吉配下へ寝返り、可児・金山城城主。
> この金山城 石垣・縄張りが破壊されて出土。
>
> 戦国時代も古墳時代も 人の手に頼った 土木工事。
> 平城京の地下の前方後円墳のサイズ、後円部 径100余歩ぐらい、ただし 後期古墳期か
> 奈良の地下 どこかに神武墓と想定。
>
> 千葉県 弥生時代後~末期に物部氏という 根拠のない話を指摘しているだけ
>
> 奈良盆地 様々な氏族による政変が 繰り広げられている。
> 墓の仕様・設計規格は政変に伴い 変化した。
>


5世紀初頭と言えば、この日本で世界的巨大墳丘墓ができる時期なのに、
なんでその頃の「初代天皇」の墓が、埋没してしまうような低墳丘墓なのでしょうか。

そもそも神武は5世紀初頭ではないし、あなたは思考レベルが低すぎます。





  • [609]
  • 明治期の刷り込み 全天皇初代からの丸暗記は 今でも悪影響 

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月27日(月)07時50分32秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
平城京は
前方後円墳を破壊して王都造営。
平城京を必要とした王、自分の先祖筋と見ていないから前方後円墳を抹消できた

石舞台古墳は
数基の後期古墳を破壊して、その時期の最大級方墳を構築している。
明日香の石舞台の地、蘇我氏に先行する地域支配者がいたが、血脈の無い蘇我氏が土地を横領した。

と私は想定している。

徳川家の重臣 石川数正、秀吉配下へ寝返り、可児・金山城城主。
この金山城 石垣・縄張りが破壊されて出土。

戦国時代も古墳時代も 人の手に頼った 土木工事。
平城京の地下の前方後円墳のサイズ、後円部 径100余歩ぐらい、ただし 後期古墳期か
奈良の地下 どこかに神武墓と想定。

千葉県 弥生時代後~末期に物部氏という 根拠のない話を指摘しているだけ

奈良盆地 様々な氏族による政変が 繰り広げられている。
墓の仕様・設計規格は政変に伴い 変化した。


  • [608]
  • Re: 破城行為 そして 先行古墳の抹消行為

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月27日(月)04時04分23秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>607
>  戦国時代の勝者 徳川
> 秀吉ゆかりの城郭 破城 名護屋城、大坂城 岐阜可児・金山城 他 多数
> 天草の乱 敗者の城 原城 本丸直近の通路上の大石 発掘したら 女性が圧死?  ペチャンコの人骨出土。
>
> 古代・近親婚を繰り広げていた頃の勝者
>  先行して作られていた古墳を破壊して平城京
>                   石舞台古墳
>
> 神武の墓の 破壊行為は 可能性としてある。と想定している。
>
>       、
>


破壊と言われても、ブルドーザーで更地にしたわけでもない限り、
墳墓の基盤は残るわけですから、
5世紀初頭の、神武墓と思われる墳墓基盤をあなたが示せばいいだけ。

そんなものありはしないし、だいたい誰が何の目的で初代天皇の墓を壊したのか、
思いあたる人物や集団も無ければ、そのような記録ももちろんない。

言ってて虚しくならないですか。





      

  • [607]
  • 破城行為 そして 先行古墳の抹消行為

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月26日(日)17時10分46秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 戦国時代の勝者 徳川
秀吉ゆかりの城郭 破城 名護屋城、大坂城 岐阜可児・金山城 他 多数
天草の乱 敗者の城 原城 本丸直近の通路上の大石 発掘したら 女性が圧死?  ペチャンコの人骨出土。

古代・近親婚を繰り広げていた頃の勝者
 先行して作られていた古墳を破壊して平城京
                  石舞台古墳

神武の墓の 破壊行為は 可能性としてある。と想定している。

      、
        

  • [606]
  • Re: シアトルのイチローは物部氏の末裔説の pさんへ

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月25日(土)12時59分58秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>605
> 【 いつも質問ばかりで逃げてますが、神武5世紀初頭という「お笑い系ヒストリアン」のあなたに質問しますが、5世紀初頭の神武の墓をお答え願いませんか。】
>
> 神武の墓は 古代~中世文献で記載されているので存在していたと想定、中世の戦乱・特に南北朝期の貴種殺害と焚書行為の過程で、戦国期の城郭破城行為と同様に抹消されたと 想定しています。 だから 神武の墓 判らなくなっている、が回答。
> 同様に 六国史記載以前の陵墓、墓誌が出ていないので判らない、これが回答。


壬申の乱の記述に出てくる神武陵墓がどこにあったのかもわからないのですか。
「城郭破城行為」って神武陵墓に後世の誰かが城を立ててたというわけですか。
神武の墓なら律令制の陵戸や守戸が配置されてたでしょうから、誰かが城を建てるなんてできませんよ。
あなたはその程度の見解しかないので、「分からない」で逃げてるわけですね。


>
> 仁徳・応神陵古墳は 各々 その名の天皇の墓という 1950年代レベルのp説。
>  私が質問している その根拠の提示を。
> 土器・須恵器 相対編年。実年代にあらず。古式の須恵器と墓の被葬者は 参考資料
> たとえ 墓から 木材が出て 実年代が特定されたとしても 被葬者にかかわる墓誌や金石文や竹簡など文字が出ないかぎり 被葬者は特定できない。
>

複数の根拠を提示しています、何度もしつこく質問しないでください。

かつて誉田御廟山が5世紀前半、大山陵墓が5世紀中頃と言われてた時期があり、
それぞれ応神天皇と仁徳天皇の時代に合わないと言われてきましたが、
最新の須恵器編年でそれぞれ時代が合うようになりました。

「墓誌や金石文や竹簡など文字が出ないかぎり」ってそんなもの出ません、幼稚園児のような意見ですね、ふざけてるのですか。



(以下、読む価値もない駄文なので略します)


  • [605]
  • シアトルのイチローは物部氏の末裔説の pさんへ

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月25日(土)11時26分40秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
【 いつも質問ばかりで逃げてますが、神武5世紀初頭という「お笑い系ヒストリアン」のあなたに質問しますが、5世紀初頭の神武の墓をお答え願いませんか。】

神武の墓は 古代~中世文献で記載されているので存在していたと想定、中世の戦乱・特に南北朝期の貴種殺害と焚書行為の過程で、戦国期の城郭破城行為と同様に抹消されたと 想定しています。 だから 神武の墓 判らなくなっている、が回答。
同様に 六国史記載以前の陵墓、墓誌が出ていないので判らない、これが回答。

仁徳・応神陵古墳は 各々 その名の天皇の墓という 1950年代レベルのp説。
 私が質問している その根拠の提示を。
土器・須恵器 相対編年。実年代にあらず。古式の須恵器と墓の被葬者は 参考資料
たとえ 墓から 木材が出て 実年代が特定されたとしても 被葬者にかかわる墓誌や金石文や竹簡など文字が出ないかぎり 被葬者は特定できない。


 p説 巻向形前方後円墳、奈良の石塚墓を構築し、 後世に物部氏と言われる人々は 関東の千葉・神門で 再度 巻向形不定形前方後円墳を作った説。
そして 彼らは 香取社を保護・育成した。

国鉄が全国展開して ある程度の均質社会なら 言えるのかもしれず。
p氏の勘違い、弥生後期以降 自然災害の被害地区と さほどの地区が存在。 不均質。

 関東/弥生町遺跡の土器が示すように いまだ弥生時代だった関東。 一方 奈良や津山盆地や濃尾平野のように自然災害に見舞われて、弥生拠点集落が解体していた地区。

 この時期 土器が移動するのは 中国や半島と同様に 気候変動と それに伴う政治変動。
最も 大きな勘違い、 西日本より狩猟採集に適していて 人口が少ないので 余剰土地の奪い合いは 北部九州のように過激ではない。
関東は 土器に装飾をつける余力があり 弥生町の土器が作れた。 一方 西日本は コメの比重が増加して 土器が無紋化する。


この土器 薄手地区の地層、総じて黒色を呈す。 土器づくりの為 焼成用の木々を刈り取ると 近隣の里山はハゲヤ山に近づき 長雨で土地の水分保有能力をこえると 自然災害を引き起こす、という負のスバイラル。  弥生末~古墳時代前期 土石流頻発。

西都原古墳群は台地上に展開、同様に百舌鳥・古市古墳群も台地上に展開。
彼らと 桜井・太田遺跡の支配者では 墓域の設定で違いがある。

なぜ 土器の内面を削り 破損しやすさを無視して 薄手の土器を作る集団が 桜井・太田遺跡へ臨時的に集合したのか?
私の関心事項。かれら薄手土師器使用の各部族は 倭国連合の構成員なのだろうか?





  • [604]
  • Re: P君さん

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月25日(土)08時20分59秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
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 >>600
> >>585
> > >>584
>
>  (略)
>
> > 私が先代旧事本紀を正しいと言っている理由は、時間軸と言いう一番肝心な部分、
> > 4世紀初頭から前半の人物である崇神天皇時代の、例えば物部十千根からウマシマジまで、さかのぼること6世代である事、
> > これが大和盆地最古の纏向石塚古墳が年輪年代で177+18であるという最新の考古学と符合するというものです。
>
>  3世紀以前に存在し得ない「物部氏」の系譜を持ち出して、しかも、世代数計算を、「6世代」という、私が、簡単に受容し得ない「前提」も、ある。
>  それが、「考古学的事実」と一致する、と言われても、p君さんの、多くの前提に納得していない人には、説得力がない。
>  せめて、それは、理解して下さい。



だから「物部氏」と言ってません、前方後円墳という特異な形の首長墓を持つ一つの血族・リネージが後世に「物部」と呼ばれたと言ってるわけです。



>
> > 崇神陵墓がほぼ行灯山古墳で間違いないであろうことから、その時期が考古学的に4世紀初頭から前半、
> > 最古の纏向石塚まで約120年として、ぴたり6世代として符合します。
>
>  上記、文献批判上、確定したと考えていない人間には、無意味です。
>  崇神陵か否かも、発掘して、墓誌でも出ないと、確認しようがないでしょう。
>  私としては、定点となる大王が、一人でも増えれば、大歓迎ですが。



考古学的に4世紀初頭から前半の大王墓ということでも、古事記の記述でも、行灯山が崇神陵である確実は極めて高く、もはや断言しても良いと思われますし、
そうであると仮定して考えれば数十年前のトヨも、その3世代前の卑弥呼も見えてきます。

なぜ誰もやらないのか不思議です。



>
>
> > 百濟の武寧王墓発見で、その墓誌が12世紀に編纂された三国史記の干支と符合し、武寧王の年代が確定しましたが、
> > これらは、例え後世に編纂された史書であっても、その当時まで「正しく伝承されていた」という事の証拠であり、
> > それは先代旧事本紀も同じくです。
> > 『先代旧事本紀』の、うたい文句の「本朝史書の始め」が否定されたからといって、現代科学(考古学)と合致するその内容まで否定はできないでしょう。
>
>

>  武寧王墓誌の話は、『先代旧事本紀』の記事の、「正しさ」の傍証には、なり得ません。



三国史記の武寧王の記述は、たとえ後世に編纂された史書であっても、それまで伝承が正しく伝えられてきたという証拠です。
先代旧事本紀も崇神時代から神武時代まで6世代という記述は、年輪年代に裏打ちされた最新の考古学と一致します。



>
>  (略)
>
> > 卑弥呼の墓が纏向古墳群のどれかであろうという通常の畿内説者と同じご意見なのでしょうが、
>
>  考古学の本は、読んでも、もう一つ、理解できないのですが、文献解釈と齟齬が無ければ、一応、という学界の定説、、通説を、受容しています。



「殉葬奴婢百余人」の記述を全く説明できない纏向古墳群に卑弥呼墓があるという学界の定説など間違えていると思います。
偉い先生が言ってるから正しいわけではありません。



>
>
> > 2世紀前半からの7~80年間の男王の墓が纏向になく、2世紀末に突然のように纏向石塚という前方後円墳が磯城(しき)地域に誕生した事の説明になっておられません。
>
>
>  学会の通説であるならば、考古学者が、何らかの素案を、提示しているでしょう。
>  一応、それに従います。
>



寺沢さんが、2世紀前半からの7~80年間の男王について、唐古鍵遺跡を考えておられるような記事を見たことがあります。
しかし唐古鍵にはその時代の大王墓がありません。
偉い先生が言ってるから正しいわけではありません。




> > 何を言っておられるのか分からない。
>
>  史書というものが、中世以前では、支配層の思想によって、「建国の年代を古くする」「天上界から降臨した、神やその子、孫が、始祖王やその祖先になる」といったような、神話・伝承の「歴史化」は、世界的な普遍的現象だ、と説明しているのです。
>  p君さんんが、「神功紀」の干支2運遡及を、特別視されていますが、それ自体は、珍しい様な事ではない。
>  「註」にわざわざ「卑弥呼」を引いてきたことの解釈の、一つを提示したまでで、p君さんの解釈と、トンデモ度は、まあ、似たり寄ったりです。



神武の即位年を西暦でBC660年にまで引き延ばした理由は、いわゆる辛酉革命説なのでしょうが、
その間延びした時代の「「註」にわざわざ「卑弥呼」を引いて」いるわけですね。
7世紀の朝廷は、魏志倭人伝の卑弥呼の時代を充分意識して、神功皇后をその時代にあてたという事ですね。
これは、7世紀の朝廷が「真の卑弥呼を知っていた」以外に理由はないと思われますが。

しかしその真の卑弥呼は、100年前の倭国王帥升の時代がスサノオになってしまう事になり、
日本古代史の最大の屈辱である「倭国王自ら渡海しての土下座」をスサノオが行った事実を表ざたにしてしまうので、
大変都合が悪い人物であったわけです。
だから隠したのです。


> > すべて7世紀の朝廷が、魏志に書かれた真の卑弥呼を誰なのか理解していたからこその所業だと思われます。
>
>
>  「親魏倭王」卑弥呼の他、後漢光武帝に王号を授与された「倭奴国王」、南朝劉宋に朝貢した「倭の五王」、全ての、倭国の王たちの、中国への朝貢を、「否定」「隠ぺい」するためでしょう。
>  現実に、卑弥呼以外は、更に、記紀には見えない。
>  逆に言えば、『日本書紀』の、この「原註」部分が、例外的存在であり、何故、記述が許されたのかを、「考察」しなければならないのですが、p君さんは、出発点である、漢籍の解釈が間違っている為、本末転倒の、議論になってしまった、と私には、思われます。



卑弥呼やトヨの朝貢は、使者を立て、お互い「プレゼント交換」などしていて、
ある意味、中国側と対等ともいえるものであったと思いますが、
上記の倭国王帥升の、日本古代史の最大の屈辱である「王自ら渡海しての土下座」はそうではありません。
この古代の最大の屈辱を隠す事、それが記紀編纂の最大の理由でしょう。




> > 文体が「逆接」かどうかは一番肝心な部分です。
> > 逆説の接続詞「~にもかかわらず」「~だが」がないという事は逆接ではありません。
> > 逆接なのに、これらの接続詞がないという事はそもそも文体として成立しません。
>
>  「逆接」を表わす「漢字」が使用されていないが、その漢文の述べていることを、どう理解するか、という語学のセンスの問題なのですよ。
>  p君さんの、あの文章の解釈は、日中の古来から、現代までの、当時の古文の解釈として、「有り得ない」物なのです。
>  当時の中国人も、現代の日中の、漢文の専門家も、誰もそう読まない。
>  文法云々以前の問題なのです。



センスなど関係ありません、ごまかさないでください。
逆説の接続詞がないのに逆説を意味する文体などどこにもありません。
どちらにしても卑弥呼に「子供がいない」まで言ってたあなたは間違えているのです。
魏志倭人伝にはそこまで書かれていませんから。



>  「中平銘鉄刀」が、和爾氏の墳墓と考えられる地域から出土し、『魏志倭人伝』で、卑弥呼に下賜された二つの刀剣の何れかの可能性があり、且つ、記紀の伝承で、和爾氏が、大王家から初期に分出した「皇別氏族」である以上、大王家と同じ、父系氏族=宗族に属しますから、和爾氏の女性で、「トヨ」が名に在れば、臺與の有力候補となり得る。



私には当時に存在しなかった「物部氏」の事を批判してくるのに、ご自分は当時にありもしない「皇別氏族」という表現をなされる。
「天皇」なんて7世紀に創作された称号なので、初期の和邇氏に「皇別氏族」なんて表現を使うのはダブルスタンダードもいい所です。


>  ただし、『時代」が合わなければ、なりません。
>  それと、卑弥呼と、同じ「宗族」、即ち、父系制氏族に属するという、条件もある。
>  この部分で、卑弥呼候補は、見当たらない。
>  ヒメタタラは、神武の皇后ではあるが、和爾氏と、同じ宗族には属さないし、漢文解釈上、卑弥呼足り得ない。
>  もっと後の世代で、「独身」の卑弥呼と、「トヨ」の付く、和爾氏族の女性(既婚でもよい)を、セットで探す必要があるが、和爾氏の分枝は、春日臣、大矢臣など、多くあり、探せない状況です。


トヨは和邇氏の祖・孝昭天皇の母君ですから時代が合いますし、ヒメ(踏鞴五十鈴)后と同じ「天(あま・あめ)」という宗族ですので問題はありません。
また二人が住んだ地域に殉葬奴婢百余人を説明できる場所もあります。
崇神から神武まで10世代に拘ってしまい、卑弥呼を見つけることが出来なかったからと言って嫌がらせのような反論はやめてください。



>
>
>  (略)
>
>
> > 候補者が出せないのなら卑弥呼の墓の場所もどこに住んだかもわからないはずなのに、
> > 人の意見にだけは反論するという態度はいかがな物でしょうか。
>
>
>  自説に強い自信を持つ人は、往々にして、他人から見れば、簡単に受容できない、いくつかの「前提」があり、それを自明の事実として、他者にも、認める様、要求する。
>
>  ご本人は、それが、史実だと信じて疑わないから、その踏み絵を早く踏んで、自分の土俵に来るよう、求める。
>  その意識的、無意識的前提を,受容しないで、立ち止まるのを、非難されても、従えない
>  そういう状況なので、「お互いの見解が、理解できた時点で、見解の相違は埋まらないから、そこで、議論を中止しよう、という、提案は、最初から、言っています。
>
>  私としては、議論の共通基盤が、どれだけあるか、議論の共通基盤が、どれだけ作れるかを、確認する意味で、何回か、コメントした。
>
>  p君さんと私は、同じ邪馬台国近畿説派で、記紀の記載も、出来るだけ活かしたい、という思いも共通するが、中国史書の解釈、記紀の神代や神格に関して、立場の相違があり、そこで見解が分かれて、議論の共通基盤は、無くなる。
>  それを確認すれば、これ以上、議論しても、余り得る物はない。
>
>  私の苦手な考古学的な事項についての情報は、今後も注視していますが、それについての質問はあるかも知れないが、文献解釈については、情報提供はするが、議論はしない。
>  そういう事で、レスの交換は、基本的に、中止したいと思います。


「お互いの見解」ってあなたは卑弥呼が誰なのかという見解を出せていないわけです。
出せないのは何かが間違っているという事にお気づきください。
その間違えた考えを固定観念のように持ち続けておられるわけです。

  • [603]
  • Re: 面と点、土器は持ち込めるという点の時もあれば 地域で専らに用いられるという面的展開も有る

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月25日(土)07時11分25秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
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>>602
>  【 これら3基の古墳から出土した土器に、在来の土器に混じって、近畿・東海・北陸地方の系譜をもつ土器が数多く含まれることから、外来的な要素の強い古墳としても注目されている。
>  前方後方墳が圧倒的に多い古墳出現期の東日本にあって、房総半島の中央部に出現した初期の前方後円墳である神門古墳群の時期や系譜についてはまだ多くの謎が残されている。 】
>
> この文面から p氏 物部氏という氏族名がどうして 提示できるのだろうか


纏向古墳群が物部の墳墓群であろう理由、その纏向古墳群が3世紀中頃には造営が希薄になる謎、
ちょうどその時期に関東千葉に纏向型前方後円墳が突然現れる理由、
何度も言ってます、以前の私の書き込みをお読みください。
同じ話ばかりさせないでください。


> 物部氏  2~3世紀の千葉・神門地区 すでに展開していたというP説
>
> p氏のテキスト・根拠が 中世文書という点 致命的欠陥なのでは?


三国史記も中世文書ですが、武寧王墓の墓誌発見で、干支が正しく伝承されていたことが判明しました。
先代旧事本紀についても、物部が物部の伝承を伝えてきたわけで、物部ではない人間がなんで偉そうに否定しているのでしょうか。


>
>
> 千葉神門の畿内系土器 布留式それとも庄内式?  畿内弥生Ⅳ様式 それともⅤ様式?
> その土器使用集団は 千葉から 普及領域を拡大できたのですか?
> いつ頃 香取や鹿島へ進出するのですか?


神門古墳群は3世紀中頃あるいは前半というのだから庄内式に決まってるではないですか、何でそんな事も分からないのですか。


あなたはいつも質問ばかりで逃げてますが、神武5世紀初頭という「お笑い系ヒストリアン」のあなたに質問しますが、
5世紀初頭の神武の墓をお答え願いませんか。
以前も質問しましたが逃げておられましたね。
  

  • [602]
  • 面と点、土器は持ち込めるという点の時もあれば 地域で専らに用いられるという面的展開も有る

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月25日(土)01時49分14秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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 【 これら3基の古墳から出土した土器に、在来の土器に混じって、近畿・東海・北陸地方の系譜をもつ土器が数多く含まれることから、外来的な要素の強い古墳としても注目されている。
 前方後方墳が圧倒的に多い古墳出現期の東日本にあって、房総半島の中央部に出現した初期の前方後円墳である神門古墳群の時期や系譜についてはまだ多くの謎が残されている。 】

この文面から p氏 物部氏という氏族名がどうして 提示できるのだろうか

単に 千葉の神門地区に 畿内系の土器が 持ち込まれたという 事実の提示。
p氏の 畿内の土器のすべて 物部に関係しているという 視点が変。

奈良盆地には 様々な土器使用集団が 弥生拠点集落・唐古/鍵遺跡解体後、侵入。

生駒西麓の土や播磨地区の土を使う庄内式土器は   奈良・東南麓に展開。
当初、三重雲出川流域の土を混入させていた元屋敷/廻間式土器は 奈良・桜井市の太田遺跡に土器展開。
p氏は 20世紀のお役人考古学徒の巻向遺跡という遺跡名に誘導されて、記紀の巻向という地名に脳内誘導されている。

河内の物部氏が 奈良・石上地区に進出した時期 吉川弘文館・物部氏を著した文献史専門家は 部民制度頃と 記していたかと。
神道考古学の大場磐雄博士、石上社の神域発掘、緑色石製品の最終・退化時期の4世紀末期以降の物が出土。 前期古墳時代まで古くない、と記憶している。

物部氏  2~3世紀の千葉・神門地区 すでに展開していたというP説

p氏のテキスト・根拠が 中世文書という点 致命的欠陥なのでは?


千葉神門の畿内系土器 布留式それとも庄内式?  畿内弥生Ⅳ様式 それともⅤ様式?
その土器使用集団は 千葉から 普及領域を拡大できたのですか?
いつ頃 香取や鹿島へ進出するのですか?





  

  • [601]
  • Re: 土器が出たから そこが 畿内勢力が来た?

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月24日(金)18時16分52秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
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>>599
> 2~3世紀の関東で 畿内系の土器が多数出土しているのならp説も有効。
>
> 小さな歪んだ郷土愛で、勝手にヤマタイコクや前方後円墳は、埋文学芸員の見解を無視して、日本全国 観光目的で 歪んだ情報は多く見受けられる。


だから神門古墳群で畿内系土器も多数出土しているという千葉県教育委員会の見解を紹介しましたが?
歪んだ情報をネットで流してるのはあなたですね。




> 何度も言っています、香取社、p氏は 谷川健一氏以上の情報力の提示が必要。
> 香取社の 宣伝文句ではなく、貴殿からの調査、谷川氏の見解を否定できる 情報の提示を求めています。


何を言ってるのか分かりませんが、祀られる本人が実在した時期から神社が存在したのではありません。
日南市のタギシミミやアヒラツ媛を祀る神社は後世の7世紀や8世紀の創建です。
谷川健一氏ってどなたか存じませんが、有名な学者さんが言ってるからという権威主義はみっともないですよ。


>
> 今回は 貴殿の言う、【 誉田御廟山が5世紀前後、大仙陵が5世紀前半であることは、宇治市街遺跡の最古の須恵器(389年)から導き出される最新の須恵器編年に合致しますので、それぞれ応神、そして仁徳の墓で間違いないでしょう 】
>
> どうして 須恵器の編年から 個人墓の人名が特定できるのか?、という問い合わせです。 誠意があるのなら ご説明できるでしょう。


雄略天皇紀での古市から柏原までに誉田陵があるという記述、あるいは『延喜式』の記述、
そして6世紀の欽明天皇が応神天皇陵前に神廟を設置し、それが今の誉田八幡宮になってますが、
たかだか14代、百数十年前の世界最大級の大王墓被葬者を、欽明天皇が「間違えるわけがない」であろうこと、
あとは誉田御廟山古墳外堤の須恵器の最新編年から5世紀初頭あたりであろうこと、
ことごとく誉田御廟山が応神天皇陵墓で間違いないことを示しています。

神武天皇5世紀初頭というあなたは、誉田御廟山が誰の墓なのか自分の意見を言わず、
人に「問い合わせ」ばかりしてますが何が不満なのですか?

  • [600]
  • Re: P君さん

  • 投稿者:石見介
  • 投稿日:2022年 6月24日(金)00時39分46秒
  • flh2-133-206-98-96.osk.mesh.ad.jp
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>>585
> >>584

 (略)

> 私が先代旧事本紀を正しいと言っている理由は、時間軸と言いう一番肝心な部分、
> 4世紀初頭から前半の人物である崇神天皇時代の、例えば物部十千根からウマシマジまで、さかのぼること6世代である事、
> これが大和盆地最古の纏向石塚古墳が年輪年代で177+18であるという最新の考古学と符合するというものです。

 3世紀以前に存在し得ない「物部氏」の系譜を持ち出して、しかも、世代数計算を、「6世代」という、私が、簡単に受容し得ない「前提」も、ある。
 それが、「考古学的事実」と一致する、と言われても、p君さんの、多くの前提に納得していない人には、説得力がない。
 せめて、それは、理解して下さい。

> 崇神陵墓がほぼ行灯山古墳で間違いないであろうことから、その時期が考古学的に4世紀初頭から前半、
> 最古の纏向石塚まで約120年として、ぴたり6世代として符合します。

 上記、文献批判上、確定したと考えていない人間には、無意味です。
 崇神陵か否かも、発掘して、墓誌でも出ないと、確認しようがないでしょう。
 私としては、定点となる大王が、一人でも増えれば、大歓迎ですが。


> 百濟の武寧王墓発見で、その墓誌が12世紀に編纂された三国史記の干支と符合し、武寧王の年代が確定しましたが、
> これらは、例え後世に編纂された史書であっても、その当時まで「正しく伝承されていた」という事の証拠であり、
> それは先代旧事本紀も同じくです。
> 『先代旧事本紀』の、うたい文句の「本朝史書の始め」が否定されたからといって、現代科学(考古学)と合致するその内容まで否定はできないでしょう。


 私の記憶では、百済武寧王墓誌の発見時、『三国史記』百済本紀の記載では、諱が「斯摩」となっており、日本側資料の「斯麻」と一致したとして、『日本書紀』の原史料のひとつとさrれる百済系資料の「正確さ」が、言われた、と記憶しています。
 『三国史記』著者金富軾は、漢籍を十分に読み込んでおり、中国史書に、武寧王の没年が記載してあれば、それを、孫引きした可能性もあります。
 o君さんの認識が正しいか否かは、私には、現時点では、判りませんが、仮に、『三国史記』のその部分が一致しても、別な資料について、それがそのまま通用するなら、抑々、資料批判など、不要です。
 武寧王墓誌の話は、『先代旧事本紀』の記事の、「正しさ」の傍証には、なり得ません。

 (略)

> 卑弥呼の墓が纏向古墳群のどれかであろうという通常の畿内説者と同じご意見なのでしょうが、

 考古学の本は、読んでも、もう一つ、理解できないのですが、文献解釈と齟齬が無ければ、一応、学界の定説、通説を、受容しています。


> 2世紀前半からの7~80年間の男王の墓が纏向になく、2世紀末に突然のように纏向石塚という前方後円墳が磯城(しき)地域に誕生した事の説明になっておられません。


 学会の通説であるならば、考古学者が、何らかの素案を、提示しているでしょう。
 一応、それに従います。


> >  抑々、「註」ですから、本文記載の流れとは、無関係です。
> >  それも(*)、通常の原注の様に、本文の内容の事項の説明(用語の説明や、記載内容の原資料の引用等)ではなく、取って付けたような、漢籍からの引用です。
> >  倭の五王に関する引用は、一切なく、此処だけなのは、「神功紀」が本紀扱いとはいえ、本来、大王ではなく、「皇后」であるからこそ、黙認された、と私は、考えています。
> >  尚、自国の建国を古く書き、神話と接合するのは、中国や日本に(*)限らず、汎世界的によく見られる現象であり、その際に、歴史の伝承・神話化も、神話の歴史化も(*)、或いは、他国。他民族の神話の借用なども、しばしば、観察されています。


> 何を言っておられるのか分からない。

 史書というものが、中世以前では、支配層の思想によって、「建国の年代を古くする」「天上界から降臨した、神やその子、孫が、始祖王やその祖先になる」といったような、神話・伝承の「歴史化」は、世界的な普遍的現象だ、と説明しているのです。
 p君さんんが、「神功紀」の干支2運遡及を、特別視されていますが、それ自体は、珍しい様な事ではない。
 「註」にわざわざ「卑弥呼」を引いてきたことの解釈の、一つを提示したまでで、p君さんの解釈と、トンデモ度は、まあ、似たり寄ったりです。

> 神功皇后の子・応神天皇も日本書紀を普通に読めばAD270年即位でしょうが、
> これはもう干支を2運120年古くずらしたことが、考古学や半島の複数の史書との比較からでもも分かりますね。
> なぜずらしたのでしょうかという事です。
>
> 神功皇后=卑弥呼と印象付ける事以外にないのは明白。


 というのが、p君さんの解釈で、私は、『日本書紀』を撰述した史官の、ちゃんと漢籍、中国の史書も読んでいます、という「証拠」提示の場として、支配層が、「神功紀」に、原注を付けるのを、許した(黙認した)という解釈です。

 「註」の性格も、種々あり、訓詁の注や、裴松之注の様な原文の不足を補う物、日本中世の歌学書の注の様に、自説を主張する為に、「作り上げた」物、等、様々です。
 史料批判は、史書の場合、史書作成を命じた支配層や撰述者、史官の人物像や時代背景など、皆考慮しなければならない。
 その説明も、加えたのですが、「現代人」の感覚で、どうしても、考えがちです。


> 神功皇后が120年も時代をずらされたことで、事績が間延びしてしまい、応神は本当に仲哀天皇の子なのかという疑念が生まれるのを避けるため、やれお腹に石を置いて産み月をずらしたなどとの苦しい創作説話を挿入しなければいけなかったわけです。



 この辺りは、王統の交替を疑わせるような、話が続き、江上波夫氏の「騎馬民族説」や、水野祐氏の「王朝交替説」の、格好の標的部分となる記述が、続きます。

 一方で、五百木入彦、品陀真若、品陀別(応神)という、「ヤマトタケル(日本武尊)」を挟まない、王統譜を考察する文献史学者もいます。
 後者の場合、抑々、神功皇后が皇后ではない可能性もありますし、私のような、複数大王の並立を、想定する者にとっては、景行天皇の後、成務、ヤマトタケル、五百入彦の、同族(兄弟)の「王家」が分立し、勢力争いの結果、応神王統に、一旦収れんした、というあたりの、各大王の事績の記載の不統一、という想定でも、特に問題はありません。

 p君さんと私は、遺伝人類学の成果を受け、騎馬民族説否定では、一致していますし、大王家内の家系の交替は別にして、畿内の大王家という、「氏族」自体が、この時点で、他氏族に交替したとも、考えていない点では、一致しています。

> すべて7世紀の朝廷が、魏志に書かれた真の卑弥呼を誰なのか理解していたからこその所業だと思われます。


 「親魏倭王」卑弥呼の他、後漢光武帝に王号を授与された「倭奴国王」、南朝劉宋に朝貢した「倭の五王」、全ての、倭国の王たちの、中国への朝貢を、「否定」「隠ぺい」するためでしょう。
 現実に、卑弥呼以外は、更に、記紀には見えない。
 逆に言えば、『日本書紀』の、この「原註」部分が、例外的存在であり、何故、記述が許されたのかを、「考察」しなければならないのですが、p君さんは、出発点である、漢籍の解釈が間違っている為、本末転倒の、議論になってしまった、と私には、思われます。

> > > 魏志倭人伝の文体が逆接の文体か否かの話であって、逆接ではありません。
> > > 卑弥呼に子がいないまで拡大解釈してるあなたが間違えてます。
> >
> >  そんな水準の話ではなく、中国の読書人が、どのように読むのか?という、レヴェルの話です。
> >  中国語は、孤立語なので、品詞も文法的関係も、判り難い。
> >  「逆接(*)」云々は、この場合、何の意味もない、議論です。
>
>
> 文体が「逆接」かどうかは一番肝心な部分です。
> 逆説の接続詞「~にもかかわらず」「~だが」がないという事は逆接ではありません。
> 逆接なのに、これらの接続詞がないという事はそもそも文体として成立しません。

 「逆接」を表わす「漢字」が使用されていないが、その漢文の述べていることを、どう理解するか、という語学のセンスの問題なのですよ。
 p君さんの、あの文章の解釈は、日中の古来から、現代までの、当時の古文の解釈として、「有り得ない」物なのです。
 当時の中国人も、現代の日中の、漢文の専門家も、誰もそう読まない。
 文法云々以前の問題なのです。

 それが理解できないのであれば、これ以上の議論は、無駄なので、だから、前から、「お互いの見解が、理解できたところで、議論は、お開きにしましょう」と、主張しているのですが。

> > > だからトヨは崇神から数十年前の最高位の人物なので、「調査すれば、他にも出てくるでしょう。」などと言ってないで、
> > > いいかげん誰なのか言ってもらえませんか。
> > > 言えないのに反論だけはしてくるというのは卑怯な態度です。
> >
> >  記紀や、諸氏族の系譜が、「臺與」を、「意図的に」隠そうとせず、正しく、事績を記録した、という「解釈」が、貴方の推論の「前提」になっています。
> >  記紀が、臺輿を、「女王」です、と書いていない事は,p君さんも、認めるでしょう。
> >  では、どのように書いたのか?
> >  ヤマト媛の様に、後の斎宮の様な、巫女と書いたのか?
> >  名前の「トヨ」だけが、手懸りであり、「最高位の女性」として、記述したか否かも、不明なのです。
>
>
> トヨ=天トヨ津媛はヒメ(踏鞴五十鈴)媛とおなじく皇后として書かれていますので、女性では最高位の人物であったことが分かります。
> そもそも石見介さん自身が中平銘鉄刀の和邇氏の系譜に卑弥呼がいると言っておられたのに、その系譜にトヨも卑弥呼もいると私が系図で説明したとたんに反論するというはいかがなものでしょうか。


 「中平銘鉄刀」が、和爾氏の墳墓と考えられる地域から出土し、『魏志倭人伝』で、卑弥呼に下賜された二つの刀剣の何れかの可能性があり、且つ、記紀の伝承で、和爾氏が、大王家から初期に分出した「皇別氏族」である以上、大王家と同じ、父系氏族=宗族に属しますから、和爾氏の女性で、「トヨ」が名に在れば、臺與の有力候補となり得る。
 ただし、『時代」が合わなければ、なりません。
 それと、卑弥呼と、同じ「宗族」、即ち、父系制氏族に属するという、条件もある。
 この部分で、卑弥呼候補は、見当たらない。
 ヒメタタラは、神武の皇后ではあるが、和爾氏と、同じ宗族には属さないし、漢文解釈上、卑弥呼足り得ない。
 もっと後の世代で、「独身」の卑弥呼と、「トヨ」の付く、和爾氏族の女性(既婚でもよい)を、セットで探す必要があるが、和爾氏の分枝は、春日臣、大矢臣など、多くあり、探せない状況です。


 (略)


> 候補者が出せないのなら卑弥呼の墓の場所もどこに住んだかもわからないはずなのに、
> 人の意見にだけは反論するという態度はいかがな物でしょうか。


 自説に強い自信を持つ人は、往々にして、他人から見れば、簡単に受容できない、いくつかの「前提」があり、それを自明の事実として、他者にも、認める様、要求する。

 ご本人は、それが、史実だと信じて疑わないから、その踏み絵を早く踏んで、自分の土俵に来るよう、求める。
 その意識的、無意識的前提を,受容しないで、立ち止まるのを、非難されても、従えない
 そういう状況なので、「お互いの見解が、理解できた時点で、見解の相違は埋まらないから、そこで、議論を中止しよう、という、提案は、最初から、言っています。

 私としては、議論の共通基盤が、どれだけあるか、議論の共通基盤が、どれだけ作れるかを、確認する意味で、何回か、コメントした。

 p君さんと私は、同じ邪馬台国近畿説派で、記紀の記載も、出来るだけ活かしたい、という思いも共通するが、中国史書の解釈、記紀の神代や神格に関して、立場の相違があり、そこで見解が分かれて、議論の共通基盤は、無くなる。
 それを確認すれば、これ以上、議論しても、余り得る物はない。

 私の苦手な考古学的な事項についての情報は、今後も注視していますが、それについての質問はあるかも知れないが、文献解釈については、情報提供はするが、議論はしない。
 そういう事で、レスの交換は、基本的に、中止したいと思います。


 

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  • [599]
  • 土器が出たから そこが 畿内勢力が来た?

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月23日(木)23時37分42秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
2~3世紀の関東で 畿内系の土器が多数出土しているのならp説も有効。

小さな歪んだ郷土愛で、勝手にヤマタイコクや前方後円墳は、埋文学芸員の見解を無視して、日本全国 観光目的で 歪んだ情報は多く見受けられる。

何度も言っています、香取社、p氏は 谷川健一氏以上の情報力の提示が必要。
香取社の 宣伝文句ではなく、貴殿からの調査、谷川氏の見解を否定できる 情報の提示を求めています。

今回は 貴殿の言う、【 誉田御廟山が5世紀前後、大仙陵が5世紀前半であることは、宇治市街遺跡の最古の須恵器(389年)から導き出される最新の須恵器編年に合致しますので、それぞれ応神、そして仁徳の墓で間違いないでしょう 】

どうして 須恵器の編年から 個人墓の人名が特定できるのか?、という問い合わせです。 誠意があるのなら ご説明できるでしょう。

正直 貴殿のフェイクへ 時間の無駄を感じていますが、
マタゾロ 人を惑わす



  • [598]
  • Re: 前方後円墳だから畿内、神門の古墓が畿内系という視点?  

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月23日(木)21時44分37秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 編集済
  • 返信
 
> >>597
>   土器は移動できる対象、巻向形前方後円墳という概念が関東や東海や九州で 認識可能ならば、物部という氏族の可否は別にして、畿内主導、もしくは畿内系統がそうした地区で葬送儀礼に用いられたというのなら、p説も成り立つのでしょう。
>
>  関東の考古学者に 古墳時代前期、どこの地区の土器が隆盛していたのか、ご確認ください。


自分でしてください、なぜいつも人に要求ばかりするのですか。
神門古墳群に畿内系土器が出ているという事でいいですね。
あなたは出ていないと嘘を言っておられましたね。


>
>  北部九州そして関東は 古墳時代前期、畿内系定型化前期古墳が到達していない。
>  北部九州の初期 前方後円墳は 畿内の古墳規格とは違う設計基準で構築。
> 佐賀・唐津の久利双水古墳は 別の規格の墳形、副葬品も畿内系は見当たらず、
> 福岡市内~筑紫野市の初期前方後円墳も墳丘の設計規格が相違。


今は関東の千葉の3世紀前半から中ごろの話です、すり替えないでください。


>
>  その地域の庶民層の日常雑器からの編年観から、千葉・神門地区に畿内勢力が のさばっていた、という証明がp氏からなさねばならない。
>
>  2~3世紀に 物部氏が 関東に進出していたという証明を pさんしてください。



魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の死後に立つ千人が死ぬ騒乱の男王(別名タケミカヅチ)に随伴した物部系の経津主神=香取神が千葉の神門古墳群の主であろうと何度も言ってます。
同じ話を何度もさせないでください。

で、ご自分は千葉の3世紀中頃に前方後円墳が現れる現象の理由を何だとお考えなのですか。
いつも人に質問ばかりしてイチャモンをつけておられますが、たまには自説を述べてください。



>
> 河内 仁徳陵 応神陵 最近の考古専門家、 その古墳が 仁徳天皇の墓・応神天皇の墓と答える考古学専門家 私は知らない。
> 1950年代レベルの考古学のように見えてしまいます。それが最新の考古学だとしたら、ずいぶん 幼稚化した考古学書籍を pさんが 読まれているのでは?


誉田御廟山が5世紀前後、大仙陵が5世紀前半であることは、
宇治市街遺跡の最古の須恵器(389年)から導き出される最新の須恵器編年に合致しますので、
それぞれ応神、そして仁徳の墓で間違いないでしょう。
宇治市街遺跡の最古の須恵器発見以前の説は意味がありません。



  • [597]
  • 前方後円墳だから畿内、神門の古墓が畿内系という視点?  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月23日(木)21時02分44秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
  土器は移動できる対象、巻向形前方後円墳という概念が関東や東海や九州で 認識可能ならば、物部という氏族の可否は別にして、畿内主導、もしくは畿内系統がそうした地区で葬送儀礼に用いられたというのなら、p説も成り立つのでしょう。

 関東の考古学者に 古墳時代前期、どこの地区の土器が隆盛していたのか、ご確認ください。

 北部九州そして関東は 古墳時代前期、畿内系定型化前期古墳が到達していない。
 北部九州の初期 前方後円墳は 畿内の古墳規格とは違う設計基準で構築。
佐賀・唐津の久利双水古墳は 別の規格の墳形、副葬品も畿内系は見当たらず、
福岡市内~筑紫野市の初期前方後円墳も墳丘の設計規格が相違。

 その地域の庶民層の日常雑器からの編年観から、千葉・神門地区に畿内勢力が のさばっていた、という証明がp氏からなさねばならない。

 2~3世紀に 物部氏が 関東に進出していたという証明を pさんしてください。

河内 仁徳陵 応神陵 最近の考古専門家、 その古墳が 仁徳天皇の墓・応神天皇の墓と答える考古学専門家 私は知らない。
1950年代レベルの考古学のように見えてしまいます。それが最新の考古学だとしたら、ずいぶん 幼稚化した考古学書籍を pさんが 読まれているのでは?

参考文献 慶友社   古代王権と武蔵国の考古学 増田逸郎著
     吉川弘文館 富士山噴火の考古学    富士山考古学研究会

 過去の概念、巻向形前方後円墳という概念は 崩壊過程。。





  • [596]
  • Re: 2世紀の関東~東海 S字甕文化圏

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月23日(木)18時06分37秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 編集済
  • 返信
 
>>595
> 2世紀の奈良盆地、所謂巻向形不定形前方後円墳 土器は畿内系。よって 2世紀の千葉と奈良盆地は土器が相違。
>
> p思考は、後世の天理・石上が物部の支配地、この情報に引っ張られている。
> 物部氏が関東に影響を及ぼすのは(S字甕使用集団を駆逐)、畿内系統の古墳が出現して以降。
>  4世紀後葉でも 関東の前方後円墳内、木炭郭など、畿内系統の竪穴式石槨や粘土槨を構築できていない。
>
> 奈良盆地内の古代氏族名、律令期・延喜式神社名などの後世文献からの 氏族名を 古墳時代前期や2世紀まで ひき延ばす思考は キケン。
>
>



千葉県教育委員会
神門5号墳
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-072.html

「古墳時代で最も初期のもので、県内はもとより東日本で最古の古墳と考えられる。また、これら3基の古墳から出土した土器に、在来の土器に混じって、近畿・東海・北陸地方の系譜をもつ土器が数多く含まれることから、外来的な要素の強い古墳としても注目されている。」

近畿・東海・北陸地方の系譜をもつ土器が数多く含まれると書いてますね。
あなたは平気で嘘を言う人ですね。

物部と東海の関わりについては以前に言いました。
石見物部神社社伝から察すると、おそらく3世紀前後のヒメ(踏鞴五十鈴)后の時代、
ウマシマジと天香山命が東海を平定し、北陸に抜けます。
愛知が尾張と呼ばれるのも天香山命の末裔・尾張氏が代々国造であったからであり、
名古屋の味鋺(あじま)神社の祭神はウマシマジです。
そして纏向地域にも味間(あじま)という地名が現存しています。

また愛知県には物部の末裔が今もたくさんおられますね、鈴木イチローとか。

纏向遺跡の外来搬入土器は東海が最多であり、北陸・山陰土器も多数出ますね。
また関東土器も出ます。

神門古墳群の様相と見事に繋がっているではないですか。

神門古墳の主、鹿取神こと経津主神はウマシマジや天香山命の孫世代ですから、時代を矛盾なく説明できます、

人の意見に反対したいがために平気で嘘を言うのはやめてください。
あなたは狡猾で姑息な人です。

  • [595]
  • 2世紀の関東~東海 S字甕文化圏

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月23日(木)09時50分53秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
2世紀の奈良盆地、所謂巻向形不定形前方後円墳 土器は畿内系。よって 2世紀の千葉と奈良盆地は土器が相違。

p思考は、後世の天理・石上が物部の支配地、この情報に引っ張られている。
物部氏が関東に影響を及ぼすのは(S字甕使用集団を駆逐)、畿内系統の古墳が出現して以降。
 4世紀後葉でも 関東の前方後円墳内、木炭郭など、畿内系統の竪穴式石槨や粘土槨を構築できていない。

奈良盆地内の古代氏族名、律令期・延喜式神社名などの後世文献からの 氏族名を 古墳時代前期や2世紀まで ひき延ばす思考は キケン。




  • [594]
  • Re: 畿内系定型化前期古墳

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月22日(水)21時07分35秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
>>593
>  緑色腕輪型石製品 剣・刀 銅鏡 できうれば 小口割石積竪穴石槨 (九州は石材の都合? ラフ)、もしくは粘土槨。 これらを装備・副葬する古墳。
>  関東では 畿内系定型化前期古墳が今のところ見つかっていない。


畿内系定型化を箸墓古墳以降とするなら、神門古墳群はそれ以前ですから、関東にも存在することになります。
なぜ千葉に存在するのかを説明しなければなりません。


> よって S字甕系統の土器を使用した神門古墓は 物部/畿内勢力と関与しない確率が高い。


「よって」て何がよってなのでしょうか。


>  また、天理・石上社周辺が 2~3世紀 物部氏の支配地という証明のできる文献や考古資料が見つかっていない。
> 文献史の専門家の篠川賢氏は、物部氏の支配地を河内、時期は部民制以降。奈良盆地の石上周辺は 物部氏が当初関与していない、と見ている。


天理・石上社周辺は4世紀以降でしょう。
西山古墳などは物部の墳墓で間違いはないと思われます。
和田萃さんなどは「物部氏の遺跡である布留遺跡」とはっきり断言した講演会をしておられました。

  • [593]
  • 畿内系定型化前期古墳

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月22日(水)12時25分23秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
 緑色腕輪型石製品 剣・刀 銅鏡 できうれば 小口割石積竪穴石槨 (九州は石材の都合? ラフ)、もしくは粘土槨。 これらを装備・副葬する古墳。
 関東では 畿内系定型化前期古墳が今のところ見つかっていない。
よって S字甕系統の土器を使用した神門古墓は 物部/畿内勢力と関与しない確率が高い。
 また、天理・石上社周辺が 2~3世紀 物部氏の支配地という証明のできる文献や考古資料が見つかっていない。
文献史の専門家の篠川賢氏は、物部氏の支配地を河内、時期は部民制以降。奈良盆地の石上周辺は 物部氏が当初関与していない、と見ている。

 土師器 薄手と厚手の認識 この時代の土器編年把握の根幹です。
土師器の肉厚の画像は 豊中市ホームぺージなどで確認できます。
弥生末~古墳時代初期 土師器の甕は 薄手が東海そして畿内の特色。

一部修正 庄内式 過去の記憶では生駒西麓のみ生産域、現在はこの中心軸とは別に 播磨の流紋岩組成の土も持ち込まれて拡散しているようです。

民族学的事例からは、原始国家レベル、敵対する國の土を入手する事が 戦いに勝つ、一つの要素のようです。

ちなみに 東海の元屋敷/廻間式土器、当初は三重 雲出川・一志郡産のザクロ石が混入材として用いられていたという特色があった。
知見では 白色の胎土がS字甕の当初の特徴なのでは?
滋賀・オワリ・三河 白色を呈する古式土師器が出土。

貴方に 理解できるのか どうか判りませんが、
古代の貴族 教養としての歴史テキストは(日本記)
後出の日本書紀、中世期に出現の古事記・先代旧事本紀へは、史料批判力が必要なのては?
 明治政府が推し進めた 歴代天皇名の暗記という洗脳に 染まりたくはないものです。
國學院雑誌 日本書紀の現在と未来  もしくは古式土師器の厚手と薄手の違い どこかで眼を通していただけると 幸いです。






  • [592]
  • Re: どちら?  

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月22日(水)08時39分8秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>591
> ①崇神時代から神武時代 崇神が古い
> ② 記載ミス 本意は神武時代が古い
>
> どちら?


神武の方が古いに決まってますが。


>
> 関東・千葉の神門古墓の時期、 なぜかS字甕
>  増田逸郎氏の著作 古代王権と武蔵国の考古学 慶友社 2002
>   赤塚次郎氏の論文 東海系のトレース 古代文化 第44巻6号 1992
>
>  関東に 古墳時代前期の畿内系定型化前期古墳は 今のところ見つかっていない。
> 東日本は 古墳時代前期 方形周溝墓と 前方後方形周溝墓。
>
> 畿内系統の前期定型化古墳は 西は 福岡・筑豊の沖出古墳。


沖出古墳って4世紀末のようですね、ならば石塚山古墳あたりの方がよほど古いと思われます。
あなたはソースが雑です、もう少し正確な話をしてもらえませんか。


>                 東は 愛知・犬山の白山平 東之宮古墳
>
> 神門古墓の時期 どうして 物部という氏族が関与していると言い出すのか
> 先代旧事本紀のフェイクに 騙された人がいる
>


纏向遺跡が物部の遺跡であることは何度も言ってますが、神武東征紀を素直に読むと、
ニギハヤヒが神武に屈した場所が今の桜井市外山あたりで、そこがニギハヤヒの奥津城であったことが分かります。

あと大王で初めて纏向に住み、自らの墓も造ったのは崇神ですが、崇神は母親が物部なので、物部の支配地域・纏向で生まれたことが分かります。
また当地は6世紀後半でも物部守屋の支配地であり、その守屋の死とともに前方後円墳がその造営を終わる事、これは前方後円墳という特異な墳墓が本来、物部の墓制であったことを証明しています。

大阪交野の森古墳群は被葬者として交野の語源になった「肩野物部」集団しか想定できないし、
その森古墳群最古の雷塚古墳は箸墓古墳と同時期か少しあと、つまり3世紀後半から末の時点で、物部という一族がすでに前方後円墳を造っていたという証拠になります。

その纏向型前方後円墳が3世紀中頃の千葉に突然現れる。

あなたは全く説明できないでしょうが、私は中平銘鉄刀と卑弥呼の系図スレで事代主の曾孫の別名・タケミカヅチに随伴した経津主神=香取神であろうと述べています。
時代も合いますし、これは正しいのではないかと思っています。



>  

  • [591]
  • どちら?  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月21日(火)19時35分59秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
①崇神時代から神武時代 崇神が古い
② 記載ミス 本意は神武時代が古い

どちら?

関東・千葉の神門古墓の時期、 なぜかS字甕
 増田逸郎氏の著作 古代王権と武蔵国の考古学 慶友社 2002
  赤塚次郎氏の論文 東海系のトレース 古代文化 第44巻6号 1992

関東に 古墳時代前期の畿内系定型化前期古墳は 今のところ見つかっていない。
東日本は 古墳時代前期 方形周溝墓と 前方後方形周溝墓。

畿内系統の前期定型化古墳は 西は 福岡・筑豊の沖出古墳。
                東は 愛知・犬山の白山平 東之宮古墳

神門古墓の時期 どうして 物部という氏族が関与していると言い出すのか
先代旧事本紀のフェイクに 騙された人がいる


 

  • [590]
  • Re: RE:585『先代旧事本紀』

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月20日(月)22時47分27秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
>>589

私もそのあたりの時代の記述は無視してよいと思います。

だからと言って崇神時代から神武時代の時間軸は最新考古学と見事に整合します。

あと箸墓古墳被葬者を仮にAとしますが、このAが、考古学的にも大阪交野の雷塚古墳、京都山代の五塚原古墳と強い近親性を持つ事が分っていますが、
先代旧事本紀に交野連と書かれるタベノスクネを子に持ち、
同じく先代旧事本紀に山城県主の祖・長溝を義理父に持つイカガノシコオしか箸墓被葬者Aに想定できません。





  • [589]
  • RE:585『先代旧事本紀』

  • 投稿者:米田
  • 投稿日:2022年 6月20日(月)22時14分48秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│[585] Re: P君さん 投稿者:p君 投稿日:2022年 6月20日(月)08時41分3秒

│私が先代旧事本紀を正しいと言っている理由は、時間軸と言いう一番肝心な部分、
│4世紀初頭から前半の人物である崇神天皇時代の、
│例えば物部十千根からウマシマジまで、さかのぼること6世代である事、
│これが大和盆地最古の纏向石塚古墳が年輪年代で177+18であるという
│最新の考古学と符合するというものです。

(横レス、失礼します。)

※:結論から言いますと、『先代旧事本紀』の問題点は、
_:「天の磐船」に乗っている人物の「時間軸」が、合わないことです。

(以下、)『先代旧事本紀』の現代語訳(HISASHI)を利用させていただきます。

巻第三 天神本紀
天照大神は
「豊葦原の千秋長五百秋長之瑞穂国(ちあきながいほあきながのみずほのくに)は、
我が子、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が治めるべき国である。」
このように言われ、我が子を降ろそうとされた。(云々)
高皇産霊尊は
「葦原中国の敵が神を拒絶して待ち戦うものが有れば、よく策略を用いて欺き防いで、治め平らげよ。」
と仰った。三十二人に指示して共に防ぎ守るよう天下りの伴に命じた。


天香語山命(あめのかごやまのみこと)__尾張連(おわりのむらじ)___等の先祖
天鈿賣命_(あめのうずめ_のみこと)__猿女君(さるめのきみ)____等の先祖
天太玉命_(あめのふとたまのみこと)__忌部首(いんべのおびと)___等の先祖
天児屋命_(あめのこやね_のみこと)__中臣連(なかとみのむらじ)__等の先祖
天櫛玉命_(あめのくしたまのみこと)__鴨県主(かものあがたぬし)__等の先祖
天糠戸命_(あめのぬかど_のみこと)__鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の先祖
天明玉命_(あめのあかるたまのみこと)_玉作連(たまつくりのむらじ)_等の先祖


※:(中臣氏の系図)「天児屋根命」は、「天御中主神」の「9世の孫」です。

─居々登魂命──天児屋根命(「9世の孫」)──天押雲命──天種子命──宇佐津臣命(「12世の孫」)


※:『風土記』(伊勢国)(東洋文庫P-284)より

:そもそも伊勢の国は、天御中主尊の12世の孫の天日別命が平定した所である。
:天日別命は神武天皇が、あの西の宮(日向)からこの東の洲(くに)を云々。


※:『古代豪族系図集覧』(忌部・阿波忌部)の系図より

______┌─許登能麻遅媛命(天児屋根命母)

─天背男命─┼─天日鷲翔矢命──大麻比古命──由布津主命─┬─堅田主命
_(イザナキ)_├─櫛明玉命
______└─天比理乃咩命(天太玉命妻)


───天太玉命───天櫛耳命───天富命───飯長媛命──┘
(高皇産霊尊の子)


※:『天富命』(ウィキペディアより)

:神武東征においては、手置帆負命・彦佐知命の二神の孫の讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の
:材木を採取し、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。また斎部の諸氏を率いて種々の
:神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。

:そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、阿波国に遣わして穀・麻種を植え、
:その郡の名は麻殖となった。


※:結論として、再度、言います。

※:「天の磐船」に乗っている「ニギハヤヒ」が、赤ん坊であるなら、
_:「天の岩戸」に参加しているメンバーが、「天の磐船」に一緒に乗ることも
_:もしかしたら、可能だったかも知れません。

※:けれども、「ニギハヤヒ」と「天香語山命」の父子と一緒に、
_:「天の岩戸」に参加しているメンバー(全員)が、同じ船に乗ることは、絶対に無理です。

※:つまり、『先代旧事本紀』は、ウソを書いています。

※:ただし、「天孫降臨」の話は、「日本書紀」や「古事記」にも、書いてあるではないか。
_:という、ややこしい、問題が発生します。

※:その辺を踏まえて考えてみると、感想としては、『先代旧事本紀』の作者は、
_:記紀のウソを十分に知った上で、少し悪乗りしている(話を盛っている)かな、
_:という処です。

http://


  • [588]
  • 奈良・石塚墳丘墓(巻向形不定形前方後円墳)~初期定型化前期古墳と 葛城・南郷遺跡出土の土師器、肉厚が違うのでは  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月20日(月)21時47分52秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 薄手の土師器、器壁が薄いので早く煮沸可能、ただし破損しやすい。
一方 弥生の大半の土器と 古墳時代中期以降の土器、肉厚が厚く、煮沸時間の短縮にはならないが、熱による損傷は薄手より少ない。

 また 古い記憶ですから 間違っているかもしれませんが、布留式は 日本海側?からの影響、 布留以前の庄内式土器は 生駒山麓西部に生産域が限定される。
布留式と同時代の東海地区・元屋敷/廻間式土器(S字甕・手あぶり)も 薄手。

南郷遺跡の時代には 元の厚手に戻る。



  • [587]
  • Re: 水の祭祀は 王の職掌範囲  

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月20日(月)18時39分8秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
>>586

> いづれにしても p君説の時間軸では 薄手の土師器から厚手の土師器への変化が説明できないのでは? 奈良へ侵攻した日向の軍事将軍は 薄い土師器から 厚い土師器へ戻した。
>
>  薄手の煮沸用途の土師器を使用していた集団は 日向の厚手の土師器使用集団から 駆逐された?  と見ています。


畿内弥生土器が吉備の内面削りの影響を受けて庄内・布留という土師器になり、
全国に波及していくわけですね。

「薄手の土師器から厚手の土師器への変化」とは何の事なのかわかりません。

  • [586]
  • 水の祭祀は 王の職掌範囲  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月20日(月)18時21分47秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
①桜井市・太田遺跡(所謂 巻向遺跡)、オワリ/布留系統の薄手の土師器とキビ系統の土師器で構成された遺跡。
②所謂 不定形前方後円墳 炭素編年からは 2世紀中葉
③箸墓・行燈の定型化前期古墳 時期は4世紀初め  装飾器台と円筒埴輪
 この時点にでは まだ奈良盆地ては王都的遺跡 未発見。
④奈良・葛城 南郷遺跡、4世紀後半以降 奈良盆地における 王都の出現。

平城京や平安京のように王都が固定される以前の王都、居住環境が悪化すると遷都している。
 水の祭祀は 王の職掌範囲、家形埴輪の系統で確認できる。大王の居住区は 綺麗な水が条件付けられていて、環境が汚れたと認識すると遷都したのでは?
【弥生期の拠点集落解体の主原因の一つとして 気候変動の中で 自然災害後の疫病蔓延という過去の情報が この古墳時代でも情報共有されていた】と想定しています。

いづれにしても p君説の時間軸では 薄手の土師器から厚手の土師器への変化が説明できないのでは? 奈良へ侵攻した日向の軍事将軍は 薄い土師器から 厚い土師器へ戻した。

 薄手の煮沸用途の土師器を使用していた集団は 日向の厚手の土師器使用集団から 駆逐された?  と見ています。

  • [585]
  • Re: P君さん

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月20日(月)08時41分3秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>584

> > 繰り返しますが、東瀬戸内発祥の前方後円墳という特異な墓制を持つ一つの血族・リネージについて、あなたは答えてない。
>
>  考古学的な事象を、文献史料に拠らず、解釈するのは、極めて困難です。
>  p君さんは、それを、『日本書紀』『古語拾遺』より明らかに遅れて、平安時代初期に、「本朝史書の始め」を、「詐称」したことの明白な、「物部氏」ゆかりの人物の手になると考えられる『先代旧事本紀』の記載内容を、根拠として、「説明」されておられる。
>
>  通常の文献批判の手続きからは、到底、受容できない方法論なのですが、それが、理解できない。
>  「後付けで」、先行史料が説明できない事象を、「もっともらしく」説明し、さも、先行史書以上の情報量を持つ、「本物の史書」を、装うのは、「偽書」、特に、「偽史書」の、常套手段です。
>
>  世の中には、データ不足で、結論が出せない事は、数多くある。
>  それを、上手く説明する、何らかの「書籍」が、突然、出現した時には、当然、その「書籍」には、厳しい、文献批判が、要求される。
>  で、『先代旧事本紀』は、うたい文句の「本朝史書の始め」が、否定された。
>  p君さんが、『先代旧事本紀』を、根拠として、主張されることは、(本来、根拠として、使用できないもの、という認識が、必要なのですが、それを棚に上げて)、他人に、根拠を示せと、要求されている状況です。
>  根拠の確実な根本史料が、無い以上、推測しか、出せない。
>
>  私は、一応、記紀の筋書きに従って、神武が、九州島から、近畿大和に移住し、大和国内どころか、日本全域が、皇祖神或いは、高木神と言った、天上界の神々の、「神勅」によって、支配権主張を、正当化している事から、実際には、神々ではなく、後漢光武帝の、「倭奴国王」への王号授与が、その倭人世界支配権主張の根拠と推測し、神武を、倭奴国王の、子孫と考えた。
>  その、神武以降の子孫も含めた、父系氏族の「倭国王」継承権こそが、大和の地政学的求心力と併せ、東瀬戸内地域や、東海地方などの、人々やモノを、畿内に集める、原動力であると、考えた。
>  記紀を手懸りにすると、どうしても、そのイデオロギーに、汚染されるが、さりとて、明白な偽書の主張に、従うわけにも行かない。
>  いつかこうへいさんに、「貴種信仰」があると、批判されるゆえんでもある。



私が先代旧事本紀を正しいと言っている理由は、時間軸と言いう一番肝心な部分、
4世紀初頭から前半の人物である崇神天皇時代の、例えば物部十千根からウマシマジまで、さかのぼること6世代である事、
これが大和盆地最古の纏向石塚古墳が年輪年代で177+18であるという最新の考古学と符合するというものです。

崇神陵墓がほぼ行灯山古墳で間違いないであろうことから、その時期が考古学的に4世紀初頭から前半、
最古の纏向石塚まで約120年として、ぴたり6世代として符合します。

百濟の武寧王墓発見で、その墓誌が12世紀に編纂された三国史記の干支と符合し、武寧王の年代が確定しましたが、
これらは、例え後世に編纂された史書であっても、その当時まで「正しく伝承されていた」という事の証拠であり、
それは先代旧事本紀も同じくです。
『先代旧事本紀』の、うたい文句の「本朝史書の始め」が否定されたからといって、現代科学(考古学)と合致するその内容まで否定はできないでしょう。


>
> > なんで卑弥呼がそんな場所にいるのでしょう。
>
>
>  卑弥呼以前の「大倭王」(范曄『後漢書』倭伝の表現)=倭人諸国の盟主、が、7~80年間も、既に、「自立」して(『共立」されてではなく)、存在したからでしょう。


卑弥呼の墓が纏向古墳群のどれかであろうという通常の畿内説者と同じご意見なのでしょうが、
2世紀前半からの7~80年間の男王の墓が纏向になく、2世紀末に突然のように纏向石塚という前方後円墳が磯城(しき)地域に誕生した事の説明になっておられません。




>
>  抑々、「註」ですから、本文記載の流れとは、無関係です。
>  それでも、通常の原注の様に、本文の内容の事項の説明(用語の説明や、記載内容の原資料の引用等ではなく)、取って付けたような、漢籍からの引用です。
>  倭の五王に関する引用は、一切なく、此処だけなのは、「神功紀」が本紀扱いとはいえ、本来、大王ではなく、「皇后」であるからこそ、黙認された、と私は、考えています。
>  尚、自国の建国を古く書き、神話と接合するのは、中国や日本医限らず、汎世界的によく見られる現象であり、その際に、歴史の伝承・神話化も、神話の歴史化mp、或いは、他国。他民族の神話の借用なども、しばしば、観察されています。


何を言っておられるのか分からない。
神功皇后の子・応神天皇も日本書紀を普通に読めばAD270年即位でしょうが、
これはもう干支を2運120年古くずらしたことが、考古学や半島の複数の史書との比較からでもも分かりますね。
なぜずらしたのでしょうかという事です。

神功皇后=卑弥呼と印象付ける事以外にないのは明白。

神功皇后が120年も時代をずらされたことで、事績が間延びしてしまい、応神は本当に仲哀天皇の子なのかという疑念が生まれるのを避けるため、やれお腹に石を置いて産み月をずらしたなどとの苦しい創作説話を挿入しなければいけなかったわけです。

すべて7世紀の朝廷が、魏志に書かれた真の卑弥呼を誰なのか理解していたからこその所業だと思われます。


> > 魏志倭人伝の文体が逆接の文体か否かの話であって、逆接ではありません。
> > 卑弥呼に子がいないまで拡大解釈してるあなたが間違えてます。
>
>  そんな水準の話ではなく、中国の読書人が、どのように読むのか?という、レヴェルの話です。
>  中国語は、孤立語なので、品詞も文法的関係も、判り難い。
>  「逆説」云々は、この場合、何の意味もない、議論です。


文体が「逆接」かどうかは一番肝心な部分です。
逆説の接続詞「~にもかかわらず」「~だが」がないという事は逆接ではありません。
逆接なのに、これらの接続詞がないという事はそもそも文体として成立しません。



> > だからトヨは崇神から数十年前の最高位の人物なので、「調査すれば、他にも出てくるでしょう。」などと言ってないで、
> > いいかげん誰なのか言ってもらえませんか。
> > 言えないのに反論だけはしてくるというのは卑怯な態度です。
>
>  記紀や、諸氏族の系譜が、「臺與」を、「意図的に」隠そうとせず、正しく、事績を記録した、という「解釈」が、貴方の推論の「前提」になっています。
>  記紀が、臺輿を、「女王」です、と書いていない事は,p君さんも、認めるでしょう。
>  では、どのように書いたのか?
>  ヤマト媛の様に、後の斎宮の様な、巫女と書いたのか?
>  名前の「トヨ」だけが、手懸りであり、「最高位の女性」として、記述したか否かも、不明なのです。


トヨ=天トヨ津媛はヒメ(踏鞴五十鈴)媛とおなじく皇后として書かれていますので、女性では最高位の人物であったことが分かります。
そもそも石見介さん自身が中平銘鉄刀の和邇氏の系譜に卑弥呼がいると言っておられたのに、その系譜にトヨも卑弥呼もいると私が系図で説明したとたんに反論するというはいかがなものでしょうか。




>
>
> > 記紀はとんでもなく時代をずらしているのだから、世代数もごまかされてるのではないか、と考えるのは自然な事です。
> > 崇神から神武まで10世代でも6世代でもいいと考えて卑弥呼を考察すればいいのに、
> > 頑なに10世代以外ないと考えて、その結果卑弥呼を見つけておられないのだから、
> > これは医学でいえば病名が分からず患者を死なしてしまったようなものです。
>
>  大王家の直系系譜に、卑弥呼と臺與が、ともに存在するか、そのうちの一人が、存在すれば、その世代数は、大王家の直系系譜の世代数で、考える。
>  和爾氏や、多氏に属していれば、当然、ずれて来るので、世代数は、異なる。
>  今の所、卑弥呼や臺與の時代の、大王が誰かも、絞り切れていないので、候補者が出せない。
>  そういう状況です。


候補者が出せないのなら卑弥呼の墓の場所もどこに住んだかもわからないはずなのに、
人の意見にだけは反論するという態度はいかがな物でしょうか。



  • [584]
  • Re: P君さん

  • 投稿者:石見介
  • 投稿日:2022年 6月19日(日)01時30分17秒
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>>570
> >>569


 後半部分へのレスですが、重複があると思いますが、ご容赦ください。


> 繰り返しますが、東瀬戸内発祥の前方後円墳という特異な墓制を持つ一つの血族・リネージについて、あなたは答えてない。

 考古学的な事象を、文献史料に拠らず、解釈するのは、極めて困難です。
 p君さんは、それを、『日本書紀』『古語拾遺』より明らかに遅れて、平安時代初期に、「本朝史書の始め」を、「詐称」したことの明白な、「物部氏」ゆかりの人物の手になると考えられる『先代旧事本紀』の記載内容を、根拠として、「説明」されておられる。

 通常の文献批判の手続きからは、到底、受容できない方法論なのですが、それが、理解できない。
 「後付けで」、先行史料が説明できない事象を、「もっともらしく」説明し、さも、先行史書以上の情報量を持つ、「本物の史書」を、装うのは、「偽書」、特に、「偽史書」の、常套手段です。

 世の中には、データ不足で、結論が出せない事は、数多くある。
 それを、上手く説明する、何らかの「書籍」が、突然、出現した時には、当然、その「書籍」には、厳しい、文献批判が、要求される。
 で、『先代旧事本紀』は、うたい文句の「本朝史書の始め」が、否定された。
 p君さんが、『先代旧事本紀』を、根拠として、主張されることは、(本来、根拠として、使用できないもの、という認識が、必要なのですが、それを棚に上げて)、他人に、根拠を示せと、要求されている状況です。
 根拠の確実な根本史料が、無い以上、推測しか、出せない。

 私は、一応、記紀の筋書きに従って、神武が、九州島から、近畿大和に移住し、大和国内どころか、日本全域が、皇祖神或いは、高木神と言った、天上界の神々の、「神勅」によって、支配権主張を、正当化している事から、実際には、神々ではなく、後漢光武帝の、「倭奴国王」への王号授与が、その倭人世界支配権主張の根拠と推測し、神武を、倭奴国王の、子孫と考えた。
 その、神武以降の子孫も含めた、父系氏族の「倭国王」継承権こそが、大和の地政学的求心力と併せ、東瀬戸内地域や、東海地方などの、人々やモノを、畿内に集める、原動力であると、考えた。
 記紀を手懸りにすると、どうしても、そのイデオロギーに、汚染されるが、さりとて、明白な偽書の主張に、従うわけにも行かない。
 いつかこうへいさんに、「貴種信仰」があると、批判されるゆえんでもある。

> なんで卑弥呼がそんな場所にいるのでしょう。


 卑弥呼以前の「大倭王」(范曄『後漢書』倭伝の表現)=倭人諸国の盟主、が、7~80年間も、既に、「自立」して(『共立」されてではなく)、存在したからでしょう。

(略)

> > > >  記紀の編纂者が、卑弥呼を隠そうと意図したのであれば、故意に事績を隠し、聞いたこともないような、皇女どころか、和爾氏や多氏の一女性として、記載する事もあり得る、というのが、私の立場です。
> > >
> > >
> > > それなら時代を変えずに、一皇女を卑弥呼にしてごまかせばいいわけですから、
> > > 時代を大きく引き伸ばす必要がないですね。
> >
> >  あのねえ、記紀は、日本の中国への朝貢を、隠そうとしているのですよ。
> >  ワザワザ、皇女などに、「是が卑弥呼だ」」などと、書くはずもない。
> >  『神功紀』の「註」は、史官が、ちゃんと中国の史書も、読んでいますよ、という、一種のアリバイ作りで、だから、本文には、一切、卑弥呼や、倭の五王の話は、出てこない。


> 何を言ってるのでしょうか、「史官がちゃんと中国の史書も読んでいますよというアリバイ作り」ならわざわざ神功皇后の時代を120年ずらすこともないでしょう。
> なんで日本書紀では神功皇后を干支2運120年もずらしてるのかという話なので、その理由は「真の卑弥呼を隠す事」ではないのでしょうか。


 抑々、「註」ですから、本文記載の流れとは、無関係です。
 それでも、通常の原注の様に、本文の内容の事項の説明(用語の説明や、記載内容の原資料の引用等ではなく)、取って付けたような、漢籍からの引用です。
 倭の五王に関する引用は、一切なく、此処だけなのは、「神功紀」が本紀扱いとはいえ、本来、大王ではなく、「皇后」であるからこそ、黙認された、と私は、考えています。
 尚、自国の建国を古く書き、神話と接合するのは、中国や日本医限らず、汎世界的によく見られる現象であり、その際に、歴史の伝承・神話化も、神話の歴史化mp、或いは、他国。他民族の神話の借用なども、しばしば、観察されています。

> > > しかし実際には4世紀後半の神功皇后を、干支を2運120年前倒しして卑弥呼の時代にあて、
> > > 神功皇后紀にわざわざ魏志の卑弥呼の記事を載せ、「神功皇后=卑弥呼」という印象を読み手に与えてます。
> > > というか漢文で書かれているので、これは中国史書への日本側からのレスポンスでしょう。
> >
> >  記紀は、国内向け史書で、中国など、海外の読者を想定していません。
>
>
> 漢文で書かれてますから、中国を意識しているのは間違いないでしょう。
> 国内向けの史書を何で漢文で書くのでしょうか。


 日本語の音に、漢字のどの字をあてるかという、万葉仮名は、なんとか成立していたとしても、模範となる、中国の唐の史書や律令等を、日本語にきちんと翻訳して、歴史書を編纂できる文語というか、文章用語、文体などが、未熟だったからでしょう。
 『古事記』のような、試みがなされていたが、史官たちも、漢文の方が楽だった。
 史官達は、おそらく全員が、渡来系で、日本語と出自種族の言語と、それに、文章語としての、漢文、漢語の、bilingualやtrilingualだったと、考えられます。

 中国人向けではないという理由は、前にも書きましたが、継体欽明皇統という、「現皇統」が、儒教文化ではあり得ない様な、近親婚を繰り返していた実態を、そのまま記載しているからです。

 隣国新羅も、同姓の「いとこ婚」などがありましたが、唐の叙爵に際しては、王の母が叙爵されるときなど、同じ、慶州金氏出身であれば、「貞氏」と言った、架空の「姓氏」をつけて、誤魔化しています。
 「同姓不婚」が、漢化鮮卑の王朝の「鉄則」でした。
 勿論、周代以降の中国の文化的習慣でもあります。

> >  近現代の、継体欽明皇統の、あの、近親婚ぶりは、中国人に読ませられない代物です。
> >  儒教で、父系制氏族社会で、近親婚を禁忌とする中国人が読めば、日本は、「禽獣の国」だと、軽蔑されるだけです。

> > > つまりこれは真の卑弥呼を時代を大きくずらし隠したという事です。
> > > ただちに神功皇后を本当の時代である4世紀後半に戻し、時代を大きくずらし隠された真の卑弥呼を探し出すべきです。
> > > 私はやりました。
> >
> >
> >  中国文献の恣意的解釈が、先行し、結果、記紀の解釈も、おかしくなっている、と思われます。


> 意味が分かりません、答えになっていない。

 范曄『後漢書倭伝』と、陳寿『魏志倭人伝』の、「帥升」と「卑弥呼」についての、「解釈」が、誤っており、記紀の解釈も、都合の良いように、自分勝手に、解釈されている、という意味です。

> > > >  抑々、卑弥呼は、後の大王家の「直系の祖先」ではあり得ない、というのが、私の考えです。
> > > >  独身で、子女もいないのだから。
> > > >  多くの人もそう考えている。
> > > >  ヒメララタの様な、既婚で、男子を数人産んだ、再婚もした女性を、卑弥呼候補に宛てる、というのは、あの文章の解釈としては、常識はずれです。
> > > >  多くの人が、そう考えている、ということは、理解してください。
> >
> > > 何度も言いますが、魏志倭人伝の本文は逆接の文体ではないです。
> > > よって「歳すでに長大である 夫はいない」しか訳せません。
> >
> >  中国古文自体の解釈として、無理があります。


> 魏志倭人伝の文体が逆接の文体か否かの話であって、逆接ではありません。
> 卑弥呼に子がいないまで拡大解釈してるあなたが間違えてます。

 そんな水準の話ではなく、中国の読書人が、どのように読むのか?という、レヴェルの話です。
 中国語は、孤立語なので、品詞も文法的関係も、判り難い。
 「逆説」云々は、この場合、何の意味もない、議論です。
 印欧語族の諸言語の様な屈折語や、日本語や朝鮮語、アルタイ諸語の様な、膠着語であれば、品詞の持つ文法的機能は、明確です。
 しかし、孤立語の漢語では、文意を明瞭にするために、時に接続詞を挟むが、誤解がないような箇所では、省略される。
 中国古文の専門家が、どうやっても、そうとは読み取らない様な、読み方を、採用するのは、無理です。


> > > >  臺與=トヨが、崇神の娘のトヨスキイリヒメであれば、候補の一人として、残り得ます。他に、候補者もいるので、絞り込みは出来ませんが。
> > >
> > >
> > > 崇神は4世紀初頭なので、その娘が3世紀後半の台与などとはありえません。
> > > 崇神を258年没と考えるならそれもあり得ますが。
> > > ただしトヨスキイリ媛は慰霊行脚に生涯をかけた女性であり、とてもじゃないが女王などと呼べる人物ではありません。
> >
> >  崇神の実年代を、何処まで絞り切れるかで、臺與の候補者は、変わります。
> >  事績に関しては、臺與は、生涯未婚の縛りも、必ずしも必要ではないので、皇別氏族に範囲を拡大して、調査すれば、他にも出てくるでしょう。


> だからトヨは崇神から数十年前の最高位の人物なので、「調査すれば、他にも出てくるでしょう。」などと言ってないで、
> いいかげん誰なのか言ってもらえませんか。
> 言えないのに反論だけはしてくるというのは卑怯な態度です。

 記紀や、諸氏族の系譜が、「臺與」を、「意図的に」隠そうとせず、正しく、事績を記録した、という「解釈」が、貴方の推論の「前提」になっています。
 記紀が、臺輿を、「女王」です、と書いていない事は,p君さんも、認めるでしょう。
 では、どのように書いたのか?
 ヤマト媛の様に、後の斎宮の様な、巫女と書いたのか?
 名前の「トヨ」だけが、手懸りであり、「最高位の女性」として、記述したか否かも、不明なのです。

(略)


> >  記紀の世代数云々は、そのようなデータではないが、「世代数が誤魔化されている」という「証明」というか、「検査結果」が、出ない。
> >  で、「他氏族や傍系王族の6世代目」と、「直系男系子孫の10(*)世代目」が、同年齢層である可能性を、排除できない。
> >  むしろ、他氏族の系譜に、無理矢理世代数を合(*)せる、という方が、文献無視の可能性がある。
> >  私は、そういっているだけなのですがね。
> >  それと、王族内の、同一呼称という、一般的習慣から、容易に、世代接続の際のミスが、生じ得る。
> >  まして、臣下氏族側に、有名な大王と関係があった事にしたいという欲求があれば、故意に、操作が行われ得る。
> >  そういう事象の「認識」の問題です。


> 記紀はとんでもなく時代をずらしているのだから、世代数もごまかされてるのではないか、と考えるのは自然な事です。
> 崇神から神武まで10世代でも6世代でもいいと考えて卑弥呼を考察すればいいのに、
> 頑なに10世代以外ないと考えて、その結果卑弥呼を見つけておられないのだから、
> これは医学でいえば病名が分からず患者を死なしてしまったようなものです。

 大王家の直系系譜に、卑弥呼と臺與が、ともに存在するか、そのうちの一人が、存在すれば、その世代数は、大王家の直系系譜の世代数で、考える。
 和爾氏や、多氏に属していれば、当然、ずれて来るので、世代数は、異なる。
 今の所、卑弥呼や臺與の時代の、大王が誰かも、絞り切れていないので、候補者が出せない。
 そういう状況です。

 

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  • [583]
  • 吉野ヶ里の甕棺は二系統、織田信長の本家も二系統  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月16日(木)07時18分39秒
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 明治期以前の天皇家、別系統の宮家で血統維持。熊本・細川氏(長岡氏)も二系統。
一氏族が 血液を絶やさない手法として、日本の支配層が用いた手法。

 秀吉政権が織田政権の体質・家父長制奴隷制へメスを入れるまで、古代~中世は奴隷制度を維持していた。
鎌倉政権以降の組織暴力団・武家政権はすべからく貴族的生活を志向する。
所謂 武士道は 近世(江戸時代)に成立。
 天皇家における宮家創設は 14世紀以降の武家政権による南北朝の処理、根切政策の関与が想定出来て、一族郎党丸ごとの消去・殺害でも血筋が絶えないように、二系統の家系で 血液担保。

 須玖・岡本遺跡や立岩遺跡の甕棺墓は 墓壙を切りあい。先に埋まっていた甕棺の存在が時として無視されて、次の甕棺を設置。
一方、弥生期・吉野ヶ里の甕棺墓や古墳時代の中期、日向の西都原古墳群や大阪・河内の巨大古墳、二系統が感知できる。

 家父長権を二系統で補完しあうという手法は、武力抗争の激化・根切/根絶やしが 反映しているようです。


奈良盆地にて 最初の王宮は 葛城・南郷遺跡。  王の日常生活を支える生産工房遺跡が見つかっている。

また 須恵器は定型化する以前に複数の系統、
筑後平野・夜須地区の最初期定型化須恵器窯群の直近に 器形が異なる 焼成温度の高い黒色化したプロト須恵器窯が存在。
古墳時代後期、須恵器を定型化した中心軸は 大阪・スエムラ地区、その支配者、河内で二系統の巨大古墳を造営。 百舌鳥・古市  これらの古墳 被葬者名 不明。

  • [582]
  • Re: 5世紀初頭期の西都原古墳群の特色 それは形象埴輪  

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月15日(水)22時09分36秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
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>>581
>  5世紀初頭の西都原古墳群における埴輪工人は二系統、169号墳と男狭穂塚。170号墳と女狭穂塚という二つの系統の埴輪工人の使い分け、それは 石見介さんの言う複数で王権維持、もしくは 家父長権を複数の親族で維持。
>  奈良盆地にて形象埴輪という新スタイルを持ち込んだのは、葛城王権。時期は4末~5世紀初頭。 最初期の形象埴輪は家形埴輪、西都原古墳群の家形埴輪は初期の物。



埴輪工人が二系統あるからと言ってなんで家父長権が複数あるのでしょうか、意味が分かりません。

西都原古墳群は4世紀初頭~7世紀前半に前方後円墳が31基、円墳279基、方墳1基ですから、
300年弱の間に首長墓である前方後円墳が約10年おきに造られていることになり、
おおよそ天皇の平均在位11、12年とも近く、この地域の一系の首長であっておかしくない。

あと西都原と神武とは関係ありません。

また奈良盆地にて形象埴輪という新スタイルを持ち込んだのは葛城王権ではなく磯城=纏向王権です。
だいたい4世紀末から5世紀初頭に葛城に王権などありません。葛城は葛城襲津彦の時代ですから。


>
> 8世紀初頭の日本記、日本書紀や古事記とは違った 王統譜だったのかも。
>
> β群支配者層の指示で 書き換え(改変)、 ハツク二シラスメが二名なのは 8世紀以前の支配者層のルーツが 日向出身者で構成されていたから。 すなわち 彼らは後期古墳文化の担い手、前期古墳文化の担い手ではない。
>
> 追記 応神天皇陵古墳が 応神の墓と確認できていないので 応神の実在時期も不明。
>    また 神武は倭国の軍事将軍 そして現在の神武天皇陵は江戸時代製。
>    日本書紀記載の神武は ベータ群支配者層の都合で 上書きされて古くなってしまった


仁徳陵が大仙古墳であることは、吉備や日向に仁徳の妃かその父親としか思えない巨大墳墓が同時代に存在することでも確かでしょう。
あと最新の須恵器の編年でも仁徳天皇が大仙古墳の主であることは間違いないでしょう。

ではその前時代の応神が誉田御廟山古墳であること、これも最新の須恵器の編年と、
6世紀の欽明天皇が応神天皇をしのび、当地に誉田八幡宮を創建していることでも確かだと思われます。
たかだか百数十年前の画期的大王の墓を、欽明天皇が間違えるなどとは考えられないからです。

今日、我々が坂本龍馬の墓を間違えていないのと同じです。

  • [581]
  • 5世紀初頭期の西都原古墳群の特色 それは形象埴輪  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月15日(水)19時59分43秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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 5世紀初頭の西都原古墳群における埴輪工人は二系統、169号墳と男狭穂塚。170号墳と女狭穂塚という二つの系統の埴輪工人の使い分け、それは 石見介さんの言う複数で王権維持、もしくは 家父長権を複数の親族で維持。
 奈良盆地にて形象埴輪という新スタイルを持ち込んだのは、葛城王権。時期は4末~5世紀初頭。 最初期の形象埴輪は家形埴輪、西都原古墳群の家形埴輪は初期の物。

8世紀初頭の日本記、日本書紀や古事記とは違った 王統譜だったのかも。

β群支配者層の指示で 書き換え(改変)、 ハツク二シラスメが二名なのは 8世紀以前の支配者層のルーツが 日向出身者で構成されていたから。 すなわち 彼らは後期古墳文化の担い手、前期古墳文化の担い手ではない。

追記 応神天皇陵古墳が 応神の墓と確認できていないので 応神の実在時期も不明。
   また 神武は倭国の軍事将軍 そして現在の神武天皇陵は江戸時代製。
   日本書紀記載の神武は ベータ群支配者層の都合で 上書きされて古くなってしまった

  • [580]
  • Re: 2020年度の國學院雑誌 日本書紀研究の現在未来 応用編

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月15日(水)18時54分58秒
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>>579
>  p君氏【 その時期こそ、物部系といわれる経津主神=鹿取神が千葉に神門古墳群を造ったのではないかと何度か述べています。
> ちょうど魏志倭人伝に書かれた、卑弥呼の死後に立ち千人が死ぬ騒乱の男王の時代です。 】
>  私には 時間軸がデタラメな文面と読める。
>  神門古墳群(3世記中)は S字甕/手あぶりという東海系の薄手の土器使用集団が関与。
> 日向や奈良盆地/葛城の(5世紀)の土師器は 厚手の土器。 時期も土器の形状も違う。
>
>  いつかコウヘイ説/ 香取社は鹿島社と連動、古代大和政権が香取海の支配権を確保した一種のモニュメント。
> 香取社・主祭神 フツヌシは 日本書紀と常陸風土記にて確認できて、その時期は 日本記の720年には 神格として提示されている。
>
> 西都原古墳群内の男狭穂塚・女狭穂塚は、5世紀前半に築造されており、古墳時代中期の神武18年の時に 香取社創建という 香取社の社伝が正しければ、日向出自の神武の活躍領域の北限が この香取・鹿島地区。
>
>  奈良盆地の古代大和政権は 関東で 手あぶり土器やS字甕を特徴とする土器使用集団と敵対し、神武期の5世紀初頭には関東侵攻し その後 勝利した。と想定。
>
>

神武実在で5世紀初頭という意見は初めて聞きました。
応神と同一人物とされるのですか。

神武と応神は全然違いますし、同一人物とするのはトンデモだし、西都原と神武は関係がないし、時間軸がデタラメなのはあなたです。

  • [579]
  • 2020年度の國學院雑誌 日本書紀研究の現在未来 応用編

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 6月15日(水)13時56分18秒
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 p君氏【 その時期こそ、物部系といわれる経津主神=鹿取神が千葉に神門古墳群を造ったのではないかと何度か述べています。
ちょうど魏志倭人伝に書かれた、卑弥呼の死後に立ち千人が死ぬ騒乱の男王の時代です。 】
 私には 時間軸がデタラメな文面と読める。
 神門古墳群(3世記中)は S字甕/手あぶりという東海系の薄手の土器使用集団が関与。
日向や奈良盆地/葛城の(5世紀)の土師器は 厚手の土器。 時期も土器の形状も違う。

 いつかコウヘイ説/ 香取社は鹿島社と連動、古代大和政権が香取海の支配権を確保した一種のモニュメント。
香取社・主祭神 フツヌシは 日本書紀と常陸風土記にて確認できて、その時期は 日本記の720年には 神格として提示されている。

西都原古墳群内の男狭穂塚・女狭穂塚は、5世紀前半に築造されており、古墳時代中期の神武18年の時に 香取社創建という 香取社の社伝が正しければ、日向出自の神武の活躍領域の北限が この香取・鹿島地区。

 奈良盆地の古代大和政権は 関東で 手あぶり土器やS字甕を特徴とする土器使用集団と敵対し、神武期の5世紀初頭には関東侵攻し その後 勝利した。と想定。



  • [578]
  • Re: P君さん

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 6月15日(水)12時47分49秒
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>>577


> > 魏志倭人伝によると、2世紀前半の其国の男王から7,80年は男王が続き、倭国大乱があり、卑弥呼共立、
> > そして卑弥呼の死後に千人が死ぬ騒乱の男王が立つも国中服さず、13歳のトヨが立つわけですね。
> > トヨは3世紀中頃に13歳で即位ですから3世紀末頃までは生きたでしょう。
> > その後の4世紀初頭あたりが「崇神「」ですね。
> > つまり「複数大王制」ではないという事ではないでしょうか。
>
>  中国の記録に現れないだけでしょう。
>  『宋書』百済国伝』では、百済王が、王族を、「左賢明」「右賢王」に、「仮授」し、宋に、正式に任官するよう、求めている。
>  宋は、認めなかったようですが、次代の斉は、百済国王の要請に応じて、都漢王、阿錯王、邁蘿王、沸斯侯などの、王侯号を、百済の王族や貴族に授与しています。


百済の話をされても説明にならない。
日本にはヒメヒコ制があったけれど、基本的には2世紀前半以降、一人の王であった。
「記録に現れない」のに「あった」なんて証明できません。


>
>
> > また巨大前方後円墳の数が、記紀の大王の数より多いという意見をよく聞きますが、
> > 全国4位の大きさである吉備の造山古墳や九州最大の日向の男狭穂・女狭穂塚はそれぞれ仁徳の妃やその父親である可能性が高いわけで、つまり地方外戚でも巨大墳墓を造っていたわけですから、畿内の巨大墳墓は普通に皇族の墓と考えられると思うので、
> > これも「複数大王制」の証拠にはならないと思われます。
>
>  巨大古墳の増勢は、日時、費用が、掛かります。
>  当然、王たちにも、何らかの序列はあったと思われますが、多くの人員を動員し、費用をかけ、時日を費やす。
>  単なる、一王族ではなく,大王に等しい、聖俗の権威と権力があったと、考えるべきです。
>  王族など、当時の一夫多妻制を考えると、数百人は、いるでしょう、
>  巨大古墳は、やはり、「大王」級の王族に、限定されていたと考えるべき。


吉備や日向の地方の巨大墓の説明をするなら、大王の外戚以外にないです。


>
>
> > だからこそ平均在位が有効なのです。
>
>  記紀の王統譜を無視し、神代の、アマテラスやスサノヲを、卑弥呼や帥升の『時代』に、都合よく持って行くための、ご都合主義にしか、見えませんが。



時代の違う4人の天皇の20人後と30人後の平均在位から導き出された神武の時代が、ことごとく卑弥呼の若い頃に一致する。
これは統計的にも正しいと思われます。
そうすると倭国王帥升がスサノオになってしまうので、スサノオ非実在説の石見介さんが、御都合主義で反対してるとしか思えません。
私の計算方法に異論があるならどうぞ言って下さい。


>
> > > > > > どちらにしてもその時代は葛城王朝の時代ですから、卑弥呼は葛城王朝の女性という事でいいですか。
> > > > >
> >
> > >  「葛城王朝」を認めても、神武は「除外」するという、その論理が、既に、記紀の恣意的解釈なのですが。
>
>
> > 神武は大和在地の主神(ぬしがみ)を征服し殺害して王位に就いた人物ではないですね。
> > 普通にその主神(ぬしがみ)の娘と結婚しています。
> > 決して神武自身が大和の主神になったわけではない。
>
>
>  既に、この部分は、神格を、安易に、「史的存在」として、扱っておられ、神代の神格の特殊性、長寿命その他の、歴史では説明できない部分は、都合よく、無視されている。


上記、安易ではないです。
「時代の違う4人の天皇の20人後と30人後の平均在位から導き出された神武の時代が、ことごとく卑弥呼の若い頃に一致する」という
統計学的にも正しい結果なので、近年の古代史で「神格」とされた人物も、実際には意図的に時代を引き延ばされ「神格」などとされたことが分かります。
その理由は、7世紀後半の国史編纂に当たり、日本の歴史を、
倭国王帥升ことスサノオの、わざわざ渡海しての「古代中国皇帝への謁見要請(=土下座)」から始めるわけにはいかなかったからです。


>  事代主は、「大国主」の子とされる。
>  大国主は、スサノヲの娘と婚姻するが、同時に、スサノヲの、確か、5~6世代の後裔でもある。
>  こんな話を、何処まで、史実として、扱えるのか?
>  自ずと、限界がある。


役職名と個人名を混在されています。
大きな国の主=大国主というのは「社長」や「村長」と同じく役職名ですから、時代を超えて複数存在してるわけで、
分かりやすい例でいえば、出雲大社に祀られている大国主大神とは、
垂仁の息子が生まれつき言葉を発せない理由を大国主の「祟り」としていることからも、
崇神時代に神宝を奪われたうえに殺害された出雲振根以外にないでしょう。
出雲大社とは、出雲振根の怨霊の慰霊・鎮魂のために建てられた社でしょう。

>
>
> > その主神の男子の末裔は崇神の時代まで続き、大阪の須恵村から崇神に神官として招聘されたオオタタネコに取って替われれます。
> >
> > つまり神武は大王ではないです。
> > その証拠に神武には妃が一人もいないことは石見介さんがご存じのはず。
> > 妃が一人もいない「大王」などいるはずがない。
>
>  大王に限らず、当時の支配層の有力者は、当然、複数の妻妾を持ったでしょう。
>  若くして死亡したりすれば、一人だけ、ということもあり得るが。
>  神武の場合は、東征時、既に高齢で、庶長子タギシミミが、成人しているので、ソレデ、説明がつく可能性があるが。
>  欠史八代の前半の大王の、后妃が一人、というのは、有力ではない、小地域の領主で、された可能性が大きいが、実際に、后妃の数は、少なかったのだろう、
>  又、有力でもない、側室で、結果、子孫が残ら無ければ、記録化されない事もあったと思われる。


神武以降を「有力ではない小地域の領主」といわれるなら、
それ以外の地域を支配する領主、つまり「有力である大地域の領主」がいたという事ですね。
その人物を私は大和の主神と言ってるわけで、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛の父・事代主などはその典型です。
卑弥呼は大和の主神の娘です。



>

> > > > 前方後円墳に埋葬された最初の大王は4世紀初頭の10代崇神でしょうが、
> > > > ならばそれ以前から存在する前方後円墳は何者の墓なのかを考量すべきでしょう。
> > >
> > >  欠史八代の後半の大王や、初期に分出した、多氏、和爾氏その他の人々も、候補足り得るでしょうね。
> >
> > 6代孝安以前は宮も墓も基本的に葛城であり、纏向遺跡のある磯城(しき)ではないので、
> > 考えられるとすれば7代孝霊以降でしょうが、なぜ7代孝霊の墓が瀬戸内発祥の前方後円墳なのかが全く説明できない。
>
>  畿内大和に、吉備や阿波、讃岐、或いは、東方の人々が、集まって、古墳を作ったり、何らかの祭祀をを行うような、「求心力」が、大和の小領主家厦、或いは、地域に、存在した、ということになるのでしょう。
>  羈縻は、「主要参加者」ではあっても、「主導者」ではない。
>  阿波や讃岐の勢力も、同じ事です。


纏向には2世紀前半からの王権の痕跡がないわけですから、やがて卑弥呼に繋がる2世紀前半の其国の男王は、
纏向地域居住ではないという事でよろしいでしょうか。


>
> > そして7代孝霊なら、その時代は3世紀後半なので、2世紀末から始まる纏向古墳群を説明できない。
>
>  どうしても説明できないのであれば、応神の活動年代推定AD400年前後からの、世代間隔平均年数を、20年ではなく、25年に刷れば、神武東征時期が、AD107年ではなく、AD57年の前後になるが、修正案足り得る。
>  まあ、纏向の年代が、もう少し、後にずれても、良いが。
>
> > 多氏、和爾氏も然り。
>
>  上記、世代間隔を、25年に延ばして、再設定する案と、あと一つ、倍暦を考慮して、各天皇の、在位年代を、推定する方法もある。
>  継体即位から、逆算を試みて、複雑になり、止めたことがあるが。


で、そういうことをしたとして、卑弥呼は誰なのですか?
出てこないでしょ。
出てこないのは石見介さんの設定や計算が間違えているからです。


>
> > だいたい神武の墓は畝傍山の丸山でほぼ決まりであろうし、それは前方後円墳ではないわけで、
> > その神武の末裔が前方後円墳に埋葬されるとは考えられない。
> > 10代崇神の場合は、その生まれ育った地域の母方の墓制を踏襲したのでしょう。
>
>
>  纏向には、吉備や阿波、讃岐、河内、東海などの、人々の流入が、想定される。
>  墓制も、吉備が強い影響力を示してはいるが、各地の要素が、混じっている。
>  基本的に、墓制は、大和で造成されたと、考えたほうが良い。
>  各地の、ヒトとモノを、「集める」求心力腰が、議論されるべき。


求心力も結構ですけど、卑弥呼とほぼ同時代に瀬戸内集団を引き連れて大和入りし纏向に住んだ勢力を想定したほうが話が早いです。


>
> > すなわち「纏向地域、2世紀末、瀬戸内、崇神の母方」この4つのキーワードを説明できる血族・リネージは物部しかいません。
>
>
>  プレ物部氏が、吉備や阿波、讃岐などから、「畿内大和」に集まって、「物部氏」になった、という話になるのですか?
>  一体、どこで、物部氏の祖先集団たる「リネージ」が、形成された、というのですか?
>  大和で、形成された、というのなら、吉備や東瀬戸内との関係は、後付けで、後代に形成されたことになる。
>  大和に入る前であれば、物部氏の祖先リネージは、「2世紀の前に」、既に、広域に分布していた、西日本の「支配的氏族」(父系、母系、双系云々は、別問題として)であったということになる。
>  所詮、考古学は、「モノ」の動きを説明し得ても、「ひと」の動きは、文献か、人類学を、援用しないと、解釈できない。
>


弥生時代に出雲から畿内への銅鐸の拡散が見られますが、同じく九州・瀬戸内には銅剣など武具が多数発見されてます。(画像)
銅鐸の拡散は、松帆銅鐸のC14でBC4~BC2世紀ですから、ちょうど始皇帝の中華統一の時期に合います。
対中国対策として、このような防人・武人集団が瀬戸内に複数展開しており、
それらがやがて「棟梁」らしき人物とともに大和入りしたのでしょう。
その時に瀬戸内に展開していた前方後円墳という墓制も持ってきたのでしょう。


  • [577]
  • Re: P君さん

  • 投稿者:石見介
  • 投稿日:2022年 6月15日(水)01時19分17秒
  • flh2-133-206-98-96.osk.mesh.ad.jp
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  • 返信
 
 No.566へのレスを、2回に分けて、投稿後、その前半部分に対する,p君さんのコメントの,No.568へのレスを飛ばたため、ちぐはぐな議論になったようです。
 視力低下が著しく、エラ-・チェックは、投稿の翌日に、ずれることが多くなり、性急なレスを頂くと、誤変換等の文意の曖昧なコメントに、反応される事になり、誤解も大きくなります。
 フレイル状態の老人のペースに合わせて、ゆっくり、コメントされるよう、お願いします。

 取り敢えず、Np.568に対する、レスを返します。
 重複が多くなるかと思いますが、ご容赦ください。

>>568
> >>567 石見介さん
>
> >  どの部分にも、史料批判は、当然、要求される。
> >  記紀という、国内資料を、可能な限り、活用したい、という考えでは、私とp君さんとの立場の相違は、ありませんが、中国史料の解釈が、2点、大きく異なる。
> >  一つが、『魏志倭人伝』の卑弥呼の描写、もう一点が、『後漢書』の光武帝紀下と東夷列伝倭条の帥升関連記事。
> >  それが、記紀の解釈に、大きな相違を齎している。
> >  史料批判の問題点は、中国文献の方が、主戦場であり、記紀などの国内史料ではないのですが・・・。
>
> > > その、時代を大きく引き伸ばさねばならない理由のもとに、本当は兄弟継承、従兄弟継承、あるいは血のつながらない大王の継承も含めて、
> > > 神武から17代履中まですべて父子継承などとしなければ仕方なかった。
> >
> >  この部分は、既に,p君さんの「解釈」が強く出ており、私のような、複数大王制を考える論者も多く。
> > 、議論が、分(*)れところでしょう。
> >  古くからある、ヒメ・ヒコ制の聖俗2重王権制論のみではなく、世俗的権力者の王の複数の並立を、私は想定しているが、これは、世界史的に、類例が多く、中国史書にも、百済の左右賢王や地域的な王侯号授与の記録があるし、新羅にも、「葛文王」の存在がある。
> >  考古学的にも、巨大前方後円墳の数が、記紀の大王の数より多い、という「物証」もある。
> >  王統譜の解釈を、自分の都合の良いようにのみ、解釈して、世代数短縮の根拠とされても、受容は出来ない。


> 魏志倭人伝によると、2世紀前半の其国の男王から7,80年は男王が続き、倭国大乱があり、卑弥呼共立、
> そして卑弥呼の死後に千人が死ぬ騒乱の男王が立つも国中服さず、13歳のトヨが立つわけですね。
> トヨは3世紀中頃に13歳で即位ですから3世紀末頃までは生きたでしょう。
> その後の4世紀初頭あたりが「崇神「」ですね。
> つまり「複数大王制」ではないという事ではないでしょうか。

 中国の記録に現れないだけでしょう。
 『宋書』百済国伝』では、百済王が、王族を、「左賢王(*」「右賢王」に、「仮授」し、宋に、正式に任官するよう、求めている。
 宋は、認めなかったようですが、次代の斉は、百済国王の要請に応じて、都漢王、阿錯王、邁蘿王、沸斯侯などの、王侯号を、百済の王族や貴族に授与しています。


> また巨大前方後円墳の数が、記紀の大王の数より多いという意見をよく聞きますが、
> 全国4位の大きさである吉備の造山古墳や九州最大の日向の男狭穂・女狭穂塚はそれぞれ仁徳の妃やその父親である可能性が高いわけで、つまり地方外戚でも巨大墳墓を造っていたわけですから、畿内の巨大墳墓は普通に皇族の墓と考えられると思うので、
> これも「複数大王制」の証拠にはならないと思われます。

 巨大古墳の造成(*)には、日時、費用が、掛かります。
 当然、王たちに何らかの序列はあったと思われますが、多くの人員を動員し、費用をかけ、時日を費やす。
 単なる、一王族ではなく,大王に等しい、聖俗の権威と権力があったと、考えるべきです。
 王族など、当時の一夫多妻制を考えると、数百人は、いるでしょう、
 巨大古墳は、やはり、「大王」級の王族に、限定されていたと考えるべき。


> だからこそ平均在位が有効なのです。

 記紀の王統譜を無視し、神代の、アマテラスやスサノヲを、卑弥呼や帥升の『時代』に、都合よく持って行くための、ご都合主義にしか、見えませんが。

> > > > > どちらにしてもその時代は葛城王朝の時代ですから、卑弥呼は葛城王朝の女性という事でいいですか。
> > > >
>
> >  「葛城王朝」を認めても、神武は「除外」するという、その論理が、既に、記紀の恣意的解釈なのですが。


> 神武は大和在地の主神(ぬしがみ)を征服し殺害して王位に就いた人物ではないですね。
> 普通にその主神(ぬしがみ)の娘と結婚しています。
> 決して神武自身が大和の主神になったわけではない。


 既に、この部分は、神格を、安易に、「史的存在」として、扱っておられ、神代の神格の特殊性、長寿命その他の、歴史では説明できない部分は、都合よく、無視されている。
 事代主は、「大国主」の子とされる。
 大国主は、スサノヲの娘と婚姻するが、同時に、スサノヲの、確か、5~6世代の後裔でもある。
 こんな話を、何処まで、史実として、扱えるのか?
 自ずと、限界がある。


> その主神の男子の末裔は崇神の時代まで続き、大阪の須恵村から崇神に神官として招聘されたオオタタネコに取って替われれます。
>
> つまり神武は大王ではないです。
> その証拠に神武には妃が一人もいないことは石見介さんがご存じのはず。
> 妃が一人もいない「大王」などいるはずがない。

 大王に限らず、当時の支配層の有力者は、当然、複数の妻妾を持ったでしょう。
 若くして死亡したりすれば、一人だけ、ということもあり得るが。
 神武の場合は、東征時、既に高齢で、庶長子タギシミミが、成人しているので、ソレデ、説明がつく可能性があるが。
 欠史八代の前半の大王の、后妃が一人、というのは、有力ではない、小地域の領主で、後の大王家や諸氏族の系譜に繋がらない妻妾や子女が(*)。省略(*)された可能性が大きいが、実際に、后妃の数は、少なかったのだろう、
 又、有力でもない、側室で、結果、子孫が残ら無ければ、記録化されない事もあったと思われる。


> つまり神武なる男は大王ではなかった、だから7世紀後半に新称号「天皇」を創作し、神武を粉飾したわけです。


 西日本の、かなりの広域を、「支配」する存在を、「大王」と定義すれば、神武は、勿論、「大王」ではなく、大和の「国中」のかなりの部分を、制圧したと、「伝承」される存在であり、九州からの移住に成功した存在に過ぎない。
 それを、記紀のイデオロギーで、大王、後の天皇家の、「始祖王」と、位置付けた(解釈した)に過ぎません。
 問題は、後の大和朝廷の「祖先」が、九州島から、東遷し、大和国内のかなりの領域を支配し、その後、近畿から、広域に進出し、列島の、支配者に収まった「家系」の、「祖先」である可能性を、認め得るか否か,という事になります。

> >  (略)
> >
> > > 前方後円墳に埋葬された最初の大王は4世紀初頭の10代崇神でしょうが、
> > > ならばそれ以前から存在する前方後円墳は何者の墓なのかを考量すべきでしょう。
> >
> >  欠史八代の後半の大王や、初期に分出した、多氏、和爾氏その他の人々も、候補足り得るでしょうね。
>
> 6代孝安以前は宮も墓も基本的に葛城であり、纏向遺跡のある磯城(しき)ではないので、
> 考えられるとすれば7代孝霊以降でしょうが、なぜ7代孝霊の墓が瀬戸内発祥の前方後円墳なのかが全く説明できない。

 畿内大和に、吉備や阿波、讃岐、或いは、東方の人々が、集まって、古墳を作ったり、何らかの祭祀をを行うような、「求心力」が、大和の小領主家か(*)、或いは、地域に、存在した、ということになるのでしょう。
 吉備(*)は、「主要参加者」ではあっても、「主導者」ではない。
 阿波や讃岐の勢力も、同じ事です。

> そして7代孝霊なら、その時代は3世紀後半なので、2世紀末から始まる纏向古墳群を説明できない。

 どうしても説明できないのであれば、応神の活動年代推定AD400年前後からの、世代間隔平均年数を、20年ではなく、25年にす(*)れば、神武東征時期が、AD107年ではなく、AD57年の前後になるが、修正案足り得る。
 まあ、纏向の年代が、もう少し、後にずれても、良いが。

> 多氏、和爾氏も然り。

 上記、世代間隔を、25年に延ばして、再設定する案と、あと一つ、倍暦を考慮して、各天皇の、在位年代を、推定する方法もある。
 継体即位から、逆算を試みて、複雑になり、止めたことがあるが。

> だいたい神武の墓は畝傍山の丸山でほぼ決まりであろうし、それは前方後円墳ではないわけで、
> その神武の末裔が前方後円墳に埋葬されるとは考えられない。
> 10代崇神の場合は、その生まれ育った地域の母方の墓制を踏襲したのでしょう。


 纏向には、吉備や阿波、讃岐、河内、東海などの、人々の流入が、想定される。
 墓制も、吉備が強い影響力を示してはいるが、各地の要素が、混じっている。
 基本的に、墓制は、大和で造成されたと、考えたほうが良い。
 各地の、ヒトとモノを、「集める」求心力こそ(*)が、議論されるべき。

> すなわち「纏向地域、2世紀末、瀬戸内、崇神の母方」この4つのキーワードを説明できる血族・リネージは物部しかいません。


 プレ物部氏が、吉備や阿波、讃岐などから、「畿内大和」に集まって、「物部氏」になった、という話になるのですか?
 一体、どこで、物部氏の祖先集団たる「リネージ」が、形成された、というのですか?
 大和で、形成された、というのなら、吉備や東瀬戸内との関係は、後付けで、後代に形成されたことになる。
 大和に入る前であれば、物部氏の祖先リネージは、「2世紀の前に」、既に、広域に分布していた、西日本の「支配的氏族」(父系、母系、双系云々は、別問題として)であったということになる。
 所詮、考古学は、「モノ」の動きを説明し得ても、「ヒト」の動きは、文献か、人類学を、援用しないと、解釈できない。

> >
> >  後半部分は、次回にレスします。
> >

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