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  • [0]
  • さきたま「稲荷山鉄剣銘」の謎を解く

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年 5月25日(火)16時02分32秒
  • 103-226-44-34.ty4.wi-gate.net
 
はじめに
 銘文解読の進展を概観すると、稲荷山古墳の考古学所見から「辛亥年」は、471年であり、「ワカタケル」は雄略で「倭の五王」武とされた。「治天下」に関して、雄略は、倭の東国~九州、半島南部を範囲とする「天下」の形成を意識していたとする。又、「杖刀人」は、武官であり、ヒコ、スクネ、ワケ、及び、臣、首は尊称、あるいは称号であり、氏姓制度の姓でないとする。115文字は殆ど解読対象に取るり上げられ残るは、系譜中のタカリ、テオカリ、タカハシ、タサキ、ハテヒ、カサハヨ21文字と考える。本稿は、未だ解明されていない、「ヲワケの臣」出自の試案である。

目次
序章
1 雄略の「治天下」
 (既に投稿済み、再掲載)
2 邪馬台国の暗黙知
 (同上)
3 神功紀49年条の半島派兵を
 考える

本章
1 「ヲワケの臣」出自研究の現状
2 大彦命を祖とする氏族
3 雄略の「治天下」の実態
4 さきたま古墳群を概観する
5 「東国六腹の朝臣」
6 「ヲワケの臣」出自の試案
7 武蔵国造を考える
まとめ

以上、順次、投稿します。

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

投稿者
題名
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sage

  • [115]
  • 保管用 チェック

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月25日(月)22時42分52秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
2022-04-25

  • [114]
  • 和歌山の隅田八幡神社の中の神宝 

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 4月14日(木)12時47分25秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
白石南花説
【 そもそも武寧王陵の副葬品と隅田八幡人物画像鏡の、工芸品としてのレベルの違いを見て、武寧王が自分の生まれた国の王に、自分の名を鋳込んだあのような粗品を送ると本当に思うのか、まったく疑問です。 】

こういう視点 待ち望んでいました。

  • [113]
  • 保管用 チェック

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月 2日(土)13時14分44秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
2022-04-02


  • [112]
  • 白石南花氏の雄略論

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 3月 9日(水)10時28分39秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
【 雄略紀においては、百済漢城落城について百済記の引用文が、文中の蓋鹵王乙卯年冬の干支にもかかわらず、一年ずれた雄略二十年476年の条にあることは、別途考察の必要があるでしょうが、百済三書を引いて書かれている、武寧王誕生の記事については、文中に引かれた辛丑年にあっています。 また、百済三書を引いてはいませんが、東城王即位についても、三国史記の記録とあっています。 日本書紀のいわゆる紀年は、β群においては神功紀の年次が、百済記の干支を二運120年、ところによっては三運180年、遡らせている話は有名ですが、α群においてはそのような事は行われていないようです 】

7世紀初頭 アルファ群文官の動向 とても為になりました。

倭の五王 の考察において 定点は 先学がのべるとうり、雄略が鍵を握っている。

  • [111]
  • 白石説 倭の五王と キビの巨大墳 

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 3月 2日(水)16時49分29秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
白石南花さんの投稿  2022.03.02
【 その当時の倭国の情勢を考えて、おそらく畿内に次ぐ勢力として、規模で第四位の造山古墳のある吉備勢力が有力と思います。
中期古墳時代は、日向、吉備、河内、葛城、毛野に大古墳ができる時代であり、その重心は大和を離れ、瀬戸内にあると考えています。
瀬戸内政権の時代であるがゆえに、畿内の勢力も河内に王墓を作り、難波の宮や大隅の宮のような、大阪湾岸に宮が出来たのでしょう。
瀬戸内政権の象徴が、大阪湾に威容を誇る、百舌鳥古墳群の大古墳であり、仁徳や大隅の宮の応神の伝承であると思われます。

吉備と大和の関係は、単純な対立関係ではなく、そもそも同じ王族でありながら、異なる地域首長グループの支持を受けた人々であったと思います。
吉備の王族の伝承は、允恭と葛城玉田宿祢の娘の子であるとする磐城皇子の記録が、唯一残されていますが、おそらく日本書紀に見るよりも大きな存在で、一度は最高位の祭祀王にもなっていると思います。 】

白石説のキビ・カワチ・ヒュウガ・関東毛野という、「奈良を除した」 瀬戸内政権説。
とても新鮮に思いました。
 葛城の巨大墳 のみ どの古墳なのでしょうか?

  • [110]
  • 石見介さん ご投稿の転載  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 2月 1日(火)15時20分19秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 ヲワケノ臣様へ
 稲荷山関連が記載されています
石見介様文面
【 中国史書で、扶余系とされる「濊」族で、河野六郎の「濊倭同系説」があり、その評価が、私には、未だ出来ない。
 河野論文を読んでいなかった事もあるが、半島北部の旧高句麗領⇒新羅地域に、日琉語族系言語の地名を遺した集団が、上代日本語の東国方言に近い言語集団であり、これを、濊族と捉え、東国への旧高句麗系移民でもあり、且つ、不耐濊の様に、早くから、漢族化、少なくとも、漢字文化を受容して、日本の漢字使用にも影響を与えたと言う、言語学分野からの解釈が出されている。
 未だ、その論旨を、私も充分に理解できていないので、判断しかねているが、稲荷山鉄剣銘が、そのような濊系文化人の手になるのかも、問題の一つ。 】

オリエント部会様も 関東の特殊性 言及されているが、 関東が早く 文字文化になじむ点  それは特殊な出来事と認識できる。

  • [109]
  • ASAOSA説は 倭の五王と日本側文献を無理に王名比定すべきではない

  • 投稿者:いつかコウヘイ。  
  • 投稿日:2022年 1月 1日(土)23時55分54秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 ヲワケノ臣様
1.01 談話室 白石南花説では 倭のオオキミ数名は中国文献内に存在・事象を確認できる、という説の御呈示、
一方 昨年はASAOSA様が 倭文献と中国文献は各々で考えるぺき。
倭の五王と日本文献はかみ合っていない。

トミー様も近々 この時代に投稿されるようですが、ヲワケノ臣様は どうお考えですか?

稲荷山古墳の第二主体部?もしくは第三主体部?からの鉄剣、銘文に出てくる王の名?

  • [108]
  • 邪馬台国の暗黙知 まとめ

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月26日(火)10時06分8秒
  • sp49-96-235-85.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 後代の中国史官は、『魏志倭人伝』の中に、邪馬台国の血筋の根源や日数記事に関する暗黙知を観ていたように思う。本投稿は、この暗黙知を取り上げることによって、行き詰まった邪馬台国研究を打開しょうとしたものである。

 邪馬台国に関する本投稿を起承転結の流れで示す。先ず、起は、北部九州の邪馬台国が、初期大和王権を支配していたとする支配・被支配関係の新類型の仮説としての導入である。
 次に、承転は、邪馬台国の始まり~終わり、大和王権成立の記述であり、新類型"出現"の必然性と新類型で矛盾が生じないことの論拠を示した部分である。
 最後に、結は、新類型が仮説でなく、やはり、北部九州の邪馬台国が、初期大和王権を支配していたと結論づけた部分である。
 その上で、日数記事を解釈した。又、丸邇氏は、邪馬台国を出自とし、応神以下の「倭の五王」の王権は、丸邇氏の血筋を引いているとした。
 新類型が成立する限り、邪馬台国は、北部九州にあり、丸邇氏は、北部九州、邪馬台国の出自であると考える。以上が起承転結の流れとなる。

 本投稿の意義は、理論上、考えられる新類型を導出し、謎解明の一つの試論を提示できたところにあると思う。結果として、里数記事から北部九州説、広がりから畿内説、対呉関係から位置不定説をとった形となり、これらの説を融合したものになった。


 本投稿の骨子は、2020年5月、他の同人誌に発表した論文です。その後、「東アジアの古代文化を考える会」のHPによる意見交換を通して論を深め、今回の投稿に至りました。本文が、謎解きの一つの試みになれば嬉しい限りです。
            2021年10月26日 了

  • [107]
  • 歴史学の氏族研究法

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月26日(火)09時53分54秒
  • sp49-96-235-85.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 歴史学は、文献サイドと考古サイドの双方からアプローチして、古代氏族の研究を深めて来たと思う。氏姓の研究から、臣姓の氏族は、地名を氏の名とし、又、連姓の氏族は、名負いの氏と呼称され職名を氏の名にしたとされる。

 ところで、臣姓の例として、葛城氏や丸邇氏が良く上げられる。臣姓の氏族に対しては、古地名の考証から本拠地を比定し、古墳群の消長や系列の考古学所見により補完して、多くの成果をあげて来たと思う。

 こうして、葛城氏の奥津城は、現在の葛城地方にある新山古墳等に比定され、丸邇氏の奥津城は、東大寺山古墳群のある地域に比定されて来たように思う。
 尚 丸邇氏のワニは、『古事記』の上代特殊仮名遣いによる表記であり、丸のワは、和のワとも表記される。従って、地名の考証にあたって、丸と和を特に区別して扱う必要は無いと考える。

 文献サイドと考古サイドの長きに渡る積み重ねが、収斂されて、今日のこれら氏族の本拠地比定になったと考える。研究史を尊びたい。

  • [106]
  • レニングラードはサント・ペテルブルグ

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月25日(月)12時47分57秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
  ヲワケノ臣様
東大寺山古墳の立地位置、その地が丸邇氏の奥津域、文献的証拠は?
4世紀末と比定されている古墳の時代 該当する文献がありません。
また 和邇=丸邇、この点も ヲワケノ臣様から証明・証拠提示が必要。

この点を無視して 話の展開など不可能。

【そうはみない】ではなく、私の見解は 判らないです。
【宝器として丸邇氏内で伝世した】、この伝世への証明・証拠提示を求めています。
言い方を変えれば 勝手に創作しないで欲しいだけです。
想定への 裏付けを求めています。

奈良盆地東南麓の古墳 不定形前方型低墳丘墓ホノケと定型化前方後円墳・箸墓との多少のタイムラグ。そして4末の北寄りの東大寺山古墳。この中間の時期に 奈良盆地東南麓では一時的に古墳造営が途絶えたと私は見ています。

レニングラードからサント・ペテルブルグ都市名変更 と同様の政変もしくは強烈な自然災害/戦争被害の中で 部族・準支配者層の連続性を証明できるのか疑問。
連続性からは ワニはワニ、氏族名の変更 とても変。

 判らないところは そのままで思考し、わかる点があるのであれば その点を明示しないと歴史を創作してしまいます。

 

  • [105]
  • 邪馬台国出自、丸邇氏を巡って

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月25日(月)11時01分12秒
  • sp49-96-232-142.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 いつかコウヘイさま

 「中平刀」と丸邇氏に関しては、以前、意見交換しましたが、いくつか相違点があったかと記憶しています。東大寺山古墳群を丸邇氏の奥津城とみる私見と、そうはみない、貴見解、又、「中平刀」が宝器として丸邇氏内で伝世したとみる私見と、そうはみない貴見解だったと思います。このあたり、今回、繰り返しの交換になることだけは、避けたいと思います。

  • [104]
  • 邪馬台国出自、丸邇氏(再確認)

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月25日(月)10時58分23秒
  • sp49-96-232-142.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 2世紀末の年号を刻む「中平刀」は、卑弥呼が外交で手に入れたものとされる。丸邇氏とその奥津城とされる東大寺山古墳から出土した「中平刀」を調べるなかで、この刀は、卑弥呼、又は台与が丸邇氏に下賜したものとの考えに至った。

 次に、この下賜の時期は、邪馬台国が大和纒向の某国へ「大倭」を設置し、大官を派遣した時と考えた。纒向への「大倭」設置時期は、北部九州からの鉄生産技術供与と鉄素材供給体制の整備が為されたとされる、古墳時代開始期と考える。

 ところで、古墳時代開始期に近接して、在位した大王は、崇神である。従って、崇神と卑弥呼、又は台与は、大和纒向への「大倭」設置を介して係わりを持ったことになる。

 先にスレッドNo.48で触れたように、建波邇安王の反逆は、崇神が邪馬台国と同盟し、統治機関「大倭」の設置を受入れたことに端を発した争乱であり、史実の核があると考えた。
 まさにその渦中に丸邇氏の日子国夫玖命が征討の実行者として存在していたわけであり、邪馬台国から派遣された大官を日子国夫玖命と考えることは、自然な流れであった。

 以上、丸邇氏が、北部九州の邪馬台国を出自とする理由を再確認した。北部九州の邪馬台国が、初期大和王権を支配していたとする、新類型が成立する限り、丸邇氏の出自は、北部九州の邪馬台国であると考えられる。そして、新類型は、邪馬台国の興亡~大和王権成立の過程からみて、矛盾なく成立すると考える。


  • [103]
  • 起承転結

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月24日(日)17時15分51秒
  • sp49-96-232-142.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 いつかコウヘイさま
ニ、三回答します。

 投稿は、いつも起承転結を意識しています。スレッドNo.37も同じで、起で最強の富国強兵力を有していたのは、大和王権と考えられるとし、承転で「百済記」、「七支刀銘文」、「広開土王碑文」を引用し、倭王旨は『古事記』の記す応神にあたることを確かめ、結でこの時期、最強の富国強兵力を有していたのは、やはり応神以下の大和王権だったと結論づけた。
 起は、未だ論拠を示していないので、断定はできないが、結は、論拠を示したため、断定したまでです。

 『古事記』の真贋に関して、長い研究史があることは、承知しています。ただ、一古代史ファンとしては、この決着を待つわけにもいかず、他の文献や金石文、考古学所見と突合わせ、摺合わせて、活用して行くスタンスです。

 宝賀、塚本?(塚口では)信仰云々に関しては、あたっていません。宝賀著作文献は、氏族の研究史を通覧できるため重宝しています。ただ、上毛野氏や阿倍氏に関しては、私見と異なる点が多々ありました。

 丸邇氏や「中平刀」に関しても、同じで、見解が異なる点がいくつかありました。この問題は、和田萃、吉田晶、川口勝康、金関悠、宝賀寿男等の文献から知見を得て考えたものです。

 次に、「ワニ氏はどこが出自?、ヤマタイコクはどこに有った?   この二つが判明していないのでは?」の問いに関しては、本文の「邪馬台国の暗黙知」の骨子形成に係わるため、本文のまとめとして次回、投稿します。


  • [102]
  • スレッド37も 【考える】が 途中から 断定に  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月22日(金)19時45分43秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
 ヲワケノ臣様
投稿の内容・文章で 宝賀氏の著述が見え隠れします。

【 邪馬台国を出自とする丸邇氏の系譜 】 魏志倭人伝に丸邇氏は出てくるのでしょうか


 ヲワケノ臣様が 記された以上は ヲワケノ臣様からの証明をお願いします。

せっかく ご自分で思索しながら 他人の思考で汚れているように見えます。
参考すべき 資料への優先順位が間違いで、 14世紀頃出現の古事記や20世紀出現の宝賀説などの怪しい・史料批判を必要とする文献で 思考されているように 私は見えてしまいます。

10.23追記

ワニ氏はどこが出自 ?
ヤマタイコクはどこに有った?   この二つが判明していないのでは?

ヒレ付き埴輪の分布域とその移動など ワニ氏のマークを探されて 解明しようとする
そうした思考/志向はできないのでしょうか?
その前にヒレ付き埴輪とワニ氏の関係の有無 各自の考察が必要ですが。

宝賀説や塚口説 信仰では困ります。どちらも史料批判の対象です。  追記閉じる。 

  • [101]
  • 金石文と情報量

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月22日(金)09時12分33秒
  • sp49-98-225-216.msd.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 いつかコウヘイさま
二、三回答します。
①断定調
 スレッドNO.99 【卑弥呼、あるいは、台与は、丸邇氏を「大倭」に任命し、「節刀」として「中平刀」を与え大和の纒向に派遣した(スレッドNo.48参照)。 】  勝手に 考えたいが。 断定へ変化しています。

→その通りですね。「・・・派遣したと考えたいと記している。」が適っています。判りづらいと思い、断定調になりました。

②金石文と情報量
 一古代史ファンが、伝世の問題に取り組めるか、どうかは、金石文の情報量によると考えます。さきたま「稲荷山鉄剣銘」文は、115文字と情報量が多い。更に、「江田船山鉄刀銘」文の75文字を加えると、相当な量となる。しかし、鏡の銘文は、例えば、和泉黄金塚の紀年鏡は、欠字を除くと僅か14文字の情報量であり、一古代史ファンとしては、とっつき難い感じがする。この場合、通常は、考古学等の専門家の見解に頼らざるを得ないと思う。

 「中平刀」銘文は、24文字と少ないものの、市場流通品でない限り、刻まれた年号からみて、卑弥呼が外交で手に入れたと考えられ、『魏志倭人伝』の活用の余地があり、一古代史ファンとしても、比較的とっつき易く思います。

③倭王讃の比定
 今回、倭王讃=仁徳として、論を展開しました。勿論、讃は、履中だ、いや、応神だと異論があることは、承知しています。はたまた、讃が属する「倭の五王」の王系譜は、大和王権でないとする説もあるが、この説に関しては、本スレッドの冊封の要件と審査で、斥けています。スレッドNo.37を参照ください。

 私見は、本年の3月に旧討論室で触れた通りです。即ち、本居宣長の見解、『古事記』の崩年干支は、古い記録によるもので信憑性があるに従い、『宋書』の遣使記事と突合せ、讃=仁徳に比定するものです。機会があれば、別途、討論室「倭の五王の系譜と日本書紀の王統譜」に再投稿したいと思います。

  • [100]
  • もったいない思策部分 

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月21日(木)13時46分38秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 ヲワケノ臣様

スレッドNO.48【従来、畿内地域、東国への中継交易を担っていた、木津川~淀川系の勢力が、その権益を死守しょうとして、邪馬台国と同盟した祟神と衝突した。卑弥呼か台与は、丸邇氏を「大倭」に任命し、「節刀」として「中平刀」を与え、大和の纏向に派遣したと考えたい。

スレッドNO.99 【卑弥呼、あるいは、台与は、丸邇氏を「大倭」に任命し、「節刀」として「中平刀」を与え大和の纒向に派遣した(スレッドNo.48参) 】  勝手に 考えたいが。 断定へ変化しています。

とうぜん 倭王讃と 記紀に記載された王名と部下の氏族名、讃と分離して記載すべきなのでは?

節刀?と中平刀 勝手に同じ物にしている。伝世鏡は専門家の決着を待つ、埼玉の鉄剣も 専門家の考察に依存するのでは、スレッドを立てた意味 ?

参考になる部分が多く  もったいない思索 そのように思います

  • [99]
  • 倭王讃が承継した王統の正当性

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月20日(水)17時30分21秒
  • dw49-106-188-190.m-zone.jp
  • 返信
 
 記紀は、祟神期、丸邇氏の遠祖日子国夫玖命が、反逆者の建波邇安王の征討を、又、応神期、丸邇臣の祖である建振熊命が、反逆者の応神の異母兄、香坂王、忍熊王の征討を特記する。これら二つの乱は、先に、スレッドNo.48.68でみたように史実である。このように、丸邇氏の系譜は、3世紀中葉、又は、4世紀初葉の祟神期に、又、4世紀後半の応神期にその存在が確認できる。次に、丸邇氏の在りようを観てみたい。

 丸邇氏族の特性は、外交に通じ、漢文に精通したところにあり、持統5年に上進された丸邇氏族、大春日君の墓記(家記)は、代々、書き継がれたもので、他の氏族以上に、信憑性があると考える。因みに、応神の太子、宇遅能和紀郎子は、丸邇氏の宮主矢河枝比売との間に生まれた御子で、『日本書紀』は、非常な秀才で漢文が良くできたと記す。又、遣隋使、小野妹子は、丸邇氏族であり、この氏族は、代々、遣隋使、遣唐使に係わった。

 ところで、丸邇氏族は、息長氏と共に皇紀を多数輩出した皇親氏族で、大王家と極めて近い氏族とされる。仁徳は、丸邇氏の血を引く宇遅能和紀郎子の妹を妃とし、反正は、丸邇氏の子女を后とし、王権は、代々、丸邇氏との繋がりを重視した。この背景に丸邇氏が、北部九州の邪馬台国を出自とする、貴種性にあったと考える。先に、述べたように、卑弥呼、あるいは、台与は、丸邇氏を「大倭」に任命し、「節刀」として「中平刀」を与え大和の纒向に派遣した(スレッドNo.48参照)。

 以上、邪馬台国を出自とする丸邇氏の系譜は、3世紀中葉、又は、4世紀初葉の祟神期~4世紀後半の応神期、更に五世紀前半の反正期まで、その存在が確認でき、丸邇氏の貴種性は、外交権の承継、転移の過程に大きく関与したと考える。スレッドNo.37の冊封の要件と審査で触れたように、この時代の公式外交は、倭国王の地位継承権、血筋が関係すると考える。

 因みに、107年に伊都国の王と思われる帥升が、漢から倭国王に認証されている。その後、地位継承権、血筋は、北部九州の邪馬台国の卑弥呼へ承継され、更に、丸邇氏の血筋を介して、五世紀「倭の五王」讃である仁徳に転移したと考えられる。

 倭王讃が、承継した王統の正当性の根源、邪馬台国の血筋に関して考えてきた。結果、本スレッドNo.2邪馬台国の暗黙知で触れた、第①点は、成立することが解った。


  • [98]
  • 日数記事の解釈 つづき

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月16日(土)17時18分49秒
  • sp49-97-24-113.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 先に、「今使訳通じる所30国なり。
」の「今」を考察して、太康年間の今であることを確かめた(スレッドNo.55参照)。約120年間の邪馬台国の成長過程を考えると「旁国」21国の一部は、太康年間に近接して邪馬台国に加わった可能性が高い。このことから、列記された「旁国」21国の記事と同じく、日数記事は、太康年間のものであり、この道程の情報源は、3世紀末の西晋遣使の伝聞であったと考える。

 新類型の自説は、畿内説と同様に、日数記事を大和へ至る道程とみる。「旁国」は、この道程周辺の国々であると考える。この伝聞は、主に大和の「大倭」に係わるものであり、大和纒向の地にある「某国」の「大倭」に至る道程(日数記事)、及び、その戸数7万戸余であり、付帯情報は遠絶な「旁国」21国の国名情報である。

 陳寿は、大和纒向の地にある「某国」の「大倭」に関する一連の伝聞記事を邪馬台国の道程に転用し、邪馬台国に至る「万二千余里」の道里に併記したと考えられる。日数記事の「水行一ヶ月、陸行一ヶ月」は、大和纒向の地にある「某国」の「大倭」に至る道程に基づいて記されたもので、起点としては、伊都国や不弥国も考えられるが、西晋遣使は、郡を基準として倭人の伝聞を捉えたと思われる。以上、日数による道程の情報源は、3世紀末の西晋遣使の伝聞であった。

 第三に、必要に応じて情報源、出処を形作る、又は、係わりを持つ史実を実証することに関しては、倭国乱と邪馬台国の始まり~邪馬台国の発展~邪馬台国の終わりで示した、邪馬台国の興亡の通りである。

 陳寿は、『魏志倭人伝』に二つの道程を記した。陳寿は、意図的に『魏志倭人伝』の世界で邪馬台国の在り様である「出自」に係わる道程「水行一ヶ月、陸行一ヶ月」と邪馬台国への「物理的」道程「万二千余里」を両立したと考える。このことが、今日の「邪馬台国の謎」の原因である。
 以上、本スレッドNo.2邪馬台国の暗黙知で触れた第③点は、成立することが解かる。
 

  • [97]
  • 日数記事の解釈

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月16日(土)17時07分36秒
  • sp49-97-24-113.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 中結を踏まえ、日数記事の解釈を試みたい。日数記事の解釈にあたっては、以下の点を明らかにすべきと考える。
第一、何故、日数による道程が記されたのか、その理由を明らかにすること。
第ニ、日数による道程の情報源、出処が何か明らかにすること。
第三、必要に応じて情報源、出処を形作る、又は、係わりを持つ史実を実証すること。
この手順に沿って、順次、この新説による日数記事の解釈を記す。

 第一に、何故、日数による道程が記されたのか、その理由を明らかにしたい。『魏志倭人伝』は、邪馬台国の出自を越の始祖とされる「夏后の小康の子」と記す。陳寿は、魏、西晋の友好国である邪馬台国の出自を、魏、西晋と敵対した呉の背後にある南方の越の国とみなした。その上で陳寿は、「其の道里を計るに当に会稽の東冶の東に在るべし」と記し、会稽東冶の東にあるべきとする邪馬台国の位置を南、「水行一ヶ月、陸行一ヶ月」によって示した。

 第ニに、この伝聞情報である日数による道程の情報源、出処が、何であったか明らかにしたい。「水行一ヶ月、陸行一ヶ月」の日数記事は、単に区切り良い数値だからという理由で設定されたと思わない。やはり何らかの伝聞情報があって、記されたと考えるべきである。

 ところで、日数記事と「旁国」の関係性であるが、対とみるか、独立とみるか、いずれかが考えられる。「旁国」の記事が、邪馬台国に係わる文の直後に配置されていることから、日数記事と「旁国」は一連の記述と考える。

  • [96]
  • 考察に係る人はすべて コウヘイです。 

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月16日(土)17時03分27秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
ヲワケノ臣様
考察に係る人は 学者も市井の人も同格です。学者が述べる学説の可否を検証できるまで思考できないと いつまでも受け身。
 鏡の伝世 あなたも考察すべき該当者です。

  • [95]
  • "エビデンス"の語義

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月16日(土)16時54分18秒
  • sp49-97-24-113.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 いつかコウヘイさま

 因みに、"エビデンス"の語義は、証拠、論拠の意とされます。今回、論議の中で鏡に対するスタンスの違いがあると感じました。鏡の伝世は、早く、考古学会で結論を出して欲しいと思う立場です。

 このため、鏡の流入、製作時期と古墳への副葬時期を分離し考えています。鏡の真贋に関しては、鏡式や型式等から見極められた、専門家の有力説に従っているつもりです。このままでは、いつまでも平行線と考えます。

  • [94]
  • 安倍内閣の常套句 エビデンス 堂々と事実が確認できる・実証できると記してください  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月16日(土)13時48分47秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 ヲワケノ臣様
事実確認 安満宮山は定型化前期古墳ですか?
          中国の呉 この時期の物がどのようにして 倭国へ伝わって、どのように保管されていたのか 証明希望
     黒塚・定型化前期古墳とホケノ・不定形墳墓 同じ入れ物ですか?
     時期も違います

申し訳ないのですが、歴史好きに多くいる銅鏡は本物信者のように思えます。
古い古墳から出土した鏡 被葬者の都合で年号を偽装した偽鏡が混じっている という視点が欠如しています。

ただ 津・市 を探されている執念は とても参考になります。

安倍 菅 森友学園は エビデンスが確認できないので 調査しない。と同類項。








  • [93]
  • "エビデンス"

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月16日(土)07時18分14秒
  • sp49-97-24-113.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 いつかコウヘイさま

 管理交易官「大倭」の管理対象である重要物資に絞って大陸、半島系の流入物を追っています。重要物資は、鉄、及び、威信材と考え、威信材として鏡を取り上げました。
 例え、4世紀の古墳と考えられるとしても、例えば椿井大塚山の呉鏡とされる画文帯神獣鏡1面は、この被葬者が3世紀の時点で、手に入れたものと考えられ、その限りでは"エビデンス"になると思います。
 同様に、黒塚の1面は、ホケノ山のものと同型式の同向式画文帯神獣鏡であり、これも"エビデンス"になると考える。

尚、「博多湾貿易」の交易地と考えられる遺跡も"エビデンス"になると考え、良く例示される中河内の中田遺跡、摂津の安満宮山遺跡をあげます。これらは、「津」であり、「市」の機能をもつ遺跡です。因みに、3世紀後半の築造とされる淀川沿岸の安満宮山古墳からは、魏の年号青龍を持つ紀年鏡や鉄刀、鉄斧が出土しています。
 私見は、先の木津川沿岸の椿井大塚山古墳周辺も「博多湾貿易」の交易地と考えます。大和の纒向遺跡に関しては、布留0年代が240~260年の場合、3世紀の交易地、鉄生産地の”エビデンス"になりますが、布留0年代が290~340年の場合、ギリギリ3世紀の"エビデンス"になるか、どうかというポジションですか。

 "エビデンス"に関しては、論議が尽くされたと思います。

  • [92]
  • 問い合わせは奈良盆地/畿内の3世紀の遺物  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月15日(金)11時39分15秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
 ヲワケノ臣様
【 因みに、画文帯神獣鏡が出土する、畿内の代表的な前期古墳は、ホケノ山、天神山、桜井茶臼山、黒塚、新山、椿井大塚山、和泉黄金塚、西求女塚があげられる。】
 古い年号記載の鏡のすべてが 本物と誤解されているように思えます。
また 土器編年と埴輪編年の限界から ご提示の古墳 正確な年代が確定できていない。
すべてが4世紀と見る研究者もいる。除くホケノ。


単純に 奈良盆地の3世紀の遺跡からの遺物提示をお願いしています。
北部九州は 半島の遺物との並行関係で、3世紀と想定できる遺物が出土。
問い合わせは奈良と畿内。

  • [91]
  • 問題の整理

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月15日(金)10時09分38秒
  • sp49-97-24-113.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 いつかコウヘイさま

 問題を整理したいと思います。
 今回の試案は、元々、『魏志倭人伝』の「大倭」の記事を手掛かりにして、色々補完したもので、逐一、文献で述べているわけではありません。あくまでも、一つの試案です。

 補完は、先ず、邪馬台国が置かれた環境(倭国乱や食糧不足)から卑弥呼が進めた改革(乱再発の抑止力や「博多湾貿易」創始)を導いています。
 次に、前期「博多湾貿易」が、3世紀中頃に興され、列島西半部に渡る交易が為されたとされることから、畿内の交易地への「大倭」設置の時期は、3世紀中頃以後とみます。

 ここで、布留0年代との関係をスタディし、年代が240~260年の場合、考古学所見等から大和纒向に「市」の機能が確認でき、古墳時代開始期に北部九州の邪馬台国から鉄生産の技術供与や鉄供給の働きかけがあることから、3世紀中頃、纒向に「大倭」が設置されたとみます。
 年代が290~340年の場合、先ず、木津川~淀川系の地に「大倭」が設置され、その後、290~340年代の前半に纒向に移動したとみます。以上が「大倭」に関する論旨です。

 ところで、今回、考古学の所見が必要とされた経緯は、次のような理由にあったと理解しています。即ち、3世紀中頃、邪馬台国が創始した、前期「博多湾貿易」によって畿内にもたらされた、大陸、半島系の重要な流入物が、確認できるのかという点である。

 そこで、前期古墳から出土した画文帯神獣鏡、及び、和泉黄金塚の紀年鏡を例示した。又、弥生時代の鉄の県別出土分布を取り上げ、大阪、京都、兵庫から相当量でていることを示した。これらの例示によって、上記の点に関し確認がとれたと考えます。
 尚、上記の画文帯神獣鏡が出土した古墳名の例示は、スレッドNo.58を参照ください。

  • [90]
  • 大倭は使わされている(ヒミコ期) いつ固定地へ設置されたかは文献資料が無い  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月14日(木)15時21分33秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
ヲワケノ臣様
【布留0年代以前は、3世紀全体となり、大和や他の畿内の地に鉄等、大陸、半島系のものが相当量流入しているとされています 】
 具体的に どこの遺跡を指すのか その遺跡からどのような物が出たのか ご教示 お願いします。

  • [89]
  • 「大倭」の設置

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月14日(木)11時48分18秒
  • sp49-97-21-19.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 いつかコウヘイさま

 スレッドNo.80を確認ください。「大倭」の設置場所は、布留0年代が240~260年の場合、大和纒向であり、纒向に「市」の機能が確認でき、又、鉄の生産遺跡がある。
 布留0年代が290~340年の場合、「大倭」の設置場所は、始めに木津川~淀川系の地、その後、布留0年代290~340年の前半に大和纒向に移動させたと考えています。この場合、布留0年代以前は、3世紀全体となり、大和や他の畿内の地に鉄等、大陸、半島系のものが相当量流入しているとされています。
 ところで、この場合、何故、始めに木津川~淀川系の地に「大倭」を設置しなければならなかったのかだが、邪馬台国は、一刻も早く食糧不足を解消したかったことによる。詳細は、スレッドNo.47、48、49を参照ください。

 尚、鏡の伝世論は、早く、考古学界で決論を出して欲しいと思います。

  • [88]
  • 発掘当事者・森浩一先生は鏡を古く見ていない

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月14日(木)09時50分29秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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 ヲワケノ臣様
 伝世鏡という屁理屈を用いないと、シナ学派のそれまでの権威が失墜。数多くの古鏡研究家が職業確保の為、シナ学派へすり寄っています。
 私は和泉黄金塚を発掘していないシナ学派の考古学者?より、発掘当事者の森浩一先生の方が情報が正確だと見ています。

個人的体験を述べておきます。
高校生3年間 偶然にも地理・歴史系の部活動のメンバーとなり、運よく、前期古墳の発掘にも参加できました。
 忘れもしれないのですが関西から高名な考古学者が来て、鋳あがりの良い三角縁神獣鏡に対して、盛んに舶載鏡と大声で感動していました。
 私はその発言を聴きながら、木製棺が朽ちていても 主体部の胸元にある 不思議な画像の鏡がこの被葬者にとって大切な鏡。
一方、三角縁鏡は 石槨内でも木製棺の外、どちらが大切な鏡か 素人でも判りました。
 果たして このオッサン 舶載を説明できたのでしようか?

私は 少しおこがましいけれど 森浩一先生と同様に この画文帯鏡は 記された年号に関しては 偽鏡。 このように想定しています。

たとえ本当の年号で制作されたとしても 古墳は4末。
 卑弥呼以前から 奈良盆地には たくさんの輸入文物が集められた、という ヲワケノ臣説は限りなくフェイク。 なぜなら証明できない。

奈良盆地を発掘している埋文担当者へ ヲワケノ臣説の可否 問い合わせされると よろしいのでは?

  • [87]
  • 「博多」の鉄、和泉黄金塚の紀年鏡を巡って

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月14日(木)07時34分44秒
  • sp49-97-21-19.msc.spmode.ne.jp
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 いつかコウヘイさま

 西新町を交易拠点とする後期「博多湾貿易」は、柳田の土器編年では、4世紀第4四半期に衰退するとされ、久住の土器編年では、4世紀中頃に衰退するとされています。この編年差が、「博多遺跡」の鉄の供給先を見かけ上、宙に浮くようにさせている。このように思います。

 和泉黄金塚の景初3年紀年鏡に関しては、スレッドNo.79で記した通り、239年製作と考えざるを得ません。
 一方、和泉黄金塚古墳は、古墳時代前期末とされることから、400年頃に築造されたことになろうかと。とすると製作から副葬まで約150年の期間を要したことになる。
 この期間は、あまりにも長いとする意見もあろうが、鏡製作時期も239年の事実であり、古墳築造時期も4世紀末の事実とすれば、受入れなければいけないことのように思う。

  • [86]
  • 私の誤読? そして ヲワケノ臣説の成り立たない部分

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月13日(水)23時15分39秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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  • 返信
 
 ヲワケノ臣様
古墳時代後期までは 鍛造の時代と覚えていた私の記憶間違い。
 確かに 部分的には 私の誤読のようですね。

10.14追記、
 精錬鍛冶技術は、古鉄へのリサイクルを可能にした。今までチビルまで使い倒していた鉄製品が、摩耗やサビで用途を失った鉄製品でも精錬鍛冶技術でリサイクルが可能になった。
ただリサイクル工程で 持ち込まれる鉄自体が重量を減じており、工程からの歩留まり減も否めず、他国からなどの鉄の輸入原料が増えない限り、リサイクルのみではジリ貧になる。 すなわち使い捨て期よりは 量が確保できるという意味であり、鉄の原料輸入は 各部族国家の外交関係で変位する。 追記 閉じる。

この本を紹介して頂き 古墳時代に入ってから P125 古鉄の再生、精錬鍛冶は目からウロコでした。 本の紹介 ありがとうございます。

ただ 博多遺跡の精錬鉄はどこへ 販売されたのでしょうか?

 西新遺跡は四世紀中葉に衰退し、福岡・博多遺跡製の精錬鉄の四世紀中葉以降の鉄製品への供給先とは言えないので、【私見は、このことから、各地域の首長、族長は、西新町に鉄素材、鉄器を求めたと考える。結集、鉄の需給が、大幅に緩和されたことが判る。】というヲワケノ臣説は 成り立たないところがあるのでは?
これも 古墳時代初頭をいつに見るのかで 見解が分かれそうですが、西新遺跡は約100年ほどの期間 博多遺跡の精錬鍛冶の鉄製品を受け入れたが、4世中 博多遺跡は販路を失った。


、博多遺跡自体は精錬鍛冶技術を手に入れた。 一方 旧来からの鍛造鍛冶は 今まで通り 鉄素材を半島から入手 西暦500年前後をピークとした大阪・交野の森遺跡はその代表例。
5世紀 中百舌鳥・古市古墳群と矛盾せず、
 博多遺跡製の精錬鉄は 関西圏除外の地域へ拡散と とらえればよろしいのでしょうか。

同じく 和泉黄金塚の作られた時期と出土の鏡の年代への矛盾も未解決。

【布留0年代以前、大陸、半島系の重要物資の遺物が、畿内地域から相当量出土していると思われる。即ち、2世紀後半~3世紀前半に編年される、画文帯神獣鏡の出土地が、大和を中心に分布し、又、景初3年(239年)の年号を持つ画文帯神獣鏡が、和泉黄金塚古墳から出土している。】 この文面 全体を書き直す必要性があるのでは?


  • [85]
  • いつかコウヘイさまが、誤読。

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月13日(水)18時18分47秒
  • sp49-97-21-19.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 弥生時代でなく、古墳時代前期の博多遺跡の精錬量を問題にしています。
 110~112ページ、125ページに、最新の技術で、安定的に、卓越した量を精錬していると記しています。確認ください。

  • [84]
  • 【精錬鉄が膨大】は誤読のようですので 再構築要すのでは?

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月13日(水)17時44分22秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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  • 返信
 
 ヲワケノ臣様
P159 、P47~P51  古代国家成立過程と鉄器生産 を読みました。
鉄器に絡めた ご説明 再構築 期待します。

また ヲワケノ臣様のお住まい近くの埋文学芸員 多分 打ち解ければ 布留ゼロ式など信じていないのでは?
その学芸員から 卑弥呼期の遺跡・遺物を見せてもらえば ヤマタイコクへ近づけるように、私は思います。


10.14追記 古鉄を集めて高温で溶かして 鉄のリサイクル 精錬鍛冶、博多遺跡
      当然 古い鉄は摩耗で量が減少 少しづつ 鉄製品の生産量は減少するので
      どこかから鉄素材(鋳鉄か砂鉄もしくは海外から古鉄を増やさないと 増産は不可能。
     博多遺跡の場合 どこから鉄の原料を入手?
          同様に精錬鍛冶のノウハウを有した他地区の場合、各自 どこから鉄原料を入手? 

  • [83]
  • 一古代史ファンと布留0年代

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月12日(火)21時46分20秒
  • sp49-97-21-19.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 行き詰まった邪馬台国研究には、考古学の知見活用が不可欠と考えます。土器編年は、C14測定等に基づき科学的に進められて来たと理解しています。ただ、邪馬台国時代は、測定値の読取りが難しい時期に当たっているようで、編年に幅があり、使い勝手が悪く感じます。
 土器編年が、定まらないからといって、一古代史ファンとしては、邪馬台国研究を休止するわけにはいかないと思います。一古代史ファンとしては、考古学が定め、提示した時間軸を前提にするのみであり、編年が早く収斂することを願うばかりです。当面は、編年を場合分けして、それぞれのケース毎に、邪馬台国の謎を探って行くしかないと考えます。

  • [82]
  • ブルックナーの交響曲0番は存在するが、布留0式は一部の考古学徒の脳内に形成されたもの  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月10日(日)22時03分18秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
 ヲワケノ臣様
布留式は 斉一性が本当に認識できるのなら弥生畿内の土器と同様に 本来 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ などと記すべき。
しかしながら、Ⅰ を提示した後、ホノケ山の墳墓とつながらない為、0式をひねり出し。
そうした 不誠実な面を持つ編年です。

ドボルザーク9番 (新世界より) のように 作曲家の作曲順にナンバリングすべき。
以前は確か 5番だったが 学者間で協議、9番へ修正された。

ブルックナーの0番的習作は数曲、 研究者や録音者の飯の種と化している。

ブルックナー0番 作曲者本人が 認定/納得していたかどうか?

編年という人為的なものを提示する側で、0番を提示するのは本来 間違い。堂々とⅠ番の前にもう一つ古い土器形式が有ると学会へ提示し、ナンバリングを改正すべきところ。

布留0式の土器を誰から見せられた時、その土器が布留0式 とはっきり認定できますか?
私は 認定する能力がありません。

布留式土器の事がよく解らない人が その人の文面で あたかも知っているように記するのは、あまり好ましい対応とは言えないようです。


f@y


  • [81]
  • 邪馬台国の暗黙知 中結

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月10日(日)16時37分44秒
  • sp49-97-21-19.msc.spmode.ne.jp
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■新類型、北部九州説、畿内説の異同
 卑弥呼共立に関して、新類型と北部九州説は、9ヵ国と意見が纏まり易い、現実的な国数だが、畿内説は、30ヵ国と多く現実的でない。
 旁国21ヵ国に関して、新類型と畿内説は、畿内周辺を含めて各国の所在地を考えられるが、北部九州説は、主に、九州島の中に押し込めて考えざるを得ない。

 又、『魏志倭人伝』は、邪馬台国15万戸を記し、韓地15万戸・方4000里と同じ広い国土を示す。旁国21ヵ国と15万の戸数は、明らかに、広域に渡る地域間交通の盛んな3世紀社会の実像を写実している。
 新類型と畿内説は、この3世紀社会の東西に広がりのある実像に合致するが、北部九州説の場合、九州島を中心とした狭い範囲で捉えなければならず、実社会との乖離が生じる。

 広域性に関しては、新類型と畿内説は、同じ立場に立つが、その中心地の考え方で異なる。新類型は、重要物資(鉄、威信材)のサプライチェーンの管理、運用面から、大陸、半島に近接した北部九州を中心地とする。
 一方、畿内説は、精神文化に重きをおき、「鬼道」に国を束ねる力をみて、三角縁神獣鏡の分布から畿内を中心地とする。しかし、2世紀後半から3世紀の時期に、西欧の一神教のように広大な地の人々の心を捕らえたか、疑問である。因みに、キリスト教が、ローマ帝国の国教となった時期は、4世紀中頃と遅い。

 次に、4世紀との繋がりを考えたい。4世紀後半、大和王権は、宗像勢力と同盟して、従来の伊都国、末羅国経由の『魏志倭人伝』航路とは異なる、沖ノ島、又は、一支国経由の新航路を開発して、半島との直接交易を興した(「金海貿易」)。この新航路開発に関して、新類型、北部九州説は、邪馬台国と大和王権の力関係が代わった結果として簡単に説明がつく。しかし、畿内説は、説明ができない。何故ならば、2世紀末に早くも北部九州を支配していた強国の邪馬台国=初期大和王権が、その支配を解かれ新たな航路を開発したプロセスである。

 尚、布留0年代と三類型の異同は、前回スレッドNo.80で記した通りである。
 以上、共立、旁国、戸数、中心地の考え方、新航路の開発、布留0年代と3類型の異同を観てきたが、総合的に勝るのは、新類型である。加えて、「中平刀」の大和への伝来過程が、説明できるのは、新類型のみと考える。又、「会稽東冶の東」に関して、北部九州説、畿内説とも明解な説明がない。この点、岡田、渡邉等、邪馬台国の所在地不定説は、明解である。新類型は、この説と同じ説明となる。

 更に、日数記事を所在地の比定に使用せず、解釈すべき対象と考えた白鳥に答えられるのは、新類型だけである。即ち、畿内説は、方向を南から東に変え、日数記事を利用して邪馬台国を大和に比定してきた。又、北部九州説は、日数記事を放射式に利用して、邪馬台国を北部九州の地に比定してきた。

■中結
 はじめに邪馬台国の暗黙知に触れた(本スレッドNo.2.11.12を参照.)。本文では、邪馬台国時代の支配・被支配関係の三類型の一つ新類型に立って、広く、当時の社会や外交、交易の面から、邪馬台国の興亡と大和王権の成立に至る過程を考えた。ここで、新類型は、北部九州の邪馬台国が、初期大和王権を支配していたとする。この結果、新類型の"出現"は、倭国乱から続く必然的な歴史の流れであり(スレッドNo.43.44.47.48を参照)、新類型は、大きな難点がなく、又、矛盾もなく成立することが解った(上記、新類型、北部九州説、畿内説の異同を参照)。

 次回、新類型では、日数記事をどう解釈するか触れたい。

  • [80]
  • 布留0年代と新類型、畿内説の考古学所見

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月10日(日)14時51分28秒
  • sp49-97-21-19.msc.spmode.ne.jp
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 布留0年代は、現在、C14測定値によって240~260年、又は、290~340年とされている。先ず、布留0年代が、240~260年を示す場合、新類型、畿内説とも豊富な大陸、半島系の相当量の遺物出土があり、問題ないと考える。鉄も纒向等の大和から多く出土している。但し、畿内説は、卑弥呼、台与と崇神との共治の体制の具体的説明が課題である。

 尚、新類型は、「大倭」を大和纒向に設置したとするが、この時期、纒向地域に「市」の機能が確認できる。即ち、大市郷名、大市の墨書土器片出土、運河の遺構、広範囲な地域の土器出土等である。加えて、鉄器生産の遺構が存在した。

 布留0年代が、290~340年代を示す場合、邪馬台国は、卑弥呼の時代に「大倭」を木津川~淀川系の地に設置し、その後、布留0年代の290~340年前半の時期に、台与が「大倭」を大和纒向に移動させたと考える。このため、布留0年代以前の大陸、半島系遺物出土の考古学所見が鍵となる。

 布留0年代以前、大陸、半島系の重要物資の遺物が、畿内地域から相当量出土していると思われる。即ち、2世紀後半~3世紀前半に編年される、画文帯神獣鏡の出土地が、大和を中心に分布し、又、景初3年(239年)の年号を持つ画文帯神獣鏡が、和泉黄金塚古墳から出土している。

 布留0年代以前、大和からの鉄の出土は少ないが、大阪、兵庫、京都からは相当量出土している。又、大和の東大寺山古墳から出土した、後漢の年号を刻む「中平刀」もこれらの例にあげられる。大和からの鉄の出土が少ない点に関しては、この時期、「大倭」は、木津川~淀川系の地にあることから、新類型は問題ないと考える。しかし、畿内説は、邪馬台国を大和とすれば、大和からの鉄の出土量に難点がある。

 以上、新類型は、布留0年代に係わらず成立するが、畿内説は、布留0年代が、290~340年代を示す場合、成立しない。尚、北部九州説は、布留0年代に係わらず成立することは、言うまでもない。

  • [79]
  • 和泉黄金塚の紀年鏡

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月 8日(金)10時36分10秒
  • sp49-97-21-19.msc.spmode.ne.jp
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 和泉黄金塚の紀年鏡は、239年製作と考えざるを得ないとする説に従いたい。魏の年号にない景初4年鏡が、発見されて、それ以前に一部あった後世の贋作説は、否定されたと思う。もし、後世に贋作した場合、なにも魏の年号にない景初4年を選んで製作しない。選ぶなら景初3年だろうと思う。

 王仲殊の呉の工人製作説が、可能性が高く、次に、製作地が、畿内なのか帯方郡なのか問題となるが、いずれにしろ大陸、半島由来の出土物に変わりはないと思う。

 以前、畿内での布留0年代以前の大陸、半島系の出土物として鉄、画文帯神獣鏡をあげたが、和泉黄金塚の紀年鏡は、これらに含まれると考える。又、大和の東大寺山古墳から出土した、後漢の年号を刻む「中平刀」もこれらの例にあげられる。

  • [78]
  • 画文帯神獣鏡の再確認

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月 6日(水)07時06分47秒
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  • 返信
 
当世奇妙さま
 画文帯神獣鏡に関して、以下のように再確認しました。

 画文帯神獣鏡に関しては、2001年に発刊された福永伸哉『邪馬台国から大和政権へ』をベースに、『謎につつまれた邪馬台国』所収の岡村秀典論稿「古墳の出現と神獣鏡」(『東アジアの古代文化107号』大和書房2001年所収、初出)を参照し、考えてきました。又、紀年鏡に関しては、王仲殊の呉の工人による帯方郡製作説に立っています。

 上記の岡村論文では、画文帯神獣鏡は、舶載鏡とし、又、三角縁神獣鏡も、舶載鏡としていたかと思います。和泉黄金塚の紀年鏡は、魏鏡に多い復古鏡であり、239年の時点で製作されたとする見解だったと思います。小山田説は、未確認です。

 紀年鏡に関しては、贋作説があることを承知していましたが、非贋作説の立場でしたので、239年の紀年を持つ和泉黄金塚の鏡を取り上げ投稿しました。

  • [77]
  • 画文帯

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2021年10月 5日(火)20時38分48秒
  • p2368174-ipbf2226funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
議論が終わる頃の投稿ですみません。
専門分野の執筆・投稿が多いこの頃です。

随分以前のヲワケノ臣さんの投稿ですが。
「景初3年(239年)の年号を持つ画文帯神獣鏡が、和泉黄金塚古墳から出土している(岡村1990年)」がありました。

これは『三角縁神獣鏡の時代』1999で、岡村さんは日本列島で
後の時代に摸倣作成したものとしています。

今年狭山池の館長になった、小山田さんも日本出土の画文帯は
かなりが日本列島の摸倣で、ヤマト中枢からは中国製は出ていない
と言う内容を当会の講演で話しました。
日本列島での中国製の画文帯出土地図も出してくれてました。

福島さんのトラブルのチェックとして追加

  • [76]
  • 邪馬台国の終わりを巡って 論点整理

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月 5日(火)17時31分18秒
  • sp49-97-21-19.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 いつかコウヘイさま

 論点は、邪馬台国の終わりは、判るのか、又、その後の時代は、対外的に平穏だったか、この2点かと思います。私見は、終わりは、判るとするもので、316年の西晋滅亡によって、冊封関係は、自然消滅した。又、西晋滅亡に先立つニ郡の滅亡で弁辰は、鉄の供給先として倭を最重要視した。結果、鉄の需給は、大幅に緩和され、邪馬台国の「大倭」を通じた鉄等の重要物資の管理交易は、機能しなくなったと考えられる。以上、邪馬台国は、国を束ねる二つの力である、冊封関係、及び、管理交易を4世紀初頭に失ったと考えられる。

 その後の時代は、先ず、『新羅本紀』によれば、倭と新羅の交戦記事が346年まで認められないこと。又、4世紀中葉に「博多湾貿易」が全盛期を向かえていることから、弁辰との鉄の交易は、順調に推移したと考えられること。以上、4世紀前半は、対外的に平穏であったと考えられる。
冒頭の二つの論点に対する私の解答は、以上です。

 次に、問題提起のあった列島全体、倭国内は、平穏だったか、否、戦闘が絶えなかったか、このことは、大きな課題と思います。私見では、4世紀前半、「武の上表文」が記すような東西に渡る征服戦争、即ち、大和王権を原因とする大きな戦闘は、なかったと考えます。しかし、地域間、地域内の抗争の有無に関しては、不明です。

 一古代史ファンとして、長年、さきたま「稲荷山鉄剣銘」の謎の解明、邪馬台国の謎の解明に関心を持ち、これまで、可能な限り関連する地を周ってきました。これからも、一古代史ファンとして、楽しみつつ、探求できればと考えます。

  • [75]
  • 4世紀は 狩猟採集民と稲作漁労採集民の対立期

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月 5日(火)01時00分7秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
 ヲワケノ臣様
参考文献 早速 図書館等で 借り受けします。 少し 時間をください。

①に関しては 私の早とちりでした。 混乱させて お手数かけました。

4世紀の日本の基調は 狩猟採集民と稲作漁労採集民の抗争期、
狩猟採集民は 個人的土地の所有権を基本は主張しない(動物という食料は移動する)と私は考えていますが、稲作民は土地に縛られやすい。
この時期の基本対立点は 農耕と狩猟採集という生業が反映。
 塚(古墳)という土木工事の伴う構造物は 余剰食物を必要条件にしていて、稲作民も狩猟民も 気候変異に大きく影響を受けやすく、4世紀の気候から、共に敗者。
 当然 少ない食べ物をめぐって対立は激しかったと私は想定しています
そしてヲワケノ臣様の文面は 稲作漁労採集民内限定の話。埼玉地区や関東の歴史が見えません。

 あまりにも残数の少ない文献側での思考、そう思えて この投稿をしています。
お住まいの地の 邪馬台国期~古墳前期の遺跡観察で 導かれる事実、もう少し知りたいものです。
お住まいの地 オワケノ臣様説 鉄の自由交易・サプライチェーン管理の崩壊 ?
相当 各遺跡を踏破し、鉄製品の分配傾向が感知できないと そのような事は言えないのでは?
 4世紀の関東地区 死者への埋葬への構造物 土壙墓・方形周溝墓・前方後方墳など 総じて 副葬品に乏しい。

【4世紀は、東西に渡る征服と半島遠征の戦闘の時代】
【列島西半部は、邪馬台国分裂、解体後、いくつかの勢力が分立し、比較的平穏に推移した時代と考える。】
【卑弥呼後継への争い】その時期は3世紀後期

、ヲワケノ臣様は 【邪馬台国の管理交易から「大倭」の関与のない自由交易に移行したと考える。このことは、サプライチェーンの管理交易が機能しなくなった】
 この自由交易を保証するため、平穏という語句を用いたように 私は感じてしまいます。



  • [74]
  • 4世紀の歴史像

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月 4日(月)15時40分42秒
  • sp49-97-21-19.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
  通常、4世紀の歴史像は、次のようになると思う。4世紀後半、大和王権による半島進出があることから、4世紀前半、大和王権によって全国統一がなされていた。4世紀は、東西に渡る征服と半島遠征の戦闘の時代であり、「武の上表文」は、この確認を宋王朝に求めたものであり、又、前方後円墳の全国分布は、大和王権による全国統一を示すとする。これに対して、自説の歴史像は、次のようなものになる。

 先ず、邪馬台国時代、先進地域である北部九州勢力(邪馬台国)が、畿内勢力(初期大和王権)を支配していたとする、新たな考えに立つ。その上で、大和王権による4世紀後半の半島進出は、史実であるが、4世紀前半の大和王権による全国統一は、史実とみない。『武の上表文』にある「東征」、「西服」は、漢籍の古典に倣った当時の慣用表現であったとし、事実をそのまま記したものでなく、戦略的な目的に即し改変されたとした(河内2018年)。又、前方後円墳の全国分布は、全国統一を示すものでない(本スレッドNo.9,14,16参照)。

 4世紀前半は、北部九州と畿内、両勢力の力関係が、邪馬台国時代の北部九州勢力優位の力関係から、4世紀後半の畿内勢力(大和王権)優位の力関係に移行する変わり目の時代と考える。但し、大和王権による東西に渡る征服、戦闘の時代と異なり、少なくとも、列島西半部は、邪馬台国分裂、解体後、いくつかの勢力が分立し、比較的平穏に推移した時代と考える。

 尚、古墳時代開始期、列島東半部では、気候変動による環境悪化を動因に、伊勢湾岸勢力の東京湾湾岸への、更に北武藏・上毛野地域への大規模な移動、移住が発生したとされる(若狭2017年)。これに伴い、東国で新旧勢力の抗争があった可能性がある。

  • [73]
  • 邪馬台国の終わりを巡って その3

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月 4日(月)14時39分48秒
  • sp49-97-21-19.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
いつかコウヘイさま

 参照、参考文献の件、回答します。
◆博多遺跡
 村上恭通『古代国家成立と鉄器生産』2007年
◆卑弥呼後継を巡っての争い(①)
 『魏志倭人伝』正始8年条

◆西晋滅亡によって、この抑止力は、失われたが、内戦に至らなかった。一つには、この時期、鉄の需給が、大幅に緩和され、自由交易になっていたためである。但し、サプライチェーンの管理交易が機能しなくなったため、最終的に邪馬台国は、分裂、解体したと考える。(②③④)

・弁辰は、二郡に代わる鉄の輸出先として倭を最重要視したため、鉄の供給量が増大した。
 李成市『日本の時代史2 倭国と東アジア』2002年
    「新羅の国家形成と加耶」
・博多産の精錬鍛治による鉄素材生産量は、膨大なものであり、当時の列島内で群を抜いていた。
 村上恭通 同上
 私見は、このことから、交易地西新町への鉄素材の供給は、増大したと考える。
・「博多湾貿易」は、4世紀中葉に全盛期を向かえ、西新町への土器の搬入地域は、列島全域に拡大した。
 久住猛雄『博多湾貿易の成立と解体・再論』2014年
 私見は、このことから、各地域の首長、族長は、西新町に鉄素材、鉄器を求めたと考える。結集、鉄の需給が、大幅に緩和されたことが判る。

・邪馬台国は、「国国の市」に「大倭」を派遣し、鉄、神獣鏡等、重要物資の交易を管理させた。
 『魏志倭人伝』の国制に関する条文
 私見は、鉄の需給が、大幅に緩和されたことによって、邪馬台国の管理交易から「大倭」の関与のない自由交易に移行したと考える。このことは、サプライチェーンの管理交易が機能しなくなったこと、即ち、邪馬台国を束ねる力が失われたことを示すと考える。この結果、最終的に邪馬台国は、分裂、解体したと考える。

 さて、冒頭の「西晋滅亡によって、この抑止力は、失われたが、内戦に至らなかった。」点に関しては、先のスレッドで記した理由の通りです。即ち、4世紀前半、倭国は、対外的に平穏な時代であった。この背景に4世紀の歴史像があり、これに関しては、別途、投稿します。


  • [72]
  • 印鑑や墓誌の文字は文献史の領域

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月 2日(土)18時15分28秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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ヲワケノ臣様
 考古学では ここに印が、ここに墓誌が という決め打ち発掘行為を キケン行為とみなすのでは?
このように私は理解しています。

関東 弥生期後期の住居遺跡からの鉄器出土は、畿内・東海地区の弥生後期遺跡より 鉄器の出土が多い、
 一方、古墳時代前期 畿内と周辺の定型化前期古墳の造営地区で 今ままでほとんど鉄がみえなかった地区で、いきなり 古墳から 鉄製品が副葬品として出土という意味であり、村上氏論考に沿ったものです。

 ただ 博多遺跡に関しては 当方の不勉強 この鉄素材生産工房から 精錬鉄が生産され その精錬量は膨大だったという、事実を知りません。
よろしければ 参考文献 ご教示 希望します。

 【邪馬台国は、朝貢外交だけでなく、倭国乱再発の抑止力を得るために魏、西晋との冊封関係を構築した。3世紀中頃に狗奴国との交戦や卑弥呼後継を巡っての争いが、発生したものの、この抑止力は、邪馬台国時代の全体を通してみれば、一定の効果があったと考える。
 西晋滅亡によって、この抑止力は、失われたが、内戦に至らなかった。一つには、この時期、鉄の需給が、大幅に緩和され、自由交易になっていたためである。但し、サプライチェーンの管理交易が機能しなくなったため、最終的に邪馬台国は、分裂、解体したと考える。】

上記 ヲワケノ臣様の文面中
①2021.10.05削除 早とちりしました。
②(西晋滅亡によって、この抑止力は、失われたが、内戦に至らなかった。)
③(一つには、この時期、鉄の需給が、大幅に緩和され、自由交易になっていた
  ためである。)
④(サプライチェーンの管理交易が機能しなくなったため、最終的に邪馬台国
  は、分裂、解体したと考える。)

これらは どの文献を参照されたのですか?



  • [71]
  • 邪馬台国の終わりを巡って その2

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年10月 2日(土)15時17分51秒
  • sp49-97-12-137.msc.spmode.ne.jp
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いつかコウヘイさま

 「親魏倭王」印や卑弥呼の墓誌の発掘は、文献史学でなく考古学の分野と考えますが。
 新たな考えに立った打開の試みが、上手くいっているのか、中締めとして、「邪馬台国の暗黙知 中結」を別途、投稿します。
 又、畿内の「国国の市」と「大倭」の設置に関しては、当世奇妙さまからの指摘への回答の通りです。本スレッドNo、51を参照ください。

 邪馬台国は、朝貢外交だけでなく、倭国乱再発の抑止力を得るために魏、西晋との冊封関係を構築した。3世紀中頃に狗奴国との交戦や卑弥呼後継を巡っての争いが、発生したものの、この抑止力は、邪馬台国時代の全体を通してみれば、一定の効果があったと考える。
 西晋滅亡によって、この抑止力は、失われたが、内戦に至らなかった。一つには、この時期、鉄の需給が、大幅に緩和され、自由交易になっていたためである。但し、サプライチェーンの管理交易が機能しなくなったため、最終的に邪馬台国は、分裂、解体したと考える。

 古墳時代前期、東国の鉄器出土は、埼玉・東京、群馬、千葉から相当量出土している(川越2000年)。
 古墳時代開始期、博多遺跡は、精錬鍛治、高温鍛錬鍛治、低温鍛錬鍛治工程を有していた。博多産の精錬鍛治による鉄素材生産量は、膨大なものであり、当時の列島内で群を抜いていた。各地域の首長、族長は、鉄の主たる生産地、交易地の博多に鉄器、鉄素材を求めた。鉄素材を鉄器に加工する鍛治の遺構は、東国からも発見されている。例えば、山崎山(埼玉)、北村(群馬)、沖塚(千葉)、千代南原(神奈川)であるとした(村上2007年)。

 生活跡から出土し、日常的に使用された鉄器量と出現期の古墳に副葬された鉄器量は、必ずしも相関関係にないことに注意する必要があるとする。出現期の古墳が、集中する中・東部瀬戸内地域では、副葬される鉄器は少ないが、日常的に使用された鉄器の出土量は、多く、又、鉄器生産量も多いとした(村上2007年)。

  • [70]
  • 「親魏倭王」印や卑弥呼の墓誌 は文献史の範囲  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年10月 1日(金)02時07分40秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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 ヲワケノ臣様
文献史側はデータの不足から 邪馬台国の所在位置や廃絶時期や廃絶理由が解っていない。と私は考えます。
 径100余歩の墓、奴婢埋葬そして主体部が見つかる可能性を秘めているのは 考古学側。

 ただ【先進地域の北部九州勢力が、畿内を支配しても不思議でないと考える。】というご提案を否定してはいません。
ご提示の仕方を 想定やヲワケノ臣様新説などと記入されると、邪馬台国の終りをめぐって という表現から回避できるのではないでしょうか?

また 前期古墳時代 確かに 今まで鉄が出土していなかった畿内とその周辺で急速に鉄器が増えます。主に古墳内。
 関東は 前期古墳時代 畿内定型化前期古墳が無いのでは? 副葬品も畿内系に比して乏しい。
 北部九州や日本海側も同様、畿内定型化前期古墳が無いのでは? 副葬品も乏しい。(弥生時代レベル)
私は これを鉄の偏在と捉えています。

  魏や晋 倭国と朝貢関係、被朝貢国への内政介入や軍事介入を漢族側が考えていたか とても疑問。 魏は未出兵。
漢族の目的は 遠交近攻政策に基づき、敵対勢力・高句麗や代国(のちの北魏)への圧力維持。と私は考えています。

畿内・大倭勢力へのご説明で 魏志倭人伝以外の他文献から(大倭)が見つからない限り、文献史からの追求は困難。と私は考えています。

 天理・布留式土器は 北陸や越後へ波及。 尾張のS字甕文化は 静岡・関東へ波及。

茨城県を例にすると、古墳時代前期 畿内で作られなくなった方形周溝墓が 千葉房総の弥生系譜の土器とともに 茨城南部で出現、日立市以北は 前代の弥生系譜・十王式の地。
やや遅れて S字甕を伴う方形周溝墓出現。
 関東 古墳時代前期 畿内定型化前期古墳が出現していない。このように理解しています。
 墓へ鉄製品を納品 これは捨てる事を意味するのか ?  支配者層の見得なのか?
鉄製品を庶民層が購入できるようになるのは、室町期以降。どこかで読んだような

少なくとも 古代の支配者層は鉄製品を所有・管理する立場。とは言えそうです。
支配者層間で鉄の所有・入手で
 すべてが平和のうちに 売買や交換が成立したとは 個人的に思い難いのですが?

 ヲワケノ臣様 お住まいの地区で 邪馬台国期の遺跡から 何がみえるのか?
奈良では 大倭が活躍したという痕跡を探すのが 近道のように思えます。

 鏡作り 緑色石製品 そして 順次鉄としての強度を喪失する鉄製品<
鎧は順次 小型化 装着できなくなる  すべて葬儀専用。
これらは大倭が関与しているのでは?


  • [69]
  • 邪馬台国の終わりを巡って

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年 9月30日(木)17時54分16秒
  • sp49-97-12-137.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
いつかコウヘイさま

 「親魏倭王」印や卑弥呼の墓誌が出土すれば別だが、考古学だけで邪馬台国の位置は、決定できないと思う。現状、従来の北部九州説と畿内説とも、行き詰まりを打開できていない。このため、今まで考えられたことのない、北部九州勢力の邪馬台国が、畿内勢力を支配下に置いていたとする、新たな考えに立ち、打開を試みることにした(本スレッドNo.30、41参照)。先進地域の北部九州勢力が、畿内を支配しても不思議でないと考える。邪馬台国の終わりは、この新しい考えで叙述した。

 今回、『新羅本紀』から4世紀前半の記事を、又、『百済記』、記紀から4世紀後半の記事を抽出し、交易機構の変遷を加味して、邪馬台国の終わりと大和王権の成立の歴史を辿った。基本的に、邪馬台国を束ねるものは、魏、西晋との冊封関係であり、サプライチェーンの管理交易である(本スレッドNo.54、56参照)。4世紀初頭に西晋の滅亡によって冊封関係は失われ、又、鉄の需給が大幅に緩和されたことによって管理交易の体制を失った。とりわけ、東限の畿内勢力を束ねる求心力がなくなり、邪馬台国は、分裂、解体したと考える。

 4世紀前半、倭国は、対外的に平穏な時代であったとする理由は、『新羅本紀』によれば、346年の倭兵、新羅来襲の記事まで交戦記事がないこと、又、半島との交易は、鉄の需給が大幅に緩和されたことによって順調であったことである。又、国内も全国的な交易が行われたことから、鉄等の重要物資の入手を巡る軋轢や紛争も、少なかったと思われる。

 「稲荷山鉄剣」銘文は、渡来人の史部流とされる時格の筆法があり、又、人名のアクセントに東国方言が、混ざっていることが特記される。詳細は、本スレッドNo.20を参照ください。

 前方後円墳と前方後方墳の差の究明は、必要と思うものの、「稲荷山鉄剣銘」の謎の解明にどう繋がるのか判りません。

  • [68]
  • 大和王権の成立

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年 9月28日(火)18時00分29秒
  • sp49-96-238-163.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
 半島では、346年に百済が建国され、356年に新羅が建国された。4世紀前半の『新羅本紀』の記事を抽出すると、次の通りである。300年倭国、新羅と交わる。312年倭国王、新羅へ遣使、婚姻請う。344年倭国、新羅へ遣使、婚姻請い断られる。345年倭王、新羅へ移書、断交する。346年倭兵、新羅へ来襲、金城包囲するとある。

 次に『百済記』の記事を抽出すると、以下の通りである。364年~366年卓淳を介して大和王権と百済との国交が樹立され、両国は連合して南下を強める高句麗に対抗した。369年に襲津彦が百済の将軍と共に新羅を討ち、372年百済「七支刀」を奉ずるとある。

 一方、この時期の記紀の記事を抽出すると、以下の通りである。建内宿禰と丸邇臣の祖である建振熊命が、応神の異母兄、香坂王、忍熊王の反逆を征討したことを記す。又、『古事記』応神記によれば、近肖古王(346~375年)が、大刀と大鏡を応神に献上したと記す。この大刀は、倭王旨の名を刻む「七支刀」とされる。

 ところで、この時期の交易が、どのようなものだったか観てみたい。4世紀初頭の邪馬台国分裂、解体後、大和王権は、新たな沖ノ島「海北道中」、又は、一支国経由で半島に至る航路を開発し、金官加羅との直接外交、直接交易による「金海貿易」を興した。この新たな航路は、伊都国、末羅国の北部九州西部勢力を介さないルートであった。新航路の開発には、宗像、宇佐等、北部九州東部勢力の協力が不可欠であり、大和王権は、この勢力との連合王権を成立させたと考える。「金海貿易」の伸長に伴い、後期「博多湾貿易」は、4世紀第4四半期に衰退したと考えられる。

 これらの事項を纏めると、この時代の経緯は、以下のようになると考える。邪馬台国分裂、解体後の平穏に推移した時代に続く、香坂王の時代は、新羅との外交が、円滑に進まず、交戦に至った。この時期、弁辰地域は、次第に百済、新羅の侵入にさらされ、倭の鉄の入手は制約されていったと思われる。これに対して、香坂王は、半島へ単独介入したが、失敗に終わったと考える。香坂王の失政を巡って、応神と香坂王、忍熊王との間で争乱が発生した。

 この乱は、大和王権成立の画期となった事件で、応神と邪馬台国の系譜をひく丸邇臣の祖である建振熊、及び、後の建内宿禰七子に繋がる大和西部勢力が結集し、祟神王統から実権を奪い、新王統を立てたことを示すものではないか。

 その後、応神の大和王権は、近肖古王と誼を通じ、百済と同盟し半島へ軍事介入した。応神の大和王権は、北部九州西部勢力を併合し、『魏志倭人伝』航路と新航路とを運営する海人勢力を統合、結集して半島政策を進めた。この政策により鉄の安定確保がもたらされ、その後、大和王権は、増大する東国などの鉄の需要に応え、倭国全体に力を及ぼして行くことになった。

  • [67]
  • 神仙思想 殯

  • 投稿者:ヲワケノ臣
  • 投稿日:2021年 9月28日(火)16時26分10秒
  • sp49-96-238-163.msc.spmode.ne.jp
  • 返信
 
いつかコウヘイさま

 殯は、古代史の大きなテーマの一つと思います。殯の進め方は、時代によって変化、変質しているとされ、取扱いが難しいと考えられます。

 又、前回投稿した「邪馬台国の終わり」は、本日投稿する「大和王権の成立」とセットとなります。このため別途、回答します。

  • [66]
  • 地元・足元からの史的考察が大切に思えます  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年 9月28日(火)14時47分17秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
  ヲワケノ臣様
【邪馬台国の終わり】など、記述困難。
根拠 ①今のところ文献が見つかっていない。
   ②考古的知見からの邪馬台国の位置比定が出来ていない。

よって 【 4世紀初頭、邪馬台国は、分裂、解体し、4世紀後半、応神の大和王権が成立したとする。これが通説と考える】という文面は、ヲワケノ臣様の想定にしか過ぎない。

もっとも 違和感を感じたのは、四世紀前半【この時期の倭国は、対外的に平穏な時代であったことが窺われる。】

本当に平穏だったのでしょうか?
倭や他部族が中国や半島と国交を示す文献を残せなかったのは、双方が混乱期なのかもしれません。


文献欠史の時期の倭国および日本国内・諸部族の状況 本来は考古的知見に頼るべきなのでは ?

 ①箸墓の実年代が未確定、
 ②土器・円筒埴輪編年は相対編年
 考古学自体が この時期 不確定要素が多いが、オワケノ臣様からの
四世紀初頭の関東の考古学的知見という足元の情報を 私は欲しています。

 ご投稿のテーマに係る関東地区が なぜ前方後方墳という墳形を当初採用したのか ?   関東の前期古墳時代を考える 肝・キモのように思えますが ?
 稲荷山古墳が前方後円墳という墳形を採用する、関東地区での その過程・変移を解き明かしていただけると幸いです。

文献の無い地区、文献の無い時代を 文献史的表現にて解明など不可能。

稲荷山鉄剣はなぜ 前方後円墳という 手間のかかる古臭い入れ物に入ったのか ?
なぜ 関東地区では、鉄剣それ以前の時代は 文字にかかわる出土品が無いのか?

関東地区 銅鏡の呉作、陳作云々 単なるマーク・デザイン。当時の関東地区の人々ほとんど漢字には無知。 これが私の想定です。
鉄剣の記入文、こちらは明らかに 文盲とは異なる人の手が関与。



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