【重要】teacup. byGMOのサービス終了について


  • [0]
  • 米田の系図を議論するスレ

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2021年 4月30日(金)15時49分49秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
 
米田の系図を議論するスレ

ここは、おもに米田自作の系図を議論するスレです。

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

投稿者
題名
*内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
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sage

  • [177]
  • Re: あなたは誰ですか?

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月17日(火)14時33分49秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
> >時々、p君さんのレベルが急に、(別人に)換わるのです。やりにくくてしょうがない。

全然変わっていませんよ。


> ***************************
> ┌
> │系図の話ですが、崇神紀に、ヤマトトトトヒモモソヒメが大物主と結婚したという記事が出てきますが、
> │米田さんはその大物主を誰だとお考えですか。
> └
>
> ※:同じ理由ですので、あまり回答はしたくないのですが、
> _:系図解読復元マニアとして、いちおう書いておきます。
>
> (回答A案):「伊香色謎命」の父親の「大綜杵命」だろうと思います。
> (回答B案):「大彦命」の父親である「孝元天皇」だろうと思います。
> (回答C案):「伊香連祖」にからんで「臣知人命」だろうと思います。
> (回答D案):「武建大尼命」の父親の「欝色雄命」だろうと思います。
>
> ※:現時点で、本気で回答しようとすると、上記の4人の誰かだろうということになります。
> _:ここから一人に絞るのは、現時点では、厳しいです。


この4人のうちの誰かがモモソヒメと結婚した「大物主」なのですか?
なんだか力が抜けてしまいます。
普通、大和にいた「主」さんなら、事代主の末裔だと考えると思いますが。

なんで物部が二人もいるのでしょう。
物部の男系が主になった事など一度もありません。




> ※:お互いに、歴史の真理の解明に向かって、同じ土俵を(探しつつ、)議論をしているのです。
> _:私は、データを出しているのであって、意見の押し付けをしているつもりはありません。
> ※:この掲示板は、毎日、100人くらいの人が見に来ています。
> ※:私は、p君さんの向こうにいる、その100人が、この掲示板を見て、こんなデータがあったのか、
> _:とか、古代史って、こんなに、奥が深いのかと感じていただけるように、投稿には気を付けています。



あなたからまともなデータが出てた記憶など全然ありません。
妄想系図はデータではありませんよ。

  • [176]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月17日(火)09時30分39秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│[137] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 8日(日)16時58分30秒

│卑弥呼の話に戻りますが、応神天皇390年元年、そして崇神天皇4世紀初~前半というのは、
│考古学的にもほぼ決まりです。
│その崇神天皇のほんの数十年前に臺與(台与、とよ)あるいは「いよ」がいることになります。
│まずそれが基本だと思います。
│その考古学的な骨格を無視して三国史記の登場人物と日本書紀の人物を同一人物にしたり、
│ヘンテコな事をするから卑弥呼が分らなくなるのです。

│崇神天皇の数十年前に、当時の最高位の女性である臺與(台与、とよ)がいますし、
│その3世代前に卑弥呼(Bei mei hu)、比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉
│という最高位の女性もいますから、
│そしてその住処に径百余歩の塚、大量の奴婢殺害痕跡もあります。

│つまり邪馬台国論争は終わりなのです。


│[174] Re: (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月16日(月)19時25分26秒
│あと先代旧事本紀ではスサノオ以降の主の妻の名と子供の数が詳細に書かれていますが、
│阿田賀田須のところだけスッと妻の名をスルーしています。
│これは朝廷に気兼ねして阿田賀田須の妻の名をモモソヒメだと書けなかったのだとみています。

│あとその系図ではまるで阿田賀田須の弟の健飯賀田須とオオタタネコが父子のように書かれていますが、
│オオタタネコは大阪須恵村から来た神官であり、阿田賀田須命の弟の健飯賀田須の子ではないですね。
│オオタタネコはたしか事代主の傍系でしたか、遠い遠い血筋ですから、
│阿田賀田須命やあるいは弟の健飯賀田須の代でスサノオ直系の血筋は途絶えてますね。

│これは崇神による流血の「易姓革命」以外にないでしょう。

│日本では一度だけ、4世紀初頭の崇神の代に、臣下が「主」を倒すクーデターがあり、
│スサノオ直系の血筋が途絶えたのです。

│現天皇家は、その倒した側の末裔ですね。


※:私は、「景行天皇」=「彦狭嶋王」だと思っています。(つまり、孝霊天皇の子どもです。)
_:ですので、景行天皇は、祟神天皇よりも上の世代だと考えています。ところで、

※:卑弥呼が亡くなってから、祟神の時代までで、一番、「位の高い女性」は、誰か。

※:この時代に、つまり、「神代」の時代でもないのに、名前に「神」がついている女性がいるのです。
_:その人物が、「神夏磯媛」です。この人物については、不明なことが多いです。
_:ただ、「神」の名を持つことから、当時では、一番、「位の高い女性」だったのだろうと思います。



  • [175]
  • あなたは誰ですか?

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)23時29分10秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 
あなたは誰ですか?

※:私は、相手の文章を読んで、相手のレベルに合わせて、回答をするようにしています。
_:討論室では、「いつかコウヘイ」さんと「いつかコウヘイ。」さんが別人だったように、
_:時々、p君さんのレベルが急に、(別人に)換わるのです。やりにくくてしょうがない。


│奴婢、あるいは奴婢になったであろう集団を誅殺した記事は、
│神武東征紀以外にないという事で、この話は終了しますね。
│とりあえず魏志倭人伝に書かれた卑弥呼墓と神武が直結したわけです。


※:この問い掛けに対しては、回答(同意)を拒否します。

※:拒否だけでは、不満でしょうから、岩波文庫の「補注」を付けておきます。お読みください。
_:だいたい、日本書紀だけで、と言っておきながら、先代旧事本紀を持ち出したり、
_:「奴婢」と言っていると思ったら、「土蜘蛛」の話になっていたり、付き合いきれません。

※:この問い掛けに対しては、回答(同意)を拒否します。

***************************

│系図の話ですが、崇神紀に、ヤマトトトトヒモモソヒメが大物主と結婚したという記事が出てきますが、
│米田さんはその大物主を誰だとお考えですか。


※:同じ理由ですので、あまり回答はしたくないのですが、
_:系図解読復元マニアとして、いちおう書いておきます。

(回答A案):「伊香色謎命」の父親の「大綜杵命」だろうと思います。
(回答B案):「大彦命」の父親である「孝元天皇」だろうと思います。
(回答C案):「伊香連祖」にからんで「臣知人命」だろうと思います。
(回答D案):「武建大尼命」の父親の「欝色雄命」だろうと思います。

※:現時点で、本気で回答しようとすると、上記の4人の誰かだろうということになります。
_:ここから一人に絞るのは、現時点では、厳しいです。

※:あとの質問は、質問の前提になるものが、違いすぎて、回答することに意味(意義)を感じません。

※:問い掛けに対しては、回答を拒否します。あしからず。

***************************

※:私は、あなたと、勝ったの負けたのという「勝ち負け」を争う気はありません。

※:お互いに、歴史の真理の解明に向かって、同じ土俵を(探しつつ、)議論をしているのです。
_:私は、データを出しているのであって、意見の押し付けをしているつもりはありません。

※:あなたは、私に同意を求めて来ますが、私は、「同意をすることを」拒否します。

※:この掲示板は、毎日、100人くらいの人が見に来ています。

※:私は、p君さんの向こうにいる、その100人が、この掲示板を見て、こんなデータがあったのか、
_:とか、古代史って、こんなに、奥が深いのかと感じていただけるように、投稿には気を付けています。


  • [174]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)19時25分26秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 編集済
  • 返信
 
>>173
> ┌
> │あとニギハヤヒとナガスネ彦が支配者ではありません、大和には神武の義理父の「事代主」がいたでしょ。
> │「主」ですからこの時点で最高位であり、その末裔は崇神天皇時代まで続き、
> │大阪須恵村からきたオオタタネコに替わる、
> │つまりスサノオや事代主の直系が終了するわけです。
> │その崇神天皇時代までつづいた主が「大物主」であり、今も大神神社に祀られていますね。
> │
> │あなたは妄想が先んじて基本的な事も理解できていない。
> └
>
> ※:あなたは、(系図という)基本的な事も理解できていない。
>

奴婢、あるいは奴婢になったであろう集団を誅殺した記事は、
神武東征紀以外にないという事で、この話は終了しますね。
とりあえず魏志倭人伝に書かれた卑弥呼墓と神武が直結したわけです。


系図の話ですが、崇神紀に、ヤマトトトトヒモモソヒメが大物主と結婚したという記事が出てきますが、
米田さんはその大物主を誰だとお考えですか。

私はこの掲示板で何度か言ってますが、その系図の阿田賀田須命です。
まず時代が合う。
あと先代旧事本紀ではスサノオ以降の主の妻の名と子供の数が詳細に書かれていますが、
阿田賀田須のところだけスッと妻の名をスルーしています。
これは朝廷に気兼ねして阿田賀田須の妻の名をモモソヒメだと書けなかったのだとみています。

あとその系図ではまるで阿田賀田須の弟の健飯賀田須とオオタタネコが父子のように書かれていますが、
オオタタネコは大阪須恵村から来た神官であり、阿田賀田須命の弟の健飯賀田須の子ではないですね。
オオタタネコはたしか事代主の傍系でしたか、遠い遠い血筋ですから、阿田賀田須命やあるいは弟の健飯賀田須の代でスサノオ直系の血筋は途絶えてますね。

これは崇神による流血の「易姓革命」以外にないでしょう。

日本では一度だけ、4世紀初頭の崇神の代に、臣下が「主」を倒すクーデターがあり、
スサノオ直系の血筋が途絶えたのです。

現天皇家は、その倒した側の末裔ですね。

  • [173]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)16時46分59秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│あとニギハヤヒとナガスネ彦が支配者ではありません、大和には神武の義理父の「事代主」がいたでしょ。
│「主」ですからこの時点で最高位であり、その末裔は崇神天皇時代まで続き、
│大阪須恵村からきたオオタタネコに替わる、
│つまりスサノオや事代主の直系が終了するわけです。
│その崇神天皇時代までつづいた主が「大物主」であり、今も大神神社に祀られていますね。

│あなたは妄想が先んじて基本的な事も理解できていない。


※:あなたは、(系図という)基本的な事も理解できていない。


  • [172]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)14時54分54秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>171
> ┌
> │どちらにしても崇神天皇以前に、奴婢、あるいは奴婢になったであろう集団を誅殺した記事は、
> │神武東征紀以外にないという事でよろしいか?
> └
> ※:ニギハヤヒとナガスネ彦が支配者で、その下に、下記の首長がいたことになります。


話をはぐらかさないでください、奴婢、あるいは奴婢になったであろう集団を誅殺した記事は、
神武東征紀以外にないという事でよろしいか?
あるのなら出してくれればいいだけです。

あとニギハヤヒとナガスネ彦が支配者ではありません、大和には神武の義理父の「事代主」がいたでしょ。
「主」ですからこの時点で最高位であり、その末裔は崇神天皇時代まで続き、大阪須恵村からきたオオタタネコに替わる、
つまりスサノオや事代主の直系が終了するわけです。
その崇神天皇時代までつづいた主が「大物主」であり、今も大神神社に祀られていますね。

あなたは妄想が先んじて基本的な事も理解できていない。


> ※:神武東征紀を読む限り、兵士になるのは、「八十梟帥」の人たちであります。

> _:何度でも書きますが、「〇〇祝や土蜘蛛」は、兵士にもなれず、つまり「奴婢」でもないのです。
> ※:上記のp君さんの主張が正しいとしても、それは、「〇〇祝や土蜘蛛」ではなく、
> _:「八十梟帥」の兵士たちのことです。
>
> ※:ここは、理解して下さい。


何を言ってるのか意味がが分かりません。
まつろわぬ者というのは反逆、反抗、つまり戦うという意味でもあります。
「何度でも書きます」と言われるけど意味不明な事を何度も書かないでくださいよ。


>

> ┌
> │あなたがその記事を提示できない時点で終了です。
> └
> ※:あなたが、私の主張を理解出来ない時点で、(この議論は)終了です。


あるのかないのかという質問にごまかしているだけですね。
出せない以上「ない」ということでいいですね。

  • [171]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)14時03分23秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│どちらにしても崇神天皇以前に、奴婢、あるいは奴婢になったであろう集団を誅殺した記事は、
│神武東征紀以外にないという事でよろしいか?

※:ニギハヤヒとナガスネ彦が支配者で、その下に、下記の首長がいたことになります。

│菟田の県の首長、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)。
│磯城の八十梟帥(やそたける)。___兄磯城・弟磯城(おとしき)
│高尾張には、赤銅の八十梟帥。_____高尾張邑に土蜘蛛がいた。
│国見丘の八十梟帥。
│兄倉下・弟倉下

│層富県の波哆の山崎に、新城戸畔。
│和珥の坂下に、居勢祝。
│臍見の山崎に、猪祝。   この三か所の土蜘蛛は、云々。

※:神武東征紀を読む限り、兵士になるのは、「八十梟帥」の人たちであります。
_:何度でも書きますが、「〇〇祝や土蜘蛛」は、兵士にもなれず、つまり「奴婢」でもないのです。


│どちらにしても崇神天皇以前に、奴婢、あるいは奴婢になったであろう集団を誅殺した記事は、
│神武東征紀以外にないという事でよろしいか?

※:上記のp君さんの主張が正しいとしても、それは、「〇〇祝や土蜘蛛」ではなく、
_:「八十梟帥」の兵士たちのことです。

※:ここは、理解して下さい。


│あなたがその記事を提示できない時点で終了です。

※:あなたが、私の主張を理解出来ない時点で、(この議論は)終了です。


  • [170]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)13時27分18秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>169
> ┌
> │それより、
> │
> │「私に日本書紀を読んでいないと批判するのなら、
> │ それ以外にどこかに奴婢が大量に誅殺されてるような記事あるか、米田さんが見つけてください。」
> │
> │から逃げないでください。
> └
> (その1):『先代旧事本紀』に、「奴婢」という言葉で、全文検索を掛けました。ヒットなし。
> (その2):『古事記』に、「奴婢」で、検索を掛けました。ヒットなし。
> (その3):『日本書紀』に、「奴婢」で、検索を掛けました。古い所では、2件ヒットしました。
> ___:「神代下」第九段の一書、豊玉姫のセリフに2か所出て来ます。
> (その4):『日本書紀』に、「婢」で、検索を掛けました。「奴婢」と同じでした。
> (その5):『古事記』に、「婢」で、検索を掛けました。5件ヒットしました。すべて、豊玉姫の関連。
> (その6):「奴」については、少し調べました。残りは、自分で調べて下さい。
>
>


当り前ですね。
記紀に奴婢なんて書いて、神武によるその誅殺を書いた瞬間、魏志倭人伝の卑弥呼墓を想起させてしまいます。
せっかく神武をBC7世紀に設定し、真の時代から遠ざけ、卑弥呼との関りをごまかしているのに、
そんな表記をすれば元も子もありません。
だから〇〇祝や土蜘蛛などという表記をしているわけです。

どちらにしても崇神天皇以前に、奴婢、あるいは奴婢になったであろう集団を誅殺した記事は、
神武東征紀以外にないという事でよろしいか?

あなたがその記事を提示できない時点で終了です。

  • [169]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)10時51分54秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│それより、

│「私に日本書紀を読んでいないと批判するのなら、
│ それ以外にどこかに奴婢が大量に誅殺されてるような記事あるか、米田さんが見つけてください。」

│から逃げないでください。

(その1):『先代旧事本紀』に、「奴婢」という言葉で、全文検索を掛けました。ヒットなし。
(その2):『古事記』に、「奴婢」で、検索を掛けました。ヒットなし。
(その3):『日本書紀』に、「奴婢」で、検索を掛けました。古い所では、2件ヒットしました。
___:「神代下」第九段の一書、豊玉姫のセリフに2か所出て来ます。
(その4):『日本書紀』に、「婢」で、検索を掛けました。「奴婢」と同じでした。
(その5):『古事記』に、「婢」で、検索を掛けました。5件ヒットしました。すべて、豊玉姫の関連。
(その6):「奴」については、少し調べました。残りは、自分で調べて下さい。


│古事記・全文現代語訳 | 古代日本まとめ
│kodainippon.com/古事記・現代語訳
│2019/08/20 · 古事記・全文現代語訳タイトル・リスト古事記の全文を現代語訳して掲載しています。
│なるべく理解しやすいよう、少し意訳を加えている点もありますが、原文の色と香りを残し

※:(古事記の現代訳です。)ネットの文章をコピペさせてもらいました。

:そこで五瀬(いつせ)が言うには、
:「私は日の神の御子として、日に向かって戦うのは良くなかった。
:それで、賤(いや)しい奴の矢で重傷を負ったのだ。今後は遠回りをして、日を背に負うて敵を撃とう」
:と誓い、南の方から回ってお進みになった。
:血沼海(ちぬのうみ)に至って、その手の血を洗った。
:それでその海を血沼海(ちぬのうみ)という。

:そこからさらに回って進み、紀伊国きいのくにの男之水門おのみなとに至って、
:「賤しい奴のために手傷を負うて私は死のか」
:と雄々しく振る舞ったが、そこでお亡くなりになった。
:それで、その水門みなとを名づけて男の水門おのみなとという。
:御陵みはかは紀伊国きいのくにの竈山かまやまにある。

※:古事記を調べて分かったことは、兵士のことを「賤しい奴」と表記していることでした。

※:相手の兵士を大量に殺したら、「奴」を大量に殺したことに、なりそうです。
_:あとは、自分で調べて下さい。


(追加)

│まつろわぬ者=土蜘蛛は奴婢だと思います。


│まつろわぬ民
│読み方:まつろわぬたみ
│別表記:順わぬ民、服わぬ民

│平定事業において抵抗を続け、帰順しない民族。などの意味の表現。
│「古代において蝦夷の民は、王朝にとり、まつろわぬ民であった」などのように用いられる。


(その1):相手の兵士は、「賤しい奴」である。
(その2):土蜘蛛は、まつろわぬ民である。
(その3):「まつろわぬ民」は、従わぬ民であるから、兵士にもならない。
(その4):ゆえに、「まつろわぬ民」である「土蜘蛛」は、「賤しい奴」にもならない。

http://


  • [168]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)08時52分30秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
それは知ってます、捕獲の際に死に至った例、また殺害した例もあるでしょう。

そもそも最初から殺傷が目的なら弓矢や剣を使えばいいだけ。

あと新城戸畔、和邇の居勢祝、猪祝までは皆殺しですね、全滅です。

しかし最後の高尾張邑の土蜘蛛は皆殺しと書いてない、つまり生存者はいたという事です、
その生存者はどうなりましたか。

奴婢しかないでしょう。

よく読んでください。


それより、

「私に日本書紀を読んでいないと批判するのなら、それ以外にどこかに奴婢が大量に誅殺されてるような記事あるか、
米田さんが見つけてください。」

から逃げないでください。

4世紀前半の崇神以前、奴婢が大量に誅殺されてる記事は、神武東征紀以外に「ない」で良いですね。

ならば卑弥呼の墓は判明するし、邪馬台国論争も終りなのです。

卑弥呼=ヒコヤイという愚かな説は撤回してくださいよ、古代史を考える者にとって大変目障りです。

  • [167]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)03時14分38秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 
>[166] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月16日

※:佐伯については、p君さん、詳しいですね。

│屁理屈ですね。
葛で編んだ網を使ったのは殺傷用ではありません、捕獲用です。
奴婢にするための捕獲用です。
│そして魏志倭人伝の編纂の3世紀後半には彼等はすでに奴婢でした。


己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。
是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。丘岬、此云塢介佐棄。又和珥坂下、有居勢?者。
坂下、此云瑳伽梅苔。臍見長柄丘岬、有猪?者。此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。
天皇乃分遺偏師、皆誅之。又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、
皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。夫磐余之地、舊名片居片居、此云伽哆韋、
亦曰片立片立、此云伽哆哆知、逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地、因改號爲磐余。

※:ここ(旧討論室&スレ)の使用も、あとわずかです。(保存・保管の作業もまだ残っています。)
※:何か云いたいこと、質問したいことがあったら、伺っておきます。

http://


  • [166]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)00時33分4秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
>※:p君さんが指摘する「奴婢」に該当しそうな、人たちを探すと、いわゆる倭人たちが
>_:ヤマトに連れて来た、「薩摩隼人」たちになると思います。その次は、「佐伯」の人たちです。
>_:残念ながら、「土蜘蛛」たちは、「奴婢」には、なりませんし、「奴婢」としては使えません。


倭人たちがヤマトに連れて来た、「薩摩隼人」たちというか、吉野川の宮滝遺跡に南九州の縄文時代の市来式土器が出てますので、
南九州から丹砂を採りに来てた南九州人である可能性はあると思います。
その末裔が土蜘蛛と呼ばれた可能性は高いと思います。

「その次は、「佐伯」の人たちです。」
全然意味が分かりません、蝦夷が騒ぐ=サエグので遠く(九州)に移住させたとあるので、佐伯は基本大和にいないです。

>※:高尾張邑にいた「土蜘蛛」は、みな殺しにされたのでしょう。
_:それは、先住民としてであって、「奴婢」としてではありません。


屁理屈ですね。
葛で編んだ網を使ったのは殺傷用ではありません、捕獲用です。
奴婢にするための捕獲用です。
そして魏志倭人伝の編纂の3世紀後半には彼等はすでに奴婢でした。


あなたは私の説の本質=「神武の土蜘蛛誅殺以外に魏志倭人伝の殉葬奴婢を説明できる記事はありますか」に反論できないで、
「残念ながら、「土蜘蛛」たちは、「奴婢」には、なりません」などとの表層的な反論らしき底の浅い言説はやめてください。

あなたは一世代20年に反論できないようなので、それならニギハヤヒは崇神から7世代前、卑弥呼共立の2世紀末少し前の人物であり、
「つまり、ナガスネ彦やニギハヤヒを中心に、安定していた国」でも何でもなく、
倭国大乱の真っ最中です。
何も安定などしていない。

あなたは考古学的時系列が理解できていないのに何を偉そうに言ってるのか。

  • [165]
  • p君さんへ

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)00時09分3秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 
p君さんへ

│まつろわぬ者=土蜘蛛は奴婢だと思います。

※:p君さんの、この定義は、二重三重に間違えておられます。

(たとえ話のつもりです。)
※:アメリカの奴隷の話です。(アメリカ建国の時代の話です。)
_:「まつろわぬ者」は、先住民の、アメリカインディアンです。
_:彼らは、プライドが高く、反抗的で、「奴隷」には使えません。
_:ですので、白人は、抹殺か、居留区に押し込めるかをしました。

※:白人は、自分たちの言うことを聞く、奴隷(黒人)をアフリカから連れて来ました。

*******************

※:神武天皇の軍は、誰と戦っているのか。(日本書紀の話に従います。)
_:神武天皇が、来る前は、(今、2時間程度で、読んでまとめたものです。巧遅拙速です。)

※:ニギハヤヒとナガスネ彦が支配者で、その下に、下記の首長がいたことになります。

│菟田の県の首長、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)。
│磯城の八十梟帥(やそたける)。___兄磯城・弟磯城(おとしき)
│高尾張には、赤銅の八十梟帥。_____高尾張邑に土蜘蛛がいた。
│国見丘の八十梟帥。
│兄倉下・弟倉下

│層富県の波哆の山崎に、新城戸畔。
│和珥の坂下に、居勢祝。
│臍見の山崎に、猪祝。   この三か所の土蜘蛛は、云々。

結局、神武天皇の味方(部下)になったのは、

│弟猾(おとうかし)→猛田の県主。
│弟磯城(おとしき)→磯城の県主(黒速)←←←(ニギハヤヒの事と考えています。)

※:つまり、ナガスネ彦やニギハヤヒを中心に、安定していた国を、
_:神武天皇たちがやって来て、言うことを聞かない奴らを殺した、というお話です。

*****

※:この話を、アメリカ建国時の話に置き換えてみると、
_:白人の入居者とインディアンが、仲良く共存している所に、或る時、
_:騎兵隊がやって来て、白人の大半とインディアンのほとんどを殺した、というお話になります。

※:見てわかるように、そこには、「奴婢・奴隷」は、いません。
_:「家僕」としての「奴婢」は、いたかもしれませんが、それは、「土蜘蛛」ではありません。

※:高尾張邑にいた「土蜘蛛」は、みな殺しにされたのでしょう。
_:それは、先住民としてであって、「奴婢」としてではありません。

********************************

※:p君さんが、「日本の部落解放運動」に対して、強いこだわりを持っていることは
_:前から、理解していました。

※:p君さんが指摘する「奴婢」に該当しそうな、人たちを探すと、いわゆる倭人たちが
_:ヤマトに連れて来た、「薩摩隼人」たちになると思います。その次は、「佐伯」の人たちです。
_:残念ながら、「土蜘蛛」たちは、「奴婢」には、なりませんし、「奴婢」としては使えません。
_:あとは、(何らかの理由で)「下戸」や「部民」の身分から、脱落していった人たちでしょうか。


  • [164]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月15日(日)21時53分18秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
>あなたの考える「奴婢」とは、どんな人たちですか?
>また、「土蜘蛛」は、「奴婢」ですか?


まつろわぬ者=土蜘蛛は奴婢だと思います。
差別の話は地域によってその成り立ちが違い、決して一元的に見ることことはできないと思います。

戦国時代の乱妨取りをルーツとする場合や、渡来系やその革工をルーツとする地域もあり、
瀬戸内沿岸では移配俘囚の蝦夷をそのルーツとする地域、
南九州では倭寇が略奪してきた中国系住民をルーツとする地域もあるようで、
さまざまだと思われますが、
奈良の御所市を中心とする葛城地域の場合は、その成り立ちはかなり古く、
葛城の語源にもなった神武軍による葛(かずら)で編んだ網での土蜘蛛の捕獲はおそらく史実であり、
神武天皇の宮が近代になってできた今の橿原市の橿原神宮ではなく、
畝傍山南西の御所市柏原であることは、大和誌や本居宣長の「菅笠日記」に見られますし、
近年では鳥越憲三郎氏も著作で述べられております。

その御所市柏原で20世紀になって水平社宣言が採択され、当地が日本の部落解放運動の原点である事、
今でも水平社博物館の前が神武天皇社である事、
つまり「初代天皇の真の宮が被差別部落である」という事実、
これは古代史を考察する人間は避けては通れない問題であるのに、
誰一人真剣に向き合おうとしなかった問題です。

4世紀初頭から前半の崇神天皇以前に限っても、奴婢の大量誅殺の記事は、その神武軍による大和先住民土蜘蛛の誅殺以外にない。
つまり魏志倭人伝の殉葬奴婢百余人とは、日本に殉葬という習慣がない以上、
この神武軍による大和先住民土蜘蛛の誅殺であったわけで、
その場所が古来から高天原と呼ばれた場所であり、卑弥呼墓と直結するこの話、一気に邪馬台国論争の終結に繋がります。

  • [163]
  • (追加)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月15日(日)10時15分48秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
(追加)


│あなたの考える「奴婢」とは、どんな人たちですか?
│また、「土蜘蛛」は、「奴婢」ですか?

│回答を聞いてから、「奴婢」について、考えてみます。


(魏志倭人伝)
(その1):〔身分の序列には〕尊卑の身分に細かい等級があって、~充分な〔秩序が立っている〕。
(その2):下戸が大人と道で出逢った場合には、(云々)。
(その3):(卑弥呼は~、)婢1000人を侍らせ、云々。
(その4):女王卑弥呼が死んだ時、云々。〔その際〕に殉葬された者は奴婢100余人であった。

**************

(疑問01):(卑弥呼は~、)婢1000人を侍らせて、何をしているのですか?
(疑問02):機織り娘は、婢ですか?
(疑問03):土器(食器など)を作る人は、婢ですか。
(疑問04):高貴な身分の「男女」の身の回りの世話をする女性は、婢ですか。
(疑問05):奴婢は、結婚していたり、子どもはいますか。(自分の家を持っていますか?)
(疑問06):兵士は、奴婢ですか?  下戸は、奴婢ですか?
(疑問07):(仁徳天皇紀)淡路の海人(あま)80〔人〕を水手(かこ)にした。水手は奴婢ですか?


  • [162]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月14日(土)22時35分4秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│[161] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月14日(土)19時00分50秒
│4世紀前半の崇神以前にそのような出来事がどこにあったか、
│日本書紀を探せば、それは神武東征紀の土蜘蛛誅殺以外にありません。
│つまり神武と卑弥呼は同じ時代なわけです。

│私に日本書紀を読んでいないと批判するのなら、
│それ以外にどこかに奴婢が大量に誅殺されてるような記事あるか、
│米田さんが見つけてください。


p君さんへ

私は、系図(記紀)に名前が残るような人物しか見てこなかったのです。そのため、
いまひとつ、「奴婢」のイメージが湧かないのです。

あなたの考える「奴婢」とは、どんな人たちですか?
また、「土蜘蛛」は、「奴婢」ですか?

回答を聞いてから、「奴婢」について、考えてみます。

  • [161]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月14日(土)19時00分50秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 編集済
  • 返信
 
米田さんへ

カッコよい主張どうこうではなくて、普通に科学の話です。

この晩婚化の現代で一世代間は36年ですから、
一世代間30年というのは昭和の中頃か初めの頃、さかのぼって明治あたりまででしょう。

かつては古墳時代の15歳以上生きた人の平均寿命が30数歳という報告もあったようですが、
同じ研究をしている学者さん同士でも多少議論があったようで、最近は当時の平均寿命も少し伸びているようですから、
まぁ40歳くらいとして、一世代間30年はあり得ません。

妄想ではなくて科学の話をしてください。

そして、あまり細かい話は我々は学者ではないので分かりませんが、
最低限の考古学の骨格のようなものは頭に入れておいてください。

大和盆地で古墳時代が始まる庄内0期は年輪年代で2世紀末です。
この大きな変革は誰の時代か、「天皇」でいえば懿徳でも安寧でもなく神武でしょう。

事実、魏志倭人伝には卑弥呼墓の殉葬奴婢百余人という記事が書かれてますが、
日本に考古学的に殉葬がありませんので、
ならば奴婢が大量に誅殺されてるような記事はないか、4世紀前半の崇神以前にそのような出来事がどこにあったか、
日本書紀を探せば、それは神武東征紀の土蜘蛛誅殺以外にありません。
つまり神武と卑弥呼は同じ時代なわけです。

私に日本書紀を読んでいないと批判するのなら、それ以外にどこかに奴婢が大量に誅殺されてるような記事あるか、
米田さんが見つけてください。

崇神が4世紀初頭、そして神武が大変革の2世紀末、ならば1世代20年で6世代さかのぼることになります。
米田さんが言う一世代30年なんてトンデモなのです。


  • [160]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月14日(土)16時09分24秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│[159] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月13日(金)17時49分49秒

│案の定、極端な例を出しておられます。平均というのは

│長いも短いも含めての平均なので、長い例のみを出されるのは平均の説明になってません。
│たとえ継体天皇が60歳で子供を作ったとしても、まさかそれまで女性経験がなかった訳がなく、
│記録には残っていないものの、それ以前の越前時代には子供もいたでしょうし、


p君さんへ

※:私の感想を述べます。
_:上記の文章のところまで読んで、私は、疲れました。(反論を書く気力が抜けました。)

_:「ああ、p君さんは、日本書紀を読んでないのだな、と。」
_:「どんなにカッコよい主張をしていても、ろくに日本書紀も読んでない人の主張を誰が聞きますか?」



│AD130年を根拠がないと自分で言ってたのに何を言っておられるのか。

※:いま、やっている作業(議論)は、p君さんの主張が正しいかどうか、ではなくて、
_:きちんとした仮説になっているかを調べて(議論)しているのです。

※:今の議論は、二人のどちらの主張が正しいか、という議論をしているのでは、ありません。

※:私の考えるA案でも、p君さんのB案でも、「130年」でも、
_:手研耳命は、190年頃に生きていることは、分かっているので、そこは、細かく言わないのです。



  • [159]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月13日(金)17時49分49秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>158
> ┌
> │古墳時代に一世代間30年を平均と考えるのは失礼ながらトンデモです。
> └
> ※:せっかく、「古墳時代」と、話を広げてくれたので、「欽明天皇」の誕生について書きます。
>
> ※:「欽明天皇(きんめいてんのう)」は、509年生と言われています。没年は、571年です。
> _:没年から考えて、生年は、大体こんなものでしょう。
>
> ※:父親の「継体天皇」は、450年生と言われています。
> _:そうすると、(数え年で、)60歳の時の子どもになります。(継体天皇の享年は、82歳です。)
>
> ※:その欽明天皇の子どもには、推古天皇がいます。推古天皇は、554年生です。
> _:そうすると、欽明天皇(数え年で、)46歳の時の子どもです。(欽明天皇の享年は、63歳です。)
> _:(推古天皇の没年は628年ですから、享年は75歳です。)
>
> *****


案の定、極端な例を出しておられます。

平均というのは長いも短いも含めての平均なので、長い例のみを出されるのは平均の説明になってません。
たとえ継体天皇が60歳で子供を作ったとしても、まさかそれまで女性経験がなかった訳がなく、
記録には残っていないものの、それ以前の越前時代には子供もいたでしょうし、
欽明天皇が46歳の時に推古天皇を作ったとしても、
欽明天皇は即位までに複数の妃もおり、即位と同時に石姫が后となったようですから、
若いころに子供を作っていたのは当たり前だと思われます。


> ┌
> │そのような極端な例を出されても意味がないと思われます。
> └
>
> 一人は、媛蹈鞴五十鈴媛命・五十鈴依媛命の父親ですよ。
> 一人は、懿徳天皇の話。
> 一人は、孝安天皇の話。
> 一人は、一書ではありますが、3人の后の父親「葉江」の話。
>
> ※:彼らは、まさに、AD130年~200年頃の(2世紀の)話なのです。
>
>
> ※:孫娘(&孫の世代の女性)との結婚が、「極端な例」だというのなら、話は分かりますが、
> _:姪(&姪の世代の女性)との婚姻は、ごく当たり前の話です。
>


AD130年を根拠がないと自分で言ってたのに何を言っておられるのか。



> ┌
> │また3世紀に一世代間30年なら大和盆地に起った2世紀末の考古学的大変革の時代を説明できません。
> └
>
> ※:私でしたら、「手研耳命」の話は、本当は、もっと大掛かりな「内乱」だったと、考えますが。


たとえ手研耳命の反逆が大掛かりな「内乱」だとしても、父親の神武がやってきたときの考古学的大変革の方がはるかに大きく、
ニギハヤヒを屈服させ、荒れていた大和盆地に平安をもたらせたと言えますので、
それは緊張を意味する「環濠集落」の終了に現れていると思われます。
魏志倭人伝に書かれた倭国大乱を終結させたともいえると思います。
だからそれが2世紀末なのです。
ならば崇神からさかのぼって一世代約20年の6世代前です。


  • [158]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月12日(木)23時20分25秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│古墳時代に一世代間30年を平均と考えるのは失礼ながらトンデモです。

※:せっかく、「古墳時代」と、話を広げてくれたので、「欽明天皇」の誕生について書きます。

※:「欽明天皇(きんめいてんのう)」は、509年生と言われています。没年は、571年です。
_:没年から考えて、生年は、大体こんなものでしょう。

※:父親の「継体天皇」は、450年生と言われています。
_:そうすると、(数え年で、)60歳の時の子どもになります。(継体天皇の享年は、82歳です。)

※:その欽明天皇の子どもには、推古天皇がいます。推古天皇は、554年生です。
_:そうすると、欽明天皇(数え年で、)46歳の時の子どもです。(欽明天皇の享年は、63歳です。)
_:(推古天皇の没年は628年ですから、享年は75歳です。)

*****

※:せっかくですので、「蘇我稲目」の話もします。wikiでは、生年は506年頃、没年は570年です。
_:子どもに「境部摩理勢(さかいべの まりせ)」がいます。生年不明ですが、没年は628年です。
_:欽明天皇紀(562年)に、高麗の媛と侍女の二女を妻とした。とありますから、
_:563年に子どもが生まれたとします。その時、「蘇我稲目」は、(数え年で、)58歳です。
_:そうすると、「境部摩理勢(さかいべの まりせ)」の享年は、66歳になります。




│そのような極端な例を出されても意味がないと思われます。


一人は、媛蹈鞴五十鈴媛命・五十鈴依媛命の父親ですよ。
一人は、懿徳天皇の話。
一人は、孝安天皇の話。
一人は、一書ではありますが、3人の后の父親「葉江」の話。

※:彼らは、まさに、AD130年~200年頃の(2世紀の)話なのです。


※:孫娘(&孫の世代の女性)との結婚が、「極端な例」だというのなら、話は分かりますが、
_:姪(&姪の世代の女性)との婚姻は、ごく当たり前の話です。



│また3世紀に一世代間30年なら大和盆地に起った2世紀末の考古学的大変革の時代を説明できません。


※:私でしたら、「手研耳命」の話は、本当は、もっと大掛かりな「内乱」だったと、考えますが。


  • [157]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月12日(木)19時25分48秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 編集済
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>※:「宦官」という役人がいる、後漢や魏の書記官にとっては、それが常識だったのでしょう。

当時の中国の常識でも、通い婚の日本にはあてはまりません。
女王が「嫁に行く」わけがない。


>(その1):母と妻が姉妹の場合。(下図は、応神天皇記、若野毛二俣王の系図です。)
>(その2):父が姪と結婚した場合。←:30歳~50歳で結婚しています。


そのような極端な例を出されても意味がないと思われます。

生物学的にも当時の15歳以上生きた人の平均寿命は40歳程度。
また当時の女性が子供を産める年齢が15歳から27歳くらいとして、
一番健康な18歳から20歳くらいが最多でしょう。
男性もそれに準ずる。

古墳時代に一世代間30年を平均と考えるのは失礼ながらトンデモです。

  • [156]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月12日(木)16時30分3秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│[155] Re: (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月12日(木)15時00分57秒

│>後漢書倭伝を読んでいますか?

│なんで女王が「嫁に行かず」なんて話になるのか。
│こういうことを否定することこそ史料批判だと思いますが。

※:「宦官」という役人がいる、後漢や魏の書記官にとっては、それが常識だったのでしょう。


│>約30年という数字が出て来ました

│根拠は何ですか。

│平均寿命が40歳程度の時代に一世代間が30年なんてありえません。

│また3世紀に一世代間30年なら大和盆地に起った2世紀末の考古学的大変革の時代を説明できません。
│20年なら説明できます。


※:系図のパターンは、2通りあります。(その1)の場合は、娘が生まれている話です。


(その1):母と妻が姉妹の場合。(下図は、応神天皇記、若野毛二俣王の系図です。)

(姉妹の父)←:30歳~40歳で「妹」が生まれています。(もっと高齢で、生まれているかも‥‥。)
┌──┘
├─息長真若中比売──若野毛二俣王

└───────────弟日売真若比売命(若野毛二俣王の妻)


(その2):父が姪と結婚した場合。←:30歳~50歳で結婚しています。

┌─息子───┬─跡取り息子

└─娘──姪─┘


(掲載図:上下):いちいち説明しなくても、分かりますよね。




  • [155]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月12日(木)15時00分57秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
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  • 返信
 
>>154
>後漢書倭伝を読んでいますか?

魏志倭人伝をベースにして書かれた、倭人の女王を侮蔑しておちょくってる史書です。

婿を取らずならまだしも、当時の日本に家制度なんてないのに、
なんで女王が「嫁に行かず」なんて話になるのか。

こういうことを否定することこそ史料批判だと思いますが。


>約30年という数字が出て来ました


根拠は何ですか。

平均寿命が40歳程度の時代に一世代間が30年なんてありえません。
20歳で子供を作り、あと20年生きる、これでサイクルが説明できます。
一世代間が30年なんて明治あたりからでしょう。

ちなみに10数年前くらいで一世代間が36歳です、ラジオで言ってました。

また3世紀に一世代間30年なら大和盆地に起った2世紀末の考古学的大変革の時代を説明できません。
20年なら説明できます。




  • [154]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月12日(木)14時49分53秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│登場人物の「根拠なく生年」を定め、系図に当てはめていくことで、何が分かるというのでしょう。
│そもそも邪馬台国はどこか、卑弥呼は誰かを考えていたのではないのですか。

※:まず、「卑弥呼」を見ていきましょう。(p君さんは、後漢書倭伝を読んでいますか?)

(その1):後漢書倭伝:卑彌呼年長不嫁:年は長にして嫁せず。:(嫁いだことは、ないってさ。)
(その2):魏志倭人伝:年已長大 無夫壻:___(夫もいないし、お婿さんも、いないってさ。)

(結論)_:結婚して子どももいる女性の中から、「卑弥呼」を探すことは、無意味なのです。
(追加)_:そもそも、日本書紀の登場人物の中から、「生涯独身女性」を探すこと自体、厳しいのです。

************************************
後漢書倭伝(ネットの「古代史レポート」から、コピーさせてもらいました。)

桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王
 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食傳辭語 居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛 法俗厳峻

桓霊の間、倭国は大いに乱れ、さらに相攻伐し、歴年、主なし。一女子あり。名は卑弥呼と曰ふ。
年は長にして嫁せず。鬼神道に事へ、能く妖を以って衆を惑す。ここにおいて共に立て王と為す。
婢千人が侍る。見有る者は少なし。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞語を伝ふ。
居所、宮室、樓観は城柵し、みな兵を持ちて守衛す。法俗は厳峻なり。

「桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、主導する者がいなかった。
 一女子がいて、名は卑弥呼という。
 高齢だったが、独身で、鬼神道につかえ人々を惑わし操るのに長けていた。
 各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。侍女千人が付き従っている。
 面会した者はほとんどいないが、ただ男子一人がいて、飲食物を給仕し、言葉を伝える。住まいや
 宮殿、高層の神を祭る場所は城柵で囲い、みな兵器を持って守っている。法習慣は非常に厳しい。」

*********************************
魏志倭人伝(ネットの「古代史レポート」から、コピーさせてもらいました。)

  其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
  乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆
  年已長大 無夫壻 有男弟佐治國

「その国、本はまた男子を以って王と為す。住みて七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐して年を歴る。
 すなはち、一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼といふ。鬼道に事へ、よく衆を惑はす。
 年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟有りて国を治むるを佐く。」

「その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、
 互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。
 鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。
 非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。」

*****************************

│崇神の時代からおおよそ5~6世代遡ればウマシマジや天種子や天日方奇日方の時代になり、
│それは大和盆地で大変革のあった庄内0期、おおよそ2世紀末になり、
│同時に神武の時代でもあり、卑弥呼の時代でもあります。

※:1世代(生まれた男子に、平均して、何年後に「跡取り息子」が生まれるか。)は、(平均して)
_:何年かを、調べました。そうすると、約30年という数字が出て来ました。これは、系図のように、

┌─息子───┬─跡取り息子

└─娘──姪─┘__(典型例):同母姉妹の娘(姪)と結婚した子が「跡取り息子」に、なるからです。

※:そうすると、5~6世代遡れば、2世紀の中頃になるのです。ですから、2世紀末では、ないのです。

*****************************

※:次は、「そもそも邪馬台国はどこか、」の問題です。

後漢書倭伝:後漢(AD25年~220年の、国の歴史)

:大倭王は、邪馬臺国に居住している。拘邪韓国から、7000余里離れている。
:桓帝・霊帝の治世(147~189)の時代に、卑弥呼を共立した。(これを女王国という。)
:女王国から東へ海を渡ること1000余里で、拘奴国に至る。

魏志倭人伝:魏(220~265年の、国の歴史)

:邪馬壹(やまいつ)国は、女王の都している所である。(〇〇から、水行10日・陸行1か月)
:女王国の南に、「狗奴国」があり、男王がいる。
:女王国の東、海を渡ること1000余里のかなたに、また国がある。いずれも倭種の国である。

*************************************

※:そもそも、日本書紀では、連続した複数の天皇が、同じ都を使ったということは、ないのです。

※:ですから、後漢の時代に、拘邪韓国から、7000余里離れている所にあった、大倭王が居住していた、
_:「邪馬臺国」という国は、魏の時代の前に、(似た名前の邪馬壹国はあるが)無くなっていたのです。

※:そして、女王国の東にあった国は、「拘奴国」から「倭種の国」に変わったのです。
_:そして、女王国の南に、「狗奴国」が出来て、男王がいるのです。

※:国の変遷というものは、こんなものでしょう。
_:後漢書に出てくる、邪馬臺国に居住しているという「大倭王」は、男王だったと考えます。(以上)

http://


  • [153]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月12日(木)11時35分23秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
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>※:片方で、「放置(思考の停止)」をしておきながら、
>_:他方で、自分の説は、正しいと言い張る、その自信の根拠を知りたいです。


私が中田憲信の系図で「正しい」と言ったのは世代数です。
正しいという根拠は、年輪年代で導き出された最新の考古学と符合するからです。

崇神の時代からおおよそ5~6世代遡ればウマシマジや天種子や天日方奇日方の時代になり、
それは大和盆地で大変革のあった庄内0期、おおよそ2世紀末になり、
同時に神武の時代でもあり、卑弥呼の時代でもあります。

だから正しいと言ってるわけです。

登場人物の「根拠なく生年」を定め、系図に当てはめていくことで、何が分かるというのでしょう。
そもそも邪馬台国はどこか、卑弥呼は誰かを考えていたのではないのですか。

根拠なき生年を定めるなんてむなしいだけです。



  • [152]
  • 日本書紀における「系図の改ざん」

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月12日(木)09時18分45秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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.
日本書紀における「系図の改ざん」

日本書紀・天武天皇紀11年12月:
:詔して、「諸氏の人たちは、それぞれ氏上とすべき者を定めて申し送れ。(云々)

系図における先祖の扱い(下記の二つより、先祖を女性から男性に、書き直していることが想像出来る。)
:(系図)_:伊賀津臣命──臣知人命(伊香連祖)
:(風土記):伊香刀美───奈是理比売(伊香連の先祖である)

新唐書日本伝:701年。〔文武は〕栗田朝臣真人を遣わして、(云々)。
新唐書日本伝:〔玄宗の〕開元の初めに、栗田〔朝臣真人〕は再び朝貢し、(云々)。
(日本書紀&続日本紀):多治比真人県守らが遣唐使。
『古代豪族系図集覧』
(P-076より):栗田臣島──栗田(朝臣)真人(養老3年没)___←719年┐ここまで、系図を
(P-100より):多治比島─多治比(真人)県守(天平9年没享年70)←737年┘改ざんするのか。


│※:この系図をずっと眺めていて、出てきた私の答えは、景行天皇=彦狭嶋命(彦狭嶋王)です。

※:日本書紀の(系図)改ざんは、怖いくらいです。


│誰にもわからない生年など当てはめる必要はありません、


※:人間というものは、生まれてきて、成長し、結婚し、老いていきます。
_:けれども、日本書紀を読んでいて、印象として、
_:登場人物の一生というものが、イメージできないのです。
_:(生活感をイメージ出来る部分が少ないのです。)
_:だから、系図を作って(書き起こして、生年を代入して)、誕生から結婚、そして老いを
_:トレース(追体験)しようと、しているのです。
_:(まずは、系図の中で、人の一生が、成立するかどうかです。)

(たとえば、男が20歳の時に、女が40歳で、結婚して、子どもが出来ますか?)
(系図を作って、それを見ているのです。)

*********************

│この辺りも分からないのだから放置でいいです、


※:片方で、「放置(思考の停止)」をしておきながら、
_:他方で、自分の説は、正しいと言い張る、その自信の根拠を知りたいです。


  • [151]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月12日(木)07時37分17秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
>_:せめて、[147]投稿図下段の「多遅摩」の系図に「生年」を当てはめてみて下さい。



誰にもわからない生年など当てはめる必要はありません、



>。※:せめて、上記の系図が、(開化天皇の存在は、除いて構いませんが、)
_:つまり、「─孝元天皇──大彦命──御間城姫──垂仁天皇─」の
_:系図を否定する根拠を(あなた自身の手で)示して下さい。

※:「垂仁天皇は、孝元天皇のひ孫である。」
_:この程度の系図(続柄)さえも(「第六世代」で同世代だと)無視しているような人に、
_:「物部氏・三上氏・中臣氏系図」という「系図」を「錦の御旗」のように使ってほしくないです。


この辺りも分からないのだから放置でいいです、変に創作するから卑弥呼=日子八井命なんてことになってくるのです。
系図研究とは祖先から伝わってきたものを解釈・吟味することであって、あなたのように誰と誰を同一人物だと言って創作するものではありません。
中田憲信は全国を飛びまわって系図を収集してきたわけで、あなたのように家にいてパソコンで遊んでいる人とは違います。

  • [150]
  • 追加

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月11日(水)22時13分19秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│[148] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月11日(水)18時40分25秒

│あともう一つ、日本書紀では神武から崇神まで父子継承が続き10世代になっていますが、
│それはないであろうと考えてます。
│日本書紀では7代孝霊の子がモモソヒメと吉備津彦の姉弟になっていますが、
│それなら10代崇神より2世代年上になってしまい、
│四道将軍派遣が崇神30歳の時と仮定すれば、吉備津彦は70歳近くになってしまいますし、
│その姉が大物主と結婚ってありえないので、
│モモソヒメと吉備津彦は崇神と同世代かほんの少し上だと考えてます。


※:p君さんの考察の中では、まともな考察をしていますね。


│それなら10代崇神より2世代年上になってしまい、
│四道将軍派遣が崇神30歳の時と仮定すれば、吉備津彦は70歳近くになってしまいますし、

※:ですから、30歳・70歳を正しいとしたら、何が見えてくるか。(私は、そう考えました。)
_:日本書紀は、天皇制というウソをついているのです。(そういう結論になりました。)


※:ここから先は、私の妄想なのですが、
_:『古代豪族系図集覧』の系図には、不思議な系図が載っているのです。

※:この系図をずっと眺めていて、出てきた私の答えは、景行天皇=彦狭嶋命(彦狭嶋王)です。

※:私の答えを、皆さんに強要はしませんが、主張は、させていただきます。

※:大本営発表の「日本書紀」は、BC660年神武天皇即位だけではなく、
_:天皇の続柄まで、大胆に、いじっていた。

※:私は、このことに気が付いた時、「日本書紀」の恐ろしさを知りました。


  • [149]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月11日(水)21時51分6秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│[148] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月11日(水)18時40分25秒

│だから本当は応神の生年は362年よりもう少し古かったのかもしれませんが、
│どれくらい古いかなどわかりませんし、
│まぁとりあえず応神元年が390年であればそれでいいのではないかと思っています。


※:ですから、意見(アイデア)を投稿するのなら、
_:せめて、[147]投稿図下段の「多遅摩」の系図に「生年」を当てはめてみて下さい。
_:(そして、矛盾があるかないかくらい)せめて、その程度の、「自己検証」は、して下さい。


│したがって6代孝安以降、11代垂仁まで同世代と考え、以下のように考えてます。

│「第一世代」 天日方奇日方   ヒメ(踏鞴五十鈴)后         ①神武
│「第二世代」 建飯勝      ヒメ(踏鞴五十鈴)后         ②綏靖
│「第三世代」 建甕尻=タケミカヅチ 経津主神(香取神)        ③安寧
│「第四世代」 豊御気主  トヨ津媛                  ④懿徳
│「第五世代」 大御気主  トヨ津媛      ⑤孝昭(みまつ=彌馬升)⑥孝安
│「第六世代」 阿田賀田須 トヨ津媛 ⑦孝霊 ⑧孝元 ⑨開化 ⑩崇神(彌馬獲支)⑪垂仁(伊支馬)

※:天皇のなかに、親子ではなくて、兄弟が混入しているという話は、(ほかの人からも)聞きます。
_:けれども、あなたが、自説を「夢物語」ではなく、それなりに本気の主張であるというのなら、


(孝元天皇紀):孝元天皇は、欝色謎命を皇后にした。大彦命を生んだ。
(垂仁天皇紀):垂仁天皇の母の皇后は、御間城姫といい、大彦命の娘である。

─(孝霊天皇)──孝元天皇─┐┌─大彦命──御間城姫──垂仁天皇─

─(────)──欝色謎命─┴┴─(開化天皇)


※:せめて、上記の系図が、(開化天皇の存在は、除いて構いませんが、)
_:つまり、「─孝元天皇──大彦命──御間城姫──垂仁天皇─」の
_:系図を否定する根拠を(あなた自身の手で)示して下さい。

※:「垂仁天皇は、孝元天皇のひ孫である。」
_:この程度の系図(続柄)さえも(「第六世代」で同世代だと)無視しているような人に、
_:「物部氏・三上氏・中臣氏系図」という「系図」を「錦の御旗」のように使ってほしくないです。



  • [148]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月11日(水)18時40分25秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
>※:少し前に書いたように、p君さんも、私も、応神天皇は、380年生で、一致しています。


いえいえ、応神天皇生年は380年で一致していません。
私は仲哀没年は、この時代の古事記の崩御年干支が正しく、362年だと思っています。
だから成務没年は355年ですね。

そして応神元年は日本書紀や三国史記の記述や考古学の須恵器の編年から390年で間違いなかろうと思っています。
ですから神功皇后の時代は28年間であったと思っています。
したがって応神の生年は362年ですが、日本書紀は強引に神功皇后を卑弥呼にあてがう為、
干支を2運120年古くして、仲哀の亡くなる前日から十月十日目で応神が生まれたことにしています。
この状況には、応神が仲哀の子で間違いないということを後世に印象付けるための苦悩が見て取れます。
とんでもなく時代を引き延ばしてしまったゆえの苦悩です。

だから本当は応神の生年は362年よりもう少し古かったのかもしれませんが、
どれくらい古いかなどわかりませんし、まぁとりあえず応神元年が390年であればそれでいいのではないかと思っています。

あともう一つ、日本書紀では神武から崇神まで父子継承が続き10世代になっていますが、
それはないであろうと考えてます。
日本書紀では7代孝霊の子がモモソヒメと吉備津彦の姉弟になっていますが、それなら10代崇神より2世代年上になってしまい、
四道将軍派遣が崇神30歳の時と仮定すれば、吉備津彦は70歳近くになってしまいますし、
その姉が大物主と結婚ってありえないので、モモソヒメと吉備津彦は崇神と同世代かほんの少し上だと考えてます。

したがって6代孝安以降、11代垂仁まで同世代と考え、以下のように考えてます。

「第一世代」 天日方奇日方   ヒメ(踏鞴五十鈴)后         ①神武
「第二世代」 建飯勝      ヒメ(踏鞴五十鈴)后         ②綏靖
「第三世代」 建甕尻=タケミカヅチ 経津主神(香取神)        ③安寧
「第四世代」 豊御気主 トヨ津媛                   ④懿徳
「第五世代」 大御気主 トヨ津媛        ⑤孝昭(みまつ=彌馬升)⑥孝安
「第六世代」 阿田賀田須 トヨ津媛    ⑦孝霊 ⑧孝元 ⑨開化 ⑩崇神(みまき=彌馬獲支)⑪垂仁(いくめ=伊支馬)

驚くべきことに、孝昭も崇神も垂仁も、魏志倭人伝に出てくる官であった、

その官の一人である崇神(みまき=彌馬獲支)が、
阿田賀田須というスサノオ直系の大王(おおきみ=大物主)を倒し、
王位についた「革命」があったと考えてます。

  • [147]
  • ようこそ、「系図」の世界へ 

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月11日(水)15時09分14秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
.
ようこそ、「系図」の世界へ

│卑弥呼189年即位説というのがあるそうですが、それを採用するとして、
│17歳で即位したとして、AD200年には28歳。

※:あなたの主張に沿って、系図に「生年」を書き込んでみました。←(掲載図:上段)
_:「生年」を書き込んだら、それが正しいかどうかの、検証です。

※:検証の結果によって、(その1):そのままでOK。(その2):微調整をすれば、OK。
_:(その3):微調整の範囲を超えていて、「不可」。の、3通りに判別されます。

※:(学問の世界では、この検証が大切になってきます。)

*****
※:少し前に書いたように、p君さんも、私も、応神天皇は、380年生で、一致しています。
_:ですので、この応神天皇から、先祖にむかって、生年を当てはめてみます。
_:「15年」と「20年」を書き込んでいますが、(感覚的には、)
_:性別不明として「20年」の方がしっくりときます。

(掲載図:中段):Q:「開化天皇」は、どこにいる。

(風土記):その后の神功は、開化天皇の五世の孫、「息長宿禰の女」である。
_____:‥‥‥:黄色の「開化天皇」の両方、または、片方である。

(神功皇后紀):神功皇后は、開化天皇のひ孫で、気長宿禰王の娘である。
_____:‥‥‥:緑の中の誰かが、「開化天皇」である。


※:系図を見ると分かりますが、日本書紀の記述にある、「開化天皇」は、見当たりません。
_:(系図にすると分かるのですが、)系図というのは、正直には書かれていないのです。

※:書かれていないのであれば、探せばよいだけです。見つければよいのです。


(掲載図:下段):Q:「天之日矛」の生年は? Q:「開化天皇」の生年は?

Q:開化天皇は、何年頃に生まれたか。
Q:天日槍の弟は、味鄒王(:262~284)か。
(追加の)Q:天日槍は、塞曹掾史張政と同一人物かまたは、張政の部下ではないか。

※:系図が書けると、大体の「生年」が見えて来ます。

*****************************
(ここからが、本当の「検証」です。)


│卑弥呼189年即位説というのがあるそうですが、それを採用するとして、
│17歳で即位したとして、AD200年には28歳。

※:p君さんの書き込んだ「系図」と、応神天皇・神功皇后から遡(さかのぼ)ってきた「系図」を
_:並べてみて、「開化天皇」の生年が、どのくらいだったら、二つの系図は、両立しますか?

※:(矛盾しそうな、二つの系図が)両立出来て、(ようやく)初めて、「仮説」になるのです。

※:ここまで、検証が出来ていたら、私やほかの人が、3つ目、4つ目の系図を持ってきて
_:(すべてが同時に)成立するかどうかを、みんなで、検討(検証)するのです。

(系図の世界は、矛盾だらけなのです。さて、どうします?)


  • [146]
  • 中田憲信系図

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月10日(火)16時05分36秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
中臣、三上祝、物部、そして鴨の相関関係です。
私はこれはおおよそ正しいのではないかと思っています。

赤い字は「天皇」です。
もちろん当時に天皇なんていませんし、彼等は大王(おおきみ)でもない。
当時の大王(おおきみ)は「きみ、かみ=神=鴨」。
だから神武時代の天日方奇日方が、日本書紀で鴨王(かものおおきみ)とも表記されているわけです。

この系図は崇神から神武時代までおおよそ5~6世代となってます。
これは最新の考古学の世代観とも符合します。

そして一番右端の上に魏志倭人伝に書かれた卑弥呼Bei mei hu)、比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、
つまりヒメ后=ヒメ踏鞴五十鈴媛がいます。

  • [145]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月10日(火)13時24分56秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
>※:あなたの考える高齢の女性(卑弥呼)の生年(〇〇年生)を、
>_:下記の系図に、書き込んでみて下さい。


卑弥呼189年即位説というのがあるそうですが、それを採用するとして、
17歳で即位したとして、AD200年には28歳。

AD172年生まれというところでしょうか。

AD247年没としてヒメ(踏鞴五十鈴)媛は享年75歳ですね。

  • [144]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月10日(火)10時56分14秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│良いわけないでしょ。
│何が根拠で130年生になるのだか、無茶苦茶です。


※:130年生に根拠はないです。
_:ですから、たとえば、仮に79歳で亡くなったとしたら、170(or169)年生なのですが、

※:あなたの考える高齢の女性(卑弥呼)の生年(〇〇年生)を、
_:下記の系図に、書き込んでみて下さい。

※:下記の系図は、古事記の文章を忠実に再現したものです。
_:ワープロにコピーして、(〇〇年生)の部分を書き直してみて下さい。
_:(そして、生存可能な「生年」を見つけて下さい。)
_:見つかったら、そのコピーを投稿して下さい。(縦線がずれていても構いません。補正しますから。)
_:生存可能な系図が、出来たのなら、あなたの説を(50%)認めても、良いです。


(私の系図解読では、何枚も(〇〇年生)を書き込んで、生存可能なことを確かめてきました。)
(私は、この方法で、数千枚の系図を書いて、生存可能かどうかを、調べてきたのです。)

*****************************************

    (結婚年齢)      (14歳)  (19歳)
※:人間の出産年齢を例えば、女性は15歳。男性は20歳、と、します。
_:仮に、踏鞴五十鈴の生年を、AD130年とします。

(古事記による系図)                            (日本書紀の即位年)
                                細媛命─┐ 孝霊天皇元年(辛未)
(師木県主)                        (日本書紀)│      (251年)
─波延─────阿久斗比売─┐┌─常根津日子伊呂泥命          ├─孝元天皇
              ││             (7代)   │
      (2代)(3代)├┼─懿徳天皇(4代)     孝霊天皇──┘┐┌─吉備津彦
─踏鞴五十鈴─綏靖──安寧─┘│        (205年生)       ├┤
130年生) 天皇  天皇  └─師木津日子命──和知都美命──蝿伊呂杼─┘└─倭迹々日百襲姫命
  ↑ (145年生)(165年生) (185年生)(淡路の御井宮)(225年生)   (240年生)
  ↑
「p君さんの卑弥呼候補」

http://


  • [143]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月10日(火)06時24分58秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 編集済
  • 返信
 
>>142

>子どもはいますから

全然関係ありませんね、寡婦なら子供もいたでしょうし、魏志には卑弥呼が即位してから長大になるまでの卑弥呼の様子が書かれてません。
ただ夫がいないというだけで生涯独身か死別か離婚かなど聞かなかっただけでしょう。


>_:ヒメ(踏鞴五十鈴)媛を卑弥呼にして、生年を入れた系図を作ると、130年生・248年没になります。
>_:つまり、「p君説」に従うと、卑弥呼は、(数えで)119歳で亡くなります。それでよいですね。


良いわけないでしょ。
何が根拠で130年生になるのだか、無茶苦茶です。



>>_:系図に生年を当てはめてみて、分かったと思います。
>_:(「130年生」は変更しても構いませんが、女性が10歳で、出産可能、は、やめてくださいね。)
>_:「p君説」の可能性は、0%です。


日子八井命が女性であった、あるいは女装趣味があった確率を仮に3%としましょうか。
しかし上記、日子八井命が「すでに年が長大であり、夫はおらず、宮に出入りするただ一人の男子があり、政治を行う男弟がいた」
などとは全く証明できません。
その確率はゼロです、なにしろ事績がありませんから。

日子八井命が女性であるという自分の説には「0%である」とは、いえない。」と言いながら、(まぁ女性である確率は3%はあるが卑弥呼である確率は証明しようがないのでゼロ)
また

>※:学問の世界では、絶対に〇〇である。というような表現は、避けているのです。

と言いながら
年が長大であり、夫はおらず、宮に出入りするただ一人の男子があり、政治を行う男弟がいたヒメ(踏鞴五十鈴)媛の「可能性は、0%です。」というわけですか。

新掲示板の主監は裏方に徹して自分の意見を頻繁に書くのは控えてもらいたい、読むに堪えない説です。








  • [142]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 9日(月)22時51分54秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│[141] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 9日(月)18時44分18秒

│どちらにしても日子八井命(ひこやいのみこと)が女性である何の証拠にもならないし、
│事績のない日子八井命を
│「すでに年が長大であり、夫はおらず、宮に出入りするただ一人の男子があり、政治を行う男弟がいた」
│などとはできません。
│母親のヒメ(踏鞴五十鈴)媛なら、魏志の記述のほぼすべてに合致し、名前の発音も似ているわけで、
│なんだかわざとヒメ(踏鞴五十鈴)媛を卑弥呼候補から外しておられるとしか思えません。


<「証明」の世界について>:数学的な言葉の「あや」

「日子八井命(ひこやいのみこと)」が女性である可能性は、絶対にない(0%である)。

※:白坂活日子郞女【古事記】の用法が、ひとつでもある以上、「0%である」とは、いえない。

「日子八井命(ひこやいのみこと)」が絶対に女性であるとは、米田は、断言していません。

※:学問の世界では、絶対に〇〇である。というような表現は、避けているのです。


│母親のヒメ(踏鞴五十鈴)媛なら、魏志の記述のほぼすべてに合致し、名前の発音も似ているわけで、
│なんだかわざとヒメ(踏鞴五十鈴)媛を卑弥呼候補から外しておられるとしか思えません。

(その1):「無夫壻」と「寡婦」のどちらに該当するかは、不明としても、子どもはいますから。
(その2):私の系図解読の特徴は、系図に生年を書き込むのです。(実現可能かどうかを見ます。)

※:仮説検証法というのは、相手の主張が正しいとした時に、何が起きるかを検証する証明方法です。
_:ヒメ(踏鞴五十鈴)媛を卑弥呼にして、生年を入れた系図を作ると、130年生・248年没になります。
_:つまり、「p君説」に従うと、卑弥呼は、(数えで)119歳で亡くなります。それでよいですね。
_:系図に生年を当てはめてみて、分かったと思います。
_:(「130年生」は変更しても構いませんが、女性が10歳で、出産可能、は、やめてくださいね。)
_:「p君説」の可能性は、0%です。
_:これが、系図を使った「仮説検証法」という証明方法なのです。


  • [141]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月 9日(月)18時44分18秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 編集済
  • 返信
 
ざっと拾ってきました。

白坂活日姫皇女【日本書紀】(しらさかのいくひひめのひめみこ)白坂活日姫皇女
白坂活日子郞女【古事記】(しらさかのいくひこのいらつめ)白坂活日子郎女
白坂治日姫皇女【先代旧事本紀】白坂治日姫皇女
白坂治白姫皇女【先代旧事本紀】白坂治白姫皇女

(しらさかのいくいのいらつめ)と読む人もいるようです。

これはあくまで活日(いくひ)が名前の主体であり、日子(ひこ)ではないようです。

どちらにしても日子八井命(ひこやいのみこと)が女性である何の証拠にもならないし、
事績のない日子八井命を「すでに年が長大であり、夫はおらず、宮に出入りするただ一人の男子があり、政治を行う男弟がいた」
などとはできません。
母親のヒメ(踏鞴五十鈴)媛なら、魏志の記述のほぼすべてに合致し、名前の発音も似ているわけで、
なんだかわざとヒメ(踏鞴五十鈴)媛を卑弥呼候補から外しておられるとしか思えません。

  • [140]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 9日(月)11時12分27秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│[139] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 9日(月)10時00分48秒

│>※:「台与」は、「倭迹々日百襲姫命」の事だろうと、考えています。

│「倭迹々日百襲姫命」という名前のどこをどう読めば「とよ」「いよ」になるのでしょう。
│また彼女は一皇女であり最高位ではありません。
│崇神の娘である豊鍬入姫命を台与とするならともかく、
│名前の発音が全然似通っていない人を「台与」にはできません。
│またそこまでいうなら何で天トヨ津媛を「台与」にしないのか意味が分かりません。


※:記紀に登場する人物(特に女性)は、名前を持っていなかった(隠した)可能性があります。
_:ですので、地名に由来する名前を付けて、「個人名」にすることが多いように感じます。

※:また、雄略天皇紀、草香幡梭姫皇女(更の名は橘姫皇女)のように、複数の名前を持っています。

※:どうしても、「台与」に近い生を探すと、「乎止与(おとよ)命」という人物がいます。
_:「乎止与命(小豊命)、尾張国造初」という人物です。
_:この人物は、「建稲種命」と「宮簀媛命(日本武尊妃)」の親であることしか分かっていません。
_:年代的に、「台与」と「乎止与命」は、時代が合いません。

※:私は、「乎止与命」=「豊鍬入姫命」と、(個人的には)考えています。

※:日本書紀は、大本営発表ですから、意図的に「台与」の名前を隠している可能性が大きいです。


│またそこまでいうなら何で天トヨ津媛を「台与」にしないのか意味が分かりません。

※:「天豊津媛命」は、私が、2代目「卑弥呼(248年没)」にしているからです。


│あと、

│>ヒメ踏鞴五十鈴媛は「ヒメ、媛」なので女性ですね。
│>ならばヒコが付いてる日子八井命がなんで女性なのですか。

│という質問を完全にスルーされています。
│答えられないのだったらもういいのですけどね。

※:なかなか回答が見つからなかったために、保留にしていました。
_:(今回、)下記の2例を見つけました。

(例:その1):「清日子(清彦)」は、女性にしています。([128]では、女性のつもりでした。)

(例:その2):「白坂活日子郎女(記)」=「白坂活日姫皇女(紀)」(継体天皇記にいます。)

※:名前に「日子」がついている女性は「いる」、でよろしいでしょうか。



  • [139]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月 9日(月)10時00分48秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
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>※:エリザベス女王は、寡婦なり。(「無夫壻」とは、言いません。)
>※:p君さんは、「無夫壻」と「寡婦」を間違えていました。


それはエリザベス女王が寡婦だと世界中の誰もが知っているからですね。
私は文法として正しいのかと聞いたのですが。
3世紀、中国側は倭国という国の様子が分からない時に、目の前に現れた女王の様子を、あるいはまた聞きなのかもしれないけれど、
女王はすでに年が長大であり、夫はおらず、宮に出入りするただ一人の男子があり、政治を行う男弟がいたという事ですので、
その夫がいない情況を「生涯独身」と決めつけることはできないと言ってるだけです。
もちろん生涯独身であったかもしれませんが、文体が逆接ではない以上、寡婦もありとなるわけです。

>──────────────────────────────────────────────
>P-283_孝霊天皇_伊賀国__孝霊天皇の時代・癸酉の歳=253年_孝霊天皇元年(辛未)=251年
>P-308_垂仁天皇_陸奥___垂仁天皇27年(戊午)=358年___垂仁天皇元年(壬辰)=332年
>P-297_応神天皇_伊豆国__応神天皇5年(甲午)=394年___応神天皇元年(庚寅)=390年
──────────────────────────────────────────────
>(癸酉:みずのと-とり)(戊午:つちのえ-うま)(甲午:きのえ-うま)(壬辰:みずのえ-たつ)

>※:p君さんの使っている「年代観」は、(数は少ないですが)『風土記』に書かれている「干支表記」を
>_:使って、私も、ほぼ同じ年代を使っています。(ぜひ、『風土記』を買って、読んで下さい。)

>※:私が使っている年代では、(『風土記』の)孝霊天皇元年(251年)を、さらに追加で使っています。


これは私も年代観が同じであり、なかなか面白そうです。


>※:「台与」は、「倭迹々日百襲姫命」の事だろうと、考えています。


「倭迹々日百襲姫命」という名前のどこをどう読めば「とよ」「いよ」になるのでしょう。
また彼女は一皇女であり最高位ではありません。
崇神の娘である豊鍬入姫命を台与とするならともかく、名前の発音が全然似通っていない人を「台与」にはできません。
またそこまでいうなら何で天トヨ津媛を「台与」にしないのか意味が分かりません。

あと、

>ヒメ踏鞴五十鈴媛は「ヒメ、媛」なので女性ですね。
>ならばヒコが付いてる日子八井命がなんで女性なのですか。

という質問を完全にスルーされています。
答えられないのだったらもういいのですけどね。

  • [138]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 9日(月)09時13分28秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│[137] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 8日(日)16時58分30秒

│ >※:「接続詞」を抜いても、意味は、変わりませんよ。

│では今のエリザベス女王を描写する時にはどう表現しますか。
│【年已長大 無夫壻】でなにか齟齬はありますか。
│そのエリザベス女王には曾孫までおられます。

※:エリザベス女王は、寡婦なり。(「無夫壻」とは、言いません。)

『漢文(かんぶん)』(ウィキペディアより)
:漢文とは、古代中国の文語体の文章のこと。

:漢文の特徴、ことにその美しさについて一般的に言われることは、簡潔ということである。
:漢文はその発生の初めから知的に整理された中国の 文章語 で、 紀元前 の文献である
:『 論語 』や『 孟子 』のころにはすでに記載語として成立していた。
:その文章は当時の 口語 の煩雑さを整理して、より簡潔な形に凝集さものである。
:そしてこの文体の志すところはその簡潔の 美 のみではなく、もう一つの重要なものとして、
:リズム の美があった。 簡潔さの例として、まず漢文では 時制 が省略される。
:ゆえに 現在 か 未来 か 過去 かは読者の判断にゆだねられる。

※:漢文の表現のあいまいさは認めますが、漢文に対しては、「齟齬」云々を云ってはいけないのです。
_:それが(あいまいなのが)、漢文なのです。


│卑弥呼の話に戻りますが、応神天皇390年元年、そして崇神天皇4世紀初~前半というのは、
│考古学的にもほぼ決まりです。

──────────────────────────────────────────────
 4世紀における年代特定。<『風土記』(東洋文庫)の干支から見た、即位(太歳)の推測年代>
──────────────────────────────────────────────
P-283_孝霊天皇_伊賀国__孝霊天皇の時代・癸酉の歳=253年_孝霊天皇元年(辛未)=251年
P-308_垂仁天皇_陸奥___垂仁天皇27年(戊午)=358年___垂仁天皇元年(壬辰)=332年
P-297_応神天皇_伊豆国__応神天皇5年(甲午)=394年___応神天皇元年(庚寅)=390年
──────────────────────────────────────────────
(癸酉:みずのと-とり)(戊午:つちのえ-うま)(甲午:きのえ-うま)(壬辰:みずのえ-たつ)

※:p君さんの使っている「年代観」は、(数は少ないですが)『風土記』に書かれている「干支表記」を
_:使って、私も、ほぼ同じ年代を使っています。(ぜひ、『風土記』を買って、読んで下さい。)

※:私が使っている年代では、(『風土記』の)孝霊天皇元年(251年)を、さらに追加で使っています。


│その崇神天皇のほんの数十年前に臺與(台与、とよ)あるいは「いよ」がいることになります。
│まずそれが基本だと思います。
│その考古学的な骨格を無視して三国史記の登場人物と日本書紀の人物を同一人物にしたり、
│ヘンテコな事をするから卑弥呼が分らなくなるのです。


『風土記(伊賀国)』より(東洋文庫:P-283)
:伊賀の国は昔、伊勢の国に属していた。
:孝霊天皇の御宇の癸酉(253年±60n)の歳に、これを分かって伊賀の国とした。
:もと、この名は、伊賀津姫の領していた郡であるから、それによって郡の名とし、
:また国の名としたものである。

※:この文章から分かることを、箇条書きにします。

(その1):伊賀津姫を大伊賀津彦の娘とすると、伊賀津姫=奈是理比売、になるだろう。
(その2):伊賀の国の分離独立を253年とすると、もともと、伊賀津姫が領主だった。
(その3):「天女の妹」も「奈是理比売」も、「無夫壻」には、該当しません。
(その4):「奈是理比売」は「伊香連の先祖」ですから、子どもがいます。
(その5):「奈是理比売」は、年代的に、240年代から領主だったと考えられます。
(その6):「奈是理比売」と「細媛命」は、同一人物だろう。
(PS_):「伊是理比売」と「奈是理比売」は、入れ替えの可能性はあります。


│崇神天皇の数十年前に、当時の最高位の女性である臺與(台与、とよ)がいますし、
│その3世代前に卑弥呼(Bei mei hu)、比咩后(Bi mie hou)、
│比売后〈Bi; mai hou〉という最高位の女性もいますから、
│そしてその住処に径百余歩の塚、大量の奴婢殺害痕跡もあります。


※:「台与」は、「倭迹々日百襲姫命」の事だろうと、考えています。


│つまり邪馬台国論争は終わりなのです。

※:p君さんは、「無夫壻」と「寡婦」を間違えていました。

※:本来ですと、「風土記」の記述を証拠に、九州国(邪馬台国)と
_:伊勢国(近畿/丹波国)・出雲吉備国とは、別の国である。と、なるはずなのですが・・・。

※:「風土記」を証拠として使うには、「神功皇后は開化天皇の五世の孫」・「倭武天皇」
_:・「市辺天皇」など、史書として扱うには、ハードルが高いのです。

※:私は、「邪馬台国九州説」ですが、後漢書の「拘奴国」は、近畿だと、言っているのです。

PS:後漢(ごかん25年~220年)という国は、220年に滅んでいるのです。

  • [137]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月 8日(日)16時58分30秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>※:「接続詞」を抜いても、意味は、変わりませんよ。


では今のエリザベス女王を描写する時にはどう表現しますか。
【年已長大 無夫壻】でなにか齟齬はありますか。
そのエリザベス女王には曾孫までおられます。


>※:p君さんは、「〇〇命」と書かれている人物は、すべて男性であると、
_:言い切れますか? (私は、すべてが男性であるとは、断言出来ません。)


そんなことは一言も言ってません、「〇〇命」は尊称であり性別と関係しません。
私があなたに聞いてるのは日子八井命(ひこやいのみこと)はヒコが付いてるのに何で女性なのかという事です。
ヒメ踏鞴五十鈴媛は「ヒメ、媛」なので女性ですね。

ならばヒコが付いてる日子八井命がなんで女性なのですか。



>※:住んでいる場所や死んだ場所と、墓の場所は、同じ(近く)とは限らない、
_:と、私は考えます。


旅先で亡くなった場合などはそう書かれてたりしますから、基本は生まれ育った場所に墓があるものです。


卑弥呼の話に戻りますが、応神天皇390年元年、そして崇神天皇4世紀初~前半というのは、
考古学的にもほぼ決まりです。
その崇神天皇のほんの数十年前に臺與(台与、とよ)あるいは「いよ」がいることになります。
まずそれが基本だと思います。
その考古学的な骨格を無視して三国史記の登場人物と日本書紀の人物を同一人物にしたり、
ヘンテコな事をするから卑弥呼が分らなくなるのです。

崇神天皇の数十年前に、当時の最高位の女性である臺與(台与、とよ)がいますし、
その3世代前に卑弥呼(Bei mei hu)、比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉という最高位の女性もいますから、
そしてその住処に径百余歩の塚、大量の奴婢殺害痕跡もあります。

つまり邪馬台国論争は終わりなのです。

  • [136]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 8日(日)09時54分7秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
>[135] Re: (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 8日(日)06時36分36秒

│[なるも」などは典型的な逆接の接続詞で原文にはありません。
│「尽管」:だけれども.にもかかわらず
│ないものは訳しようがない。

※:「和訳」は、基本的に、「意訳」です。
_:p君さんは、その意訳が気に入らない、ということだけでしょう。

※:また、p君さんは、「夫壻(ふせい)」という意味を辞書で調べることも
_:しないで、(自分の考えが正しいと、)自己主張をし続けていたようですね。


│上記、接続詞の問題です。

※:「接続詞」を抜いても、意味は、変わりませんよ。


│それこそ誰も言っていない以前に男性が何で卑弥呼なのか。
│事績のない男性を卑弥呼にはできません。

※:p君さんは、「〇〇命」と書かれている人物は、すべて男性であると、
_:言い切れますか? (私は、すべてが男性であるとは、断言出来ません。)

※:日本書紀は、神功皇后紀で、「卑弥呼」を少し記録しています。そして、
_:神功皇后紀以外の場所には、一切、書かなかった。(これは、編集方針です。)

※:古事記は、事績を隠して、性別もあいまいにして、違う名前で、残した。
_:(これは、古事記の編集方針です。)と、米田は、考えます。


│> ┌
│> │普通は卑弥呼の墓はどこだろうとか考えてから自説を練るわけですが。
│> └
│そんなことは関係がありません、
│あなたは纏向だと言ったのだから墓も考えないで適当な発言は控えてください。

※:「墓は、住んでいる場所の近くにあるのが当然である。」
_:あなたはそれを、大前提(当たり前)として、考えていませんか?

※:さらに、墓があるのは事実だから、その傍に住んでいたに違いない。
_:と、考えていませんか?

※:記紀に、埋葬場所が書いてあっても、ウソかも知れない。(これが現実です。)

(景行天皇紀:55年)
※:彦狭嶋王は、春日の穴咋邑に到(つ)いて、病に臥して薨じた。
_:(云々)ひそかに王の尸〔かばね・死体〕を盗み、上野の国に葬った。

(継体天皇紀:24年)
※:毛野臣は、召されて対馬に到着したが、病にあって死んだ。
_:葬送に川をたどって、近江に入った。その妻が歌って、(云々。)

※:住んでいる場所や死んだ場所と、墓の場所は、同じ(近く)とは限らない、
_:と、私は考えます。


│墓はどこでしょうか、まぁまた答えないのでしょうが。

※:「分からないもの」は「分からない」と答えることが、学問だと考えます。


  • [135]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月 8日(日)06時36分36秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
> >>134
> ┌
> │[133] Re: (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 7日(土)19時04分46秒
> │
> │東洋文庫であろうが何であろうが逆接ととらえているのなら間違えてます。
> │以前もどこかに年長大「なるも」と書かれてましたが間違えてます。
> │逆接の接続詞がない以上そのようには訳せません。
> └
>
> (訳文:『東アジア民族史1』東洋文庫)
> :すでにかなりの年齢であるが、夫をもたず、彼女の弟がいて政治を補佐している。
> :ただ一人の男子だけが飲食を給仕し、云々。
>
> (訳文:『魏志倭人伝』山尾幸久:講談社現代新書)
> :年已(すで)に長大なるも夫壻(ふせい)無く、男弟有りて国を治むを佐(たす)く。
>
> (訳文:『学研ムック』学習研究社)
> :すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。
>
> (訳文:『ゼロからの古代史辞典』藤田友治訳:ミネルヴァ書房)
> :すでに「長大」であるが、夫をもたず、彼女の弟がいて政治を補佐している。


[なるも」などは典型的な逆接の接続詞で原文にはありません。

「尽管」:だけれども.にもかかわらず

ないものは訳しようがない。


>
> ┌
> │むこ【婿/×聟/×壻】 の解説_____出典:デジタル大辞泉(小学館)
> │1 結婚して妻の家系に入った男性。「―を取る」⇔嫁。
> │2 娘の夫。娘むこ。女婿?(じょせい)?。⇔嫁。
> │3 結婚したばかりの男性。また、結婚式でこれから婿になる男性。新郎。はなむこ。⇔嫁。
> └
> ※:「夫壻(ふせい)無く」を(米田が)意訳してみると、
> _:夫の家に嫁いだわけでもなく、婿養子を取ったわけでもない。ましてや、娘婿もいない。
>
> ※:つまり、「接続詞」の問題ではないことが分かります。
>


上記、接続詞の問題です。


> ┌
> │卑弥呼が日子八井命(ひこやいのみこと)などという確率は何%ですか。
> └
> ※:そうですね、30%くらいでしょうか。(謙遜して、控えめに言ってですが。)


それこそ誰も言っていない以前に男性が何で卑弥呼なのか。
事績のない男性を卑弥呼にはできません。



>
> ┌
> │普通は卑弥呼の墓はどこだろうとか考えてから自説を練るわけですが。
> └
>
> ※:私は、系図解読・復元マニアですので、「卑弥呼の墓はどこか」とかは、
> _:私にとっては、最優先課題ではありません。系図解読・復元の先に、
> _:「卑弥呼の墓はどこか」が見つかれば、めっけもの。そんなものです。
> _:特に、私は古墳については、ど素人ですので。



そんなことは関係がありません、あなたは纏向だと言ったのだから墓も考えないで適当な発言は控えてください。


>
> ┌
> │卑弥呼の男弟の話ではなく、卑弥呼共立の70~80年前の其国の男王です。
> └
> ※:AD107年の倭国王帥升のことか、
> _:それとも、帥升の1代前の王のことか、どちらの王のことでしょうか。
>
> ※:どちらにしても、九州北部の話でしょう。


墓はどこでしょうか、まぁまた答えないのでしょうが。

  • [134]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 7日(土)22時04分18秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│[133] Re: (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 7日(土)19時04分46秒

│東洋文庫であろうが何であろうが逆接ととらえているのなら間違えてます。
│以前もどこかに年長大「なるも」と書かれてましたが間違えてます。
│逆接の接続詞がない以上そのようには訳せません。


(訳文:『東アジア民族史1』東洋文庫)
:すでにかなりの年齢であるが、夫をもたず、彼女の弟がいて政治を補佐している。
:ただ一人の男子だけが飲食を給仕し、云々。

(訳文:『魏志倭人伝』山尾幸久:講談社現代新書)
:年已(すで)に長大なるも夫壻(ふせい)無く、男弟有りて国を治むを佐(たす)く。

(訳文:『学研ムック』学習研究社)
:すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。

(訳文:『ゼロからの古代史辞典』藤田友治訳:ミネルヴァ書房)
:すでに「長大」であるが、夫をもたず、彼女の弟がいて政治を補佐している。


│むこ【婿/×聟/×壻】 の解説_____出典:デジタル大辞泉(小学館)
│1 結婚して妻の家系に入った男性。「―を取る」⇔嫁。
│2 娘の夫。娘むこ。女婿?(じょせい)?。⇔嫁。
│3 結婚したばかりの男性。また、結婚式でこれから婿になる男性。新郎。はなむこ。⇔嫁。

※:「夫壻(ふせい)無く」を(米田が)意訳してみると、
_:夫の家に嫁いだわけでもなく、婿養子を取ったわけでもない。ましてや、娘婿もいない。

※:つまり、「接続詞」の問題ではないことが分かります。



│卑弥呼が日子八井命(ひこやいのみこと)などという確率は何%ですか。

※:そうですね、30%くらいでしょうか。(謙遜して、控えめに言ってですが。)


│普通は卑弥呼の墓はどこだろうとか考えてから自説を練るわけですが。


※:私は、系図解読・復元マニアですので、「卑弥呼の墓はどこか」とかは、
_:私にとっては、最優先課題ではありません。系図解読・復元の先に、
_:「卑弥呼の墓はどこか」が見つかれば、めっけもの。そんなものです。
_:特に、私は古墳については、ど素人ですので。


│卑弥呼の男弟の話ではなく、卑弥呼共立の70~80年前の其国の男王です。

※:AD107年の倭国王帥升のことか、
_:それとも、帥升の1代前の王のことか、どちらの王のことでしょうか。

※:どちらにしても、九州北部の話でしょう。


  • [133]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月 7日(土)19時04分46秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
>>132
> ┌
> │[131] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 7日(土)13時43分18秒
> │
> │>(その4):卑弥呼=日子八井命は、巻向(纏向)に、196年頃住んだと考えています。
> │
> │米田さんは九州説ではないのですか。
> └
> ※:後漢書夫餘国伝によると、六つの家畜の名前を官名にしていて、「狗加」などがあります。
> _:多婆那国で生まれた「脱解王」は、「于氏」ですが、五族のひとつとして、「狗加」と考えました。
>
> ※:(于氏:狗加)脱解王─仇鄒角干(神武天皇)──手研耳命(伐休王・発歧)/卑弥呼
>
> ※:196年頃は、後漢の時代です。九州(女王国)の東に「拘奴国」が、あります。
> _:つまり、卑弥呼の国は、「拘奴国」だったと、考えました。


もはや支離滅裂で何を言ってるのかわかりません、ただ日本の古代史を破壊したいだけとしか思えません。


> (訳文:東洋文庫)
> :すでにかなりの年齢であるが、夫をもたず、彼女の弟がいて政治を補佐している。
> :ただ一人の男子だけが飲食を給仕し、云々。


東洋文庫であろうが何であろうが逆接ととらえているのなら間違えてます。
以前もどこかに年長大「なるも」と書かれてましたが間違えてます。
逆接の接続詞がない以上そのようには訳せません。




> _:p君さんの系図では、ここまで考えていましたか?


普通に卑弥呼という名前に近い最高位の女性を探せばいいだけで、
そのように考える必要はありません、無駄です。


> (その1):卑弥呼は、生涯独身で、当然、子どももいない。______可能性_50%
> (その2):卑弥呼は、シングルマザーで、子どもはいた。_______可能性_05%
> (その3):卑弥呼は、同母弟と結婚して、子どももいた。_______可能性_05%
> (その4):卑弥呼は、同母弟と結婚したが、子どもはいなかった。___可能性_20%
> (その5):卑弥呼は、普通に夫はいたが、子どもはいなかった。____可能性_10%
> (その6):卑弥呼は、普通に夫はいたし、子どももいた。_______可能性_10%
>
> ※:p君さんの考えは、何番目の考えに該当しますか?


卑弥呼が日子八井命(ひこやいのみこと)などという確率は何%ですか。


>
> ***************************
>
> ┌
> │>(その5):卑弥呼=日子八井命は、234年没ですから、そのころの墓を探すことになると思います。
> │
> │234年没って何ですか。

> ※:「箸墓」よりも、10~70年くらい前の、古い話です。(墓の形も分かりません。)


普通は卑弥呼の墓はどこだろうとか考えてから自説を練るわけですが。


> _:「其国の男王」の墓はどこかといわれても、男弟王は、196年前後に亡くなっていて、分かりません。


卑弥呼の男弟の話ではなく、卑弥呼共立の70~80年前の其国の男王です。
卑弥呼が前方後円墳なら、その70~80年前の其国の男王の墓も同族なので前方後円墳でしょうが、
纏向にはその時代の前方後円墳がありません。

>
> ***************************
> ┌
> │>:(日本書紀:神武天皇紀):媛蹈鞴五十鈴媛命の宮は、畝傍山の東南の橿原の地です。
> │
> │かつて本居宣長が指摘した様に、畝傍山の東南にカシハラという地名がないので、
> │真のカシハラ宮は畝傍山の西南の御所市柏原だと思われます。
> │事実、その柏原には神武天皇社が存在します。
> │奈良には神武天皇を祀っていた古社らしきものが御所市柏原にしかないので、
> │おそらくここでしょう。
> │
> │今の橿原神宮も神武天皇陵墓も近年に造られたものです。
> └
> ※:「媛蹈鞴五十鈴媛命」と「五十鈴依媛命」は、別人です。
> _:「卑弥呼」は、「五十鈴依媛命」の娘です。一時期、吉備の方にいたかも知れません。
>
> ※:とにかく、「媛蹈鞴五十鈴媛命」と「五十鈴依媛命」は、二人とも「事代主命」の娘です。
> _:けれども、この二つの女系は、仲が悪かったです。相当、仲が悪かったようです。
> _:神武天皇が亡くなって、手研耳命の時代になると、かなり大きな内乱を起こしています。
>
> ※:それに比べると、手研耳命の孫が支配している熊本の「狗奴国」の方は、おとなしいです。
>


もはや読む価値もありません。

  • [132]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 7日(土)16時47分41秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│[131] (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 7日(土)13時43分18秒

│>(その4):卑弥呼=日子八井命は、巻向(纏向)に、196年頃住んだと考えています。

│米田さんは九州説ではないのですか。

※:後漢書夫餘国伝によると、六つの家畜の名前を官名にしていて、「狗加」などがあります。
_:多婆那国で生まれた「脱解王」は、「于氏」ですが、五族のひとつとして、「狗加」と考えました。

※:(于氏:狗加)脱解王─仇鄒角干(神武天皇)──手研耳命(伐休王・発歧)/卑弥呼

※:196年頃は、後漢の時代です。九州(女王国)の東に「拘奴国」が、あります。
_:つまり、卑弥呼の国は、「拘奴国」だったと、考えました。

※:魏の時代(246年頃)、手研耳命の孫の一人が、九州の熊本地方で「王」を名乗っていました。
_:それが、「狗奴国」です。
_:ついでに言うと、手研耳命の孫の一人が、半島で治めていた国が、「狗邪韓国」です。
_:(金氏が治めていたら、金官加羅国だったのですが、ちょうどこの時は、于氏が治めていました。)

※:「クニ」の名前なんて、そんなものです。

***************************


│逆接の接続詞の話は了解いただけましたか。
│つまり卑弥呼を生涯独身などと決めつけるのは間違いという事で良いですね。

(訳文:東洋文庫)
:すでにかなりの年齢であるが、夫をもたず、彼女の弟がいて政治を補佐している。
:ただ一人の男子だけが飲食を給仕し、云々。

:卑弥呼についで男王を立てたが、国中が服従せず、そのうえお互いに殺し合い、云々。
:そこで、ふたたび卑弥呼の宗女である壹与という13歳の女子を立てて王としたところ、云々。

(『三国史記・新羅本記』173年)
:倭の女王卑弥呼が使者を送って来訪させた。

※:私の計算では、卑弥呼は、152年頃生です。
_:230年頃の話として考えると、どうなるか。
_:卑弥呼は、79歳です。弟は、生きていたら75歳位。(弟の方が、先に死んでいたと思われます。)
_:女性が40歳を超えたら、(夫の有無にかかわらず、子どもの出産は、考える必要はないです。)
_:もし、卑弥呼と壹与に血縁関係があったとしたら、こんな感じでしょうか。

─卑弥呼──〇(170年生)─〇(190年生)─〇(210年生)─〇(230年生)──壹与(250年生)
(152年生)

※:もし、卑弥呼に子どもがいたとしたら、こんな感じになると思います。
_:p君さんの系図では、ここまで考えていましたか?

PS:
:さっき、気が向いて、桓武天皇の系図を作ったのですが、
:早い子は、奥さんが(数えで)15歳の時に生まれた子でした。

***************************


│逆接の接続詞の話は了解いただけましたか。
│つまり卑弥呼を生涯独身などと決めつけるのは間違いという事で良いですね。

※:「すでにかなりの年齢であるが、夫をもたず、」の状況(いろいろな可能性)を調べてみます。
_:このような問題は、(集合論のひとつとして)可能性(〇%)で考えます。
_:はっきりと数字に表すと、こんな感じでしょうか。


(その1):卑弥呼は、生涯独身で、当然、子どももいない。______可能性_50%
(その2):卑弥呼は、シングルマザーで、子どもはいた。_______可能性_05%
(その3):卑弥呼は、同母弟と結婚して、子どももいた。_______可能性_05%
(その4):卑弥呼は、同母弟と結婚したが、子どもはいなかった。___可能性_20%
(その5):卑弥呼は、普通に夫はいたが、子どもはいなかった。____可能性_10%
(その6):卑弥呼は、普通に夫はいたし、子どももいた。_______可能性_10%

※:p君さんの考えは、何番目の考えに該当しますか?

***************************


│>(その5):卑弥呼=日子八井命は、234年没ですから、そのころの墓を探すことになると思います。

│234年没って何ですか。
│纏向古墳群でそのころに径百余歩の墓はありません。
│箸墓はもう少し後です。

│あとなんで卑弥呼の墓が前方後円墳なのですか。
│また2世紀前半にはいた「其国の男王」の墓はどこですか。

※:高句麗本記での「新大王(神武天皇)」の年齢の計算の仕方や、
_:新羅本記が言う処の「聖骨・真骨」の考え方を考えると、どうも、(解明はしていませんが、)
_:男王(大王)は、自分の年齢を、自分の母親の生年を基準にして数えているのです。
_:卑弥呼には、子どもはいないと考えていますが、将軍(彦・耳)に任命されると、
_:自分は、女王の代理人(または、女王が乗り移った形)で、その代理人の力は、女王が亡くなっても、
_:自分が生きている限り(一代限り)は、「女王の代理人」を名乗ることが出来る。(←:「鬼道」)
_:そんな目に見えない「システム」が働いているように感じます。

>箸墓はもう少し後です。

※:「箸墓」よりも、10~70年くらい前の、古い話です。(墓の形も分かりません。)
_:「其国の男王」の墓はどこかといわれても、男弟王は、196年前後に亡くなっていて、分かりません。

***************************

│>:(日本書紀:神武天皇紀):媛蹈鞴五十鈴媛命の宮は、畝傍山の東南の橿原の地です。

│かつて本居宣長が指摘した様に、畝傍山の東南にカシハラという地名がないので、
│真のカシハラ宮は畝傍山の西南の御所市柏原だと思われます。
│事実、その柏原には神武天皇社が存在します。
│奈良には神武天皇を祀っていた古社らしきものが御所市柏原にしかないので、
│おそらくここでしょう。

│今の橿原神宮も神武天皇陵墓も近年に造られたものです。

※:「媛蹈鞴五十鈴媛命」と「五十鈴依媛命」は、別人です。
_:「卑弥呼」は、「五十鈴依媛命」の娘です。一時期、吉備の方にいたかも知れません。

※:とにかく、「媛蹈鞴五十鈴媛命」と「五十鈴依媛命」は、二人とも「事代主命」の娘です。
_:けれども、この二つの女系は、仲が悪かったです。相当、仲が悪かったようです。
_:神武天皇が亡くなって、手研耳命の時代になると、かなり大きな内乱を起こしています。

※:それに比べると、手研耳命の孫が支配している熊本の「狗奴国」の方は、おとなしいです。


  • [131]
  • (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月 7日(土)13時43分18秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
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>(その4):卑弥呼=日子八井命は、巻向(纏向)に、196年頃住んだと考えています。


米田さんは九州説ではないのですか。

逆接の接続詞の話は了解いただけましたか。
つまり卑弥呼を生涯独身などと決めつけるのは間違いという事で良いですね。


>(その5):卑弥呼=日子八井命は、234年没ですから、そのころの墓を探すことになると思います。


234年没って何ですか。
纏向古墳群でそのころに径百余歩の墓はありません。
箸墓はもう少し後です。

あとなんで卑弥呼の墓が前方後円墳なのですか。
また2世紀前半にはいた「其国の男王」の墓はどこですか。



>:(古事記:神武天皇記):伊須気余理比売の家は、狭井河のほとりにあった。


若い頃にはそこに住んでいたのでしょうが、夫の神武も息子の綏靖も宮が御所市だから、結婚後の彼女もそうでしょう。


>:(日本書紀:神武天皇紀):媛蹈鞴五十鈴媛命の宮は、畝傍山の東南の橿原の地です。


かつて本居宣長が指摘した様に、畝傍山の東南にカシハラという地名がないので、
真のカシハラ宮は畝傍山の西南の御所市柏原だと思われます。
事実、その柏原には神武天皇社が存在します。
奈良には神武天皇を祀っていた古社らしきものが御所市柏原にしかないので、
おそらくここでしょう。

今の橿原神宮も神武天皇陵墓も近年に造られたものです。

  • [130]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 7日(土)09時52分57秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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│[129] Re: (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 7日(土)08時46分54秒

│あとの話はもういいので簡単な質問です。

│あくまで米田さんが卑弥呼=日子八井命(ひこやいのみこと)説を撤回しないのなら、
│その卑弥呼=日子八井命はどこに住んだとお考えですか。
│そして当然、径百余歩の奴婢の大量誅殺痕跡を伴う墓があるはずですが、
│それを提示できますか。


(その1):ナガスネ彦は、味鉏高彦根命の子どもと、考えました。
(その2):神武東征の描写の大半は、神武東征ではなく、190年頃の手研耳命との内乱の流用でした。
(その3):手研耳命の死亡と同時期に、味鉏高彦根命(ナガスネ彦)の子孫(一族)は、没落します。
******
(その4):卑弥呼=日子八井命は、巻向(纏向)に、196年頃住んだと考えています。
(その5):卑弥呼=日子八井命は、234年没ですから、そのころの墓を探すことになると思います。
******
(その6):『三国史記・高句麗本記』248年の記述より

:秋9月、王が薨去したので、柴原(さいげん)に埋葬し、東川王と諡(おくりな)した。云々。
:近臣には、殉死したいと願うものが多かったが、次王は礼式にあわないものとしてこれを禁止した。
:葬儀の日に王の墓所にきて、殉死するものが甚だ多かったので、国人が柴を切ってその屍を覆った。
:そこでこの地を柴原と名付けた。(墓所の場所は、半島か九州か、私には、不明です。)

※:この「東川王(高麗⑪在位:227~248)」は、(209年生の)阿爾兮夫人(=郊彘)です。
_:記紀などでは、「天豊津媛命」として、現れます。

(その7):
:「魏志倭人伝」での卑弥呼の埋葬(墓所)の描写が、234年没の「卑弥呼」なのか、
:それとも、248年没の、「天豊津媛命」のことなのか、判断がつきかねています。どちらかというと、
:「魏志倭人伝」での埋葬(墓所)の描写は、「天豊津媛命」のことのような気がしています。

(その8):卑弥呼=日子八井命の墓は、巻向(纏向)にあるのではないか、と想像しています。

(その9):
:「卑弥呼=日子八井命」の母親は、「五十鈴依媛命=伊須気余理比売」です。
:(古事記:神武天皇記):伊須気余理比売の家は、狭井河のほとりにあった。

:(日本書紀:神武天皇紀):媛蹈鞴五十鈴媛命の宮は、畝傍山の東南の橿原の地です。
:(日本書紀):高尾張邑に土蜘蛛がいた。/名草戸畔を殺した。←:190年頃の事象の混入だろう。



  • [129]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月 7日(土)08時46分54秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>>128

>現代の価値観で、云々することは出来ません。


現代の価値観ではなく、文法の話です。
古代中国に「~だが」「~なるも」「~にも関わらず」という逆接の接続詞がなかったとお考えなのですか。
それが無かったらどうやって会話を成立させれるのか。

あとの話はもういいので簡単な質問です。

あくまで米田さんが卑弥呼=日子八井命(ひこやいのみこと)説を撤回しないのなら、
その卑弥呼=日子八井命はどこに住んだとお考えですか。
そして当然、径百余歩の奴婢の大量誅殺痕跡を伴う墓があるはずですが、
それを提示できますか。

  • [128]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 7日(土)00時05分22秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│[127] Re: (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 5月 6日(金)19時01分40秒

│> ┌
│> │なぜ日子八井命が女なのかという質問なのに、
│> └

│歳すでに長大(だが)(にも関わらず)など逆接の接続詞がないという話から逃げないでください。
│ここは非常に重要です。
│卑弥呼は生涯独身であった可能性は低いです。
│あなたのように卑弥呼を生涯未婚、生涯独身と決めつけるのは間違いです。

│「ひこ」は男の称号です。「日子八井命」が女性ならそう書けばいいだけです。
│女性と書いてはいけない理由がありません。
│だいたい事績がない人間を何で卑弥呼に出来るのでしょうか。



│歳すでに長大(だが)(にも関わらず)など逆接の接続詞がないという話から逃げないでください。

※:ここの問題は、魏の宮廷の「書記官/撰者は西晋の陳寿」彼らの常識(価値観)に基づく
_:記述ですから、現代の価値観で、云々することは出来ません。
_:私にいえることは、「三国史記」の中に、この時代に、唯一、独身の女性と思われる人物を見つけた。
_:ということだけです。


│> ※:古事記では「王(みこ)」と表記されています。
│> _:日本書紀では、「皇子」「皇女」と厳格に、書き直されていますが、
│> _:なかには、(意図的に)性別をごまかしているのではないか、という、
│> _:人物も、いそうな気がしています。
│> _:(証拠になりそうな人物を探したのですが、確定的な人物を見つけられなかった。)

│ならば書かないでいただきたい。
│このスレを削除するおつもりはないのですか?

※:ここの文脈は、「~命」という表記の人物に、明らかに「女性」であることを
_:証明・例示することが、(今のところ)出来なかった。ということです。
_:特に、(古事記や先代旧事本紀を使わずに、)日本書紀の中から、見つけて、
_:女性であることを証明するのは、かなり厳しいのです。


│<旧討論室・ロビー>(無題)  投稿者:p君  投稿日:2022年 4月28日(木)
│あなたは曲学の徒・桂川さんの掲示板でも桂川さんから注意を受けてましたね。
│いったい何がしたいのか、あなた一人が掲示板のレベルを下げまくっておられます。
│米田さんには古代史から立ち去っていただきたい。

※:系図を研究する人間が、必ずぶつかる、難問があります。(古事記や先代旧事本紀を含めてですが。)

(その1):「(紀)田道間守」と「(記)多遅摩毛理」は、どちらが正しいか。

(紀):清彦は田道間守を生んだ。
(記):比那良岐の子は、多遅摩毛理、比多訶、清日子である。


┌─多遅摩毛理─────┬─〇_(米田の解釈):「多遅摩毛理」と「田道間守」は夫婦である。
┼─比多訶
└─清日子──田道間守─┘____:(ルール):記紀において「夫婦同名」の表記は、OKである。
__(清彦)


(その2):
:「(系図集)伊世理命(男三人)」と「(風土記)伊是理比売(子どもは、男二人、女二人である。)」

※:私の主張は、人数まで書いてあるので、風土記の記述の方が、正しい。
_:10年前の板主さんは、「(系図集)伊世理命」は、絶対に正しいの一点張りでした。

※:どちらが、正しいか。

(伊香刀美)
─伊賀津臣命──伊是理比売─┬─〇_(米田の結論):「娘婿の実子扱い」で、系図に混入した。

─伊世理命─────────┘

(その3):二人の「天忍男命」の問題もありました。(米田の結論は、掲載図の方に書きました。)


※:「日本書紀」や、「古事記」・「先代旧事本紀」という「史書」の類は、
_:或る意味、「大本営発表」なのです。
_:現代の感覚での、正確な(真実を書き残す)「史書」というものではありません。
_:古代の史書の系図がすべて正しいと仮定したときに、(どうしても)矛盾は発生します。
_:その時に、片方が間違っている、と、切り捨てるのではなく、
_:そこには、改ざんのルールがあって、そのルールによって、書き換えられているんだ。
_:そんな風に考えて、20余年、系図に取り組んできました。
_:もちろん、(悪意を持った)改ざん、(確信犯的な)系図の改ざんも、あります。それは、
_:他の文脈から、(編集方針に従って、改ざんされた理由を考えて)見つければ、良いだけです。

※:私の系図解読が、「絶対に正しい」とは、言い切れません。
_:けれども、系図の解読の方法のひとつとしては、有効ではないかと、考えるわけです。


│米田さんには古代史から立ち去っていただきたい。

※:それは、その時が来たら、自分で判断します。



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