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日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」
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日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」
投稿者:
オヤジッチ
投稿日:2021年11月24日(水)10時06分19秒
dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
久しぶりの投稿です。
こんな話題性の高い記事、とっくにどなたかが立てていると思ったんですが。
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いつもご協力いただきありがとうございます。
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9
]
(無題)
投稿者:
米田 喜彦
投稿日:2022年 5月 9日(月)12時43分37秒
fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
返信
┌
│[8] Re: Y-DNA 投稿者:石見介 投稿日:2022年 5月 8日(日)
│
>>6
│
│オヤジッチさん
└
新しい討論室に、新しく
スレ“日本語の原郷は「中国東北部の~」”を立てました。
石見介さんは、(今のところは)投稿しやすい処に投稿して
構いませんので、どんどん、投稿して下さい。
ここに、投稿された場合には、私の方で、「FC2」の方に、転載します。
[
8
]
Re: Y-DNA
投稿者:
石見介
投稿日:2022年 5月 8日(日)23時41分53秒
flh2-133-206-98-96.osk.mesh.ad.jp
編集済
返信
>>6
オヤジッチさん
ずっと気になっていたのですが、時間が取れず、コメントできませんでした。
遅まきながら、レスしますが、このNo.6の図の方が、現時点の、遺伝人類学の成果を、No.5の図より、良く反映していると思われます。
さて、トランスユーラシア語族は、旧称「アルタイ語族」であり、アルタイ語族とウラル語族は、昔は、「ウラル・アルタイ語族」として、一括されて呼称される事もあり、言語学的に、同系の可能性が想定されていました。
しかし、その後の比較言語学の進展で、ウラル語族は、フィン・ウゴール語派とサモイエード語派からなる一語族として確立し、更に、ユカギール語派を加えた3語派とするか、ウラル・ユカギール語族を構成する、という見解で、言語学界にほぼ異論なく、受容されました。
しかし、一方の「アルタイ語族」については、根幹を為す、モンゴル、ツングース、チュルク3言語集団の同系すら、隣接して相互の語彙等の借用と文法の模倣等による、外形的類似だとする、「言語連合」だと考える、「非アルタイスト」と、アルタイ語族が成立すると考える「アルタイスト」の対立が続き、アルタイ語族の一員の可能性のある、朝鮮語と日本語の系統論にも、影響を与えていました。
しかし、近年の遺伝人類学や考古学の進展により、アルタイ語族が、アルタイ山脈周辺が起源地ではなく、大興安嶺周辺などと目される事もあって、「トランスユーラシア語族として、復活してきました。
一方、名称の定着した「ウラル語族」の方は、起源地が、ウラル山脈周辺ではなく、遺伝人類学上の古代DNAの成果から、どうやら、遼河文明の「紅山文化」時代の集団が、ウラル語族の担い手のY-DNAハプログループの,Y-N1集団であったことを踏まえ、その原郷地は、遼河流域にあると、考えられるようになりました。
大興安嶺の両側の東西遼河流域が、原ウラル語族集団の起源地で、紅山文化崩壊後に、西北方向へ移動を開始する。
まず、最初に、レナ川、イェニセイ川の間に、ユカギール語派の人々を残し、更に西進し、西シベリアに、サモイェード語派を残し、ウラル山脈を越えて、北欧、東欧に、フィン・ウゴール語派が進出する。
きれいに、そのような移動経路が、読み取れます。
チュルク語集団と接触した、マジャール語などの集団を除き、Y-N1との相関が、読み取れます。
原ウラル語族集団たる、紅山文化人の移動は、西方(及び北方)のみだったのか?
昔、一世を風靡した、「照葉樹林文化論」では、西日本の照葉樹林文化に対し、東日本の「ナラ林」樹林帯にも注目されていました。
ドングリなどの堅果類のアク抜きをし、栗林の造成を行い、食用とする。
ナラ林樹林帯は、紅山文化の東部や東方にも広がっています。
縄文都市?青森の三内丸山遺跡について、紅山文化との関連を云々する説もあると言う。
しかし、現代日本人中で,Y-N系統の頻度は、微々たるものです。
私は、青森の尻労安部出土古人骨から抽出された古代DNAで、Y^NO*とされたものが、再調査で、Y-N1に、少なくとも、Y-Nに再分類されることを期待していましたが、どうも、現時点では、変更はないようです。
ですが、最近、古代史の知友と長電話した時に、青森県では,Y-Nの頻度が高い、という情報を、貰いました。
wikiで確認すると、例数は少ないが、それなりの頻度で、Y-Nが確認されました。
縄文時代、東日本には、やはり、遼河文明の紅山文化人、原ウラル語族が、来ていた。
その可能性は十分にあり、上代日本語東国方言の「母」を意味する語彙「あも」(阿母)などが、ウラル語族と同源語だと言う、昔読んだ説も、あながち、否定できない。
そう考えています。
http://「
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7
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保管用 チェック
投稿者:
米田 喜彦
投稿日:2022年 4月 1日(金)08時04分57秒
fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
返信
2022-04-01
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6
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Re: Y-DNA
投稿者:
オヤジッチ
投稿日:2021年11月30日(火)09時23分45秒
dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
返信
一つ忘れてました。<m(__)m>
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5
]
Y-DNA
投稿者:
オヤジッチ
投稿日:2021年11月30日(火)09時14分28秒
dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
返信
石見乃介さん、こん○○は。
稲作についてはこれからも、まだまだ楽しめそうですネ。
ザックリいえば、水稲耕作が弥生時代を作った、陸稲は畑作、縄文稲は陸稲でしょうか。
ところで、Y-DNAについて二つの表を見つけたので、石見乃介さんに解説してもらいたいのです、よろしく。
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4
]
Re: 稲作
投稿者:
石見介
投稿日:2021年11月29日(月)00時18分27秒
flh2-133-206-98-96.osk.mesh.ad.jp
編集済
返信
>>3
(略)
> > 日本列島に、南方から熱帯ジャポニカが、先に入っていた、という考古学的な証拠は、確実なものはない。
> ↑NHKforSchoolには、
> 熱帯ジャポニカ:熱帯地方で作られる。畑で作られる「陸稲」
> 温帯ジャポニカ:日本や朝鮮半島、中国などで、水田で作られる。とありましたが、どうなんでしょう。
温帯ジャポニカも熱帯ジャポニカも、何れも、陸稲、水稲があります。
> 縄文時代に畑作が行われていた可能性は高いと思われます。(漆製品があるので、最低限、エゴマは栽培)
小畑博巳『タネをま(*)く縄文人』(会に寄付済み)で、圧痕法(レプリカSEM法)で、縄文時代に、ヒョウタン、エゴマ、豆類(特にダイズ)、ヒエの栽培が、証明されている、と理解しています。
アワ、キビは、イネと同時に、縄文時代後晩期の後半以降は確実だが、それ以前は、怪しい、というのが、私の現時点での理解です。
> 稲作の起源
> 中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。
> 日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器が見つかっている。
プラント・オパールは、粒径がごく小さく、上部地層からのコンタミネーションが否定し得ず、証拠能力は、殆どない、と私は考えています。
特に、岡山の例は、使えない。
南九州のPOは、研究者が、それに留意して、POの組成をチェックするなど、コンタミのチェックを十分に行われているとの事なので、結論は、留保しています。
3600年前は、縄文時代後期後半に属するので、単発的に入った可能性はある、と思われますが、半島の場合、イネの証拠は、花粉、炭化種子など、土器胎土中のイネ圧痕と、ほぼ同時期に、皆揃って検出されていますが、日本では、その状況が何時揃うか、と言うと、確実なのは、やはり、弥生早期だと理解しています。
この辺りは、考古学に詳しい方に、解説頂きたいのですが。
> 水田稲作に関しては従来、紀元前5~4世紀頃に始まったとされていたが、2003年になって、国立歴史民俗博物館が遺跡からの出土品や土器に付着した炭化物などの年代を炭素14年代測定法によって推定した結果、従来の定説より約500年ほど早い紀元前1000年頃、前11世紀に開始されたとする研究結果を発表している。(炭化物で水稲耕作かどうかは確定できないのでは)
畦畔が伴えば、確実でしょうが、私は、山東からの半島西海岸と列島へのほぼ同時の倭人の移住を考えているので、紀元前12世紀半ばでも、水稲農耕が、伝わっても問題ないと考えています。
殷周革命の1世紀前になりますが、寒冷期前後で、北方からの河北、中原への南下は、始まっており、その余波が、山東に及んでもおかしくない、と考えています。
> 水田稲作の伝来経路としては『朝鮮半島経由説』、『江南説(直接ルート)』、『南方経由説』が想定されています。
>
> 遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては朝鮮南部約では2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。
> 研究者は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している。
小魯里遺跡の炭化舞の年代は、どう解釈(*)されておられますか?
> 古代の東アジアにおける結核は稲作文化とセットで中国から広まったと考えられている。弥生文化の広がりの速さは、渡来系弥生人の持ち込んだ結核で免疫を持たない在地系弥生人(縄文人)が
> 罹患したためと言う説がありますね。
私は、結核療養所2か所に,計4年半の勤務歴がありますが、野外作業との関連よりも、屋内の換気の悪い環境の方が、環境要因としては、大きいように思います。
後、もう一つは、動物、特にウシと関連がないか、気になっています。
ウシ型結核菌も、非定型抗酸菌症なので、無関係の様にも思えるのですが、家畜やネズミは、どうも気になります。
> 写真1は今年も渡ってきた吉野ヶ里のマガモ
> 写真2は秋晴れの平塚川添
> 写真3は吉武高木のコスモスと飯盛山
楽しませていただきました。
編集:2021,12/03,23:45。
*:誤記誤変換等、訂正いたしました。
http://「
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3
]
稲作
投稿者:
オヤジッチ
投稿日:2021年11月25日(木)14時10分35秒
dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
返信
石見介さん、こん○○は。
おかげで、色々強になりました。<m(__)m>
> 日本列島に、南方から熱帯ジャポニカが、先に入っていた、という考古学的な証拠は、確実なものはない。
↑NHKforSchoolには、
熱帯ジャポニカ:熱帯地方で作られる。畑で作られる「陸稲」
温帯ジャポニカ:日本や朝鮮半島、中国などで、水田で作られる。とありましたが、どうなんでしょう。
縄文時代に畑作が行われていた可能性は高いと思われます。(漆製品があるので、最低限、エゴマは栽培)
稲作の起源
中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。
日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器が見つかっている。
水田稲作に関しては従来、紀元前5~4世紀頃に始まったとされていたが、2003年になって、国立歴史民俗博物館が遺跡からの出土品や土器に付着した炭化物などの年代を炭素14年代測定法によって推定した結果、従来の定説より約500年ほど早い紀元前1000年頃、前11世紀に開始されたとする研究結果を発表している。(炭化物で水稲耕作かどうかは確定できないのでは)
水田稲作の伝来経路としては『朝鮮半島経由説』、『江南説(直接ルート)』、『南方経由説』が想定されています。
遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては朝鮮南部約では2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。
研究者は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している。
古代の東アジアにおける結核は稲作文化とセットで中国から広まったと考えられている。弥生文化の広がりの速さは、渡来系弥生人の持ち込んだ結核で免疫を持たない在地系弥生人(縄文人)が
罹患したためと言う説がありますね。
写真1は今年も渡ってきた吉野ヶ里のマガモ
写真2は秋晴れの平塚川添
写真3は吉武高木のコスモスと飯盛山
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2
]
Re: 日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」主旨
投稿者:
石見介
投稿日:2021年11月24日(水)22時38分23秒
flh2-133-206-98-96.osk.mesh.ad.jp
編集済
返信
>>1
> トランスユーラシア言語の共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明
旧称の「アルタイ語族」の方が、馴染みがありますが、アルタイ語族のイメージが、アルタイ山脈を中心とした、チュルク語派(語族)、モンゴル語派(語族),ツングース語派(語族)という、遊牧民中心のイメージが強く、これに朝鮮語派(語族)、日本語派(日琉語族)を加えるか否か、という時代から、Poppeの、大興安嶺が中心で、北部にモンゴル、西部にチュルク、東部にツングース、南部に朝鮮語、日本語のそれぞれ、祖語話者が分布した、という仮説の時代があり、この時点で、アルタイ山脈やサヤン山脈の周辺は、「ウラル語族」の起源地の可能性が、高くなってきました。
その後、Y-DNAの研究が進展し、その言語との関連が、注目されるようになり、ウラル語族は、Y-N1系(フィン・ウゴール語派、サモイェード語派)が担い手で、ユカゴール語が。同様にY-N1系中心で、現在のサハ地域の先住民であったことも、日本語との関連で、注目される点でした。
日本には、Y-N系統は、殆ど居ないのですが、Y-NO*という珍しいハプロタイプがあり、私は、これが、Y-N1に改定されるか否かを、注目していましたが、現在でも、そのまま,Y-NO*のままです。
青森県の尻労阿部出土の古人骨の古代DNAが、この型です。
アルタイ系のチュルク語族は、広汎に拡散した事もあり、中心的なY-DNAハプログループは決め難いのですが、Y-Qの可能性が強いように、思われます。
モンゴルとツングースは、Y-C3(当時)で、現在は、Y-C系統の大幅な名称変更によって、Y-C2系のいくつかの下位区分に分類されていて、何処まで絞れるかが問題です。
日本、朝鮮、満州には,Y-O系の、旧Y-O2b、現在のY-O1b2系が、共通しています。
旧Y-O3、現在のY-O2系も、この3民族には、それなりの頻度で存在するが、漢民族や、ミャオ・ヤオ語族の主要なY-DNA型であり、言語との関連について、主要な担い手を決定するのは難しい。
その後、雑穀農耕の遼河文明の紅山文化期のY-DNAが,Y-N1系が主と判明し、ウラル語族の原郷が遼河流域である可能性が、高くなった。
その時点で、アルタイ語族の成立も、怪しくなり、「言語連合」の様な、隣接した諸言語の相互の影響や借用関係による類似、の可能性が、高くなった。
東アジア、特に東北アジアの農耕の起源を追及している考古学者の宮本一夫氏の研究は、古日本語と古朝鮮語が、遼西から半島へ南下して来た、という言語の流れを、導き出した。
Morokkaさんが、談話室で、紹介された通りです。
私は、20年ほど前は、「倭人遼河流域起源説」を、主に,HLAハプロタイプに関する徳永勝士氏の研究を踏まえ、唱えた。アルタイ語族が、大興安嶺中心に、起源した、という仮説に従った上で、徳永氏のデータを重視して、その仮説を、立てた。
その後,Y-DNAの,Y-O1b2(旧O2b)が、日本語の担い手だと考えるようになり、渡来系弥生人=倭人=日琉語族と推測した。
宮本氏の東北アジアに於ける農耕の伝播の本を読んで、水稲農耕の担い手を、渡来系弥生人と考え彼らが、何処で稲作を習得したかを考える間に、山東半島が焦点として、浮上した。
稲作農耕の担い手である南アジア語族のY-O1b集団の一部のY-O1b2集団
が、温暖期に長江流域から北上し、山東から河北辺りで、先住のアルタイ系と接触し、融合して「アルタイ化」して、日琉語族が成立した、という仮説に至った。
基礎的な語彙の多くは、南方系の南アジア語族に由来し、孤立語、声調言語性格は、アルタイ的な文法や音韻体系(開音節など)を受容して、変容し、「混成語」として、倭人・倭種の言語が、成立した。
それが、紀元前15世紀頃からの寒冷化等に起因する民族移動の中で、半島⇒列島への移住を引き起こした、という考えに至った。
> 日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残った。
遼河文明の雑穀農耕民(アワ、キビ)が、長江流域起源の水稲農耕を、「どこで」習得したかが、問題になる。
山東半島で、黄河系統の雑穀農耕と、水稲農耕が接触し、温暖期には、黄河流域南縁に達し、又、廟島群島沿いに、遼東半島に達した事も確認されている。しかし、遼西には達していない。
又、山東には、熱帯ジャポニカの他、温帯ジャポニカの栽培が、認められている。
遼東や朝鮮半島北部では、熱帯ジャポニカは、栽培は困難であるが、日本の水稲農耕は、ほぼ同時期に、熱帯・温帯両ジャポニカが、入っている。
即ち、北方で、アワ、キビ雑穀農民が、温帯ジャポニカを、栽培穀物に加え得も、熱帯ジャポニカの栽培阿、不可能である。
日本列島に、南方から熱帯ジャポニカが、先に入っていた、という考古学的な証拠は、確実なものはない。
同時に、両種のジャポノカ、アワ、キビが入ったとするのであれば、遼西ではなく、山東⇒半島西海岸部⇒列島、というルートの可能性が高い。
言語の置換は、あったであろうが、アイヌ語もオホーツク文化人と北海道縄文人の融合で生じた混成語であり、縄文語の直系である可能性は少ない。
日本語同様、基層言語に、縄文人の言語群があると、考えるべき。
> 沖縄は、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。
>
> これからすると、縄文人が話していた言語はトランスユーラシア語ではなく、アイヌ語だっということです。そして、グスク時代以前の琉球語は??ってことになる(-_-?)
上記、アイヌ語の形成も、日本語同様に、基層の縄文語(列島が、どの程度、縄文時代に、言語が統一されていたかも不明)に、北方の古アジア語が被覆して。成立した、と考えるべき。
http://「
[
1
]
日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」主旨
投稿者:
オヤジッチ
投稿日:2021年11月24日(水)10時16分8秒
dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
返信
トランスユーラシア言語の共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明
日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残った。
沖縄は、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。
これからすると、縄文人が話していた言語はトランスユーラシア語ではなく、アイヌ語だっということです。そして、グスク時代以前の琉球語は??ってことになる(-_-?)
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