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  • [0]
  • 3世紀後半、国内最古級の双方中円墳が福岡から

  • 投稿者:オヤジッチ
  • 投稿日:2021年12月30日(木)08時19分39秒
  • dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
 
福岡県うきは市で調査中の西ノ城古墳が、「双方中円墳」とみられることが分かったとのこと。(西日本新聞12月29日朝刊)

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  • [35]
  • 宮崎・西都原古墳群内の81号墳墓も 双方中円墳か?

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 3月25日(金)21時05分42秒
  • p716222-ipngn4301fukuhanazo.fukushima.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
  私の老眼混じりの視力では、
東憲章 新泉社 「 古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群 」  2017年11月
記載の81号墳墓  私の目では 双方中円墳に見えました   p31


西都原古墳群の主は 古墳時代前期後葉から中期前葉
81号墳墓は 畿内とかかわらない墳墓、畿内系定型化前期古墳では無い。

前の弥生時代の主たる埋葬形態は 方形周溝墓、赤塚次郎の分類では、たしか A B C 。
周溝の開削パターンで 全周 一部開放、通路が明確化。

方形周溝墓 次の時代 掘削した堀の土を用いて 低墳丘墓化。
次の時代、通路が盛り上がり前方後方墳型低墳丘墓  並行期?  キビ・サヌキの双方中円墳、

  • [34]
  • なぜ あの場所なのか 勝手な妄想

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 2月14日(月)22時00分7秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
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この現場 行ってもいないので 完全妄想

なぜ あの場所に墓を構えるのか?

妄想 それは始祖墓的地域支配者になりたかった。
賛同者をつのり あの位置まで 一トン近くの石材を数個持ち上げ、協同作業の中で連帯感が育成された。
 参加者へは食料が提供されたので 参加しただけの人々が 共同作業で 高所へ重量物を持ち上げる事が出来た その達成感に感動し、擬制的氏族が形成された。

場所は 中世山城と同一の位置、典型的置き城。主の城は別にある。

食料提供者は 別に存在し 墓の設計者と同一。


2021.02.16 追記修正
 福島説  ヤマタイコク うきは説、

うきはを見下ろせる場所に西の城墳丘墓が立地しているのなら
 西の城墳丘墓の被葬者は うきはの関係者。
戦国期の西の城は うきはを攻略したくて 物見の為の置き城 もしくは うきはに主城を構え、外部接点としての守りの城。西の城の位置は 南方に八女の星野村や黒木や福島が展開している。 この西の城の位置は 交通の裏道を監視する要衝。

また 別の通行路として ミノオの山頂付近をラリーする道路。尾根伝いに走破。
この西の城墳丘墓は その直近にあり 筑後川の左右の平野の道路とは異なった 尾根道路。

 追記閉じる


  • [33]
  • 福島様へ

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 1月23日(日)14時32分25秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 発掘作業員とはツユほども知りませんでした。
私の発掘体験は 高校三年間と大学時代に少々。

 多分 発掘指導員が手抜きしていたのでしょう。
須恵器のおおよその編年が判るようになった所要時間は 大学の2年ぐらいから。
この編年は 遺跡や遺構の層を掘り分けて その須恵器を作業所で洗い、計測するともう少し早く 相対編年が身に付くでしょうが、私の場合 須恵器窯と灰釉陶器窯を夏休み期間中に発掘作業のみ、編年観は大学に入って スエムラ編年図をにらめっこしながら、各地の資料館巡りの過程で 遅まきながら形成。

 この編年観がつくと 須恵器が副葬された後期古墳は 脳内が勝手に前後関係を提示。
同様 小林行雄の装飾古墳への研究書籍の編年観を 装飾古墳巡りにて再体験。
すると 岩戸山古墳の文献からの助言も参考に 装飾古墳巡りがいよいよ楽しくなってゆきました。
 装飾古墳の壁画の絵柄 副葬品(須恵器・鉄製品etc) 室内石室構造 石人石馬 の総合から 時期はある程度絞れると思います。
 塚花塚古墳も もし再調査して須恵器でも見つかれば 時期は絞れるはず。 現地人ではないので 再調査の有無知りません。 石室構造からは 後期も後の方。

単純に 指導員のさぼり。






  • [32]
  • いつかコウヘイさんへ

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 1月23日(日)11時12分18秒
  • p2324062-ipbf2022funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
失礼しました。
西谷さんは奈良の大学出て京都大学修士。
専門は北東アジア。多分大学の講義もこの分野ではないか?
邪馬台国論の講演は京都大説を唱えているだけかもしれませんね。

その典型は岡村さん。
人柄抜群で好きな人物だが、京大ファースト論は
聞いていて微笑ましくなるほど。

  • [31]
  • Re: 福島様 多分 古墳や遺跡への訪問不足なのかも

  • 投稿者:福島 雅彦
  • 投稿日:2022年 1月22日(土)21時18分19秒
  • p6065-ipad12fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
>>28
>  福島様が言われる 畿内前提で発言してきたのはp君氏と西谷氏のみ。

※九州の装飾古墳の築造年代論説は全て、畿内基準では?

> 北部九州の装飾古墳 数基 内部までは入って 石への彫刻や壁画を長時間みていると 時間軸 が自然に体感できます。 場数が足らないのでは ?
>   時間軸の基準は 岩戸山古墳の墳丘装飾物 石人石馬。と須恵器ですが まずは装飾古墳巡り 一種の絵画展として 見て回ると 案外 楽しいですよ。

*九州の装飾古墳は殆ど踏破(図録含む)しました。図録の方が図柄が鮮明=薄れる前の写真など。

・他の著名な古墳も殆ど見学しました(全てではない)。

・六十歳から七十歳の間は、福岡県と久留米市の開発に伴う事前発掘調査の作業員として従事しました。

*発掘調査報告書も全部ではありませんが入手。

・調査担当の技師 ? 先生に、遺跡や古墳の年代は如何してむ分かるのか?と尋ねました。

・答え=考古学の偉い先生が長年に亘り営々と築き上げた経験と土器編年、形態…。

*殆どの古墳論の記述=畿内の流れを汲む、畿内に許されて同型のが築造云々。

*文献派の私としましては、これ等の論調が納得できません。

∴私の古代史の講義は考古学の知見を殆ど使っていません。

  • [30]
  • (無題)

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 1月22日(土)20時49分57秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 当世奇妙様  私は九州での発掘体験皆無、無茶ぶり

恩師 原田大六先生に あたまを抑えられた反動で 京大グループに接近し、地位を得た そうした人がいたのかもしれませんが ?

 シナ学派(京大系)に接近すると 旧帝国大学で職を得やすいようです 

  • [29]
  • 西谷説

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 1月22日(土)15時20分6秒
  • p2324062-ipbf2022funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
いつかコウヘイさん

ここのスレッドの主旨から外れますが西谷説
について意見お聞きしたいですね。

どうしてあんなに九州説を嫌うのかが分かりません。
(昔お話を聞いただけなので、記憶あいまいになってますが)
大教授なので、九州説にも耳を傾けて話されても良いのでは
と思ったものでした。九州大学ではどのような講義をされて
いたか知りたいと思ったこともありました。


  • [28]
  • 福島様 多分 古墳や遺跡への訪問不足なのかも

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 1月21日(金)22時06分45秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 福島様が言われる 畿内前提で発言してきたのはp君氏と西谷氏のみ。
北部九州の装飾古墳 数基 内部までは入って 石への彫刻や壁画を長時間みていると 時間軸 が自然に体感できます。 場数が足らないのでは ?
  時間軸の基準は 岩戸山古墳の墳丘装飾物 石人石馬。と須恵器ですが まずは装飾古墳巡り 一種の絵画展として 見て回ると 案外 楽しいですよ。

  • [27]
  • Re: 福島さん なぜオヤジッチさんの情報を無視

  • 投稿者:福島 雅彦
  • 投稿日:2022年 1月21日(金)21時12分47秒
  • p6094-ipad104fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  • 返信
 
>>26
> 福島さんへ
> 塚花塚は 古墳時代後期それも後の方、うきは地区で ヒミコ期に近い墳墓の情報をオヤジッチさんが見つけているのに なぜ自説にこだわるのですか?

*何のお咎めか、今一つ理解できませんが…

・私は、考古学の就中古墳の築造年代を全く信じていません。誰が何を基準に決めたのか?

・畿内が先行する前提が理解できません。

∴無視しているのではなく、コメント能力が皆無なだけです。

 

  • [26]
  • 福島さん なぜオヤジッチさんの情報を無視

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 1月21日(金)10時38分41秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
福島さんへ
塚花塚は 古墳時代後期それも後の方、うきは地区で ヒミコ期に近い墳墓の情報をオヤジッチさんが見つけているのに なぜ自説にこだわるのですか?


北部九州は ヒミコ期 甕棺墓が停止 板石囲み墓 方形台状墓 土壙墓
プレ古墳時代    伊都 井原一号墳
          福岡 ビール工場敷地内の古墳 不定形前方後円墳
          筑紫野市 原口古墳 復元は前方後円墳 本当の墳形は? 下に甕棺墓
          福岡宇美 光正寺古墳 復元は前方後円墳 後円部に 甕棺と石板囲み石棺?/ 石槨も
          久留米  祇園山墳丘墓 多数埋葬
          うきは  西の城墳丘墓

  やや遅れて 唐津 久里双水古墳(前方後円墳) 畿内とは墓のかたちが違う。
畿内とは異なる 墓を構築していた。


《 試案 Ⅰ 》
仮定 九州仕置・古代編   瀬戸内海 讃岐勢力の進入路
① 福岡 ミヤコ郡や行橋方面から侵入 石塚山古墳は その子孫の墓
② 大分 宇佐方面 赤塚古墳は その子孫の墓 一部は別府~阿蘇を結ぶ通路を通って熊本へ

仮定 九州仕置・古代編Ⅱ  畿内勢力の進入路
③ 福岡 内陸部 嘉麻市沖宗古墳
     海岸部 福岡市 少年院内の古墳   ともに讃岐勢力より遅れている。

仮定 九州仕置・Ⅲ  熊本・宇土半島  先行して前方後方墳文化
                    遅れて 箱式石棺系

《 試案 Ⅱ 》
仮定 北部九州は 倭国連合の最有力國 ただしヒミコは別の連合国の一ッ國から出てきた。
鉄の輸入権益で争い、4世紀の何時かに北部九州は敗れた。情報連絡網として沖ノ島航路が開発され、 唐津航路の物品とは別に緊急情報網が 畿内勢力により整備された。

思案ⅠもⅡも 想定部分が残って 個人的には不満。

 《 神奈備 》
九州の代表的 独立した山 伐株山  玖珠  近くには 最初期の方形居館が有る。
うどん県讃岐の神奈備山的な物は、 筑後・小郡の高速を降りたところに有るが、ここは初期須恵器窯の聖地。 奈良も小郡も 小さい。
圧倒的スケールで 玖珠・伐株山が 他地区を睥睨している。
 

  • [25]
  • Re: 双方中円墳と神奈備

  • 投稿者:福島 雅彦
  • 投稿日:2022年 1月20日(木)22時25分44秒
  • p3164-ipad03fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
P君さん、『記・紀』編纂の最大眼目の「高天原」隠蔽の地ですから、証拠は国家権力で隠滅している、と観ます。

> 浮羽町の耳納連山はいかがでしょうか、古来から信仰を集めた神奈備らしき山があるでしょうか。
> 耳納連山自体が神奈備でしょうか。

*久留米藩の「矢野一貞」は水縄連山(耳納山地)北麓の古墳を「塚の数多ありて数うる能わず」と言わしめています。

・「うきは市」には「塚花塚古墳」がありますが、土地の人は「塚ン(の)花(端=最初)塚古墳」と称しています。

※「神奈備」=「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」で「神(金属=鉄器)“??”(nab-ib)」=納める」です。

*畿内に鉄器の出土が少ないのは、農耕に必要な時期鉄製農具を貸し出し終わったら回収して納めた=九州皇統の統制下にあったから、かと。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

  • [24]
  • 双方中円墳と神奈備

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 1月17日(月)22時27分21秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とは、神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域のこと。または、神代(かみしろ)として自然環境を神体(しんたい)とすること。万葉集においての表記は7つ(22首、23例)ある。

神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域や、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や神体山[1]を、また特徴的な岩(夫婦岩)や滝(那智滝)がある神域などをさす。神籬と磐座の総称でもある。依り代となる森林や岩などがない「神奈備野」もある。(wiki)


神奈備は円錐状の山と言われ、水源などがあれば確実に古来からの神社があるようです。
また水源が神仏習合を経て寺院になってる例もある様です。(岸和田・神於山)

双方中円墳の最古・有年原田中遺跡のある播磨から楯築遺跡のある備前にはたくさんの円錐状の山があることは、私が旅行でよく使う山陽本線から確認できます。
あと猫塚のある讃岐ですが、これはもう讃岐富士と呼ばれる飯野山をはじめ、金毘羅山もあれはいわば神奈備でしょう。
そして大和の櫛山古墳の近くには言わずと知れた三輪山があります。

私は九州の地理には詳しくないので教えていただきたいのですが、
浮羽町の耳納連山はいかがでしょうか、古来から信仰を集めた神奈備らしき山があるでしょうか。
耳納連山自体が神奈備でしょうか。

  • [23]
  • 現地実体験

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 1月14日(金)09時42分41秒
  • p2055068-ipbf1807funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
いつかコウヘイさん

確かに現地で実体験して実感することは大切ですね。
体・心全体で何かを掴むことができます。

余談ですが、
随分前ですが、大阪で福永さんと会食した
時に、雪野山古墳発掘に関与したとして、関連資料を
色々頂きました。その時彼は登るのは大変ですよと
話してくれた。

後日、登ろうと思って麓まで行ったが、説明書きや
登る坂を見て、諦めてすごすご帰ってきた経験があります。

  • [22]
  • 桃崎先生

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 1月14日(金)09時33分44秒
  • p2055068-ipbf1807funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
いとなさん
情報ありがとうございます.

桃崎先生の意見は
初期ヤマト政権との限定ではなく、
初期ヤマト政権 あるいは 瀬戸内勢力
と言うことですね。

  • [21]
  • Re: 瀬戸内ー有明ルート

  • 投稿者:いとな
  • 投稿日:2022年 1月13日(木)14時56分21秒
  • KD175132050029.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
桃崎先生から年賀状を頂きました。
その中に「墳丘上からは讃岐系の土器が出ています。初期ヤマト政権か瀬戸内勢力と
関係しそうです」とありました。
3世紀の讃岐は幅広く見れば東瀬戸内勢力と考えられているので、このような指摘
がされたのでしょう。

  • [20]
  • Re: 瀬戸内ー有明ルート

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 1月13日(木)11時36分6秒
  • p2055068-ipbf1807funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
桃崎さんは初期ヤマト政権ではあったとしているようだが、
桃崎氏の初期ヤマト政権とは何時からかが問題。

うきはの古墳?が同墳形の吉備の楯築からそれほど遅れていないとすると
やはり邪馬台国の時代にかかる可能性は十分あるのではないか?

(仮説)
随分以前だが、弥生終末に日本海ルート・交易が盛んで、こちらが表街道
となったことに関して会の同人誌に投稿したことがあった。

投稿の主旨は:伊都国の一大率によって瀬戸内ルートが一時狭くなったので
日本海ルートや瀬戸内・日本海内陸交易が盛んになったとした。
吉備と出雲のルート、北陸ー東海ルート、北陸ー琵琶湖ーヤマトルートなど。
この仮説に瀬戸内ー有明ルートも加えることも出来る。

古代では交易・交換が政治支配の前に重要要素と考えるので
瀬戸内ー有明ルートが日本古代史にどのような影響を与えたか
を研究するのも興味深い。



  • [19]
  • 瀬戸内ー有明ルート

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 1月13日(木)11時12分49秒
  • p2055068-ipbf1807funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
オヤジッチさんのうきは市の西ノ城古墳について投稿について。

瀬戸内ー大分沿岸ー日田盆地ー筑後川ー有明海へと抜けるルートの
あることについて言及されたのは大変興味深い。
弥生終末にあったとする論は、うきは市の教育委員会の
入れ込み過ぎ?として取り敢えず取り消しになったが。
このルートは何時どのようにして開発されたか?
桃崎さんは初期ヤマト政権ではあったとしているよう。

以前、新納先生は邪馬台国の時代にもこの
ルートがあったと(個人的に)話されていたように記憶している。
5月の講演の時に聞いてみたい。

北九州の宇野さんもこのルートを話されていたが、いつから
あったと思われているかは聞き忘れた。

もし弥生終末論が復活すれば面白い。


  • [18]
  • 福岡県教育委員会 山城NO.97 うきは市吉井町富永 の山中中腹

  • 投稿者:いつかコウヘイ。  
  • 投稿日:2022年 1月12日(水)22時39分33秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
 アメーバブログ 福岡県の城 で 山城として 写真付き紹介。

私の現状 体力では いささか怪しい 立地位置。
滋賀 雪野山古墳を5年ほど前に上りましたが 駐車場近くの 横穴式石室が三つ並んだ古墳から 山頂近辺の雪野山古墳まで ギリギリの体力。
ただし 上らないと 本当の立地感覚 未成立。 俯瞰視野も確認できず。


福岡うきは市 西の城墳丘募
板状石材囲みの石棺/石槨、標高480m  古墳時代前期初頭?  一個の石材 仮に一トンとすると 、 何名が石揚作業に従事したのか 

  • [17]
  • 「彌烏邪馬國」とは…

  • 投稿者:福島 雅彦
  • 投稿日:2022年 1月 8日(土)18時05分42秒
  • p5186-ipad108fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
※『三国志(魏志韓伝)』登場の国々の中に水(み)縄山(のうやま)(耳納山地)と同義の国名を発見した。

*「彌烏邪馬(みおやま)國(こく)」。

・水(み)縄山(のやま)の古称に蓑(みの)尾山(おやま)がある。

・水縄も蓑尾(雨具)も水が滴る、の意。

・高良山の古称「高牟礼山」も「“??-?”(taka-mul)山」=「集る水の山」。

・「彌烏邪馬國」も「水生山國」=「水を生む山」の「倭語」。

・『韓傳』に記載されているが、元「倭地」=「拘邪韓國」=「大伽耶國」建国王「伊珍阿岐王」=「伊奘諾尊」で「倭人(神)」。

・半島と列島に同じ地名。両方の「みの(お)やま」に区別をつけるために、定冠詞“???”(ku-reum-e)=「雲の…」を付けたのが「久留米」の語源。

・水縄山の山頂の小峰には「白雲台、紫雲台、凌雲台、碧雲台、渓雲台」がある。

・春夏秋冬朝昼晩照っても降っても雲が沸く。

・彌烏邪馬國が在ったと比定する「高霊郡」は「高良山」と対応する。

・そこの地名に「箕山(きざん)里(り)」があるが「倭語」の「箕山(みのやま)」と同義であり、「星山面」ともあるのは「星野村」と対応する。

※或る公開講座のレジメより、一部抜粋。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

  • [16]
  • 「水縄連山(耳納山地)」の語源

  • 投稿者:福島 雅彦
  • 投稿日:2022年 1月 8日(土)17時56分43秒
  • p5186-ipad108fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
オヤジッチさん、通説のご紹介、多謝 謝々!

*何時の世にも、語源不明の説に事寄せた説がでっち上げられるものです。

※本当の語源は…

*「水縄山」が、実態を表しています。

・この山は東西≒25㎞の一重の連山。

・山頂は鋸の歯状(高千穂=千の穂が集っている)、山腹は谷沢が千条。

・この谷沢を水が垂れる縄に見立てての「水縄」=棚田の水源の山の意。

*古記録に「蓑尾山」がある=雨具の蓑の裾に垂れる水の山、同上の意。

・「高良山」の古地名=「高牟礼山」=“?-?-?”(ta-ka-mul)山=「集る水の山」の意。

※「彌烏邪馬國」も、「水生山國」の意の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」。

・「彌烏邪馬國」は別途掲載します。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。






  • [15]
  • Re: 西谷氏が誤、桃崎氏が正。

  • 投稿者:オヤジッチ
  • 投稿日:2022年 1月 8日(土)15時25分51秒
  • dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
  • 返信
 
いつかコウヘイさん○○は。

>  古墳時代 前期
>  瀬戸内 吉備/讃岐で 弥生末から古墳前期 双方中円墳墳という墳丘墓
>  時期が絶対値ではないのは 土器編年の限界
↑そうですね。出土した「複合口縁壺」(破片)の編年自体も確立していないのでは、
 調査報告書待ちですね。

> 西谷氏は 疲れていた?  意識的に 大和勢力としたかった?
↑どちらにしても、最古級ではないということですか。(うきは市教委にカツですか)

  • [14]
  • Re: 耳納の語源

  • 投稿者:オヤジッチ
  • 投稿日:2022年 1月 8日(土)15時08分22秒
  • dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
  • 返信
 
耳納山の由来
筑後川にそって屏風のように,筑紫平野の南端を走る耳納の連山の姿は美しい。耳納,すなわち耳を納めたという語源ですが,だれの耳か?には,幾つかの伝説があります。
(1)神功皇后が連れてきた新羅人の耳を治めたという説
(2)山ろくの石垣観音寺に夜ごと現れる化け物─顔はウシ,体は鬼─を,和尚の念仏と村人の  総力で退治し,その耳を納めたという説
(3)遠い陸奥の国で,源義家と戦う安倍貞任の末子は,はるばるこの地で反旗をひるがえした。押し寄せてきた源氏の兵は「降伏せよ。貞任は死んだぞ!」と呼ばわった。「そんなことはない!あの父上が負けるはずはない!」と降伏しない城主に貞任の耳が届けられた。「今はこれまで・・・・・・」と,自刃した城主を囲んで殉じた家臣が3000余騎というが,この貞任の耳を納めたために耳納山という説があります。(福岡県百科事典より)
写真は、宮の陣橋(久留米市)から見た耳納山地

  • [13]
  • 耳納の語源

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 1月 7日(金)08時20分57秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 返信
 
西ノ城古墳が出た耳納山の耳納(みのう)の語源は何でしょうか。

同じく双方中円墳が出ている讃岐には讃岐三野物部集団の痕跡があります。

耳納(みのう)=三野(みの)

隣の日田の語源について、昔に川が氾濫して、やがて水が引いた田、つまり「引き田」ではないかという記事を読んだことがあります。

引き田なら、

疋田物部 (ひきたのもののべ)
無姓。「旧」天神本紀に、饒速日命に供奉して天降ったことがみえる。
ウヂ名の疋田は、延喜式神名帳の大和国城上郡にみえる曳田神社の鎮座地、もしくは大和国添下郡疋田郷、葛下郡疋田郷の地名にちなむ。また、筑前国鞍手郡新分郷、讃岐国大内郡疋田郷もこの氏に縁故があるか。

足田物部と読む場合は、延喜式諸陵寮に片岡葦田墓がみえる大和国葛下郡の葦田に関係するか。」(天璽瑞宝)

「双方中円墳」はやはり物部が鍵を握っているのではないかと思います。



  • [12]
  • 西谷氏が誤、桃崎氏が正。

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 1月 6日(木)15時49分42秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 古墳時代 前期
 瀬戸内 吉備/讃岐で 弥生末から古墳前期 双方中円墳墳という墳丘墓
 時期が絶対値ではないのは 土器編年の限界
 畿内・東海は 方形周溝墓と 溝の土を墓の方に積み上げて低墳丘。

西谷氏は 疲れていた?  意識的に 大和勢力としたかった?



  • [11]
  • 米田さん

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 1月 5日(水)19時13分51秒
  • p2055068-ipbf1807funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
ありがとうございます。

弥生時代の墳丘墓的最古級」は市教育委員会の見解ですね。

  • [10]
  • RE:出典

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 1月 5日(水)16時36分4秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 
(横レス、失礼します。)

「重要な発見」最古級“双方中円墳”九州で初確認か  1/4(火) 11:59配信

西日本新聞
九州初の双方中円墳とみられる西ノ城古墳。うきは市教育委員会が引いた黒線が古墳の範囲を示す

 福岡県うきは市で発掘調査中の西ノ城(にしのしろ)古墳が、円形墳丘の両端に方形墳丘が付いた
「双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)」とみられることが分かった。全国で数例しか確認されて
おらず、九州では初めて。出土した土器片から古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造と推定され、
最古級の双方中円墳という。近畿や山陽の有力勢力と被葬者のつながりが推察され、
専門家は当時の中央と地方の関係を知る重要な発見だと指摘する。

【画像】双方中円墳のイメージ図

 西ノ城古墳は同市浮羽町の耳納(みのう)連山中腹にある。市教育委員会によると、
円形墳丘は長径約37メートル、高さ約10メートルで、二つの方形墳丘を合わせた全長は約50メートル。
円形墳丘の頂部では、板状の石を組んで造った埋葬施設が2基見つかった。
壊された同様の埋葬施設を含めると、5基以上あったとみられ、弥生時代の集団墓の特徴を残す。
一帯を治めた豪族と親族、側近らが埋葬されたと考えられるという。

 現場を確認した福岡大の桃崎祐輔教授(考古学)によると、双方中円墳は弥生時代後期の墳丘墓が
発展し、4世紀ごろに築造が始まったとされる。確認例は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳や香川県
高松市の猫塚古墳など全国で数例。西ノ城古墳の発見で築造年代がさかのぼる可能性が出てきた。

 双方中円墳の原型とされるのが、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に築かれた岡山県倉敷市の
楯築(たてつき)墳丘墓。西ノ城古墳では「複合口縁壺」と呼ばれる土器の破片が出土し、
似た形状の土器が瀬戸内地域や大分に分布するという。

 桃崎教授は「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと
抜けるルートを重視した」と指摘。
西ノ城古墳の集団は、こうした交流の中で双方中円墳を取り入れたと推測する。

 同古墳は2020年、公園整備のための調査で見つかり、斜面を覆う「葺石(ふきいし)」が確認された。
うきは市教委は本年度から本格的に発掘調査を開始し、来年度も継続するという。 (渋田祐一)

国家の形成過程分かる
 西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 双方中円墳は全国でも確認例が極めて少なく、
西ノ城古墳は貴重な発見だ。大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を
受けたのだろう。古代国家の形成過程における中央と地方の関係を知る手掛かりになる。

**************************

福岡大学研究者情報 ■ 人文学部 歴史学科 教授  桃崎 祐輔 (モモサキ ユウスケ)

「九州の騎馬文化 ウマの受容と騎馬民族征服王朝説」
桃﨑祐輔 『西日本文化』 2021年7月(499) 52-55 2021年7月1日


「日本列島における馬匹と馬具の受容」
桃崎祐輔 『馬と古代社会』 , /,3-34 , 2021年5月

**************************

西谷正(にしたに ただし)』(ウィキペディアより)
西谷 正(1938年(昭和13年)11月11日 - )は、日本の考古学者、九州大学名誉教授、
九州歴史資料館名誉館長、海の道むなかた館長、糸島市立伊都国歴史博物館名誉館長、名誉文学博士。

  • [9]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 1月 5日(水)16時23分14秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
西日本新聞me>九州ニュース>文化> 双方中円墳、九州で初確認 福岡・うきは市の西ノ城古墳
2021/12/29 6:00


  • [8]
  • オヤジッチさんへ

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 1月 5日(水)15時18分44秒
  • p2055068-ipbf1807funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
「円丘部には二基の箱式石棺(?)を含め五基程の埋葬施設があったとされており、複数の埋葬施設の存在や双方中円墳という墳形などから、弥生時代の墳丘墓的な要素を色濃く残しているとのことで、「弥生時代の墳丘墓的最古級の双方中円墳」
この情報の出展教えてください。

  • [7]
  • 古墳時代の中の別の埋葬文化/別の社会システム 

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 1月 3日(月)22時40分8秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
古墳という名称に問題点が多く、本来は歴史用語の古墳と広義の古い墓を使い分けることができればいいのですが、どうしても新聞社レベルが提示する●●古墳が、先行で知名度先行する為、こうした微妙な社会システムの相違点が説明できなくなっています。

これは日本のジャーナリズムが 埋文担当の学芸員の発言内容を読み込まず、勝手にフライング競争をしている 悪い成果。 なのではないでしょうか

 畿内定型化前期古墳という概念が 体感的に把握できれば いとも簡単に 浮羽の山城の下の墳丘墓が 畿内系では無い とすぐに判断できるのですが、言葉が勝手に進行・信仰化。

 これは土器の編年や装飾古墳の前後関係の把握でも同様、土器に触る行為、石室内に入る行為、その場数を踏まないと 認識できない。
場数足らずの新聞記者は 新聞部数が増えるように フライングの危険性を持つ。


  • [6]
  • 西ノ城古墳

  • 投稿者:オヤジッチ
  • 投稿日:2022年 1月 3日(月)21時13分31秒
  • dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
  • 返信
 
出土した土器片から古墳時代~初頭(3世紀後半)の築造と推定され、最古級の双方中円墳ということです。
円丘部には二基の箱式石棺(?)を含め五基程の埋葬施設があったとされており、複数の埋葬施設の存在や双方中円墳という墳形などから、弥生時代の墳丘墓的な要素を色濃く残しているとのことで、「弥生時代の墳丘墓的最古級の双方中円墳」を大胆に言えば「弥生時代終末期」ってこと。
「西ノ城」というのは、後の時代に西ノ城として城郭に利用されていたためです。
写真は、今シーズンも渡ってきた吉野ヶ里のカモたち

  • [5]
  • 畿内系古墳の前に吉備・讃岐系の楯築系双方中円墳が先行する 

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年12月31日(金)12時17分22秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 私的見方ですが、 北部九州へ畿内勢力(定型化前期古墳)が来る前に、吉備・讃岐の楯築系双方中円墳の勢力が、先に来ているのではないでしょうか?

また 後期古墳の時期 八女勢力が北上し 筑後平野へ進出。 森貞次郎先生が1960年代から言われている。
 彼らは 筑後平野海岸部を制覇、始祖墓的マーカーとして久留米・成田山の浦山古墳(帆立型前方後円墳) を見ています。 この地に石障系装飾古墳文化を持ち込む。

一方 浮羽は筑後川河口を上った地域。この地の後期古墳の特色は壁画系装飾古墳。

浮羽にて 最初期の所謂・古墳が見つかった事を評価しつつ、畿内系と楯築系が分離しづらい 《 西の城古墳 》という名付け、 いささか不満。






  • [4]
  • オヤジッチさんへ

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2021年12月31日(金)09時39分58秒
  • p2055068-ipbf1807funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
オヤジッチさんの最後のコメント見過ごしてました。
失礼しました。

「桃崎さんの言うルートは逆ではないか、弥生終末、九州が発信元と言えないか」
これはもう一度良く考えて見なければならない。



  • [3]
  • オヤジッチ様 情報ありがとうございます。

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2021年12月30日(木)11時37分57秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
 浮羽の異形墳丘墓 もし 正式所在地 判るようであれば ご教示 よろしくお願いします。

 コロナ終息後 体力と金銭面?が残っていたら 登ってみたいので。


大きく脱線ですが、東海地区・戦国山城で 基礎・石垣が残っている 有名? な城として、岩村城・苗木城や金山城などがありますが、私には どこまで 車で近寄れるか?
この情報を 観光の時は知らべています。

 古墳や墳墓やお城、のぼらないと判らない、過去の労働投資を理解する為にも 近づけるものは近づきたい。というスタイルで観光する癖がついてしまっています。 

  • [2]
  • Re: 双方中円形墳の発祥は?

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2021年12月30日(木)10時44分12秒
  • KD113153146012.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
>>1

オヤジッチさま

耳納連山といえば、なんと言っても福島さんですね(笑)

しかし双方中円墳を時系列でみると(間違えていたらごめんなさい)、

播磨の有年原・田中遺跡→吉備の楯築遺跡→西ノ城古墳→讃岐の猫塚→大和の櫛山古墳

になろうかと思われます。

特に最後の櫛山古墳は、崇神天皇陵と言われる行灯山古墳にべっったりへばりついてるのが特徴です。
これは崇神天皇に極めて近い肉親ではなかろうかと思われます。
私は崇神の母親である物部のイカガノシコメを想定しています。

この双方中円墳は、たとえて言えば普通の円墳を銅、前方後方墳を銀、前方後円墳を金とすれば白金=プラチナのような、最々上位の墳形ではなかったかと考えてます。

そしてその墳形が櫛山古墳という崇神の肉親で終結しているという事は、この双方中円墳も古代物部の墳墓ではないか、と考えます。
物部は播磨にも吉備にも讃岐にも、そして櫛山古墳の纏向にも、ことごとく痕跡を残しております。


  • [1]
  • 双方中円形墳の発祥は?

  • 投稿者:オヤジッチ
  • 投稿日:2021年12月30日(木)08時34分26秒
  • dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
  • 返信
 
 西ノ城古墳は同市浮羽町の耳納連山中腹にある。市教育言会によると、双方中円形墳丘は長径約37㍍高さ約10㍍で、二つの方形墳丘を合わせた全長は約50㍍。円形墳丘の頂部では、板状の石を組んで造った埋葬施設が2基見つかった。壊された同様の埋葬施設を含めると、5基以上あったとみられ、弥生時代の集団墓の特徴を残す。一帯を治めた豪族と親族、側近らが埋葬されたと考えられるという。
福岡大の桃﨑祐輔教授(考古学)によると、「「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」と指摘。西ノ城古墳の集団は、こうした交流の中で双方中円墳を取り入れた」と推測していますが。
 弥生時代の集団墓から派生したとされる双方中円墳の最古級が九州(倭国)から確認されたとなると、九州から東(海の倭種)へ広がったとは考えられないか。


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