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  • 出雲と大和 新 by トミー

  • 投稿者:トミー (代)古事記の暗号
  • 投稿日:2021年 5月 1日(土)09時35分3秒
  • h175-177-044-165.catv02.itscom.jp
 
新しい掲示板に替わりました。

旧掲示板は、「出雲と大和」、「出雲と大和(続」のスレッドで1万通のアクセス数をいただきまし

た。

弥生時代の後半から始めて、古墳出現期を見渡し、今は古墳時代前期から中期に向かっています。

最後は欽明に至るまで考察したいと思います。

一応は出雲の歴史展開を弥生時代ー古墳時代について概説し終わりました。

今後は、「出雲と大和(新)のスレッドとして倭の五王に挑みます。

全体の流れ(マクロ)を見通しすると同時に、確実視される点情報(ミクロ)を落穂情報として記述し

ながら綴ります。


知的冒険です。よろしくお付き合いください。

本日は松山英樹(松山市出身)がゴルフの聖地でマスターズ初制覇した記念の日です。

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

投稿者
題名
*内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
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sage

  • [92]
  • 新しい討論室

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 6月21日(火)19時07分44秒
  • p1691010-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
普通の掲示板です。
HPの討論室クリックください。
一番上の「討論室」クリックください。
既にトミーさんの出雲のスレッドが米田さんの
努力で立ち上がってます。

  • [91]
  • 当世奇妙さん

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 6月10日(金)22時14分25秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
考古学的事実を、多角的に捉えてきました。新しい知見を基本において比較対照しました。

5世紀は、北魏が439年に華北を統一し、山東半島を支配する南燕を410年に東晋の劉裕が滅ぼしたが420年、その劉裕が南宋を建てる。5世紀後半470年前後からは南宋は北魏に圧倒される。

その間に、高句麗は北魏とのつながりが強く、百済と倭国は南宋との結びつきが深い。

そんな時代背景での倭と韓の勢力の動きを精緻に捉えたい。

考古学的な基本線を、一応、纏め発表しましたが、それをブラッシュアップする必要があります。

甲冑や埴輪や馬具や刀剣の研究も加えることが宿題です。

これからは、文献との擦り合わせ作業を試みることが大仕事です。

手元に、坂靖氏の倭国の考古学と、新納泉氏の日本書記紀年再検討があります。これを精読して見ます。

白石南花さんの神功皇后紀分析も吟味させていただきます。


畢竟、いずれにしても、倭五王研究は。私自身のフレイルを後らせるための手段です。それを楽しみながらです。

序にですが・・・現行の討論室は8月にクローズとされています。新討論室はすでに開かれているのでしょうか、スマホのフェースブックを使うのでしょうか。

要領がつかめません。教えていただけませんか。

  • [90]
  • 倭の五王 一つの発見 発表

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 6月10日(金)12時04分44秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
倭の五王について、研究を重ねて、一つの発見=到達点に達しました
発表させていただきます。考古学者の諸先生の最近の発表を調べると
共通していることが理解できました。それは・・・・
画期 5世紀後半の倭韓海上ルート変更


① 白石太一郎氏 ヤマト王権と沖ノ島祭祀
4世紀後半―宗像勢力は大和王権の対韓交渉の直接進出に関与。
5世紀前半頃倭韓交渉ルートが変わる。交渉相手が変わるからである。大伽耶やさらに西の全羅南道との交渉
5世紀初頭ー玄界灘西部勢力の古墳は衰え、有明海及び八代沿岸、筑後川に移動
5世紀後半―6世紀 肥後・氷川(火君)や築後(筑紫君や水沼君)から宗像へ中心勢力が移動

② 朴天秀氏 3-6世紀における伽耶、新羅と倭
5世紀前半 ―新羅と河内勢力
5世紀後半―大伽耶と河内勢力

③ 河野一隆氏 弥生時代―飛鳥時代の地域間関係と対外交流
5世紀前半-韓半島は新羅と河内;百舌鳥古市  筑後のつながり
5世紀後半―韓半島大伽耶と河内:百舌鳥古市 有明海 氷川のつながり

④ 井上主税氏 4世紀におけるヤマト王権と伽耶の対外交流;王権内の動向に着目して
金海の大成洞古墳群は5世紀中葉以降、倭系遺物確認できなくなり、反対に倭では、畿内中央部に渡来系鍛冶工人が出現し武具や馬具の
生産量増大。

⑤ 寺井誠氏 日本列島における出現期の甑の故地に関する基礎研究
5世紀後半、倭と百済馬韓との交渉において巨済島鵞州洞(馬韓と倭を繋ぐ巨済島)など南海岸を経由するルートになり、それまでの金官国が勢力を持つ、洛東江下流域を通過するルートとは異なるルートを確保されたことが背景にある
甑(米穀物の蒸し器)という生活文化の分布を考察すると・・・
5世紀には吉備・備中南部は、慶尚道(新羅から伽耶東部)由来の土器が主で。畿内は全羅道(韓半島南西部:百済,馬韓)の土器が主になる。
5世紀後半~6世紀前半になると、前代に多かった中河内の甑は減少し、北河内(四条畷市蔀屋北遺跡)はほとんど全羅道(百済、馬韓)由来の甑になる

⑥ 高田貫太氏 5,6世紀朝鮮半島西南部における倭系古墳の造営背景
5世紀前半-西南海沿岸地域の倭系古墳は臨海性が高く。北部九州地域における中小古墳の墓制を継続的に採用。
対百済と栄山江流域との交渉を実質的に担った倭系渡来人-海上交通を基盤とした地域集団の存在が見える。
5世紀後半―6世紀前半頃―栄山江流域に造営された前方後円墳と在地の高塚古墳をみると、排他対立から脱して地域ネットワークに参画し倭と百済の
墓制の緊密な関係が見られる。

⑦ 柳本照男氏 4・5世紀の東アジアと倭政権
5世紀前半以降の竹幕洞祭祀遺跡は、倭の五王の朝貢に派遣された北部九州の倭軍の航路の安全のために行われる。
438年珍王、451年済王の朝貢団がたくさんの隋行者を引き連れていくときに、海賊集団から船団を護衛し、難所の海路を通過するために北九州の武装した倭人・船乗りを連れて行く。
これが半島南岸の古墳の主である。
5世紀後半の半島海辺のべノルリ古墳には、三角板鋲留衝角付き冑が出土し、畿内河内・古市と九州に存在していることが、中央と地方の関係に示唆を与える。

⑧藤井康隆氏 古墳時代の金銅製品= 帯金具の工芸様式と地域首長層
  5世紀中葉-後半の、帯金具の伝播について検討すると・・・古墳時代中期には,百舌鳥の七観山陪陵、福岡県月岡古墳には江南の中国南朝との冊封復活が考えられ、直接的リアルタイム伝播が考えられる。5世紀の帯金具は、南宋の様式と北魏の様式の工
芸系譜のものが朝鮮半島や日本列島にリアルタイムに流入している。
中国南北王朝の交替を直接反映し倭国の首長に官授されているのではないか

以上の考古学者の新しい研究成果に、拠れば、5世紀は、中国南北朝の盛衰とそれに影響を受ける韓半島(高句麗、百済・馬韓、新羅、大伽耶)と倭の五王が
新しい海路を確保して、南宋と朝貢するあり様が理解される。
5世紀は前半が新羅と後半は大伽耶と倭の諸勢力が結ばれ、(6世紀に入り磐井の乱以降は、百済と倭国の中央勢力が強く結ばれる)ことが理解されるのではなかろうか。


  • [89]
  • 新討論室

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 5月21日(土)19時17分3秒
  • p1691010-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp
  • 返信
 
トミーさん

そろそろ新討論室にスレッド立てませんか!

  • [88]
  • 帯金具

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 5月19日(木)08時39分58秒
  • p1691010-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp
  • 返信
 
情報ありがとうございます。

朝鮮半島新羅地域で在地化され前燕(337-352年)時代とされています。それが金海を経て列島に渡った。
同様に晋式帯金具も,遼東朝暘⇒朝鮮半島⇒列島へと考えられてきた。

ですね?

藤井氏の晋式帯金具伝播論は??ですね。


  • [87]
  • 倭の五王 -帯金具 補足

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 5月17日(火)16時18分52秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
当世奇妙さん  投稿者:トミー  投稿日:2022年 5月17日(火)16時01分12

関心を持っていただいてありがたいです。

藤井康隆氏の主張
> 「晋式帯金具などは東呉ないし江南から発する東方海域への直接拡散的伝播であり間接伝播を示す型式差や時期差は見当たらない。
日本列島に関しても古墳時代の呉鏡の出土・分布状況を考慮すれば江南の工芸系譜との接触とその影響は評価しなければならない。」

これはどのようなルート、どのような歴史出来事によったか
何かお考えありますか?
>大変興味あります。教えてください。

⇒早大学派の歴博・仁藤敦氏が、公孫氏が中平年紀年の鉄刀を卑弥呼に与えたことを肯定なさいました。それが伝世したものに加飾した環頭太刀が天理の東大寺山古墳(4世紀後半)に出土とされました。

同じく、早大学派の藤井康隆氏は唐津市柏崎貝塚で觚〈コ、盃)形鉛器が出土したこと、これに水銀朱がついていたことを確かめて鬼道(初期道教)用仙薬と関連付けて発表されました。黄巾の乱を引き起こした天師道は鬼道と呼ばれていたので、唐津という海東まで鬼道が伝播した証拠と見做された、卑弥呼の鬼道のルーツが中国にあるとされました。

その藤井氏は40数歳の年齢です。南京大学に留学されています。名古屋市博物館勤務から佐賀大学の准教授に転じられました。古墳時代の馬具の研究では、福岡大学の桃崎裕輔氏が第一人者ですが、藤井氏も馬具や帯金具の研究では牽引者の一人です。

桃崎氏は・・・古市古墳群の応神陵とされる誉田御廟山、その陪陵の誉田丸山古墳に出土した馬の金銅製鞍が、鮮卑墓容氏の本拠、遼寧省朝暘の喇嘛洞の鞍と似て起源説を立てられ、後燕、-北燕時代(407-436年)とされました。
その後、諫早直人氏の批判があり、朝鮮半島新羅地域で在地化され前燕(337-352年)時代とされています。それが金海を経て列島に渡った。

同様に晋式帯金具も,遼東朝暘⇒朝鮮半島⇒列島へと考えられてきた。

藤井氏は南京大学へ留学されで学ばれたこともあってか、南京地方を重視され始めた。晋式帯金具(ズボンを締める、バックルに飾りをつけた金具)は、東呉(三国志・魏呉蜀の呉のこと、都は南京=建業,建康)の時代、3世紀初頭にルーツがあり、東呉が西晋に滅ぼされる280年に司馬炎(都は洛陽)に移り、さらにそれが前燕-後燕―北燕の都、朝暘で模倣して作られ官位を表飾するアイテムとして採用された。

410年になると山東を本拠とする南燕、を東晋の劉裕が倒し、420年には南宋を建国するが、436年北魏が強くなり、南宋は圧迫される。

と云った歴史の流れを見て倭の五王を見究めたいと思っております。



  • [86]
  • 倭の五王ー帯金具

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 5月14日(土)19時02分27秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
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倭の五王ー帯金具の研究  投稿者:トミー

倭の五王に迫るのに、帯金具の研究が一つの有力な研究と思われる。
二つの論文に興味をもった。 佐賀大学の藤井康隆氏の帯金具の工芸様式と地域首長層。金沢大学の大谷育恵氏の,三燕金属製装身具の研究の論文です。

古墳時代3-5世紀の中国の江南・孫呉―東北部・三燕(鮮卑墓容氏)~朝鮮半島~日本列島との間の文化伝播の有り様について新しい見方が得られた。
帯金具の工芸様式には4段階ある。Ⅰ群は前期―中期初頭 3世紀末―4世紀前半 晋式帯金具 Ⅱ群は中期前半―中頃 雲気禽獣文 Ⅲ群は中期後半―後期初頭 浮彫禽獣文
Ⅳ群は中期末―後期前葉 獣面文 5世紀後半・・・・・
以下は私の読解した大筋のストーリーです。


晋式帯金具は元々は、江南・南京の東呉(孫権没252年の時代)の中晩期、3世紀初頭の軍人・薛秋の墓に入るのが晋式帯金具のルーツ。その東呉が司馬炎の西晋に滅ぼされるのが280年。
以降、西晋の身分表飾に使われる。建業(南京)の東に位置する宜興の西晋周処墓297年にも晋式帯金具が副葬される。

317年西晋が滅び東晋に代わると東晋の広州太刀山晋墓324年に副葬される。
その間、西晋が採用した官品制度=晋式帯金具は、鮮卑墓容氏に属する前燕慕容皝が337年から勢力を伸ばし自立し高句麗を抑える時代には、自らの身分表象として晋式帯金具を採用したのであろう。本拠の遼西省朝暘の墓には晋式帯金具が入る。
日本列島には、310年製の帯金具が奈良県新山古墳に、330年製晋式帯金具が播磨加古川東側に在る行者塚古墳に、副葬される。
韓半島の金官伽耶(金海)の大成洞古墳88号-4世紀第三四半期の古墳にも晋式帯金具が入る。

Ⅱ群の帯金具は、河内百舌鳥の七観山古墳、奈良県五条の猫塚古墳、福岡県月岡古墳に入る。

藤井康隆氏は、40台後半の研究者で、新鋭の研究者としてすでに実績を上げておられるが、新鮮な提言をされています。(2022年月刊 考古学ジャーナル)・・・以下・・・
朝鮮半島南部の金海大成洞古墳群や日本古墳時代の中国文物については、三燕文化の南下や、中国(華北中原?)-東北(遼寧)-高句麗―朝鮮半島南部という
陸路ルートによる文化伝播と解釈する向きは強い。
しかし晋式帯金具などは東呉ないし江南から発する東方海域への直接拡散的伝播であり間接伝播を示す型式差や時期差は見当たらない。
日本列島に関しても古墳時代の呉鏡の出土・分布状況を考慮すれば江南の工芸系譜との接触とその影響は評価しなければならない。


  • [85]
  • 神功紀分析

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 4月26日(火)10時25分6秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
神功紀分析  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 4月20日(水)16時04分19秒
神功紀分析を二版に更新しました。
ヲワケの臣様のおかげで、考察が深まりました。
神功紀以前に関しては、干支による解析はできなくなるようですが、これは日本書紀に見える政権中央へ漢字が入り込む状況が、日本書紀の記載とほぼあっていることを示しているように思います。
そして発見された国内製金石文が、今のところ五世紀以降であることとも合致しています。
https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/jingoh.htm




  • [84]
  • 橘さん

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 4月 4日(月)15時18分7秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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  • 返信
 
橘さん  投稿者:トミー  投稿日:2022年 4月 4日(月)15時09分29秒

応援ありがとうございます。

国内外の旅を重ね、いろいろなセミナーに出たり書籍に触れて、整理してみたいと思いました。平和な時代にシルクロードや、トルコをはじめ、中国や朝鮮半島にも出かけました。

日本各地も網羅できました。こんな恵まれた人間として感謝の意を込めて『出雲と大和』に立ち向かい討論室に、参考情報を残しました。1万通のアクセスをいただいて少しは、

寄与できたかと思っております。
今は倭の五王に取り組んでいます。

風車に立ち向かうドン・キホーテの無鉄砲です。
考古学に加えて、文献との擦り合わせ作業です。


直木孝次郎、新納泉、坂靖など諸先生の書籍を読み込んでおります。

白石南花さんの解説も参考にしながら、これからも少しずつ解明してゆきたいと思います。

昨日から、声楽の先生のレッスンも受講し始めました。

知的好奇心が、シニア生活に潤いを齎しております。フレイルを克服する手段でもあります。

時折、研究成果を発表しますので、今後もご厚誼のほどをよろしくお願いします。


  • [83]
  • 保管用 チェック

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月 2日(土)00時12分0秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
2022-04-02

  • [82]
  • 漆製品

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月24日(木)21時27分30秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
漆製品  投稿者:トミー  投稿日:2022年 3月24日(木)20時50分31秒


漆は縄文時代からあることは当然です。日本列島に広く分布していました、中国でも浙江省で縄文時代併行期の漆製品が見られます。

浙江省の博物館で見られます。

日本列島では弥生時代のいつかから漆は栽培されなくなりました。

ただ、東出雲の西川津あたりで弥生時代になって栽培されるようになり、やがて西出雲の

出雲市方面で漆が栽培されるるようになる。それを山持や姫原西へ集められ、その地で作ら

れた木桶容器を用いて運搬されて輸出することにより出雲の経済基盤のひとつになりまし

た。これは島根県埋蔵文化センターの元所長である川原和人氏のお考えです。

漆だけでなく水銀朱や蚕も、紀元前108年以降は弥生時代中期後半で楽浪郡との交易がで

きるようになりました。、それ以前とは違う使われ方をするものと考えています。


漆川、付近の新昌洞は紀元前1世紀にはじまり、4世紀まで続きます。

弥生人が行っています。

この遺跡は木器が出るので有名であり、漆器も出るので検討に値すると考えます。青谷上寺

地の卜骨は半島の勒島のそれと似ているとされているが、この新昌洞の卜骨とも

共通している可能性を見てとれる。




  • [80]
  • 栄山江  は 漆川

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月23日(水)15時18分4秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
栄山江は漆川  投稿者:トミー  投稿日:2022年 3月23日(水)14時35分27

栄山江は漆川
ジョッキ形容器(漆用木器も含む)につき、個人的に興味を持っている事実を初公開します。
橋本氏や市元氏も触れられておられません。
栄山江と言えば、全羅道光州に近いところで、前方後円墳型の墳墓が6世紀前後に
多数造営されたことでご存知の地です。

この川は漆川と呼ばれていて、近くに新昌洞遺跡がありました。そこは湿地で沼と池の
在る場所で、漆器類をはじめ、火で焼かれたコメの炭化米、種もみが出土しました。
特に、漆器製作工程資料の出土は学会の関心を呼び起こしました。

漆を塗る漆杓子が出て、漆器の製作と関連がみられます。黒色磨研土器も出ています。
機織り付属具や荷車も出ている。この地域に首長級実力者がの存在が推測され、活発な物資交換及び交通体系が成立していたことを暗示している。

紀元前1世紀~紀元後4世紀を中心にする複合遺跡である。谷間では低湿地と工房跡などが確認されている。新昌洞で特に注目されるのは青谷上寺地と同様に様々な有機物の遺物が多量に出土していることです。
木製品ではお椀や筒型漆器などが作成されている。木製農耕具も存在する。
在地系の土器に混じって楽浪系土器、弥生土器などの外来系土器が見つかっています。
青谷上寺地の卜骨は半島の勒島のそれと似ているとされているが、この新昌洞の卜骨とも
共通している可能性を見てとれる。


京都府埋蔵文化センターの高野陽子氏などは、日本海沿岸地域における弥生時代木製品に見る地域間交流という共同研究成果を2017年に発表されている。

木製品の形式や木工技術は山陰と北陸の間で相互交流があり、桶形容器についても両地域に類例が増加している。弥生時代後期中葉以降に、内径が底に向かって広がる下膨れの把手付木桶も流通している。

さらに視野を広げて大陸や朝鮮半島との木製品の交流も含めて考えるべきと提言している。


  • [79]
  • ジョッキ形容器 補足

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月22日(火)17時39分59秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
熊本の方保田東原を狗古智卑狗の拠点とされるのが、福岡市文化財の久住猛雄氏です。ふたかみ邪馬台国シンポ17(2017年)で述べられています。

私は必ず、出典を明らかにしております。

後漢王朝は郡国制ですから、郡太守は中央政権から派遣され、それを補佐する位は地元採用
でしょう。
127号の王光墓(太守掾王光木印)ですが彼は地元の豪族出身の官僚と思われます。

それにしても豪華な墓です。楽浪郡の官僚は裕福で、漆は蜀の国(成都地方)の赤漆か黒漆を使います。

出雲も漆の産地で栽培しては、生漆などを輸出していたとされています。

その容器にジョッキ形桶や筒を使っていた可能性があり、半島や列島に出土します。

漆は大変貴重で、いろいろな用途があります。

予てから漆は注目していましたので、いとなさんが開拓されジョッキ形容器のテーマについて、玉枕さんもご指摘のように、慎重に深く研究すると面白いと思っております。



  • [78]
  • ジョッキ形容器考 補足

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月22日(火)13時01分18秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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ジョッキ形容器考 補足  投稿者:トミー  投稿日:2022年 3月22日(火)12時48分42秒 編集済
公孫氏と卑弥呼との関連を追いかけておられる、いとなさんの行動力に感服しております。

実証できないかという思いでしょう。

私は出雲との関連を追いかけております。


ベースは、久住猛雄氏など福岡市文化財課の考えです。庄内式古相190-220年は伊

都国と公孫氏との関連がある。出雲国は伊都国と同盟関係を持つ。

庄内式新相220-250年は奴国と吉備と河内・大和(纏向)の関係が強まる。



お知らせしたいことは下記です。

〇久住氏は、方保田東山は狗古智卑狗(=菊池彦ー狗奴国?)の本拠とされていること

〇西谷正先生が、楽浪漢墓の貞柏里木槨墓137号の漆器が、出雲の姫原西のジョッキ形漆器に似ていてその関連性を認められていること

〇中村大介氏が、楽浪以北から鉄、銅、ガラスなどが半島西南部を経て日本列島へ、一部は、出雲など日本海岸に伝わるという考えを、物質文化という専門書に記述されていること

◎最も大事なのは、出雲の考古学者の川原和人氏が、ジョッキ形漆器は、筒型と桶形があり、漆採集器及び貯蔵器、運搬器であることの指摘です。

出雲は、漆の輸出が経済力の基盤であったという主張です。

〇市元氏は、楽浪(平壌)ー貞柏里の漆器がデザイン原型で、遼陽に伝わり、笠型飾り付の明器を作った。

ジョッキ形漆器は出雲の山持で作成したとされています。(西谷先生は、出雲市 姫原西で作成)

出雲には交易で、楽浪土器も入っています。

出雲と楽浪との情報交換はあり得たと思います。

〇さらに言えば、因幡・青谷上寺地は出雲・山持と鉄などの流通ルートして

繋がっていたという見方があること

  • [77]
  • ジョッキ形容器 考察

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月21日(月)15時45分30秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
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ジョッキ型容器 考察

① 市元塁氏(東博)遼寧公孫氏は考古古的にどこまで可視化できるのか 2021年11月20日
② 橋本裕行氏(橿原考古学研、明治大学)ジョッキ形容器の出現とその背景
2022年3月19日
について貴重な講演をいただいた。

その共通点、相違点について比較してみた。

把手付ジョッキは、後漢時代の二世紀ごろに現れる。日本海岸に現れる。青谷上寺地と出雲の山持と出雲の西姫原及び石川県猫橋 に出土。
熊本の下山神にも出土する。
遼東。楽浪では平壌で出現。平壌の貞柏里135号、遼陽(襄平)棒台子2号
遼陽市壁画館品に出土する。

2-3世紀における日本列島と遼東半島との双方公的な交流の姿を反映。
外部から入手した副葬品の明器。
ここまでは共通する。

デザイン(意匠)の笠飾りは遼東のものとされるのが橋本氏である。
  市元氏は、模倣原体は木胎漆器(平壌近郊から出土)とされている。平壌の貞柏  理木槨墓(135号、127号王光墓などのジョッキ形漆器で笠飾りがつく)とされているのであろう。

 製作は出雲の山持遺跡の木器製作工房とされる。倭国からの輸出である。
用途が、面白い。逆F字型把手で器身の円錐台形、口が狭い,笠が付くなどの特徴から推測して、保温性離乳食品、海上用食器として寒い遼東半島へ船で向かう旅の伴侶とされている。

橋本氏は、ジョッキ形容器出現の背景には遼東地域と北部九州・山陰地方を結ぶ交易ルート(物質・人・情報)が関係している,銅鏡以外にも鉄器やガラス玉やなどの先進的文物が日本列島にもたらされた。これは遼東半島から朝鮮半島西海岸を経由し朝鮮半島西南部から航路で直接九州・山陰へ伝わった※可能性をを見ておられる。

※参考 物質文化2015年 95号所掲 図:楽浪郡成立前後の金属器及び玉類の交易ルートと技術移転 (埼玉大学准教授 中村大介氏)
③古代出雲繁栄の謎 川原和人氏(元島根県埋蔵文化センター所長)のジョッキ形容器研究によると、木製品は出雲平野の姫原西と山持-五反配遺跡で作られた。いずれも神門水海とつながる。
姫原西の木製品は、漆塗り木製品が琴板、ジョッキ形容器
、弩形木製品(中国の弓)、三稜鏃、など特殊のものが多い。五反配では、その東方の山持の建築材を運んで職人により建築材の加工と漆関係の仕事が施され、漆塗り桶を作っている。

これらは日本海交易によってもたらされた技術と情報によってつくられたものである。
出雲では漆を採用してし、漆付の桶(漆が付着)に漆を入れて交易して栄えていたようです。
弥生時代後期後半に特徴的な筒型ジョッキ形桶は、内面に漆が付着し生漆採集器で把手は持ち易くするためで。蓋も付いている。
④ 西谷正先生の「楽浪と古代出雲」の講演(2019年)の中で、
出雲の姫原西遺跡で出土したジョッキ形をした木製容器は。その独特な形態から見て、楽浪の貞柏里135号墓漆器に起源が求められるであろう.三稜木鏃は、やはりその形状の特徴から出雲市古志本郷出土の楽浪の三稜銅石鏃を模倣したものと考えられる。


なお、熊本の方保田東原を狗古智卑狗の拠点とされるのが、福岡市文化財の久住猛雄氏です。ふたかみ邪馬台国シンポ17(2017年)で述べられています。



  • [76]
  • 知識更新 考古学研究 新納泉先生の論文を入手

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月13日(日)10時08分23秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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知識更新の楽しみ  投稿者:トミー  投稿日:2022年 3月13日(日)10時03分22秒
基礎知識の上に、新しい知識で更新されるのは楽しみです。

歴史の研究は山を登るが如しで直角では登れません。

無駄も含めて,山の周囲を斜めに,螺旋してスパイルに登ります。

少しずつ高みに登ります。

倭の五王研究も3合目ぐらい来たかなと思っています。

昨日、考古学研究270号が届きました。新納泉先生の日本書紀紀年検討の論文が


確かに入っています。

京都府埋蔵文化センターの肥後弘幸氏の研究ノート「壙内破砕土器供献の終焉」も興味があります。

北海道北部におけるオホーツック文化の石器利用 と題する論文も入っています。礼文島の事例として高瀬克範氏が書かれています。

礼文島は船泊遺跡で女性縄文人の歯が出てDNA分析がされて有名ですね。


3月19日は、橋本裕行氏がジョッキ型容器の話をされる由、楽しみです。

橿原考古学研から明治大へ移られましたね。

弥生時代に全国各地に分布する絵画土器の分析を一昨年、聴いたことがあります。


  • [75]
  • 坂靖新説批判 by白石さん

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月12日(土)23時13分54秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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倭国の古代学  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 3月12日(土)18時25分55秒
坂靖先生の本届きました。
まだ精読していませんが、一点元嘉二年(425年)の朝貢で倭王讃とあるとしますが、そんな記述はないですね。
南史でも梁書でも、倭王讃ないし賛と書かれているのは413年の朝貢で、宋書では一度も倭王ないし倭国王ではありません。
425年の朝貢について倭王、ないし倭国王となっている史書はないのではないかと思います。
宋書帝紀の元嘉七年(430年)の庚午年、名前はありませんが倭国王の朝貢とされたものが、倭王ないし倭国王の初見です。
私見ではこれは応神紀と仁徳紀の庚午年の記録に相当するとします。

讃が王になるのは、その前の呉への使者が出発する直前の、履中即位前期426年の政変によると思われます。
この政変がこの時代の政情の鍵を握ると思われます。

  • [74]
  • 藝文類聚

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月11日(金)14時49分21秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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橘  投稿日:2022年 3月11日(金)12時54分13秒

日本書紀
歴史万華鏡 編集委員 岡本健一 1994年8月12日 毎日新聞より
記紀の出典論、後生に託して応召 藝文類聚の発見<青春の遺書>
 昭和18(1943)年秋、構内のイチョウの葉が色づき始めたころだった。小島憲之さん(当時、京大国語国文学教室教務嘱託)は『日本書紀』の欽明(きんめい)天皇の巻を読んでいて、ハッと気がついた。
 「この言葉の出典は、中国古典からの引用というより、文芸百科事典『藝文類聚』(げいもんるいじゅう)からの、一種の孫引きではないか」
『日本書紀』や『古事記』編集の手の内が見えた瞬間、小島さんは小躍りした。研究者にとっては無尽蔵の鉱脈を発見したようなものだ。「これで一生、論文が書ける」とひそかに安心もした。
『藝文類聚』は唐の欧陽詢(おうようじゅん)が7世紀前半に編集した〈類書〉つまり分野別百科事典。森羅万象・人事百般を天地・四季から人間・政治・産業・生活・動植物まで45部に大別したうえ、千項目余りに分けて解明する。古典や詩歌をふんだんに引用してあるので、金言名句の文例・引用辞典としても役立つ。
 たとえば〈交友〉。友情にまつわる故事や名言がイモづる式に出てくる。したがって膨大な中国の古典をひっくり返さなくても、また万巻の書物をそらんじなくても、『藝文類聚』の関係項目を開き、しかるべき名句を拾いだしつづりあわせたら、典拠のある格調高い文章が書けるわけだ。
 ー『古事記』の太安万侶も『日本書紀』の編集スタッフも、どうやら『藝文類聚』をネタ本に文章を書いたらしい。
 これが小島さんの直感だった。
「書紀の成文の素材は漢書(かんじょ)、後漢書、三国志其の他の史書の外は、類書特に欧陽詢の『藝文類聚』に負うてゐる処が多く、在来考へられてゐた程に、四書五経など種々の典籍は直接には参照してゐない。



日本書紀の原史料  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 3月11日(金)19時55分0秒
近年芸文類聚ではなく、そのもとになった華林遍略であるとの説が出ています。
華林遍略は唐代に成立した多くの史書に影響を与えたとみられます。


  • [73]
  • RE:倭の五王

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 3月10日(木)14時49分49秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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RE:倭の五王   投稿者:米田 喜彦  投稿日:2022年 3月10日(木)07時06分38秒



│>_:倭の五王ですから、5行にまとまると思います。(重複可。没年のみでも可。)<

│歴史を王の在位年だけで考えようとするのは、そもそも無理でしょう。
│そう言う意味で そもそも紀年論というのは、アプローチに間違いがあると思います。

※:お言葉に甘えて、(私も)倭国の紀年論(在位年)を考えずに、「倭の五王」を並べてみます。
_:系図解読復元によって、同一人物を重ねました。あとは、並べただけです。


允恭天皇(377年生・458年没:葦田宿禰__&_新羅訥祇王_____新羅:417~458:42年間在位)
仁徳天皇(379年生・427年没:大雀皇帝__&_新羅卜好___『讃』)│
応神天皇(380年生・433年没:若野毛二俣王&_新羅未斯欣__『彌』)┴(3人とも、神功皇后の子)

履中天皇(不明_・不明_:菟道稚郎子皇子_&_意富富杼王__『済』)(死亡記事は、ウソ。)

市辺押磐王(435年頃生・不明:住道の人「山杵」_______『興』)(死亡記事は、ウソ。)
継体天皇(437年生・514年没:御馬皇子__&_新羅智證王__『武』新羅:500~514)

(男大迹天皇は、別人。「筑紫の磐井」)
(継体女王は、450年生・531年没・享年82歳。別名「童女君」・「目子媛」・「朴氏延帝夫人」)


_(白城)__(紀小弓)_(紀生磐/大磐)(小足)____(塩手)
─市辺押磐王──顕宗天皇──男大迹天皇──東漢直駒───谷直塩手(592年頃生・672年没)
 (山木)_(アラキ・弟山)(磐井)_(592年被殺)
(すむちの人)


(新羅王3代)
允恭天皇(新羅:訥祇王:417~458)
雄略天皇(新羅:慈悲王:458~479)
星川皇子(新羅:炤知王:479~500)


反正(仁徳の子:大草香王 & 百済牟都・田狭・倭直吾子籠・葛城圓大臣)(死亡記事は、ウソ。)
安康(高句麗系:「助多」)


  • [72]
  • RE:紀年論の課題

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 3月10日(木)14時39分7秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
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RE:紀年論の課題  投稿者:米田 喜彦  投稿日:2022年 3月10日(木)14時34分37秒


│この問題を解決するにはナイーブに考えて、以下の四通りの組み合わせが必要でしょう。
│1.応神没年と雄略即位年を調整して間隔を広げる。
│2.天皇在位年を短縮する。
│3.天皇の内何人かは存在しなかったとする。
│4.在位年にダブりがあったとする。

<「天皇在位」に関する疑問>(上記1~4という設定に疑問を感じます。)

(その1)
:磐之媛命(宮主宅媛)、飯豊女王(忍海部女王)、継体女王(450年生)を系図にして並べると、
:宮処(みやこ)の主は、(夫ではなく、)后(女王)の方だった。そんな気がします。
:女王の複数の夫の何人かを天皇として、つなぎ合わせて書き上げたのが、「日本書紀」ではなかろうか。

(その2)
:朴堤上を殺したのは、誰か。(列伝では、殺したのは、倭人ということになっている。)


(新羅訥祇王:417~458)
─允恭天皇────────────────┬─雄略天皇

─若野毛二俣王(未斯欣)─┬─忍坂大中津姫─┘←(矢田皇女)

(新羅実聖王:402~417)
─磐之媛命(宮主宅媛)──┘┐(衣通郎姫)

──朴堤上────────┴─めとり皇女─┐(衣通郎女)

─若野毛二俣王(未斯欣・『彌』)───────┴─吉備稚媛──葛城韓媛/磐城皇子/星川稚宮皇子


※:この系図を見ていると、「磐之媛命」は、「朴堤上」を引き入れて、「倭国王」にしようとした。
_:それを、神功皇后の3人の息子が、見つけて、まず「朴堤上」を殺し、次に「実聖王(磐之媛命)」
_:を、訥祇王(允恭天皇)が、殺した。そして、訥祇王(允恭天皇)が、新羅王に即位した。
_:だから、娘の「忍坂大中津姫」は、412年に結婚したことになっているけれど、
_:允恭天皇を憎く思った。という逸話が残ったのだと思います。

※:「磐之媛命」は、ヒステリックな女性ということになっています。
_:自分が倭国の女王だと自負していたら、仁徳天皇は、娘や(異父同母)妹を妾にしてしまい。
_:「朴堤上」を、倭国王にしようとして、呼び寄せたら、殺され、怒ったら、自分も殺された。

(その3)
※:(『風土記』領主・国造が女性である「例」。)
:(P-283:伊賀の国):この名は、伊賀津姫の領していた郡であるから、それによって郡の名とし、
:     また国の名としたものである。(おそらく、「伊賀津姫」=「天女の妹」、だと思います。)
:(P-76):私は服部弥蘇連が因幡の国造「阿良佐加比売」と結婚して生んだ子、云々。
:(P-84):都麻とよぶわけは、「播磨刀売」と「丹波刀売」とが国の境界をきめたとき、云々。

(その4)
──────────────────────────────────────────────
 4世紀における年代特定。<『風土記』(東洋文庫)の干支から見た、即位(太歳)の推測年代>
──────────────────────────────────────────────
P-283_孝霊天皇_伊賀国__孝霊天皇の時代・癸酉の歳=253年_孝霊天皇元年(辛未)=251年
P-308_垂仁天皇_陸奥___垂仁天皇27年(戊午)=358年___垂仁天皇元年(壬辰)=332年
P-297_応神天皇_伊豆国__応神天皇5年(甲午)=394年___応神天皇元年(庚寅)=390年
──────────────────────────────────────────────
※:干支が、〇〇天皇〇年と一緒に、表記されていることから、「干支」の年代は正しいと考えられます。


  • [71]
  • 紀年論の課題 (白石南花さんの考察)

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月10日(木)13時38分18秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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紀年論の課題  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 3月10日(木)11時20分8秒
思わず紀年論をくさしてしまったので釈明を兼ねて、新納泉先生の論文にあった学史をもとに、私の考えるポイントを説明します。

紀年に対する研究や疑問は、倭の五王と絡んで古くからあるようですが、明治期の那珂通世氏の研究が画期となるようです。
そこでは朝鮮系史料に東国通鑑にみえる百済王の没年をもとに、神功紀と応神紀の紀年が、干支の二運120年古くなっているとしました。
これは現在でもほぼ定説と言っていいものでしょう。
一方雄略紀では武寧王誕生記事などが、朝鮮系史料とあっており、このため同じ手法を使うなら雄略紀は大きくは動かないだろうと思われました。

日本書紀応神崩御年が、西暦310年に設定されていて、120年繰り下げると430年となります。
雄略の即位年が紀年で457年ですから、この間27年しかありませんが、ここに仁徳、履中、反正、允恭、安康の五人の天皇が入ります。
この問題を解決するにはナイーブに考えて、以下の四通りの組み合わせが必要でしょう。

1.応神没年と雄略即位年を調整して間隔を広げる。
2.天皇在位年を短縮する。
3.天皇の内何人かは存在しなかったとする。
4.在位年にダブりがあったとする。

新納先生は1のタイプで、応神没年を5年引き上げ、雄略即位年を9年引き下げています。
間隔は41年になりますが、平均在位年は8年余りにしかなりません。
日本書紀は仁徳だけで87年ですから、2、3、4を検討する必要があるでしょう。

今世紀の初めに倉西裕子先生が提唱したのは、日本書紀紀年は多数の紀年列の組み合わせできているというものですが、なぜそんなことをしたのかの理由が判然としません。

私の説は上記の1、2、3、4いずれもある意味で行っています。
倉西先生の提唱した、多くの紀年列が生まれた原因を説明するものとも言えそうです。


  • [70]
  • 白石さんと米田さんの倭五王 論議

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月10日(木)01時04分2秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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倭の五王  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 3月 9日(水)22時37分57秒 編集済
米田さん

下記在位は第一皇太子ないし実務の王としての期間と、天皇在位を合わせたもので、日本書紀に対応する部分です。

応神 390-430 讃(外交実務は履中と応神もしくは吉備首長)
仁徳 ???ー439 珍(外交実務は允恭)
履中 427-432
反正 433-437
允恭 433ー454 済(外交実務は木梨軽)
安康 455-460 興(外交実務は雄略)
雄略 460-489 武(外交実務は雄略と磐城王)

このうち天皇在位期間は

応神 427-430没
仁徳 ???ー426政変で譲位、431-439
履中
反正
允恭 440ー454没
安康 455-460没
雄略 461-476漢城落城で一時譲位、???-489
磐城王 477-???没

倭讃はおそらく425年までの朝貢では倭の王ではなかったでしょう。
仁徳の426年までは別人の可能性があり調査中。

>_:倭の五王ですから、5行にまとまると思います。(重複可。没年のみでも可。)<
歴史を王の在位年だけで考えようとするのは、そもそも無理でしょう。
そう言う意味でそもそも紀年論というのは、アプローチに間違いがあると思います。
倭の五王の資料。/古事記崩年干支  投稿者:米田 喜彦  投稿日:2022年 3月 9日(水)22時06分41秒 編集済

│新納 泉(にいろ・いずみ)先生の説

│讃は応神。日本書紀では270-310年。___実際は   385-425年

│武は雄略。日本書紀では456-479年。___実際は   466-489年



新納先生の論文  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 3月 7日(月)17時07分47秒 編集済
論文届きました。
本会で公演されるそうで、論評は控えます。

本日倭の五王に関する自説を初版にしました。
https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/wanogooh.htm





  • [69]
  • 倭の五王についての新説、古代学研究会資料

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月 9日(水)22時10分7秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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倭の五王の資料。入手方法  投稿者:トミー  投稿日:2022年 3月 9日(水

新納泉先生は当会で5月28日に講演いただけるようです。

①新納先生の新説は考古学研究会(岡山市に本部)から入手できます。

郵便局へ行って郵便振替用紙に口座番号01230-0-2541
、宛先、考古学研究会を入れる、

 通信欄に、会誌考古学研究 270 号を送付してください

 費用は送料込みで、¥1250

新納先生の論文は、日本書紀紀年の再検討 です。冊子のうち22ページを占めます。


②坂靖氏の新説について

a)坂靖 氏 著


 倭国の古代学 新泉社 2021年刊行が市販されています。

¥2700

b)歴博 研究会報告 第211集 2018年ヤマト王権中枢部の有力

地域集団「おおやまと」古墳集団の伸長 坂靖(google検索印刷可能)


③古代学研究会の発表資料は、弥生後期社会の実像-集落構造と地域社会ー

2021年度古代学研究会 拡大例会・シンポジュームをオンラインで聴きました。

配布資料は168ページもあります。

内容は

河内和泉 ,大和、、紀伊、近江、讃岐、播磨、山城、摂津、に在る

代表的な集落についてその構造と社会についての考察です。

また大阪湾沿岸の石器及び、銅鐸の生産と流通について

最近の研究成果を述べている。



参加者以外の方へ個人として資料を配布することは禁じられています。

資料を古代学研究会で別売りする案と、六一書房などから出版する計画もあるようです。


  • [68]
  • 古代学研究会への問い合わせ

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月 6日(日)22時34分15秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
当世奇妙さん

研究会の後に質問を許されましたので、当掲示板に書き込む前に問い合わせしました

① 資料がPDFで印刷できませんでした、HPを開いたらウイルス性のソフトに誘導されてしまいました。
② PDF資料を再送していただけませんか
③ 六一書房(存じ上げている書店です)発行されるということですが、予定ではいつごろ入手できますか
④ 弥生後期については、日本海沿岸の研究は自分ではかなり調べています。
畿内については昨日の講演で大いに啓発されました。
森岡先生は、近江は野洲の北伊勢遺跡が原倭国とされ、邪馬台国の勢力の元とされているかと思いますが、
昨日の講演で矛盾はありませんか。援証と反証と両方を頂きたい。
坂靖先生は、布留式の布留0の箸墓(260年前後)までは、ヤマト盆地東南部は開発が未十分であった。


研究会から回答が得られましたら、お知らせします。


当会の講演に森岡秀人先生を招聘する機会がありますので、そのチャネルで

要請されたら如何でしょう。


なお、私は倭の五王の研究で、坂靖氏の新説に大いに興味を持っております。


2018年 歴博第211集 ヤマト王権中枢部の有力地域集団ーおおやまと古墳集団

の伸長ー坂靖氏

を読んでおりますと、寺澤薫氏と かなり纏向近辺の集落のあり方に関する見立てが異な

るようです。これも確認したく研究会に質問しております。


 

  • [67]
  • 古代学研究会

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 3月 6日(日)19時45分55秒
  • p2324062-ipbf2022funabasi.chiba.ocn.ne.jp
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申し込み後日URL送るとメール来ましたが
私にはURL来ませんでした。
ずっと待ってましたが。

PDFはどこで見れますか?


  • [66]
  • 古代学研究会-弥生時代後期の集落構造

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月 6日(日)18時02分20秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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古代学研究会  投稿者:トミー  投稿日:2022年 3月 6日(日)17時48分28

昨日、古代学研究会オンラインシンポジュームを聴いた。

13時~18:15分の長い発表であった。

テーマは近畿各地の弥生時代後期の集落構造

この会は森岡秀人氏が代表で、県の文化財で研究されている中堅研究者の発表交流内容を公

開したものです。

大変興味深く聴講できました。

遺跡としては墳墓だけでなく、集落の構造にまで広げて研究対象にしていました。

共通項目としては、住居、倉庫、広場。

独自項目としては、土器の地域色、物流圏の広がり、手工業生産、墳墓

としてメルクマールを決めて比較対象をしていました。

河内和泉・・・三好玄       集落の様相から見た弥生後期の河内和泉

大和・・・・・東博 山本亮    大和地区における集落構造と遺構の変化

紀伊・・・・・和歌山 田中元治  紀伊の集落

近江。。。。。中居和志      近江地区の集落変遷と集落構造

讃岐。。。。。渡辺誠       弥生時代後期の集落立地と動態

播磨。。。。。荒木幸治      播磨の弥生時代後期

山代南部。。。桐井        山代の弥生後期

摂津 ・・・・清水        摂津の弥生後期

大阪湾沿岸。。瀬谷今日子     大阪湾沿岸の石器

銅鐸研究 。。戸塚洋輔      銅鐸の鋳造技術を視点に。工人集団の移動と

                 銅鐸の流通


従来の墳墓を中心とした考古学から、集落構造に広げて、若手研究者が研究を進め

畿内を東西の軸で比較検討し情報交換したチャレンジグな試みでした。。

近畿でも日本海沿岸の但島・丹後まで南北軸に広げた研究もあり得ると

いうアドバイスが

伊藤敦史氏からありました。

私は個人的には、銅鐸の研究はかなり進んでいるなという感想です。

当会セミナーも若手の登壇も面白いかなと思いましたが、集客力があるだろうかとも

おもっています。


なお、発表内容はPDFファイルで印刷可能ですが、配布期限があります。

後日、六一書房から刊行される予定のようです。


  • [65]
  • 白石論文 付記

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月 2日(水)19時20分43秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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トミーさん  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 3月 2日(水)15時14分5秒


長文の割に新味のない投稿で失礼しました。
ただ倭の五王についての、日本書紀側の記述の少なさは、やはりその事情を深堀しておく必要があると思い、調べた結果を気づきとしてまとめました。
そのほか倭国と新羅や百済の間に、単純でないかかわりのあったことも、指摘しておきたくなったのです。

気づきについてはその他に、王号に関するものがあります。
倭の五王が宋書でどう呼ばれていたかを下記にまとめます。

讃:倭讃(蛮異伝)
珍:倭國王珍為安東将軍(帝紀)
珍:安東将軍倭国王(蛮異伝)
隋:倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國将軍号(蛮異伝)
済:安東将軍倭国王(蛮異伝)
済:安東将軍倭王倭済進号安東大将軍(帝紀)
興:倭国王世子興為安東将軍(帝紀)
興:倭王世子興(蛮異伝)
興:安東将軍倭国王(蛮異伝)
武:倭國王武遣使獻方物以武為安東大将軍(帝紀)
武:安東大将軍倭王(蛮異伝)

倭王と呼ばれるのは、大将軍に進号することができた済と武だけで、将軍にとどまったものは倭国王です。
宋書の記録は完全ではないと思われますが、称号に関しては結構厳密に見えます。
ここで倭讃という呼び方は、安東将軍より一枚低い倭隋と同じです。
済の倭王倭済と比べるとはっきり違います。
このため倭讃は王ではなかったのではないかという説がありました。

自説では讃は応神のモデルの一部となった人物で、応神は仁徳と比べて伝承的に、外交実務を担っていたのではないかというところから、私見での昼の王と考えています。
つまり倭の五王の内、讃だけは最高位の祭祀王ではなかった可能性があり、このことが呼び名に反映されているのではないかと思うのです。

そう考えると、百済や高句麗の使者が、府官の最高位の長史を使者に立てているのに、倭だけが軍事官の司馬を使者に立てている理由もわかります。
つまり讃は軍事外交の最高位ではあっても、倭の最高位ではなかったということです。

そうすると宋書帝紀になぜ讃の朝貢が記録されなかったのかの理由も見えてきます。
讃の使者は倭国の朝貢使ではなく、倭国の軍事最高官の使者と考えられたのではないかということです。

ではなぜ讃の最後の朝貢が倭国の使者として帝紀に記録されたかですが、おそらく讃は426年に最高位についたからではないかと考えるのです。
426年には倭国の政治体制に、大きな変動があったのでしょう。
すなはち讃が祭祀王につき、履中が俗権の王となり、それまで祭祀王の地位にあった珍は、子の履中の後見人となったのではないかと考えるのです。
ところが讃は先に亡くなってしまい、珍は再び祭祀王に戻ります。
さらに履中もなくなって、その弟の反正が立てた使者が、438年に倭国王珍の朝貢使として認められたということなのではないかと思うのです。

弟が最高位の祭祀王になり、兄が実務の王になるのは、顕宗仁賢と同じです。
兄弟が王位に就く場合、古くはそのような習慣があったのかもしれません。
後世の中国的価値観の浸透により、それは理解しがたいものとなり、伝承者が説明的に付け加えたものが、菟道稚郎子と仁徳、顕宗と仁賢の譲り合いの伝承なのではないでしょうか。

ところで倭隋なのですが、その当時の倭国の情勢を考えて、おそらく畿内に次ぐ勢力として、規模で第四位の造山古墳のある吉備勢力が有力と思います。
中期古墳時代は、日向、吉備、河内、葛城、毛野に大古墳ができる時代であり、その重心は大和を離れ、瀬戸内にあると考えています。
瀬戸内政権の時代であるがゆえに、畿内の勢力も河内に王墓を作り、難波の宮や大隅の宮のような、大阪湾岸に宮が出来たのでしょう。
瀬戸内政権の象徴が、大阪湾に威容を誇る、百舌鳥古墳群の大古墳であり、仁徳や大隅の宮の応神の伝承であると思われます。

吉備と大和の関係は、単純な対立関係ではなく、そもそも同じ王族でありながら、異なる地域首長グループの支持を受けた人々であったと思います。
吉備の王族の伝承は、允恭と葛城玉田宿祢の娘の子であるとする磐城皇子の記録が、唯一残されていますが、おそらく日本書紀に見るよりも大きな存在で、一度は最高位の祭祀王にもなっていると思います。

この吉備の首長の、吉備上道臣田狹が任那へ赴任させられ、そこから新羅を頼った話から、吉備は朝鮮半島南部や新羅とつながりがあったと考えられます。
近年の史料発見により、479年の南済朝貢は、加羅王の南朝朝貢を嚮導した可能性が出てきたのですが、この朝貢は倭王権の中でも吉備グループが担ったものではないかと考えます。
この479年の朝貢も、允恭朝になると思われる、倭王倭済の朝貢も記録がありません。
もしかしたら、司馬曹達も本来瀬戸内政権に属する、大隅の宮の応神=讃のもとで、このグループに属していたのではないでしょうか。
結局、大和と吉備は協調したり主導権を争ったりしていて、雄略朝にいたって吉備王統が叩き潰されたとき、司馬曹達以後のグループもその巻き添えを食ったのかもしれません。

  • [64]
  • 白石論文の要約

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月 1日(火)15時51分41秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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白石南花さん  投稿者:トミー  投稿日:2022年 3月 1日(火)15時46分47秒
気づきの論考、先般出されたHP論文の要約ですね。

よく理解できました。

非常に参考になりました。

雄略は、大伴氏とその配下である東漢氏を信頼して、星川皇子の乱に勝ちました。

東漢氏は倭漢氏で軍事的な勢力だと思っています。大伴氏が欽明時代に百済に譲歩しすぎ

て失脚して、大伴氏の配下だった東漢氏の、その武力を蘇我氏が活用するに至ると考えてい

ます。

時代操作、つまり運(干支)の操作についての具体的な考察が大変勉強になりました。


  • [63]
  • 倭の五王に関しての気づき (白石南花)

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 3月 1日(火)12時54分11秒
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倭の五王に関しての気づき  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 3月 1日


宋書の倭の五王の記録と、日本書紀の呉への朝貢記録を比較した場合、対応する記録がないことが一番の問題となります。
日本書紀の呉への使者の記録は、応神三十七年および雄略八年と十二年の三回しかありません。
呉からの使者の記録を入れても、仁徳五十八年と雄略六年の二回を加えるだけです。

私見ではこの原因は、朝貢に関する記録を伝えた史料にあると考えています。
古事記には雄略記に呉人の来朝記録があるだけであることを考えると、古事記や日本書紀のもとになった口承文学的記録には、呉への朝貢に関する記録はなかったと考えられます。
日本書紀の記録は、多くの氏族から集めた記録によるものなのです。
それらの人々は、当然中国語や漢字の知識を持った、渡来系の人々だったでしょうから、文字記録を残していた可能性が高かったと考えられます。
それにもかかわらず、一部の記録しか残らなかったのは、伝承した一族がそれを伝え日本書紀に反映させうるような、有力な後継氏族を残さなかったことによると考えられます。

日本書紀の呉への朝貢記録は、応神三十七年は阿知使主と都加使主、雄略紀の二回は身狭村主青と檜隈民使博徳となります。
阿知使主は倭漢氏の祖とされ、応神二十年に十七県のともがらと共に来朝したとなっています。
私は未見ですが、新選氏姓録逸文には、身狭村主青は阿知使主の率いてきた人々の子孫であるとされているそうです。
また檜隈民使博徳については、檜隈が倭漢氏の本拠地(1)であることから倭漢氏とかかわりがあると思われます。
このように、南朝朝貢の記録が、倭漢氏につながる一族の記録となっていることには、それなりの意味があるのであろうと思われます。
実際に身狭村主青等が、倭漢氏とつながりがあったかどうかよりも、その配下であるかのような記録が残っていることが重要で、渡来氏族系の雄である倭漢氏の力によって、その伝承が最終的に日本書紀に反映されることになったと思われます。
倭漢氏は東漢氏とも言われ、後継氏族には書氏があったことも大きいでしょう。

阿知使主の子として伝わる都加使主は、雄略紀に東漢掬として、星川の乱を平定しています。
したがって、実際に身狭村主青等が、南朝朝貢の使者に選ばれるに際しても、倭漢氏が影響力をもった可能性もあります。

南朝朝貢を担った倭漢氏以外の渡来系氏族については伝わっていませんが、宋書には元嘉二年(425年)に司馬曹達という名の使者がやってきたとされます。
この人物については、様々な意見がありますが、百済や高句麗の朝貢の記録からすると、この司馬は将軍号を得た倭王が置いた府官名とするものが有力です。
百濟や高句麗の使者が最高位の長史であるのに、倭国の使者が次の地位の司馬であることや、府官名が記録されたのがこの一度だけである点など、なを謎も残っています。
実際司馬を姓のように読む説もあるようです。
ただこの使者は、名前からして渡来人であることは間違いなさそうです。

この司馬曹達と阿知使主の関係はどのようなものなのでしょう。
阿知使主は明らかに漢人の名前ではありませんが、倭漢氏は後漢霊帝の子孫を自称しており(2)、漢名であれば劉氏となります。
また私は未見ですが、新選氏姓録逸文には、阿知使主と共に来朝した七姓民(2)には、曹氏の名は見えません。
そして司馬曹達の後継氏族についても記録がありません。
一説によれば、敏達朝の司馬達等は子孫であると言いますが、名前の類似以外の根拠が見出せません。
子孫に鞍作止利や鞍作福利などがあるとされますが、この一族は蘇我氏とかかわりが深かったらしく、八世紀に後継氏族が重要な地位に就いた形跡がありません。
最後の有名人である鞍作福利も隋に行ってその後は不明です。
この司馬曹達のように、南朝外交を担っても、その後没落し八世紀に有力な後継氏族を残さなければ、その伝承は失われたことでしょう。
それにしてもなぜ八世紀の有力氏族であった倭漢氏の朝貢記録が、雄略紀の身狭村主青まで途絶えてしまったのか、そもそもなぜ司馬曹達の一族に代わって、倭漢氏が起用されたのかが問題となります。

応神三十七年の使者に関しては、高麗で道に迷い、高麗王が道案内を付けたことで朝貢できたことになっています。
そして帰国は何と四年後の応神四十一年で、すでに応神はなくなっており、連れ帰った女性の一部を仁徳に献上しています。
仁徳五十八年に呉と高麗の使者が来たとの記録がありますが、呉と高麗という国名の一致に加えて、帰国した時には仁徳への献上となっており、しかもこの年は双方とも庚午年で干支が一致しています。
これは同じ出来事を記録したもので、両者の在位の重複を嫌って紀年では干支の一運60年ずらしたのでしょう。
そして宋書帝紀には元嘉七年(430年)の庚午年に倭国の朝貢の記録があり、これらは同一事件であると思われます。

このことから元嘉二年(425年)の翌年、司馬曹達に変えて阿知使主が使者として立ったことになります。
日本書紀の紀年は、よく知られているように応神の在位年は、百済漢系の史料から干支の二運120年繰り上げられていることが知られています。
仁徳紀の記録はそこから一運60年遅れて記録されていて、このつじつま合わせのため、仁徳以下の履中反正の紀年はずらされていると思われます。
そこで履中の崩御年として、古事記の崩年干支の壬申を採用すると432年となり、日本書紀履中の即位元年が427年に、即位前紀が426年となります。
その履中の即位前紀に、履中が住吉仲皇子の謀反に合い、宮を脱出する際に阿知使主を含む側近に助けられた話があるのです。

これをどう解釈するかですが、おそらく426年に先立って仁徳の第一皇子の履中は、政権の中で重要な地位を占めるに至り、何らかの改革を行い、その過程で南朝朝貢使を、司馬曹達から側近の阿知使主に変更しようとしたのではないでしょうか。
実際履中紀には、四年八月条に諸国に国史を置いた記述や、六年正月条に藏職を建て、蔵部を定めたとの記事もあります。
古事記によれば阿知直を初めて蔵官にしたとされ、履中政治の実務者として働いていたことが分かります。
住吉仲皇子の反乱は王位継承という形を取った、豪族間の政権抗争であり、阿知使主の朝貢使採用もその一環であったと思われます。
そして履中は432年に亡くなってしまい、阿知使主の朝貢使としての役割も、430年の一回だけで終わってしまったのではないかと考えるのです。

その後の朝貢使については、日本書紀に全く見えないのでわかりませんが、438年の朝貢が大きな成果を上げたところを見ると、再び手慣れたグループが担当したのかもしれません。
阿知使主の朝貢は、トラブルによって四年もかかったうえ、宋書によれば430年の朝貢では、爵位を得ていません。
このようなグループは、木梨軽と安康の政争などで失脚したのではないかと思います。
雄略紀では再び東漢氏の力が伸びていることが分かります。

ここでもう一つの気づきは、倭の五王の朝貢において、高句麗の役割が無視できないことです。
東晋安帝の義熙九年の朝貢では、太平御覧に引く「義熙起居注」に、倭国ではなく高句麗の産物と思しきものが献上されたとあり、同年高句麗も朝貢していることから、高句麗による倭人捕虜の偽朝貢説もあるなど、錯綜しています。
私はこの年は高句麗による嚮導朝貢、もしくは高句麗との共同朝貢であると思います。
しばしば高句麗や新羅と倭国は敵対しており、日本書紀に見える高麗記事を疑う意見を見ますが、そもそも外交というものはそんな単純なものではないことは、歴史を見れば明らかです。
時に結び、時に敵対する、常ならざるが外交の姿というべきで、新羅や高句麗ルートが閉ざされていたとみるべきではないと思います。

日本書紀を見れば、新羅や高句麗の使者の話はよく出てきます。
顕宗紀の紀生磐宿禰も高麗と結んで、同盟国の百済と争っています。
百済に関する記述は、日本書紀が百済亡命貴族による百済系史料をよく用いていることからも、割り引いて考えるべきであると思われます。
430年の阿知使主の朝貢において、高麗が関係してくるのも、この時代までは高句麗もしくはその領域の沿岸を通る朝貢ルートであったことを示していると思われます。
413年以来の関係があった、司馬曹達のグループを朝貢使から外したことによる、手違いがあったのかもしれません。

(1)続日本紀宝亀三年四月丁未
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991092

正四位下近衛員外中将兼安芸守勲二等坂上大忌寸苅田麻呂等言。「以檜前忌寸。任大和国高市郡司元由者。先祖阿智使主。軽嶋豊明宮馭宇天皇御世。率十七県人夫帰化。詔賜高市郡檜前村而居焉。凡高市郡内者。檜前忌寸及十七県人夫満地而居。(以下略)」

(2)続日本紀延暦四年六月癸酉
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991092

右衛士督従三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。「臣等本是後漢霊帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因神牛教。出行帯方。忽得宝帯瑞。其像似宮城。爰建国邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東国有聖主。何不帰従乎。若久居此処。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。帰化来朝。是則誉田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣旧居在於帯方。(以下略)」
https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/wanogooh.htm

  • [62]
  • Re: 新納泉先生新説のポイント

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 2月28日(月)02時50分18秒
  • KD027085014081.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
>結論的に言うと在位は 。讃は応神。日本書紀では270-310年。
                 実際は   385-425年

            武は雄略。日本書紀では456-479年
                 実際は   466-489年


この場合、武寧王の生年が武寧王陵墓誌から462年と判明している事、そしてこの年は雄略天皇6年になる事、
これを新納泉先生はどのように理解しておられるのか気になります。
武寧王が462年生まれなら、遡った雄略元年は457年になります。

武寧王陵墓誌は金石文であるわけですから、動かせないと思うのですが。

また同じく応神元年も、武寧王陵墓誌から三国史記の干支が正しいと判明しているので、
阿花王擁立年392年などから遡って390年であろうと思われるわけですが。

  • [61]
  • 新納泉先生新説のポイント

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 2月25日(金)20時22分55秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
いとなさん  投稿者:トミー  投稿日:2022年 2月25日(金)20時17分56秒

新納泉先生の新説、ありがたいサジェスチョンでした。慧眼ですね。


結論的に言うと在位は 。讃は応神。日本書紀では270-310年。
                 実際は   385-425年

            武は雄略。日本書紀では456-479年
                 実際は   466-489年

     誉田御廟山は応神陵とするのは矛盾しない。

  他の倭王については、未定。


ほぼ、日本書紀は2運(60X2年)、時期操作されているという考え方が多いが、応神は115年ずらしてあることも判明ということですね。


私は、済は允恭とするのが有力と考えていますので、再検討させていただきます。

直木孝次郎先生は、応神と仁徳は同一人物説です。これも再考できそうです。


  • [60]
  • 新納泉先生の讃=応神説 (by いとなさん)

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 2月25日(金)15時33分18秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
新納先生の倭王・讃=応神説  投稿者:いとな  投稿日:2022年 2月25日(金)14時08分59秒
2月21日付けの毎日新聞に「倭の五王の謎に迫る新説ー讃=応神天皇と推定ー」という紹介記事がありました。
論考の発表者は当会お馴染みの新納泉先生(岡山大学・名誉教授)です。
これまで引用されることの多かった百済記からの引用を止めて、日本側資料と宋書及び広開土王碑の摺り合せ
によって、倭王・讃は応神天皇(在位は385年~425年)だと推定されたようです。
新聞の記事コピーは討論室にアップしておきましたのでご覧下さい。

この結果は古代氏族系譜研究家の宝賀寿男氏の説(応神天皇元年=390年)ともほぼ一致します。
また、白石南花さん、トミーさん、米田さんのご研究成果との整合性も興味深いところです。

新納先生には来る5月28日の当会講演会で「大型古墳群の移動と大王系譜」というタイトルで
ご講演頂く予定です。当然この新説についても触れられるのではないか、と期待されます。



RE:新納先生の倭王・讃=応神説  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 2月25日(金)16時51

いとなさん
情報ありがとうございます。
自説では応神即位元年390年説ですので、その点は宝賀寿男説と同じということになります。
文中で触れましたが、自説の没年が430年説は以前からあることは承知しています。
自説のポイントは、応神即位四十一年と仁徳即位五十八年が同一年というところにあります。
https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/wanogooh.htm





  • [59]
  • 白石南花さんの倭の五王論 の纏め

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 2月25日(金)13時19分55秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
白石南花さん  投稿者:トミー  投稿日:2022年 2月25日(金)13時14分18


倭の五王についてまとめていただいて、ありがたいと思います。

別のテーマで4月まで宿題をまとめており、倭の五王の研究は頓挫しております

が4月下旬から再スタートする予定です。

それ以降に精読します。

取り敢えず、討論室のスレッドに保管させていただきます。


倭の五王まとめ  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 2月25日(金)12時34

まだドラフト版ですが、ここで議論した倭の五王をまとめました。
長文ですがご意見いただければ幸いです。

https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/wanogooh.htm

  • [58]
  • 下総国

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 2月24日(木)20時53分37秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
下総国  投稿者:トミー  投稿日:2022年 2月24日(木)20時44分46秒 編集済
当世奇妙さん

下総に住むものとして、面白い研究です。

印西市 HPで麻賀多神社、鳥見神社、宗像神社の分布図があります。

開拓民が移住して、故郷で祭る神様を祀った(勧請した)と思いますが。時代はいつでしょ

うか。

鳥見は物部氏でしょう。


https://www.city.inzai.lg.jp/cmsfiles/contents/0000010/10916/academy04.pdf


埴生と壬生は違いそうですが、不確かなことは記述を避けます。

埴生は埴輪のハニ??焼き物に関係があるのでしょうか。?付近には

龍角寺の文字瓦を焼いたり古墳を作る氏族の奥津城があります。

実際。埴生神社の由緒にも

土師器(はじき)を作って生活を営んでいた土師部(はじべ)一族が自分達の祖神、氏神と

「埴山姫之命」を祀り古代祭祀を執り行ったとされています。


利根川(古代は鬼怒川と称した)を遡ると栃木県(下毛野)にも似た、壬生茶臼山古墳が

あります。

ウィキペディア検索して転記するのは止めておきます。

分かったらお知らせします。

いずれにせよ、川尻秋生氏の大生部直と印波国造の論考を一読してしてくださるともう少

し理解が深まると思います。

  • [57]
  • 印旛国埴生郡

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 2月24日(木)18時35分25秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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印旛埴生について  投稿者:トミー  投稿日:2022年 2月24日(木)17時46分44秒   通報 編集済
米田さんと当世奇妙さんが印旛の埴生について論じられています。

埴生郡には、古墳時代後期から終末期にかけての群集墳龍角寺古墳があり

この古墳群の中に旧下総国最大で全国屈指の終末期方墳、岩屋古墳が含まれる。。


7世紀前半と見られている。

この地域の考古学的研究は、早大の川尻秋生氏が深い研究をされています。

大化の改新前後の時代が対象です。

大生部直と印波国造-古代東国史研究の一試論と題されています。

GOOGLEで検索可能です。

古代史研究を始めた当初に、地元の古代史オフ会メンバー数人が参加して、川尻先生の講演

を直接伺いました。


平城京から出土した木簡に、下総国埴生郡大生直野養布十段と書かれていたことが研究の端

緒です。

埴生郡司が大生部直であることが判明しました。墨書土器の解読がされております。

初心者であった当時の私は,大生はオオシと考えておりましたが、壬生氏であることを知

りました。壬生は上宮の乳部の民で、上宮王家に支配される民です。

岸俊男氏の研究では,皇子の資養のために設置され、その経済的・軍事的な基盤となったと

されています。

そのミブ氏族が 落下傘部隊として印旛にやってきたと言われました。


東国の壬生(ミブ)部の中でももっとも有力な氏族の一つと推察されました。

印旛付近には物部氏や丈(ハセツカベ)部もおり、壬生氏との関係に興味を持っておりま

す。


この埴生郡の郡司の息子と娘は、采女と兵衛となって都に出仕します。



出雲風土記は733年に出来上がりますが、その翌年734に出る「出雲

国計会帖」に拠れば。

8世紀になると、神郡である出雲では,出雲臣一族が出雲国造、意宇郡

司、熊野神社の神主を兼任。意宇郡の兵衛は出雲臣國上が出雲国造に任じ

られています。

出土した木簡は、埴生の兵衛が養布を貢ぎ物として提供すした絹製品につ

けた荷札と解釈される。





  • [56]
  • 避雷針さんの倭の原像

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 2月20日(日)00時05分21秒
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避雷針さんの「倭の原像」  投稿者:オリエント部会  投稿日:2022年 2

2月18日にアマゾンより到着、早速読み始めました。
まず、倭が海洋民であること、出身は渤海西北沿岸(コロ島)の「任那」の地、5世紀より移動して日本に至る、ここまでは既に知っておりましたが、上巻の最後に一度豊前(行橋市)に至り、その後、半島南部の任那(我々は伽耶地方からの移動を考えてます)ではなく以前のコロ島の任那に復帰、663年白村江の乱で敗北、倭王権消滅(ここは我々と同じ、以後、唐・新羅の支配)ここからの天武朝の分析は我々とほとんど同じです。(藤井輝久氏の史観)
以上、教科書とは全く違うストーリーで白村江の乱以降は我々と全く一致してます。
(奈良時代、新羅征服王朝、平安時代は百済亡命政府による支配)
コロ島から九州への移動には渡航能力のある構造船が必要で、それには船の技術が現在評価されている能力以上のものが必要で、その点更なる考証が必要です。
ただ既に「鬼道の東漸」(北九州博多港への直接輸入品の発見既に報告済)や今話題になっている徐福の直接、日本への来航など、弥生時代の半島を経由しない大陸からの渡来人の直接入航は考えられます。
今後の展開(下巻:後日発行予定です)特に「交易・統治・文明、東北ユーラシアの倭」「航海交易勢力と日本列島」に期待します。
「はじめに」のところで「米を炊いたご飯が王権の食事に入る資料も平安時代からである。従来の稲作イデオロギーによる弥生時代の歴史理解は実態を反映しているのであろうか」という農業国家論ベースの現代の日本史学会の視座転換こそ、彼の「移動する倭」の理解に絶対必要なことではないかと思います。


  • [55]
  • 船形埴輪

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 2月14日(月)12時08分51秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
  • 返信
 
談話室に提供された、以下の内容は、倭の五王検討に不可欠です。

私は、少し杜撰は発言だと考えます。

精密に検討中です。

船型埴輪   投稿者:いつかコウヘイ
 5世紀初頭 松阪・宝塚古墳 船形ハニワ。 船の構造は 準構造船。 船の甲板中央に 帆の回転軸的な物。 白石説の継体期より100年早い のでは。

船の構造 弥生末・古墳時代前期初頭の岐阜/荒尾南遺跡出土の壺が示すように 台湾ヤム族や福岡・竹原古墳壁画やエジプトピラミッド横の大型船のような舳先が上を向いた船。 私は 倭人が 伽耶の船を見て 驚いた絵だと想定しています。

倭/日本が 準構造船を作るのは 4末~5世紀初頭。 造船技術は 大陸・半島より低かった。







石見介さん  投稿者:白石南花
>始皇帝をだました以上、徐福(徐ふつ)は、厳しい法治主義の秦の領域から、身をかわした可能性は高く、<

徐フツの一族はずっとその地にとどまったというのが気になります。
始皇帝はだまされたまま死んでしまい、徐フツの出航の記録もなく、まもなく秦は混乱期に入ります。
私は始皇帝の周辺にいた人物も、方士狂いはええ加減にせいよと思ってたんじゃないかと思います。

>山東半島からだと、伝統的な、廟島群島沿いに、遼東半島を経て、古朝鮮領域に逃れるか、対岸の朝鮮半島に、逃亡した可能性が高いでしょう。<

蓬萊神山の伝説のもとは、山東半島北岸の蜃気楼という説があり、このあたりから廟島群島を渡っていく交易路が、先史時代からあったことが知られています。
ですからこの方面なら、可能性はあるかもしれません。
東シナ海の航海  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 2月14日(月)11時04分0秒
>ヒミコ期AD248頃 魏が東シナ海の制海権を得ていた。と想定できる。<

東南アジア方面の航路は、ほとんど沿岸航法で賄えるものです。
しかもこのあたりは最も早くオーストロネシア語族の展開した地域で、後に崑崙人などと言われる人々がいたので、水先案内人には事欠かなかったでしょう。
一方東シナ海のような陸地の見えない開けた海を渡った考古学的記録は、確かクリスマス諸島付近で紀元前800年頃のことだとのことです。

その技術はやがて東アジア世界に浸透してきますが、五世紀中は南九州の水人の技術が利用された可能性があると、想像しています。
これが五世紀以降に南九州が、百済と倭の国際外交の表舞台に登場し、皇祖降臨の場として選ばれる遠因となったと考えています。

船舶としては呉の故地であった南朝と交流の深かった百済が、早くとも五世紀中になってようやく、構造船の建造技術を持っていたと考えています。
倭王武の上表文を見ると、倭も百済の船舶を利用していたようですが、逆に大海を渡る航海技術では南九州が脚光を浴びることになったのでしょう。、
倭国に構造船の技術が入ってきたのは、ようやく六世紀第一四半期頃、継体の時代であると思います。

造船の技術では先んじていた中国では、隋が七世紀頃ようやく、オーストロネシア語族系統と思われる水先案内人を得て、東シナ海に出てきたのが文献上初見になります。
呉には長期の外洋航海に耐える船はあっても、陸地の見えない海を渡る技術はなかったと考えるのが順当です。
赤壁の戦いで敗れた魏には、江南の有力な水人集団を掌握する力がなかったと思われ、芍陂の役以後は水軍の養成に力を入れたなどとありますが、同時期の東シナ海の制海権となると無理と思います。
ただ山東半島沿岸部を北行する呉の船団を妨害することは可能であったかもしれません。


  • [54]
  • 複数王の並立

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 2月 5日(土)11時20分10秒
  • p2324062-ipbf2022funabasi.chiba.ocn.ne.jp
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トミーさん
以下は大変参考になりました。

「古代の新羅と日本には、共通した政治風土があったのかもしれません。
王が二人いると戦争になると思うのは誤りで、日本では天皇と上皇、朝廷と幕府が時に敵対しながら、それなりに共存し役割を分担してきた歴史があります」

  • [53]
  • 日向と河内

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 2月 4日(金)11時37分58秒
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橘さん 日向と河内  投稿者:トミー  投稿日:2022年 2月 4日(金)11時

橘さん 案内したTV番組:継体天皇の謎 をご覧いただいたようですね。

昨年、頂いた宿題、日向の生目~河内の生駒が繋がってきました。

おかげで南九州に興味を向けさせていただきました。死蔵していた図録や図書が息を吹き返しま

す。

番組を見ていて一つ気が付きました

継体は淀川辺に入ってきます。まず樟葉に宮を造ります。樟葉に近い

交野に鉄工房の森遺跡があることに解明の一つのポイントがありそうです。

交野は肩野です。肩野物部氏の進出拠点です。、饒速日が天(アマ=海?)磐船

で降り立ったとされる地です。奈良市生駒が接しています。

其の肩野(交野)に森遺跡があります。

ここには韓式系の土器が出土し、鍛冶炉があります。

所蔵の韓式土器研究という専門書(2012年)を見ると畿内では最新鋭の鍛冶炉です。

渡来系集団が関与しています。

交野の磐船神社は奈良市の生駒に接しています。

生駒は馬の産地として有名です。生駒山麓を流れ下る幾筋の川を柵として放牧する。

日向と河内は馬が関わっているのではなかろうか。


継体は馬と鉄が関わっているかもしれない。それと磐井と今城塚は横穴式石室も関連があるのであろうか。

西都原博物館の東憲章氏は、諸県君牛諸井の娘である髪長媛と仁徳の婚姻をはじめ、日向神

話について、興味のある発言をされている。

手元に、継体天皇の時代-徹底討論ー今城塚古墳 高槻市教育委員会編(2008年)を持っています。

深い研究がなされています。

倭の五王の研究については、大変たくさんの研究課題があります。

  • [52]
  • 白石南花さんの考察(続4)

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 2月 2日(水)13時49分27秒
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古墳時代の天皇制  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 2月 1日(火)17時23分21秒
古墳時代の王制については、最終的には古墳被葬者の血縁関係や性別などの、考古学的な情報なしには決着がつかないことであると思われます。
文献的には金石文などの発見がなければ、進展が難しい部分はあると思われます。

記紀に対する個人的な分析からは、実態は多頭に近いもののような気がします。
継体紀では継体安閑宣化欽明が並立した時期があったように見えますし、雄略紀でも雄略と允恭の皇子の一人が並立し、同時に清寧も立てられていた可能性があると考えました。
神功応神仁徳の分析でも、少なくとも三者並立の兆候があります。
ほんらい多くの有力者が権力を分掌し、その間に対立が起こった際に、神意を聞いて裁定する存在が、倭王に相当する存在であったのではないかと思います。
裁定が効力を持ように、神聖性と公平性を演出され、倭王は俗事から身を引き、寝殿にいて一般には姿を見せず、夜に神床で決済することになっていたのではないでしょうか。
私見では継体は譲位して磐井の乱の指揮を取り、雄略もおそらくは漢城落城の外交上の危機において、祭祀を允恭皇子に預けて指揮を執ったと考えます。
後の上皇のように、天皇祭祀から身を引くことで、政務の自由度を得るということも行われていたと見ています。

ただ日本書紀原史料となった氏族系史料が、私の想定するような状態だったとすると、それぞれの氏族の先祖が仕えたとする王的存在について、できうる限り八世紀に確定された天皇系図上の人物としようとしたことが考えられ、それが史料上並列天皇を引き起こしている可能性もあります。
そもそも政治の実態はいつの場合も、権限を分掌しているのが当たり前だともいえるのかもしれません。
ただ最高決済者が、ほとんど実務に関わりえない状況だったことは、私見では新知見であると思っています。

もうひとつ古墳時代には、特に聖王としての王位継承に際して、女性の存在が非常に大きな役割を果たしていた傾向が見えます。
御間城姫や日葉酢媛に始まり、草香幡梭姫、手白髪媛など、継承の要所に女性が現れます。
特に中期古墳相当期には、神功や忍坂大中姫、飯豊王など重要性が増しているように見えます。
金石文では隅田八幡宮人物画像鏡銘文に見える、意柴沙加宮が忍坂大中姫とかかわりがあるように見え、この女性の宮が中心正庁として機能していた可能性もあると見えます。
継体の筒城宮なども、磐之媛に由来がありそうです。

倭人伝には卑弥呼が王位についたとき、本来は男性が王位につくべきところを、緊急避難的に女王が成立したごとく書いてあり、その後男王を立てたところ治まらず、再び女王を立てて混乱を回避したように書かれています。
また推古以降の女王も、継承の混乱時に立っているように見えます。
このことからすると、中期古墳時代はその古墳の巨大さに目を奪われて、王権が絶大であったと思いがちですが、動員力は大きくとも、権力継承の正当性は揺らいでいた可能性があると思います。
古墳が異常に巨大化するのは、むしろその現われであるのかもしれません。

この時代の王位継承は、王族と呼べるグループの中ではあったかもしれませんが、必ずしも血統に基づくものではなかったことが、文献的にも言えそうです。
宋書に珍と済の親子関係はありませんが、これが私見の仁徳と允恭であるとしたら、血統的には直結していなかった可能性があります。
日本書紀では王位継承の争いのあった場合は書いてあるどころか、継承の争いの歴史を書いているという風にも見えるのに、この間の継承争いの記録がないの、はほぼ順当な継承であり、血統の重要性が低かったことの表れではないかと思います。

蔚珍鳳坪碑によって、新羅においては複数の王がいたことが分かり、倭国との共通性があります。
極東地域で後に女王の現れることも共通しています。
古代の新羅と日本には、共通した政治風土があったのかもしれません。
王が二人いると戦争になると思うのは誤りで、日本では天皇と上皇、朝廷と幕府が時に敵対しながら、それなりに共存し役割を分担してきた歴史があります。
北方系の高句麗や百済とは違った伝統があったのでしょう。
古代天皇制を見る場合に、天武天皇のような特異な例をもとに見てしまうと、本質を見失うような気がします。

  • [51]
  • Re: 橘さんとの約束  p君さんの質問への回答

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 2月 2日(水)09時24分29秒
  • 150-66-75-11m5.mineo.jp
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>>50

トミーさん、詳しい説明ありがとうございます。

大変読み応えがありました。

  • [50]
  • Re: 橘さんとの約束  p君さんの質問への回答

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 2月 1日(火)20時07分44秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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p君さん ようこそ
>
> トミーさん、横レスすいません。
>
> >面白いことに、西都原の女狭穂塚(前方後円墳)は諸県君の牛諸井の娘、髪長媛の墓とされています。仁徳に嫁いだ媛です。
>
> それ、どなたかが言っておられましたか?
> そうなら、私は同じ事をずっと言ってましたので我が意を得たりという心境です。

⇒① 図録※:南九州とヤマt王権-日向。大隅の古墳ー

 (大阪府立 近つ飛鳥博物館平成24年-2012年)
巻頭文 白石太一郎氏が、古墳からみた南九州とヤマト王権と題して

 から抜粋します。

 南九州とりわけ日向の地に、九州最大の前方後円墳である女狭穂穂古墳。男狭穂塚古墳が出現したことを、日本書紀の仁徳紀になどに見られるように、仁徳の妃の一人。日向髪長い姫が日向の諸縣君牛諸井の女であること、すなわちヤマト王権の大王と日向の豪族との婚姻関係で説明しようとする考えがある。

確かに日向以外にも4・5世紀段階に大王家と婚姻関係が成立していたとう伝承のある丹後・葛城・吉備などに大型前方後円墳がみられることも事実である。

②  シンポジューム 世界文化遺産としての古墳をかんがえる   2013年

  西都原市教委 西都原考古学博物館   東憲章氏(筑波大 考古学科卒)

日向の古墳と記紀神話と題して、・・・・

日向の古墳群の状況を「記紀」の記述に見ることができるのであろうか、歴代天皇と日向の

女性婚姻関係は重要な鍵となる。

第12代景行天皇は、日向髪長大田根を娶りその皇子日向襲津彦は阿牟君の始祖である。

また御刀媛を娶りその皇子豊国別は日向国造の始祖であるとする。

第15代応神天皇は日向泉長媛との間に2皇子をもうけている。
第16代仁徳天皇は諸県君牛諸井の娘である髪長媛を娶り、

大草香の子である眉輪王は仁徳の孫にあたるが同じく仁徳と磐之媛の間の孫である
後の雄略天皇との対立の中で暗殺されており、王権の中枢から日向系の皇子が排除されたことになる。

こうした状況と日向の古墳群のあり様に関連性を指摘することができる。

景行天皇と二人の日向の媛、そしてその皇子の姿は、前期において日向の盟主であった生目を想起させる。

そして古墳時代において大王の権力が最も強大化した応神・仁徳天皇の時代、日向の古墳文化の頂点にいたのは西都原であった。
いかし男狭穂塚、女狭穂塚の築造後に前方後円墳の築造は停止し,代わって一ツ瀬川対岸の新田原の地に新しい祭祀様式を持った前方後円墳が数多く築かれるものの、巨大古墳は出現しない状況は畿内中枢における日向系皇子の断絶と関連しているようでもある。

そしてその先には、高天原から降臨した天孫ニニギノミコとその後三代の子が、南九州の女性と婚姻関係を結び東征した神武の皇子が異母弟によって暗殺されるという「日向神話」とその周辺が透けて見えるように思われる。

※図録によると

西都原81号墳墓は4世紀初頭の古墳で、西都原だけでなく日向全体でも最古の前方後円墳である。纏向石塚の墳丘平面型に酷似

西都原女狭穂塚古墳は 5世紀前半 埴輪では畿内では窖窯導入直前の時期で古市古墳群では
西墓山・野中古墳、百舌鳥古墳群では上石津ミサンザイ(履中陵9直後の時期にあたると思われる。


  • [49]
  • Re: 橘さんとの約束

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 1月31日(月)19時32分32秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
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>>48

トミーさん、横レスすいません。

>面白いことに、諸県君の牛諸井の娘、髪長媛の墓とされています。仁徳に嫁いだ媛です。

それ、どなたかが言っておられましたか?
そうなら、私は同じ事をずっと言ってましたので我が意を得たりという心境です。

この時期は吉備にも全国4位の造山古墳が誕生しますが、仁徳の寵愛を受けて、皇后である葛城磐之媛(いわのひめ)の強烈な嫉妬から吉備に逃げ帰った黒日売(くろひめ)か、その父親の吉備海部直の可能性が極めて高いと思われます。

また西都原古墳群では最古の81号墳墓が4世紀初頭から前半、ちょうど景行天皇の九州遠征時の諸県君泉媛の「歓待」の時期と会います。
泉媛が自分の意思で「歓待」に行ったとは思えず、父親か祖父かの懇願であろうことから、
81号墳墓の被葬者もなんとなく見えてくるような気がします。


  • [48]
  • 橘さんとの約束

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 1月30日(日)22時43分24秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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橘さんから 南九州の日向、宮崎の伊支馬~伊古麻、生駒~生目古墳との関連性

を問う質問があって、長い間留保しておりました、

漸く南九州について研究する事態になりました。

倭の五王について検討しておりましたが、生目古墳と西都原古墳群と大和王権の間の

関係性が問題として出てきました。

奈良市北部の佐紀盾列古墳群の主が、率いた部隊が399年まで広開土王と戦った主体であることを確認しました。

生目古墳は大淀川右岸=川の南側の古墳ですが、その一号墳は佐紀盾列古墳群である五社神~佐紀陵山古墳に似ているとする説が出ています。(宮崎大学 柳沢一男氏)

佐紀盾に続くのが古市古墳群に属する藤井寺市の津堂城山古墳さらに仲津山古墳です。
これは4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳です。

仲津山古墳は応神天皇の媛で仁徳天皇の母とされていますが、これは批判を要します。

仲津山古墳は古市古墳の先駆です。それが

西都原市の女狭穂古墳に酷似しているといわれています。

5世紀初頭の古墳です。

面白いことに、諸県君の牛諸井の娘、髪長媛の墓とされています。仁徳に嫁いだ媛です。

西都原の埴輪生産は百舌鳥古市などの近畿の埴輪工人が関わっています。



>
三角縁神獣鏡については、先日講演いただいた寺前直人氏の最新説を再検討して見ます。


>
>   [103] (無題) 投稿者:橘 投稿日:2022年 1月 3日(月)07時25分37秒 FL1-60-237-52-170.tky.mesh.ad.jp 返信
>  卑弥呼は、名はヒミコで読みに合わせ漢字は当て字と言われてる。
> 同様に倭の五王武も王の名はブだと思うが、何故か、日本書紀では
> 字は武を使いワカタケルを名としてる。ブの音がない。
> 日本書紀は、中国史書を元に創作されたのだろう。
> 読みを採用しないことで日本書紀の話は歴史ではないことが
> 解るようにした。卑弥呼も箸墓の主のように創作したが
> 魏志には手食とあり、日本書紀は歴史書ではないことが
> 容易に解るようにした。
> 隋書も王の妻とあるが日本書紀では推古天皇は女帝であり、
> 日本書紀は物語であることを示している。
>
> 倭の五王の名は1音であり、日本というより朝鮮半島の人名の
> ように感じる。王の名を略することは考えられない。

  • [46]
  • (無題)

  • 投稿者:
  • 投稿日:2022年 1月30日(日)18時00分5秒
  • FL1-60-237-52-170.tky.mesh.ad.jp
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あまり関係ないですが参考のためはっておきます。

  [103] (無題) 投稿者:橘 投稿日:2022年 1月 3日(月)07時25分37秒 FL1-60-237-52-170.tky.mesh.ad.jp 返信
卑弥呼は、名はヒミコで読みに合わせ漢字は当て字と言われてる。
同様に倭の五王武も王の名はブだと思うが、何故か、日本書紀では
字は武を使いワカタケルを名としてる。ブの音がない。
日本書紀は、中国史書を元に創作されたのだろう。
読みを採用しないことで日本書紀の話は歴史ではないことが
解るようにした。卑弥呼も箸墓の主のように創作したが
魏志には手食とあり、日本書紀は歴史書ではないことが
容易に解るようにした。
隋書も王の妻とあるが日本書紀では推古天皇は女帝であり、
日本書紀は物語であることを示している。

倭の五王の名は1音であり、日本というより朝鮮半島の人名の
ように感じる。王の名を略することは考えられない。

  • [45]
  • 当世奇妙さん

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 1月30日(日)12時51分40秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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>>43
> 今日のZOOM新年会良かったですね。
> お元気そうで良かったです。


⇒ありがとうございます。

 倭の五王に迫っています。
十余冊の考古学論文と図録と直木孝次郎氏の 古代を語る。雄略朝から継体。欽明へ(吉川弘文館)を読み併せて、迫っています。

先日は謎の4世紀を解くを
暫定的に発表しました。
いろいろ未確定な事柄につき私なりに決着できました。

多分、多くの方には理解されていないでしょうが、これからは5世紀に進みます。

白石南花さんの考察ーー記紀の記述の差違などの分析を吟味しながら、

じっくり取り組みます。

よろしくお願いします。



  • [44]
  • 白石南花さんの考察(続3)

  • 投稿者:トミー
  • 投稿日:2022年 1月30日(日)12時13分39秒
  • KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
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神功紀分析  投稿者:白石南花  投稿日:2022年 1月30日(日)11時14分30秒
私が古代の天皇制に関して考えるきっかけになったのは、考古学者の白石さんの考察でした。
元ネタおよび詳細は忘れましたが、以下の二点がポイントになります。

1.陵墓伝承地は概ね考古学的な大古墳群の移動とあっている。
2.河内にある百舌鳥と古市の古墳群では、最大級の古墳が交互に作られている。二つの豪族が交互に王を出していたのではないか。

私が考えたのは、王統が複数あったのであれば、それも陵墓伝承のように、記紀に痕跡を残しているのではないかということです。
そこで古事記系図に置いて、異世代婚の状況を調べたところ、特定の天皇グループで、曾祖母世代の女性との婚姻が認められました。
矛盾は景行の周辺に集中していたため、垂仁と景行の親子関係を切断して、景行を二世代引き上げると、矛盾が最小になることが分かりました。
崇神と景行、垂仁と政務/小碓が同世代になります。
現在の系図では、陵墓が纒向-佐紀-纒向-佐紀と移動するのですが、この系図では崇神と景行の始祖世代が纒向、第二世代が佐紀となります。
そして崇神には夜神意を問う場面があり、垂仁と合わせて戦争をする際に、将軍に命じ自らは戦地に行きませんが、景行やヤマトタケルは自ら戦地で血に濡れます。
前期古墳時代の王権は、聖王と俗王の二系統が存在した伝承の名残なのではないかと考えたのです。
この説は十五年以上前に、ここのサイトに投稿しました。

その後yahoo掲示板で、双系の王統譜としてより詳しく分析し、仲哀とホムツワケを過渡期として、陵墓伝承地は応神仁徳の河内に移り、応神には外交関係の記事が多く、仁徳には比較的少ないため、このような王権の形態は中期古墳時代に継承されたものと考えました。
その後雄略紀に関して調べたところ、王統の形態は変化して、一人の王がまず俗権の王として即位し、続いて聖王となる形態を予測していました。
その後ずっと放置していたのですが、昨年トミーさんに刺激を受けて、隅田八幡人物画像鏡銘文を手掛かりに、おそらく推古朝あたりまではその形態が続いていたと見立てました。

考古学者の一部は、大古墳が同時期にペアになって築造されるとして、聖俗二王統を想定する人がいるのですが、あまり文献学者でそれをフォローするケースは少ないようです。
私にとっては、前期古墳時代に想定される二王統が独立して分業する形態から、一王統が時間差で分業する形態への変化が、どのように起こったかが課題になります。

そこでそのトランジション期に相当すると思われる神功紀について、予備的な考察を行っています。
神功紀は概ね二つの部分に分解できるようです。

前半.摂政前紀から摂政十三年
後半.摂政三十九年以降

前後半の間には二十六年の空白がある上に、三十九年、四十年、四十三年は三国志の引用で実質的な後半の始まりは、四十六年の斯摩宿祢を卓淳国に遣わした話になります。
以降は百済記をもとに立たと思われる、百済との交流の話があり、基本的に百済記の干支を二運、一部三運引き上げてはありますが、暦年を追うことが可能であり、七枝刀の話など、倭国の半島進出の歴史的端緒を記したものとして、歴史的議論の的になる部分です。
途中新羅や任那が話題になることはありますが主線ではありません。

一方の前半部分はほぼ古事記の仲哀記の記述に重なり、神功伝説のコアの部分であるといえます。
半島との関わりという意味では、新羅を攻撃する三韓征伐をメーントピックの一つとしたもので、後半部分との間に大きな落差があります。
つまり神功紀は半島との関わりの始まりとして、伝説的な前半部分と、百済記を史料として何らかの歴史的事件を語ったと思われる後半部分の二重の語りになっているわけです。

ここで注目するのは、あまり歴史議論の対象になっていない前半部分です。
前半部分にも古事記との異同がありますが、おおむね羽白熊鷲の話題など日本書紀固有の話題が追加されている構造になっています。
この追加された情報の中には、古事記の神話的な三韓征伐に、追加された情報もあります。
この中に何名か新羅人の人命が含まれており、三国史記の登場人物と比較できるものがあります。
本文では下記のような人物があげられます。

日本書紀:三国史記
波沙寐錦:婆娑尼師今
微叱己知波珍干岐/微叱許智伐旱:未斯欣
汙禮斯伐:于老?
毛麻利叱智:堤上

また別伝では
宇流助富利智干:于老

また別伝では、倭軍が新羅の王を殺したところ、その妻が倭国の役人を殺して復習した話が出てきますが、三国史記に于老にまつわる話として、同様の話が出てきます。
この中では、三国史記に堤上が倭国の人質であった未斯欣を救い出す話があり、日本書紀にも毛麻利叱智が微叱許智伐旱を救い出す話が有って、食い違う部分もありますが、何らかの背景になる事件があったことをうかがわせます。
微叱許智伐旱と同一人物と思われる微叱己知波珍干岐は、前半部分の神功の新羅攻撃の際に、波沙寐錦が人質に出した人物です。

三国史記の年表では、婆娑尼師今は一世紀末から二世紀初、未斯欣は四世紀後半から五世紀初に在位した奈勿尼師今の子、于老は二世紀末から三世紀初に在位した奈解尼師今の子、堤上は五世紀初に活躍した人物で、時代的にバラバラになっています。
しかし注意すべきは、一番古い婆娑尼師今は朴氏、二番目に古い奈解尼師今と于老は昔氏、一番新しい未斯欣と堤上は金氏なのです。
この三氏は本来は同時平行で存在したとの説があり、もしかしたら年代的な矛盾はないかもしれません。

そこで三国史記と伝承的に一致度の高い、未斯欣の伝承に注目すると、この話の時代は五世紀初めとなり、三国史記の記述に歴史性を認めることができる時代であることになります。
微叱許智伐旱の帰国に関して、葛城襲津彦が新羅を攻撃し、四邑漢人を連れ帰った伝承があり、この人々の子孫が史料を残した可能性があります。
その年代をみると、418年戊午の年であることがわかります。
ここで前半部分の最後の年である摂政十三年をみると、これは仲哀記の最後に見える、皇太子応神の成人の宴と共通するものであることがわかります。
これがこの年に配当されていることにもし何らかの意味があるとすると、これは426年丙寅の年となります。
古事記崩年干支では、この年は仁徳崩年の前年となります。
前回倭の五王の見通しで、履中と反正の崩年干支はある程度信頼できるのではないかという見通しを述べましたが、仁徳の崩年は何らかの権力移譲の伝承であった可能性があり、履中の何らかの地位への即位に関連するものであった可能性があるのです。
つまり氏族史料にあった成人の宴は、応神のものでなく、履中のものものである可能性が出てくるのです。
実際神功紀摂政三年の応神立太子記事の磐余宮に若櫻の宮とする註があり、神功紀摂政六十九年の崩御記事には本文に若櫻の宮とあります。
履中の宮は記に伊波礼若桜宮、紀に磐余稚櫻宮となっており、記紀に数多くの宮が表れても、王的存在の宮伝承についてついて、これほどに一致する例はほかに見えません。

この伝承が神功コア伝承の背景にあった出来事であったかどうかは分かりませんが、日本書紀編纂者のもとには、すくなくともそれと似通った本来履中に関連する伝えがあったと思われます。
もしその伝承に、皇太子の名まえが伝えられていなければ、同一視されると考えられます。
古事記の神功の新羅攻撃の話も、もっと古い別の出来事の伝えかもしれませんが、氏族の伝えた四世紀末から五世紀初めの新羅攻撃の伝承は、時代的に好太王碑に見える、391年辛卯の年以来倭が海を渡って攻めてきたという記述にも合致するので、何らかの背景があるものと思われます。
少なくとも神功紀前半に流れ込んだ氏族伝承は、神功紀後半と時代的に逆転していることがわかります。

応神の崩年が阿知使主の呉からの帰国、430年庚午の年であり仁徳紀即位五十八年と同じ時であるとすると、この時期応神仁徳と別に王的存在がいたことになります。
実際上述四邑漢人について、新撰姓氏録では仁徳朝の来朝となっているのです。
古代の天皇制の形態は、かなり複雑なものであり、神功紀後半の王的存在と合わせて、記紀の王統譜に当てはまらない存在が多数あったことを思わせます。
そしてそれは、この古墳中期に天皇の数を超える大古墳があることとも合致するのです。
仁徳五十八年と応神四十一年は同じ庚午の年ですが、このようになるためには両者の間隔が一運離れることが必要です。
仁徳の五十八年までには、空位年二年を含めて六十年になるように調整されているはずですが、事績空白期間などの明白な引き延ばしの痕跡は今のところ見えず、何らかの別の王的存在の伝承の挿入があるのではないかと調査中です。

  • [43]
  • トミーさんへ

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 1月29日(土)19時47分57秒
  • p2324062-ipbf2022funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
今日のZOOM新年会良かったですね。
お元気そうで良かったです。


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