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  • [0]
  • 東アジア海洋国家論

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2022年 2月 6日(日)12時57分2秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
 
スレ「『海洋国家(カルタゴ)』の都市国家形成」より

[32] 東アジア海洋国家論 投稿者:当世奇妙 投稿日:2022年 2月 5日(土)11時04分29秒

米田さん
本スレッドの最初に記してあった以下を期待しています。

「古代の日本(&対馬&半島南部)には、出雲を中心とした「海洋国家」が時期「存在」した。
:何とかして、「海洋国家」を(いつかは)まとめたいと思っています

********************************

「スレ」の名前は、初めは、「海洋国家(仮称)出雲連邦」のつもりでした。けれども、
「早く書き始めろ」との催促がありましたので、思いつくままに、書こうと思います。

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
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 いつもご協力いただきありがとうございます。

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  • [56]
  • 「海運交易都市国家」連合論

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 5月 5日(木)20時52分31秒
  • p2682141-ipbf2901funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
米田さん
大変大きな構想の列島古代史論ですね。

海洋交易、特に日本海側の海洋交易は弥生時代の歴史の
重要ポイントには違いありません。
弥生終末にはこのルートがメインルートになっていたと思います。

邪馬台国の時代には瀬戸内交易はかなり窮屈になっていた
と思います。関門海峡通過は一時困難になっていたとも予想しています。
吉備と出雲の交流の活発化もその現れと思っています。

確証はありませんが、
後になっても、瀬戸内は一気に通交するのは難しく、各地域の
豪族が強く、玉突きのような交易だったと思っています。

米田構想は、。気宇壮大で大変興味深いですが、
私はこの広大な構想にはついていけません。
常識的な日本古代史追求派です。

頑張ってください。
構想の完成期待します。

以前『常識人の日本古代史』を出版しようと企画したことがあります。
出版出来るか今では不明です。




  • [55]
  • 「東アジア海洋国家論」(その1)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 4日(水)15時38分37秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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.
「東アジア海洋国家論」(その1)


※:このスレ「東アジア海洋国家論」を作ったのは、2022年 2月 6日(日)でした。
_:その時には、まだ、何を書いてよいのか、迷っていました。


│Re: スレ「FC2のロビー(歴史談義)」 - 当世奇妙  2022/05/04 (Wed) 06:17:19

│>「日本」(=倭国+高句麗+百済+新羅+任那)
│>豪族は、みな天皇家の子孫である。的な、(今は没落した、氏族の)

│上記が米田ざんの基本的考えですね。
│私の考えとは全く異なるので、この話はこれで終わりにします。

※:「高句麗」は、どこにある。(3)5月 1日(日)を書いていて、分かったこと、
_:当世奇妙さんが(私に)知りたかったこと、
_:私は、「東アジア海洋国家論」で、何を書かなければならないのか、ようやく分かりました。

※:それをこれから書きます。

(弥生時代)
:稲作農業が始まって、小さな国がたくさん出来て、お互いに争って、大きな国が出来た。
:この「クニ」の発生は、正しい。

:「関口宏の~」のテレビ番組で言ってたようですが、
:この「弥生時代」は、西日本は、「弥生時代」。東日本は、「続縄文時代」という、分類でした。

:この分類に、私は、漠然と疑問を持っていました。
:「貝の道」は、(西日本の)「弥生文化(弥生時代)」のおまけなのか、ということでした。

※:ここで、「楽浪郡」の話をします。

:前漢にとって、楽浪郡(韓四郡)の設置のメリット(動機)は、何だったのか。
:真番郡・臨屯郡(沃沮)の廃止の理由は何か。

:玄菟郡などは、前漢と匈奴との間の緩衝地帯としての役目が(確かに)あったと思います。それでも、
:楽浪郡は、耕作地の増大よりも、海上交易の中継地点の確保という意味合いが強かったと思います。

:そうすると、「ヒスイ」「貝製品」「鉄」「塩」「海獣・魚介類」「獣皮」「銅・水銀」「漆」などが、
:交易品だったのだろうと思います。これは、上海(&山東半島)の海運業者が中心と思われます。

:楽浪郡・玄菟郡・臨屯郡などは、「解氏」「于氏」「金氏」が、支配していたと思います。
:彼らの中では、「解氏」が「海運業者」の(地域)ボスに近い気がします。

:彼らは、「貝の道」を通って、投馬国・出雲・丹波・越国・吉備・難波・大津などに、
:港町都市国家を作っていきました。
:(吉野ケ里遺跡などは、どちらかというと、純粋に農業国家です。)
:つまり、弥生時代の国家(発展)のモデルは、(水田を中心とした)農業国家なのです。

※:ここで「弥生時代」の分類に戻ります。

:九州地方は、「弥生土器文化」の農業国だった。薩摩・中国四国近畿北陸の地方は、ヒスイの生産地を
:含めた、海運交易都市国家だった。東日本は、「続縄文時代」が続いていました。

※:神武東征の主体は、九州の国家連合なのか。

:私は、九州は、「海運交易都市国家」連合に征服されたと考えます。
:九州(と半島南部)は、中臣氏(朴氏)の先祖が、BC5世紀に移住してきたことで、発展しました。
:その中臣氏の先祖が(五部の一部として)、半島の勢力と一緒になって、「解氏」を没落させて、
:五部の豪族集団「海運交易都市国家連合+伽耶連合+帯方郡」として、(中臣氏が海神として活躍)
:半島・倭国を支配(移住・定住)していった。(農業が中心になって定住していきました。)

:細かい話を抜きにして、大雑把な話をすると、こんな風になると思いました。
:この「東アジア海洋国家」のことを、私は(仮称)「帯方国連邦(辰国)」と呼んでいました。


  • [54]
  • 「高句麗」は、どこにある。(その3)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 1日(日)08時52分38秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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「高句麗」は、どこにある。(その3)


※:三国志・魏書・東夷伝を読むと、不思議なことがあります。


<「楽浪郡・帯方郡」は、どこにある。>

※:三国志・魏書・東夷伝を読むと、不思議なことがあります。

(中段、右側の地図)
:魏書・東夷伝を読んで、地図に落とし込んでいくと、不思議なことに、(気が付きます。)
:「楽浪郡・帯方郡」のスペースがないのです。
:せいぜい、あるとしても、郡治の「朝鮮県」と「帯方県」のスペースが残っているくらいなのです。

※:つまり、地図から見ても、「楽浪郡・帯方郡」と「高句麗」の領域は、
_:ほぼ(8割くらいは)重なっているように見えるのです。
:(魏書・東夷伝を実際に読んでいただいて、この地理感覚は、確かめて下さい。)

_:そして、というか、AD47年に臣属を願った、一万余人が、「高句麗」として生き残った。
_:残りの高句麗(&夫余)は、238年の公孫氏の滅亡や、285年の慕容廆の(夫余)襲撃によって、
_:壊滅的に滅んでしまった。
_:その後、高句麗は、濊(倭国)・三韓の(婚姻を含む)支援によって、強くなっていきます。


  • [53]
  • 「高句麗」は、どこにある。(その2)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 1日(日)08時50分17秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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「高句麗」は、どこにある。(その2)


│「もっと知りたい 三国志」というWEBで、調べました。

│(167年の主な出来事):1月
│夫余王(ふよおう)の夫台が玄菟郡に侵攻。玄菟太守の公孫?(よく:王+或)がこれを破る。

│(168年の主な出来事):12月
│鮮卑(せんぴ)と濊貊(わいはく)が幽州(ゆうしゅう)と?州(へいしゅう)に侵攻する。

│(179年の主な出来事):12月
│鮮卑(せんぴ)が幽州(ゆうしゅう)と?州(へいしゅう)に侵攻する。


※:何を云いたいかというと、高句麗・新大王の在位は、165年から179年なのです。
_:それから、濊貊(わいはく)が、(鮮卑と連絡を取り合って、)幽州(ゆうしゅう)に
_:出ていくには、楽浪郡(や高句麗)を通過していくのです。

※:さらに、高句麗・新大王の即位の165年以降に、濊貊が、幽州に出ていくのです。そして、
_:新大王が亡くなるのは、179年12月なのです。

※:つまり、新大王は、鮮卑に殺されたのか、それとも、幽州の後漢の勢力に、殺されたのか、
_:それとも、115年頃に生まれたはずなので、65歳くらいのはずですが、老衰なのか。

※:どちらにしても、新大王が、鮮卑(夫余・六加の一部か。)や濊貊(夫余・六加の一部か。)と、
_:協同して動いているように見えます。

PS:
:夫余の六加のひとつに「狗加」があります。「後漢書」や「魏志倭人伝」に出てくる
:「拘奴国(倭国の東)」、「狗奴国(九州の熊本地方)」、「狗邪韓国(金官国のあと)」は、
:この「狗加(おそらく、「于氏・忌部氏の元祖」)」の子孫が、領主をしていると、想像しています。
:(もちろん、新大王も、「狗加(于氏)」だろうと、想像しています。)

PS:
:新大王(=仇鄒角干=神武天皇)とすると、
:「高句麗:発岐」=「新羅:伐休王」=(三国志:抜奇)=「手研耳命」に、なります。

:高句麗本記、197年頃(196年か)、
:発岐は、妻子を率いて遼東〔郡〕に逃げ、〔遼東〕太守の公孫度に会い、次のように告げた。
:云々。どうか、三万人の軍隊を借りて、これを撃破し、この反乱を平定させてください。
:云々。
:おまえ(けい須=伊買=神渟名川耳)は、いま年老いた兄(実父=手研耳命)を殺すことができるか。
:云々。

※:つまり、手研耳命は、「五十鈴依媛命」とは別に、公孫氏の一族の娘を妻にしていたのではないか。
_:その子孫が、公孫氏の末裔を名乗っていたかもしれないと、考えました。


『幽州(ゆうしゅう)』(ウィキペディアより)
:幽州は、中国にかつて存在した州。

:上古の中国の九州の一つに数えられている。
:具体的な区域については、『爾雅』・『呂氏春秋』では「燕である」としており、
:『周礼』では「東北」としている。
:『晋書』地理志では「北方は陰気が多いことにより、幽冥をもって名称とした」としている。

:漢代
:紀元前106年(元封5年)、漢の武帝が全国を13州に分割し、各州に刺史を設置した際に、
:現在の河北省・遼寧省・北京市・天津市を中心とする地域に幽州を設置、
:涿郡・勃海・代郡・上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東・玄菟・楽浪・燕国の11郡国を管轄した。

:前漢末の混乱期には冀州の王郎により占拠されたが、後漢の挙兵の結果光武帝の勢力下に入り、
:後漢が成立すると薊県に州都を設置した。

:魏晋南北朝時代
:後漢末には公孫氏が幽州東部を占拠、その後約半世紀にわたって
:中原政権から半ば独立した政権が成立したが、238年(景初2年)に魏により滅亡させられた。




  • [52]
  • 「高句麗」は、どこにある。(その1)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 5月 1日(日)08時48分29秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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「高句麗」は、どこにある。(その1)

<「帯方郡」の位置について>

※:帯方郡の県は、(大雑把に云うと、)

「真番郡の各県」→「大楽浪郡に吸収」→(大楽浪郡の一部ではあるが衰退)→「帯方郡として分離独立」

_:という、変遷をしているように見えます。


──────────────────────────────────────────────
  1 ~3世紀の朝鮮半島を簡単にまとめてみました。おもに楽浪郡と帯方郡が中心です。
──────────────────────────────────────────────
(『 東アジア民族史1』・『三国史記』・『古代豪族系図集覧』・『中公新書・楽浪』より)

<『三国史記・高句麗本紀』>(AD22年、春二月)
:(高句麗の大武神)王は軍隊を扶余国の南に進めた。扶余王(帯素)を捕え、その頭を斬った。
:夏四月、扶余王帯素の弟が、曷思川(かつし-)の河畔にきて、国をたて、自ら王といった。
:    ・・。これを曷思王という。
:秋七月、扶余王〔帯素〕の従弟が、・・・といって、1万余人をひきつれて〔高句麗に〕来降してきた。
:    〔高句麗〕王は、彼に王の称号を与え、掾那部の支配下においた。(高句麗五族のひとつ)

<『三国史記・高句麗本紀』>(165年)
:冬十月、掾那〔部〕の皂衣の明臨答夫は、・・、王を弑逆し、次大王と諡(おくりな)した。
:(168年、)後漢の玄菟郡太守の耿臨(こうりん)が侵入して来て、云々。〔そこで高句麗〕王は
:      自ら降服して、玄菟〔郡〕に所属することを願い出た。

************************

<『三国史記・高句麗本紀』>(AD26年、冬10月)
:王自ら蓋馬国を征伐して、その王を殺したが、云々。ただその地方を「郡県」とした。

※:この文章は、高句麗が、倭国(特に出雲・丹波)を攻めて、郡県制を敷いた、と解釈しました。
_:これが、その後の、AD57年、倭(九州)の奴国の遣使につながったと、考えました。

※:つまり、濊貊の首長は、(おもに)出雲・丹波の地方長官を兼ねている。(のちの、「国相」職。)

<『後漢書・濊伝』>
:沃沮・濊貊は、すべて楽浪〔郡〕に所属した。

<『三国志・濊伝』>
:楽浪郡と帯方郡は、戦争をするとき、〔濊から〕貢物を取り、使役を供給させている。

<『後漢書・高句驪伝』>
:沃沮・東濊はみな〔高句驪に〕服属している。
:AD47年の冬、〔高〕句麗の「さんしらく」の大加の「たい升」ら一万余人が、臣属を願って
:楽浪〔郡治(平壌)〕にやってきた。
※:(この一万余人が各県の県主・住人になったと、考えます。)

<『魏書・高句麗伝』>
:高句麗の支配者層は耕作しない。〔したがって〕徒食するだけの者が一万余人もいる。
:下戸が遠くから五穀・魚・塩などを担い運んできて〔王家に〕供給する。

※:ここまで読んでくると、楽浪郡・帯方郡の領域と、
_:高句麗の領土の8割くらいは重なっているように、見えてきます。





  • [51]
  •  畿内系定型化前期古墳はリン・タンパク質の調査も必要  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 4月27日(水)21時25分35秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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 倭国の場合、高塚という墳墓にて 3次元の設計思想を取り入れるのは、日本海側の墳墓より始まる。
 やや遅れて 鯨面土器の分布範囲の西側
で 双方中円墳が出現し、プレ古墳という高塚が拡散してゆく。

次いで 東日本では前方後方墳型周溝墓、畿内では前方後円墳形周溝墓が展開か?

 次の段階の畿内定型化前期古墳は 一段目を地山削り。その上の段は盛り土。
墳丘全体を 土を積み上げて墳丘構築するのは さらに遅れている。

 残念ながら 編年の完成度が低く(主に土器編年)、248ヒミコ墓が特定できていない。
 径100余歩 それは円墳なのだろうか?
試しメスができない空気も形成されている。  墳丘調査しても 主体部は遺跡保存の名目で 外されている事例が多い。

墳丘調査で リン・タンパク質の分布調査に積極的とは言えない、そうした空気の形成も関与か?
 畿内系定型化前期古墳 なぜ 埴輪のある古墳と 無い古墳があるのだろう?
東日本が埴輪のある古墳文化を なかなか受け入れないのには理由があると見ています。

私は 中国・殷の墓と同様の生贄が 4世紀古墳時代の倭国内では繰り広げられていた、と想定している。(西日本)
 畿内系定型化前期古墳文化の担い手、彼らは甕棺や方形周溝墓の否定者。庶民層は 墓を喪失する。
彼らは 庶民層が文字文化に触れる事に否定的。 ポルポト派と同様の徒民政策を実施し、前期古墳時代 古墳は限りなく 肥大化する。

縄文遺跡の環状列石では リン・タンパク質の調査、一方 古墳になると異なった対応を見せるのは 教科書裁判が継続的に継承されなかった、一種の反映。




 

  • [50]
  • 保管用 チェック

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月25日(月)14時46分22秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
2022-04-25

  • [49]
  • <大国主命の子どもたち>

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月24日(日)16時58分58秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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<大国主命の子どもたち>

:『大国主神(おおくにぬしのかみ)』(ウィキペディアより抜粋)
:大国主は、様々な女神との間に多くの子供をもうけており、云々。

嫡后:須勢理毘売命(すせりびめ の みこと、須勢理姫命、)須佐之男命の娘。
妻_:多紀理毘売命(たきりびめ の みこと)         須佐之男命の娘。
_子:阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこね の かみ、『古事記』では他に迦毛大御神)
__:天若日子と容姿が酷似する。『出雲国風土記』によれば、云々。葛城の高鴨神社祭神。
_娘:下照比売(したてるひめ の みこと、高比売命、『日本書紀』では下照姫命)天若日子の妻。

妻_:神屋楯比売命(かむやたてひめ の みこと)出自不明。須佐之男命の娘で宗像三女神の次女。

_子:事代主神(ことしろぬし の かみ、都味歯八重事代主神)
__:鴨都波神社・天高市神社・飛鳥坐神社祭神。賀茂氏・大神氏の祖。
_娘:高照光姫命(たかでるひめ の みこと)御歳神社祭神。

妻_:八上比売(やがみひめ)因幡の白兎の段に登場。
_子:木俣神(きのまた の かみ、御井神)木俣に刺し挟まれたことからの名。

妻_:沼河比売(ぬなかわひめ、こし の ぬながわひめ、『先代旧事本紀』では高志沼河姫)
_子:建御名方神(たけみなかた の かみ)諏訪氏、守矢氏の祖であるともいう。諏訪大社祭神。

妻_:鳥取神(ととり の かみ、鳥耳神、鳥甘神)八島牟遅能神(やしまむぢ の かみ)の娘。
_子:鳥鳴海神(とりなるみ の かみ)この神を含む系譜は十七世神と称される。

*****


※:「タキリヒメ」は、「連れ子の実子扱い」として、須佐之男命の娘、と考えています。

※:「タキリヒメ」と「神屋楯比売命」は、同一人物だろう、という希望は持っていますが、
_:ここは、ウィキペディアの記述に従いました。


  • [48]
  • <三人の「大御神」について>

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月23日(土)17時46分54秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 
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<三人の「大御神」について>

│スレ「高天原にあった卑弥呼の墓」より

│[127] Re: (無題) 投稿者:p君 投稿日:2022年 4月23日(土)13時25分32秒

│何が大問題なのか、訳が分かりません。
│「高姫=シタテルヒメ」の兄のアジスキタカヒコネは大御神という称号を与えられてます。
│古事記で大御神はイザナギ、アマテラス、そしてこの迦毛大御神(かものおおみかみ)こと
│アジスキタカヒコネ以外にいません。

※:「味鉏高彦根命」と「事代主命」は、別人かどうかについては、この20年間、
_:保留にしてきました。

※:p君さんと話をしていて、今日、別人であることに気が付きました。(感謝。)
_:この系図なら、しっくりときます。
_:「事代主命」の方は、「三輪大神」ですから。

※:そうすると、何が起こるかというと、
_:「味鉏高彦根命(金閼智)」が平定した「大和(葛城)」を、
_:「事代主命」の子、「天日方奇日方命」が乗っ取った、ということになります。
_:これなら、納得です。

PS:(系図もあるので、こちらのスレに、書いておきます。:2022-04-23)

PS:ウィキペディアを調べたら、修正が出てきたので、下図の系図は、ボツにします。(2022-04-24)


  • [47]
  • 「伊世理命」は、男か女か。

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月23日(土)11時13分46秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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「伊世理命」は、男か女か。


│「討論室・メインスレッド」より
│米田さん及び管理人の皆様へ。  投稿者:難升米  投稿日:2022年 4月22日(金)07時58分35秒

│米田さんは討論室の論争で、私に好いように負けたので、非常に悔しいからと言って、
│私を出入り禁止にするのは、私の恨みを公権で晴らすことであり、職権の乱用にはなりませんかね?

│基本的に、米田氏は男性と女性を平気で同一人物に比定したり、シンメトリック論なんて
│ゴミ説をまかり通しているように、まともな歴史を語りもせず、
│好き放題にウソ説を言い張っているトンデモ論者ですからね。


│スレ「高天原にあった卑弥呼の墓」より
│[123] Re: 「高天原(伽耶)」の移動 投稿者:p君 投稿日:2022年 4月22日(金)17時22分43秒

│また男性である日子八井命が卑弥呼であるなどという発言は
│掲示板のレベルを著しく下げるのでやめてください。

│米田さんが新討論室の管理主査になったからと言って、
│あなたの意味不明な説が支持されてるわけではありません、
│一番暇そうだから選ばれているだけでしょうし、勘違いをなさらないようにお願いします。

※:「日子八井命」は、男か女か、など、神武天皇の記紀での記述は、ややこしい問題を含んでいます。
_:ですので、この問題は、これ以上、触れないことにします。
_:もし、考えていただけるのであれば、(古事記の系図上の謎として、)次の点をお考え下さい。


│:伊須気余理比売(五十鈴依媛命)の夫は、神武天皇と手研耳命の(少なくとも)二人はいます。
│:「日子八井命」は、長子です。ですので、神武天皇の子と、考えられます。
│:綏靖天皇は、第三子の「神沼河耳命」です。もしかしたら、「手研耳命」の子ではないか。
│:私は、愚直な人間ですので、この問題が、頭から離れなくなりました。(系図の世界は、泥沼です。)


※:さて、今回の問題は、<「伊世理命」は、男か女か。>という問題です。この問題は、
_:約20年間、仮置き(保留)にしてきたのですが、今月、私は、新しい解釈・発見をしました。

※:私の解釈の説明の前に、この問題がどのようなものかを説明します。(掲載図を参照。)

(その1):『古代豪族系図集覧』によると、「伊賀津臣命」の子は、男の3兄弟です。
(その2):『風土記(東洋文庫P-304)』によると、男子2名、女子2名の4兄弟姉妹です。
(その3):系図では、「伊世理命」で男。風土記では、「伊是理比売」で女。さて、どうする。

※:考えられる選択肢は、下記の通り。

(0案):どちらの資料(史料)も、当てにならない。考察する価値はない。
(A案):本当は、5人の子どもがいた。
(B案):「伊世理命」は、男ではなくて女だった。(系図の方が、間違っている。)
(C案):「伊是理比売」は、いなかった。___(風土記の方が、間違っている。)
(D案):「伊是理比売」の結婚相手が「伊世理命」だった。(婿養子の実子扱いという系図上の作為。)
(E案):その他。

※:で、更にややこしいことにですね。「伊香連祖」は、本当はどっちだ、という問題まで出て来ました。
_:臣知人命(系図:伊香連祖)と、奈是理比売(これは伊香連の先祖である)。さあ、どうする。
_:(これには、女性を先祖にして良いのか、という問題をはらんでいます。)


(本来は、系図のスレに書くのですが、系図のスレは、閉めたので、こちらのスレに書き込みました。)
(系図の研究は、パズルとか詰将棋・詰碁・虫食い算の類だと思っています。約20年、やっています。)


  • [46]
  • 保管用 チェック

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月14日(木)15時30分25秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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2022-04-14

  • [45]
  • 東アジア海洋国家論(その10)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月14日(木)15時07分8秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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東アジア海洋国家論(その10) 「系図は、パズルである。」

私にとって、「系図」は、パズルです。私にとっては、「虫食い算」といってもよいかと思います。

日本書紀は、壮大な(系図の)パズルと見ることが出来ます。
日本書紀は、それを系図に書き表そうとすると、(不明が多くて)虫食いだらけです。でも、それは、
編纂者が分からなくて、空欄にしたのではなくて、意図的に、わざと空欄にしていると考えました。


解読の手掛かりは、いくつかありました。(系図を作る上での経験と同時に、これは仮説でもあります。)

(その1):二つの系図に齟齬がある場合、両方とも正しいと仮定して、何が起きているかを考えました。
(その2):各天皇紀に出てくる「伊勢大神」を祀る女性は、女系でつながっているだろう。
(その3):名前に「橘」がある「人物」は、(男女を問わず、)橘豊日天皇につながっているだろう。
(その4):
:(シンメトリックを仕掛けた人と思われる)「阿倍宿奈麻呂(少麻呂)」は、日本書紀の編纂の中で、
:意図的に「橘の名前」をちりばめた。そんな気がします。&「阿倍宿奈麻呂」は、「橘」の者だろうと。


(「橘」の例):─弟橘媛(度美媛命)──雷大臣命──仁徳天皇──草香幡梭姫皇女(橘姫皇女)


※:パズルの最後は、「稗田阿礼」です。
_:「稗田阿礼」は、『古代豪族系図集覧』の最初のページに、載っているのです。不思議でした。
_:「稗田阿礼」は、622年、聖徳太子として死去した「用明天皇」だろう、というのが私の結論です。


  • [44]
  • 東アジア海洋国家論(その9)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月12日(火)23時23分41秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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東アジア海洋国家論(その9)

※:今回は、女性が土地の所有者であるという記述を集めてみようと思います。

※:時代区分は、下記のように、3つに分けます。

(その1):紀元前1世紀から3世紀半ばまで。
(その2):ポスト卑弥呼から応神天皇誕生まで。
(その3):応神・仁徳の時代以降。


(その1):紀元前1世紀から3世紀半ばまで。


│<ウィキペディア>より、「烏孫(うそん)」
│江都公主(こうとこうしゅ)が死ぬと、漢はふたたび「楚王劉戊の孫の解憂」を公主とし、云々。
│「烏孫公主(解憂)」は上書し、云々。甘露3年(前51年)、元貴靡や鴟靡がみな病死したので、云々。
│公主は3人の孫とともに漢に帰国し、田宅と奴婢を賜った。公主はその2年後に亡くなった。

※:「烏孫公主(解憂)」は、「解氏」です。「解夫婁」も「解氏」です。ですので、
_:楽浪郡の南側(つまり、馬韓・弁韓・辰韓)の土地を賜ったのだろうと考えました。
_:これが、そのまま「辰国」になります。

※:そして、大加耶(高霊伽耶)の「加耶世主正見母主」は、その女系の子孫だろうと考えました。


│『風土記(伊賀国)』
│:伊賀の国風土記。伊賀の国は昔伊勢の国に属していた。孝霊天皇の御宇の癸酉(253年±60n)の
│:歳に、これを分かって伊賀の国とした。この名は、伊賀津姫の領して郡であるから、それによって
│:郡の名とし、また国の名としたものである。(『日本総風土記』)
│(注:伊賀津姫)
│:『天孫本紀』に大伊賀津彦の女、大伊賀津姫とあり、次条には我娥津媛とある。

│※:上記の記述を『古代豪族系図集覧(天神系)』の系図に合わせると、下記のようになります。

_____________________天女の妹─┐┌─臣知人命〔韓諸国の臣智たちの一人〕
__________________________├┼─奈是理比売(=大伊賀津姫)
│天種子命──宇佐津臣命──御食津臣命──伊賀津臣命─┘└──梨迹臣命(=難升米だろう)
___________________(大伊賀津彦)

│『三国志韓伝』
│:(247年頃)〔帯方〕太守弓遵と楽浪太守劉茂は、軍隊を率いて〔韓諸国の臣智たち〕を
│:伐った。〔この戦いで弓〕遵は戦死したが、二郡はとうとう韓〔族〕を鎮圧したのである。



(その2):ポスト卑弥呼から応神天皇誕生まで。 (不明)


(その3):応神・仁徳の時代以降。

│※:『風土記』を読むと、国造(の多く)は女性で、紀では「道(みち)の主(将軍)」は、男性です。

│:播磨風土記(東洋文庫P-76)、仁徳天皇のみ世に、伯耆〔の国〕の加具漏と因幡の邑由胡の
│:二人は大いに驕って節度がなく、清酒をもって手や足を洗った。云々。(二人のものを召喚した。)
│:一族の中に二人の女があり、手足に玉飾りをつけていた。そこで(狭井連)佐夜は怪しんで尋ねると、
│:「私は服部弥蘇連が因幡の国造阿良佐加比売と結婚して生んだ子、宇奈比売・久波比売である」と
│:答えていった。その時佐夜は驚いて「これは、これは、執政大臣(推測:住吉仲皇子)の御娘である」
│:といってただちに送り還した。



│安閑天皇紀
│:小墾田の屯倉と国ごとの田部とを「紗手_媛」に賜うのがよろしいでしょう。
│:桜井_の屯倉と国ごとの田部とを「香香有媛」に賜いましょう。


※:「元興寺伽藍縁起并流記資財帳(がんごうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)」
_:楷井等由羅(とゆら)宮で天下を治めた豊御食炊屋姫命の生誕百年、癸酉(613年)正月九日に云々。
_:「炊屋姫命(513年生)の生誕百年」という記述は、正しいと(私は、)考えて考察しました。

Q:では、「楷井等由羅(とゆら)宮で天下を治めた豊御食炊屋姫命」とは、いったい誰でしょうか。
A:「豊御食炊屋姫命」を「大神の祠を祀って、食事を捧げる(祭祀権を持つ高齢の)女性」
_:(仮に「太皇太后」)と定義すると、堅塩媛の母親(の世代)が、「513年頃生」に該当します。

<条件式的に考えてみます。>
(その1):記:丹波道主の弟「水穂之真若王(近江の安直の祖先)」は、息長宿禰王=武内宿禰だろう。
(その2):「安〇天皇」は、「息長氏」(武内宿禰の男系子孫)だろう。
(その3):継体天皇紀:息長(滋賀県近江町、元息長村)の真手王の娘で、麻績娘子は
___:「荳角皇女」を生んだ。これは、伊勢大神の祠に侍している。
(その4):桜井の屯倉は、安閑天皇の妃である、紗手媛の妹の「香香有媛」の所有である。
(その5):「楷井等由羅(とゆら)宮」は、「桜井の豊浦宮」である。
___:(大辞林 第三版の解説)から、「豊浦宮」は、
___:小墾田宮遷都前の推古天皇の皇居。奈良県明日香村豊浦にあったと推定される。
(その6):「楷井等由羅宮」の主は、「香香有媛」か「香香有媛」の娘と考えられる。

<系図の復元を「虫食い算」的に考えてみました。>

─(女A)─(【女B】)─堅塩媛─┬─磐隈皇女(伊勢大神に侍ス:解任)   (伊勢大神)
                    └─推古天皇(554年生:豊御食炊屋姫尊)──菟道皇女

※:女性は、20歳前後で子どもを生むと考えると、次のようになります。

(女B:〇〇年生)──堅塩媛(〇〇年生)───推古天皇(554年生)
(【514年頃生】)──堅塩媛(534年頃生)──推古天皇(554年生)

※:「513年生」の女性を【虫食い】とすると、「伊勢大神」つながり、「桜井/豊浦」つながり、
_:生年の年代の逆算から「推古天皇」の祖母の世代。

※:それぞれの条件が、(女系として)ひとつにつながると考えて、下記のような系図を復元しました。
_:(記紀の系図という「虫食いのパズル」を、「虫食い算的思考」で、系図を復元してみました。)


※:投稿図は、「小墾田の屯倉」と「桜井の屯倉」の所有者の流れを追った、推測の系図です。

※:603年に、「推古天皇」は、小墾田の宮に移っています。この時、
_:「吉備姫王」のところで、二つの「屯倉」の所有が、一つになったのだろうと思います。
_:それは、「吉備姫王」が(おそらく、推古天皇の死後、)「貸稲」をしていることから分かります。

※:この「吉備姫王」は、「孝徳天皇」&「皇極天皇」の母親です。

  • [43]
  • 東アジア海洋国家論(その8)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月12日(火)09時27分40秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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東アジア海洋国家論(その8)

│「米田の系図を議論するスレ」より
│[13] 系譜に現れる「同名者」をどう考えるべきか? 投稿者:石見介 投稿日:2021年 5月 9日(日)


※:質問の意図とは違いますが、系図を扱っている「系図マニア」の一人として、
_:日頃、感じている「同名者」について、書こうと思います。

※:一番新しい処から(順々に)、書いていきます。

(その1):「天児屋根命」と「伊珍阿豉王」について。
:「天児屋根命(めのやね)」→「あこ王」

(その2):「(津守)諸石宿禰」と「(多遅摩)母呂須玖」
:「(津守)諸石宿禰(もろいしのすくね)」→「(多遅摩)母呂須玖(もろすく)」

(その3):「(津守)大御日足尼」と「(多遅摩)斐泥」
:「(津守)大御日足尼(おおみのすく)」と「(多遅摩)斐泥(ひね)」

(その4):
 日本書紀(仁徳天皇紀)の___「播磨の佐伯直阿俄能胡(AGA-NO-KO)」です。
『古代豪族系図集覧』では、_____「佐伯(直)那賀児_(NAGA-KO)」です。
そして、日本書紀(仁徳天皇紀)では、「大倭国造_吾子籠宿禰(AGO-KO)」です。

(その5):「大荒田(あらた)別命」と「阿良都(あらつ)別命」

※:古事記の序文に書かれているように、(新羅の)550年頃から(記紀の)700年頃にかけて、
_:口承による伝承を文字に置き換えています。
_:宇治(菟道)を「うじ」「うち」「ふち」などと表記している例もありました。

※:「魏志倭人伝」などの表記では、音訳と同時に、意訳も含まれていると思っています。
_:「たらし彦」は、「帯・足」などありますが、「帯方」地域の「副官」の意味もあるだろう。

※:倭人(?)の発音のクセと、耳から聞いて文字に起こした人間の耳のクセを考えると、
_:「ぜんぜんだめだめ」→「チェンチェンためため」のような「差異」と、「言葉の短縮」を
_:感じます。
_:別の言い方をすると、百済系の人間や、上海出身の人間の子孫が、漢字の知識をもって、
_:伝承氏族(口)の違いなのか、聴き取り氏族(耳)の違いなのか、表記に違いが現れます。

※:思い出したり、気付いたりしたら、ここの項は、追記(追加)しようと思います。



<天孫降臨における、「五伴緒」・「五部の神」とは何か。>

※:古事記では「五伴緒(いつとものを)」、日本書紀の一書では、「五部の神(いつとものおの神)」と
_:呼ばれています。

:大加耶(高霊伽耶)
:0. 加耶世主正見母主
:1. 加耶阿豉今「悩窒朱日」(内珍朱智・伊珍阿豉・正見母主次子)
:2. 加耶君阿修
:3. 加耶女主?可(阿修妻・金官駕洛主「居登」
:4. 加耶女君美理神
:5. 加耶女君河理

※:大加耶の首長をみると、「1.加耶阿豉今」「2.加耶君阿修」の二人は、男性ですが、
_:残りの首長は、女性です。
_:そうすると、「五伴緒(いつとものを)」とは、おそばにいる「いつ(5人)」の「おとも(伴)」の
_:「を(長:おさ)」と、考えられます。これを意訳すると、五部族の族長という意味になります。
_:神武東征の頃に、部(べ)という組織は、なかった、という主張があります。けれども、
_:神武東征は、軍事侵攻でもありますが、実際には、(女性を伴う)部族単位での移住です。
_:6世紀以降は、部族と支配者の関係が、切れてしまうため、部(べ)と呼んでいますが、
_:2世紀のころは、移住集団とその支配者は、地縁・血縁の集団(伐・閥)として、定住後は、
_:これは、のちに神社の神様と氏子として、その地域ごとに、関係性を保持しています。

※:土地への定住が、落ち着いてからは、土地の名前をつけて、〇〇部・〇〇氏とか〇〇物部とか
_:呼ばれるようになります。古い名前としては、「とも(伴)」になるだろうと思います。

_:一番大きな(古い)集団が、「大伴氏」、ニギハヤヒの子孫が、「物部氏」。
_:別の集団は、「かも氏」。その一部が「大神(おおみわ)」・「安倍氏」。

_:没落した集団は、(阿波)忌部氏。残っている処は、〇〇忌部を名乗っていますが、
_:支配者が変わって、多くは、部(べ)になっていると思われます。

※:「とも」について考えてみました。

  • [42]
  • 弥生時代の倭国と半島との国境意識 一例  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 4月12日(火)07時26分22秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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2022.04.12 中日新聞 東海版 朝刊にて
 博多製の広形銅矛(祭祀用へ変異した時期の物)が、対馬の朝鮮半島側に面した海岸付近から見つかっているとの事。
 銅鐸も多数埋納の場合、国ざかいにて出土している事例が多く、弥生時代の宝器/銅矛・銅鐸は結界を示すもののようです。
対馬の広形銅矛の場合、見つかった銅矛は 対馬の各地神社に奉納されているとの事。


音が出にくくなるまで肥大化・退化した銅鐸、武器の強度を喪失し、肥大化した銅矛/銅剣。 本質を喪失してゆきます。
 古墳時代には出土しない宝器・銅矛/銅鐸。古墳時代の支配者層は 銅矛/銅鐸の文化を否定した。

 その後も繰り返す 本質の喪失。
埴輪・須恵器・鉄製鎧・鉄刀や中世期の山茶碗、古代楽器、そして日本のオーディオ製品、そして日本国平和憲法。







  • [41]
  • 東アジア海洋国家論(その7-2)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月12日(火)00時33分12秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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東アジア海洋国家論(その7-2)


│スレ「邪馬台国畿内説の論拠」より

│[9] 米田さんの仮説は? 投稿者:当世奇妙 投稿日:2021年 5月29日(土)13時47分26秒

│(その2):女系が途絶えた時の、新しい「天祖」の選び方。
│(その3):箸墓の主の再検討。

│2,3についてどのような仮説を立てたのですか?
│投稿内容からは私には分かりませんでしたが?


※:まず、この系図の中に、女系の断絶が、あります。
_:「阿爾兮(あじけい)夫人」こと、高句麗の「東川王」です。
_:(高句麗王で、「川」が付くと「女王」だと考えています。)

※:娘の「光明夫人」に、娘がいないことから、「助賁王」の娘の「命元夫人」の娘が
_:「高句麗の女王」に、選ばれます。「命元夫人」の娘は、二人います。
_:不思議なことに、「倭迹迹稚屋姫命」は、日本書紀に「名前」だけしか残っていません。

※:ここで、自作の系図の人物・役職の紹介をします。
_:まず、「国相」ですが、「濊(丹波を含む)」の首長と考えました。
_:そして、国相明臨於漱(于老角干)を「陰友陰友(倭の将軍)」が殺した、と考えました。

※:高12中川王(光明夫人)が、270年に亡くなると、命元夫人の娘が、
_:次の「高句麗王(女王)」になりました。
_:そこで、命元夫人は、夫(于老角干)を殺された恨みを晴らします。
_:翌年、「国相陰友」は、死んでいますから、命元夫人に殺されたのだろうと思います。
_:そうすると、「国相陰友」の息子は、「国相尚婁」なのですが、その母親は、誰か、ということです。
_:そうすると、「国相尚婁」の母親は、「倭迹迹稚屋姫命」という結論になりました。


<ポスト「卑弥呼」の時代に、箸墓地域に居た「女王(「倭迹迹~姫」)」は、誰だろうか。>


※:去年まで、孝霊天皇=塞曹掾史張政=天日槍=味鄒王、と考えていました。
_:去年、系図の再検討をしていたら、孝霊天皇=塞曹掾史張政=天日槍(兄)と、味鄒王(弟)は、
_:別人だろうと考えるようになりました。

※:そうすると、垂仁天皇3年(274年)に、天日槍が(倭国に)帰って来たわけです。
_:ところが、帰って来て、活躍しているのは、景行天皇(と「伊香色謎命」)になります。

※:「三角縁神獣鏡」を持ち込んだのは、天日槍にすり替わった「景行天皇」だろうと考えます。


│スレ「画像(資料)の倉庫」
│[12] 箸墓古墳では、三角縁神獣鏡は確認されていない。
│投稿者:米田 喜彦 投稿日:2021年12月22日(水)

※:肝心の「箸墓古墳」では、「三角縁神獣鏡」は確認されていません。

※:そうすると、景行天皇(と「伊香色謎命」)の前に、箸墓の地域にいたのは、誰になるか。

※:そうすると、三人の「女王(倭迹迹~姫)」の中で、箸墓の主として
_:一番可能性の高いのは、「倭迹迹稚屋姫命」ということになりました。



  • [40]
  • 東アジア海洋国家論(その7-1)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月12日(火)00時24分49秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
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東アジア海洋国家論(その7-1)


│スレ「邪馬台国畿内説の論拠」より

│[9] 米田さんの仮説は? 投稿者:当世奇妙 投稿日:2021年 5月29日(土)13時47分26秒

│(その2):女系が途絶えた時の、新しい「天祖」の選び方。
(その3):箸墓の主の再検討。

│2,3についてどのような仮説を立てたのですか?
│投稿内容からは私には分かりませんでしたが?

*****

>「どのような仮説を立てたのですか?」

※:(私は、)検証作業としては、「仮説検証法」という方法を使っていると思うのですが、
_:作業の大半は、何が起きているのかを、系図に書きだしてみよう。
_:そして、そこで、何が起きているのかを、系図を見て考えよう。ということです。


(上段の右図):<女系が途切れた時>

※:「女系が途絶えた時」を、「脱解王」の立場で、見ていきます。
_:女系が絶えた時、異母妹の娘「女F」を妻にして、「神武天皇」が生まれています。

※:これを、ルール化すると、だいたい次のようになります。
_:(細かい処は、後継者争いに勝った者(「男王」)しだい。という処もあります。)

│(女系女王のつなぎ方のルール)
│女系が途切れる時には、女王の同母弟である「男弟王」は、(自分が次の「男王」になるために)
│父親の第2夫人の娘か孫娘を、次の「女王」に立てて、その夫として自分が「男王」に即位する。


※:「天祖(女王)」は、天皇の母親や祖母に当たります。日本書紀・神武天皇紀を、読んでみます。

:神武天皇は、15歳で結婚して、吾平津媛とのあいだに、手研耳命が生まれた。
:「天祖C」は、45歳になった時(AD114年)、(自分の)兄たちと子どもたちにこう言った。
:「東に美しい地(くに)がある。・・・。なんとしてもそこへ行き、都としなければならぬ。」
:息子たちも、「早急に実行するのがいいでしょう」と答えた。

:この年、(「天祖C」の)太歳は甲寅(AD114)。←(114-45+1=70:「天祖C」は、70年生。)

※:このように、読んでくると、神武天皇は、115年頃に生まれているので、
_:神武天皇の話をしているようには、見えません。

※:114年というと、高句麗は、「太祖大王」の時代です。(神武天皇は、高句麗の「新大王」です。)

※:私の仮説は、何でしょうか。
_:系図を作って、主語(主人公)を変えるだけで、文章を素直に読むと、文章が読めるようになる。
_:つまり「(仮説):日本書紀は、主語(主人公)を変えると、文意が通じるようになる。」

http://


  • [39]
  • 東アジア海洋国家論(その6)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月11日(月)22時04分39秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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東アジア海洋国家論(その6)

※:ここまででの、系図の修正・訂正とまとめです。


  • [38]
  • 昭和は ポツダム受諾で前後区分

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 4月10日(日)21時44分44秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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昭和という時代は 裕仁氏の時代 昭和期の唯一の天皇職を担当。

憲法は大日本帝国憲法と戦後の日本国憲法、主権が違う。
裕仁氏 戦前は神格を有し、戦後は 人間。

 古墳時代も古墳という表皮を共通にしながら、前期古墳と後期古墳は 葬送儀礼が違う。
 前期古墳は 支配者の生き返りを拒む、墓は封印が目的。
 後期古墳は 先代の支配者の亡骸へ 会いに行ける。

氏もしくは お家(家長の連続性)の存続が視覚化された後期古墳時代と 前期古墳時代では 支配者の交代の仕方が違う。
後期古墳時代以降に 半島的 氏族の存続、名の存続が重要視されてゆく。


  • [37]
  • 東アジア海洋国家論(その5)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月10日(日)09時22分9秒
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東アジア海洋国家論(その5)

│「米田の系図を議論するスレ」より
│[13] 系譜に現れる「同名者」をどう考えるべきか? 投稿者:石見介 投稿日:2021年 5月 9日(日)

│偶々、米田喜彦さんが、新羅王の系譜を、アップされたので、以前から、気になっていた、
│半島諸王国の「同名者」について、米田さんのご見解を伺いたく思います。

│3代儒理と14代儒礼、或いは、2代南解次々雄の「南解」と10代「奈解」。人名は所詮当て字であり、
│非漢民族の言語、この場合は、韓族もしくは、先住の倭種の人名の「音写」に過ぎません。
│漢字の使い分けがあっても、原音(非漢民族言語の音価)は、同一である可能性が高い。

│最初に挙げた、「儒理」「儒礼」については、以前から、韓国朝鮮語などでの「次王」を意味する
│語彙だとの説はあり、固有名詞ではない、という見解があります。

│この場合、高句麗の2代王とされる「類利」「瑠璃」も、同義だと考えられています。
│実在の王の「諱」というか本名が失われたため、史書でやむなく「次王」として、
│しかも、漢字を変えて、異なる王名のように思わせる細工をしたのか?

│「南解」と「奈解」については、実は、私が「脱解」は倭人である以上、その名は、倭人語の
│音写と考えるべきとして、「たか」(高い、鷹の語義)と読んだことが前提になっています。

│その結果「解」字は、倭語の「か」の音価と考え、初期朴氏と、昔氏は、倭人出自の王家と考える為、
│「南解」「奈解」とも「なか」(「中」?)のような古代日本語の音写と考えた事に拠ります。
│ただし、韓国朝鮮語の古形が不明で、これらの文字の一見韓国朝鮮語風の音価を宛てた「読み」が、
│正しい保証が全くない、という「事実」は踏まえています。

│「解」を「ヘ」hεと読ませ、上代日本語の「日」fi1(ヒ甲類)と同源とする解釈は、
│「解慕漱」「解夫婁」の「解」が、一見根拠になりそうで、実は『三國遺事』の成立年代が、
│「何時か?」を考えると、全く当てにならない。

│この辺りの「王名」あるいは「人名」についての、
│米田さんのご見解を、一度伺っておきたいのですが・・・。


※:『三国史記』の基になる「歴史書」が、いつ頃作られたかを『三国史記』で、調べて見ます。

_:まず「新羅本記」です。『三国史記・列伝』の「居柒夫」の項。
_:真興大王6年乙丑(554)に、朝廷の命令をうけた〔居柒夫は、〕多くの文士を集めて撰修し、云々。

_:次は、「高句麗本記」です。600年、〔王は〕大学博士の李文真に命じて、古い歴史書を簡略にして、
_:『新集』五巻を編纂させた。〔高句麗では〕
_:建国後間もなく文字を使いはじめたときに、ある人が〔種々の〕事柄を、百巻も書き記した。
_:〔その書物を〕名づけて『留記』という。このときになって、〔『留記』を〕整理・編集した。

※:そうすると、「解」は、「解氏(昔氏)」のことと、考えて良いと思っています。楽浪郡等の設置で、
_:(BC108年以降、)半島から倭国にかけて、(名ばかりでも)「解氏」が、支配していたと思います。

_:そこに、匈奴系の「張氏/金氏」が入り込んで来たり、半島南部&倭国在地勢力系の「蘇/朴」が
_:独立しようとしたり、古朝鮮・支配者系の「于氏(朱蒙・脱解・昔氏)」が、南下してきたり。

_:そんなことを考えています。
_:ですので、「②南解次次雄」は、「南(倭国)」、「解(解氏)」、「次次雄(次の支配者)」、
_:だろうと考えています。

※:「3代儒理」と「14代儒礼」は、史書をまとめるときに、混乱の時代は「この人」にしておこう、
_:みたいな、(6世紀頃の編纂者の)意図は感じます。

PS:『留記』は、その数の多さから見て、楽浪郡など(の郡治)の記録だろうと、想像しています。


  • [36]
  • 緑色石製品 と 金コレクション

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 4月10日(日)08時49分40秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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日本の場合、縄文時代から長期にわたる嗜好品は緑色石製品。 倭も中南米の古代国家も緑色志向。 (共通項目は鉄製品の未普及)

 4世紀末より 須恵器・馬具装飾等の金製品・衣装への金製品・身体への金製品が いきなり採用される。
 人の移住が起因。
金は資産。  緑色石製品は宝器であり資産に非ず。宝器の意味を失うと捨てられる。
捨てられたのは 緑色の石とそれを信仰する宗教、そして祭祀者。

古墳時代後期の支配者層は 他国で学んだ徒民政策を実施する。




  • [35]
  • Re: 修正 江上波夫説 馬が来た時期と 扶余族が伸長した時期

  • 投稿者:石見介
  • 投稿日:2022年 4月10日(日)00時22分54秒
  • flh2-133-206-98-96.osk.mesh.ad.jp
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 米田喜彦さんの系譜復元の成果の内、特に「父系氏族社会」が成立しない、扶余、高句麗、百済、新羅、倭国の、王や重臣が、入れ替わったり、性転換が異常に多い事、その他、遺伝人類学の所見との矛盾などがあるので、コメントは控えていましたが、直接、私説への言及があるので、レスします。

>>31
> 石見介説【 古墳時代開始期前後の、大量の人と馬の同時期の列島への移入の証明が必要でしょう。
> 少なくとも、当時の航海能力で、それが「可能だった」事ぐらいは、証明される必要があるが、
> 騎馬民族征服王朝説の支持者は、それに成功しなかったと、私は判断しています。 】
>
> 4世紀 馬は少数でも渡来。
> 5世紀 移民増加
> 6世紀 牧場成立 多数繁殖
> 7世紀 百済系文化の人々が政治的地位向上
> 8世紀 桓武天皇 焚書行為

 上記経過は、一応、受容可能です。
 特に、初期、「騎馬民族」ではなく、「馬海部」の人が来た、という私の主張とは、特に矛盾がありませんから。

> 石見介さんの勘違い 古墳時代前期と後期が 未区分。

 「人」特に、扶余系騎馬民族と半島倭種の大量亡命の観点と、「馬」の問題、繁殖その他と、文化の借用の問題を、総合的に検討すべき。
 私も不足していたと思うが、いつかコウヘイさんは、まだ、検討していないか、大幅に不足していると思える。

> 馬が倭にもたらされるのは 古墳時代後期以降。 いきなり 金色を支配者は好む。

 明治時代、征服されてもいないし、西洋人の大々的移民が無いのにもかかわらず、いきなり衣服を始め、文化的趣味が、一変した。
 同様に、騎馬民族が来なくとも、その文化的影響は、大きく受ける事は、十分ある。
 まして、大量の半島倭種の亡命者を迎えたのだから。

http://「


  • [34]
  • 東アジア海洋国家論(その4)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月 9日(土)14時27分15秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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東アジア海洋国家論(その4)

「瑠璃明王の娘」=「(加耶世主の)正見母主」=「イザナミ」。
「温祚王の息子」=「(阿波忌部氏)天背男命」=「イザナキ」。(二人は、異父同母兄弟)


※:今回(2022年4月)、東アジア海洋国家論(その3)において、
_:「イザナキ・イザナミ」から「天孫降臨」に至る「系図」を発表しました。

※:実を云うと、「(阿波)忌部氏」の系図と合体させる系図を作ろうとして、(約20年間、)
_:今まで、ことごとく、失敗してきました。(今回、初めて、成功しました!!!)
_:今までは、系図を作るたびに、系図の中で「中臣氏の先祖」が1世代ズレてしまったのです。
_:成功したといっているのは、実現可能である、ということで、完全に解明したわけではありません。

※:系図の改善点を紹介します。

(その1):高句麗本記の「羽氏に、AD5年、王女を妻(めあわ)せた。」の解釈を変更した。
(その2):天背男命の娘の「天羽羽命」の系図を変更した。

※:『古代豪族系図集覧』に、「(阿波)忌部氏」の系図があります。
_:その中の「天背男命」が、(一書)「イザナキ」なのです。
_:(自作の系図が正しいとして、話を進めますが、)
_:この「(阿波)忌部氏」の系図は、ものすごく、クレイジーなのです。どのくらい凄いか。

※:まず、「天太玉命(スサノオ)」と「天富命(事代主命)」は、祖父と孫の関係ですが、
_:このふたりとも、「天背男命」の娘を妻にしています。

※:また、夫婦同名に近いと考えて、「許登能麻遅媛命」の夫を「居々登魂命」としますと、
_:この「居々登魂命」は、「天御中主命」の「8世の孫」です。
_:「天富命(事代主命)」は、伝承では、神武東征に参加しています。
_:その神武東征に、(風土記では)「天御中主命」の「12世の孫」が出てきて、活躍します。


※:その、「(阿波)忌部氏」の系図を、(連れ子の実子扱いを含めて、)正しいとして、
_:正しいとしたら、どんな系図が「復元」出来るだろうか。というのが、私の作業でした。
_:私が、自称「系図解読・復元マニア」を名乗っているのは、この命題をいじっているからです。

(上段):(バグだらけの図です。  作図:2022-04-09)
(中段):(後日、修正した図を投稿します。)
(下段):(上段の図を修正しました。作図:2022-04-09、Ver:2022-04-11)

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  • [33]
  • 製鉄ができる時期 馬が来た時期

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 4月 7日(木)12時23分12秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
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 馬が来た時期4世紀以降。 製鉄ができのるようになった時期 6世紀後葉以降。
須恵器も4世紀末。石室構造も変化。
 近畿の政権が 支配領域を拡大できたのは、まず馬を用いた運搬(軍馬)
平行して 北部九州の鍛冶精錬による鉄の確保、半島航路の入手。
 律令政権の資本力は 製鉄技術者の確保がベース。

律令以前の政権 焚書体質の支配者層。 彼ら古墳時代の支配者層は 支配領域の先住倭人を徒民政策で 根なし草にして 様々な言語が入り乱れて 倭人からの文字の発明を阻害。

 スサノオは ベータ群支配者(古墳時代後期の支配者層)が創作した 神様。モデルはいたと想定、
 アマテラス も同様にベータ群支配者層が創作した神様。

 ソシモリは つぎのアルファ群文官の子孫が立身出世して 日本書紀に紛れ込ませ。
古墳時代後期 須恵器のルーツとして 伽耶と新羅。
熊本や吉備には 高句麗系の横穴式石室構造の古墳が存在。天井板 持ち送り。

アルファ群は 一系統ではないようです。

 ヒミコ期248年以前の日本、 日本は原始時代。
当初 温暖期 甕棺の供給をできる資本は有ったが 気候変動の中で 北部九州の弥生遺跡 資本力低下、甕棺供給できなくなる。 あい戦う過程で 北部九州の影響力低下。
自然災害はランダムな為、キビやサヌキが 倭国連合のリーダ格。この時 奈良盆地いまだ自然災害の復旧途上。



  • [32]
  • 東アジア海洋国家論(その3)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月 7日(木)10時51分9秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
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「スサノオ」の追放(移動)と、スサノオの系図


│「曽尸茂梨(そしもり)」の解説_出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

│古代朝鮮、新羅(しらぎ)の地名。『日本書紀』第四の一書に、高天原(たかまがはら)追放後、
│素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天降(くだ)った土地とある。
│曽は金の朝鮮古音(そい)の音借字、尸は連辞(格助詞ノ)、茂梨は山(鷲益嶺(すりもり)――
│黄海道鳳山(こうかいどうほうさん))。
│すなわち金の山、輝く山の意。神降臨にふさわしい聖所である。
│皇孫が降臨する高千穂(たかちほ)の添山(そほりのやま)(一書六)の「添」も、
│金の梵(ぼん)称スバルナの漢訳「蘇伐羅(すばるな)」に由来をもつ語であり、
│添山は曽尸茂梨と同意である。
│神降臨の地に韓名をもつのは、わが国の垂直降臨伝承と韓土との関連を示唆する。  [吉井 巖]


「高天原(たかまのはら)」は、どこにある。

「スサノオは、天から追放され、新羅の「そしもり」に居た。」
この「天」とは、「高天原(たかまのはら)」のことである。


『高天原』(ウィキペディアより)

:日本各地の高天原___(以下、省略)
:日本国外の高天原
:・大韓民国慶尚北道高霊郡
: 高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、
: 第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。

********************

『日本書紀』 卷第一 第八段 一書第四が考える「天」について

※:この一書が想定する「天」は、大韓民国慶尚北道高霊郡、
_:つまり、「大伽耶国」だろうと(米田は、)考えます。


『伽耶(かや)』(ウィキペディアより)

:大加羅
:金官国もまた大加羅(大駕洛)と称されていたように、大加羅の表現そのものは固有名詞ではなく、
:加羅諸国の中での特に有力なものへの尊称であったと見られている。金官国に代わって台頭してきた
:伴跛(慶尚北道高霊郡)が、一般的には大加羅を指すものと考えられている。
:『新増東国輿地勝覧』に引く『釈利貞伝』には、高霊郡の背後にある伽倻山の神である正見母主と
:天神『夷ヒ訶之』とから生まれた兄『伊珍阿豉』(悩窒朱日・内珍朱智)が大加羅の始祖、
:弟『悩窒青裔』(首露王)が金官国の始祖であるとしており、新興の大加羅が
:それまでの盟主であった金官国を越えようとする意識が反映されてできた伝承だと考えられている。

:大加耶(高霊伽耶)
:0. 加耶世主正見母主
:1. 加耶阿豉今(伊珍阿豉・正見母主次子)←:弟『悩窒青裔』(首露王) (訂正)(あ(こ)屋根命
:2. 加耶君阿修
:3. 加耶女主ヒ可(阿修妻・金官駕洛主「居登」妹)       ←:「居登」=「許登能麻遅媛命」
:4. 加耶女君美理神
:5. 加耶女君河理

※:「正見母主」を「天照大神A」とした時、「スサノオ」は、「金首露王」の父になります。


***********************************
※:私は、系図解読・復元マニアです。
_:ですので:手持ちの資料から、夫婦そろった「系図が作れるか」どうかです。
_:仮説は、下記の条件を満たすとき、「系図から古代の婚姻関係が明らかになるだろう。」です。

(その1):「天背男命」は、「いざなき」である。(日本書紀一書)
(その2):『古代豪族系図集覧』より、「許登能麻遅媛命」は、「天児屋根命」の母である。
(その3):加耶阿豉今=首露王、とすると、AD42年生である。
(その4):大加耶(高霊伽耶)の「正見母主」から「河理」までの続柄は、正しい。

***********************************
※:ざっと作った系図は、こんな感じになります。
_:ここまでで、大事なことは、続柄から「系図にすることが出来る」です。
_:少なくとも、ここまでの処においては、系図が作れないほどの、でたらめさはない、ということです。


─0加耶世主正見母主───①阿豉今(天児屋根命)──②阿修──┐─〇

___┌─────────────────────③ヒ可──┴─〇(おそらく、④美理神だろう)
─〇─┤
___├─許登能麻遅媛命─┐
____居々登魂命───┴─天児屋根命────┬─〇(おそらく、天押雲命だろう)

___└───────────天万栲幡千幡姫命─┘



※:出来上がった系図を見て、分かることは。

(その1)
:天日鷲命(脱解王)は、倭国の東北一千里のところにある「多婆那国」で誕生しています。
:この「多婆那国」は、「出雲国」か「丹波国」と思われますので、
:「天照大神B」は、「多婆那国」で、「脱解王」を生んだことになります。

(その2):「天照大神」は、母と娘で、一人の人格扱いにしています。

※:これは、「死と再生」というか、新しい女王(女主/女君)の誕生(継承)の儀式だろうと思います。
_:と、同時に、日本書紀のごまかしのテクニックのひとつとして、
_:親と子を(合体させたり、ずらしたりして)一人にしているだろうと考えています。

※:景行天皇は、本当は、日本武尊(倭武天皇)だったのを変更した。
_:応神天皇は、本当は、若野毛二俣王(380年生)だった。
_:敏達天皇(539年生)から用明天皇(551年生)は、生まれない事から、539年生が用明天皇だった。
_:皇極天皇と斉明天皇は、母娘だった。
_:日子座王は、架空の人物(存在)で、実際には、祟神天皇と同一人物だった。

(その3)
:系図を成立させるために、いろいろと作図上、無理をしています。
:「連れ子の実子扱い」、「夫婦同名」、さらに、世代的には、ひ孫の世代の女性をも、妻にしています。

(その4):「掾那部」について
:帯素の従兄弟が掾那部にいます。(下図は、想像図です。スサノオは、子か孫だろうと思います。)

─〇─┬─金蛙──帯素
___└─〇───〇(掾那部に属す)──天太玉命(スサノオ)──首露王(大国主命:AD42年生)


※:玄菟郡の太守の王頎は、毌丘倹の下で、将軍として参加しています。掾那部の金氏も
_:当然王頎に従って、南下してきます。王頎が帯方郡太守になった時には、塞曹掾史張政として
_:倭国に使者として行っています。その後、王頎は、西晋の武帝の時に、汝南太守を務めています。
_:ですので、「張氏」も「金氏」と同族だろうと考えます。

※:話が少しそれましたが、「スサノオ」の話に、「馬」が出て来ます。
_:ですので、「スサノオ」は、出雲(「多婆那国」)に来るときに、「馬」も連れて来たと、
_:考えます。(数は、少ないと思いますが、1世紀の話になると思います。)
_:出雲や多婆那国は、「倭国」ではなくて、「濊」に属していたと考えます。

(上段):(バグ)阿豉今を首露王にしていました。
(下段):(修正)阿豉今を天児屋根命に修正しました。(2022-04-11)

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  • [31]
  • 修正 江上波夫説 馬が来た時期と 扶余族が伸長した時期

  • 投稿者:いつかコウヘイ。  
  • 投稿日:2022年 4月 5日(火)22時14分2秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
石見介説【 古墳時代開始期前後の、大量の人と馬の同時期の列島への移入の証明が必要でしょう。
少なくとも、当時の航海能力で、それが「可能だった」事ぐらいは、証明される必要があるが、
騎馬民族征服王朝説の支持者は、それに成功しなかったと、私は判断しています。 】

4世紀 馬は少数でも渡来。
5世紀 移民増加
6世紀 牧場成立 多数繁殖
7世紀 百済系文化の人々が政治的地位向上
8世紀 桓武天皇 焚書行為

石見介さんの勘違い 古墳時代前期と後期が 未区分。
馬が倭にもたらされるのは 古墳時代後期以降。 いきなり 金色を支配者は好む。

  • [30]
  • 東アジア海洋国家論(その0:転載)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月 4日(月)15時52分16秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
東アジア海洋国家論(その0:転載)

(スレ“日本中世史に於ける対外交流と「偽使」”より、「転載」)
([31] 米田説への部分的価値  投稿者:いつかコウヘイ 投稿日:2021年11月 8日(月))

[34] Re: 米田説への部分的価値  投稿者:石見介  投稿日:2021年11月10日(水)23時18分0秒

>>31

> 米田式系図 男女が入れ替わり、多分 記紀や後世の残存書籍の中で 系図からは男系で
 記されていても、ハプシェプトと同じく男装の女王や、斉明のように明らかに
 家長権を振り回して意味不明の構築物を作らせる 家長としての女性がいた。
 その隠匿が上手く いっていない点を米田式説に見いだせると 思っています。
> 米田氏はここに才覚が有ると見ています。


米田さんとは、他トピでも意見交換し、ほぼ、お互いの意見は、理解していると思われます。
私は、平安時代以降の、特に武家貴族などの系譜研究の成果を受けて、
米田さんの系譜復元の、個々の手法は、あり得るとして受容します。
私も、中世中心に、下記の現象を、確認しています。
 ①養子の実子扱い、連れ子・娘婿の同様の実子扱い、
 ②夫婦同名(正確には、夫婦同一呼称)
 ③直系親族間の同一呼称、特に家督相続者。この場合、兄弟や傍系親族でも共有される(時期は異なる)
 ④同一父系親族集団内での同一の呼称

従って、上記の方法論で、古代の系図復元を試みるのは、
「頻度の問題」を考慮に入れて行われるのであれば、問題は少ない。
それと、「氏」の時代と「家」の時代、その経過時期、という観点も必要。

最後に、当時の交通事情を考え、扶余、高句麗、百済、新羅等、大陸、半島諸国の国王や王族、
重臣と、日本のそれらが自在に入れ替わったり、兼併したりする事への違和感。
夫婦同名を根拠に、安易に史書記載の大王の性転換をさせるのは、ぞっとしませんが、
少数であれば、受容可能です。

しかし、それが「常態化」し、何処の史書の記載にもない「多夫多妻制」が主張され、
父系氏族社会が、成立し得ない系図復元では、私には、受容不可能です。
個人的には、④の事例が、殆どないように見えるので、それも不満ですが。

> 古墳時代後期から信長・秀吉・家康までは、家長権を取得した人は 兄弟、オジ、オバや
 配下の者を殺害しても 罪には問われない、法規超越権を 家長は獲得できる。
 当然 男女は問わなかった時期が長いが 室町に入り、女性の月々の血を不潔とみなす
 武士階級が伸長し、女性の地位が低下した。


通常の権力闘争における、競合者の排除と考えて、特に問題はないと、私には、思えますが?

>  安楽城説 奴隷制許容/家父長制。 私は 真実だと考えています。


「家」の時代に入る前の「氏の時代」に、家父長権の存在は、言い過ぎだし、
女性の地位低下が生ずる前の時期の「家長権」を、「家父長制」で一括するのも疑問。

> 米田シンメトリー説 時期・場所が異なれば 該当者も別人、源義経が渡海した証明が必要のように、
 扶余のダレソレが渡海したという証明が必要。
> 石見説では
 【騎馬民族説も成立は無理でしょう。馬が渡れないのに、騎馬民族が、大挙、渡海できる筈もない。】
> 古墳時代に入って 馬が渡海しているという事実への無視(石見説)は 理解不能。


これは、私が舌足らずでした。
お詫びします。
騎馬民族征服王朝説が成立するためには、単に、「古墳時代に、列島に馬がいた」という
「事実」だけでは、不十分であり、「ヒト(騎馬民族)と馬」の「同時、大量の渡海」が、
必要だ、という意味だったのですが、ヒトは兎も角、馬が大量渡海した形跡や、
その運搬能力が存在した可能性は少ない、と言う意味です。


> 石見氏は なぜ古墳時代に馬が倭国にいるのか 否定した以上は 説明すべき。


上記、古墳時代に「馬がいない」のではなく、「馬の大量渡海」の否定が、真意でした。
半島から、種牡馬と繁殖用牝馬を、少数輸入し、各地の「牧」で、飼育繁殖させても、
それは、騎馬民族征服王朝説の証拠たりえない。

古墳時代開始期前後の、大量の人と馬の同時期の列島への移入の証明が必要でしょう。
少なくとも、当時の航海能力で、それが「可能だった」事ぐらいは、証明される必要があるが、
騎馬民族征服王朝説の支持者は、それに成功しなかったと、私は判断しています。


> 同じく 石見氏は 熊本・向野田古墳の被葬者が女性であるにもかかわらず、
 男系支配者中心史観から離脱できないのか なぜ 事実を無視できるのか 説明が必要。

父系制氏族社会でも、女性の地位が、必ず低いわけではない事は、常識の範疇だと思いますが?
男系中心云々は、中国史書の習俗記事に拠ります。
勿論、日本の記紀等の史書の記載もありますが、信頼性に欠けるとされる立場にある人には、説得力は
ないから、文化人類学、特に社会人類学分野からの知見や、中国等の史書を根拠とするしかない。

『魏志倭人伝』の習俗記事の中に、刑罰の連座規定がありますが、その中に、「宗族」という言葉が、
注釈なしに使用されている。

中国の史書の対象読者は、近現代日本人ではなく、当時の中国人官僚等の読書人であり、そこで
「宗族」という言葉は、中国の当時の父系制氏族社会の「宗族制」の概念で、解釈されるべきです。
氏族の始祖を祭る「宗廟」を守る「宗家」とその分枝の「支」族から成る。

皇帝や皇族の妻や娘は、地位が高い。皇帝没後、幼帝の場合、皇太后(同姓不婚なので、他氏出身)が、
しばしば「垂簾政治」を行い、実家の外戚が、時に皇位を、簒奪する。

同じく、父系氏族外婚制を採る匈奴やモンゴル帝国では、単于や大汗死後、クリルタイなどで、
後任の単于や大汗が決定するまで、故人の妻たる匈奴の閼氏やモンゴルの監国皇后が、代行し、
大きな権限を振るう。
当然、彼女たちは、夫と異なった父系出自血縁集団=氏族の出身者だが、単于や大汗にはなれない。

半島の新羅や日本では、父系出自血縁集団=父系氏族が、王位を独占するが、外婚制ではなく、
王族内での近親婚を含む同族内婚姻が許され、また、女王も認められる。
新羅の王家、慶州金氏では、二人の女王が存在した。


> 古墳時代後期・古代・中世 何度も似たような 出来事 (親族殺し・強制移民政策)が
 繰り返されるのは 社会システムが 家父長制だったから。


権力闘争で、ある地位の有資格者が、「氏」「家」の成員のように、限定されている場合、
同族は、互いに競合者となり、その支援者は、多くその母方親族や妻の実家の様な、
他氏、他家の者に頼らざるを得ない。

敵対する同氏族、同じ大家族の成員は、排除されるが、相手の母系や妻の親族や部下などは、
競合者ではないから、利害によっては、助命、登用もする。
戦国時代のように、「家」の範囲が、概念的に拡大し、血縁集団よりも、利益共同体としての
性格が強くなると、本来の「家」の成員すら、重臣以下の利害に従わざるを得なくなり、
遂には、御家の「存続」の為には、血筋さえ無視される。
そのような、経時的な変化を見ず、実証性を欠く、イデオロギー優先の史観は、問題がある。


> 蛇足 21世紀 北の半島支配者の支配システムも  家父長制奴隷制。



「共産主義社会」に至らずとも、前段階の「社会主義社会」というのが、自称であり、
また、同じ社会主義や共産主義社会を目指す国々の、定義でしょう。
共産主義社会に至る前段階の、社会主義社会では、未だ、階級闘争は不可避で、「階級の敵」が存在する。
実際には、国家統治の便宜上、「敵」が必要なので、核心階層、動揺階層、の他に、
「敵対階層」を設定し、これに弾圧を加え、実際には、奴隷として扱う。


>  偽使 隋の時代 倭・WAは 二つ、違う衣装。


無理でしょう。ただし、私は、複数王制を想定もしているので、九州北部に大和に従属するような、
下位の王権が存在する可能性までは、否定するものではない。


>   室町   明は当初 後醍醐天皇の子供を正当と見て 日本国王としている。


明は、実利として、倭寇禁圧を期待した。
倭寇根拠地の九州を、当初は、征西府が、優位に支配していたから。
琉球には、わざわざ、招諭使を派遣し、狭い沖縄島に、「三山」という「三つの王権」を認めた。
北方のアルタン汗が、朝貢を希望したが、コストが気にかかり、拒否し、アルタン汗の侵攻、
略奪に屈し、「順義王」だったかに冊封し、交易を許した。

「史書」に書く、中国の「建前」の記載を、鵜呑みにするのは、不可。





  • [29]
  • 東アジア海洋国家論(その2)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月 4日(月)15時49分14秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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東アジア海洋国家論(その2)

<「辰国」について>

※:私は、1~2世紀の「高句麗」という国の領域を、高句麗県(玄菟郡)+楽浪郡+三韓、と
_:みています。これは、「高句麗」が、強くて、領域が広がったということではありません。
_:弱い朱蒙&朱蒙の息子たちが、高句麗県(玄菟郡・夫余)に居られなくなったため、
_:朱蒙の子孫が、新天地を求めて、朝鮮半島全域に、浸透していった。と、みています。


│<ウィキペディア>より、「烏孫(うそん)」
│江都公主(こうとこうしゅ)が死ぬと、漢はふたたび「楚王劉戊の孫の解憂」を公主とし、云々。
│「烏孫公主(解憂)」は上書し、云々。甘露3年(前51年)、元貴靡や鴟靡がみな病死したので、云々。
│公主は3人の孫とともに漢に帰国し、田宅と奴婢を賜った。公主はその2年後に亡くなった。

┌─劉邦(前漢の高祖:BC256年頃生・BC195年頃没)
┤                      (BC49年頃没)
│(異母弟)(呉楚七国の乱:BC154年)     (解憂)   (3人の孫)
└─劉交─┬─〇──楚王劉戊(劉交の孫)──女──烏孫公主──○──〇─‥─〇─〇(許黄玉か?)
_ (楚王) │        (りゅうぼ)
_____└────‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥─〇─(┬─○─‥)‥─劉茂(楽浪太守)
_______                                    (└─○─‥)‥─劉夏(帯方太守)

※:また、「烏孫公主」ですが、彼女は、
(その1):夫余を支配していた「解氏」の一族と思われること。
(その2):「烏孫公主」の父(近親者)と思われる人物が、扶余の「檀君」になっていること。
(その3):「烏孫公主」の名前が、「解憂」である事と、高句麗「慕本王」の名前が「解憂」である事。
(その4):漢に帰国し、田宅と奴婢を賜った。とあるが、「馬韓(三韓)」の地を賜ったと考える。
(その5):公主は3人の孫とともに漢に帰国し、とあるが、帰国した孫は、「孫娘」だろうと考えた。
(その6):その結果、「烏孫公主」の女系の子孫が、代々、「三韓の地」を所有した。(推測)
(その7):結果的に、妻(女王)が「辰国(土地)」を所有し、夫(男王)が、「辰国王」を名乗った。


※:「大武神王」がAD4年生で、「好童」の子どもがAD33年生と考えると、子どもの生年から
_:考えると、「③大武神王」と「⑤慕本王(解憂)」は、女性であるという結論になりました。


※:『古代豪族系図集覧』のイザナキ(天背男命)の子どもたち(6人)を、図のように考えました。
_:「許登能麻遅媛命」は、イザナキ(天背男命)の子というよりも、イザナミの連れ子としました。
_:同様に、「天万栲幡千幡姫命」も、「連れ子の実子扱い」と考えました。


  • [28]
  • 東アジア海洋国家論(その1)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月 4日(月)15時38分11秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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東アジア海洋国家論(その1)


│『港市国家(こうしこっか)』(ウィキペディアより)
│港市国家は、近代以前の東南アジアにおいて出現した、港市が中心となって周辺海域を支配し、
│領域や人民よりも交易のネットワークに基盤を置く国家である。
│陸上交通(英語版)に困難さをともなう地域においては特に、海上交通の要所に貿易港と
│集散地(英語版)を兼ねた港市が形成され、そのなかでも外部の文明とのつながりの強い
│港市が中心となって周辺海域を支配する港市国家が成立した。
│「港市国家」の用語は、当初、和田久徳がマラッカ王国について構想した概念であったが、
│今日では交易中心の国家全般を指すようになっている。

│概要

│港市国家とは、19世紀までに形成された東南アジアの伝統的国家に関する
│ひとつの国家類型であり、以下のような特徴をもつ。

│河川の河口部に形成される港市すなわち経済の中心と、王都の所在地すなわち政治の中心とが
│同一地点にあるか近距離にあって、両者が密接な連関を有する。
│農業をはじめとする地域の生業が交易の内容と深い関係を有し、両者が共存・共生の関係にある。
│港市の所在地が同時に文化の中心でもある。
│換言すれば、港市国家とは、典型的な交易中心型の国家である。


※:『港市国家(こうしこっか)』という言葉(単語)は、今回、初めて知りました。
_:私の考える「港湾都市国家」は、紀元1~2世紀の日本を考えています。
_:
_:『港市国家(こうしこっか)』という概念が、紀元1~2世紀の日本に、どこまで通用するか
_:(似ているか)分かりませんので、『港市国家(こうしこっか)』という言葉は、使いません。

<系図・婚姻から見た、港湾都市国家のあり方>

※:通商の「船長」を「夫」と考えると、港湾の有力者の娘が「妻」になります。
_:港湾は、有力者(父)とその息子が、管理しています。

※:船長夫婦の子どもの内、男子は船乗りになるでしょう。女子は、港湾都市に残って
_:15~20年後の、次にやって来る「船長(夫)」の「妻」になることが、約束されています。

※:これが、私の考える、「女系の系図」の基本的なパターンです。
_:つまり、港湾の有力者の娘が「妻」は、「女王(国造)」。(土地の所有者です。)
_:船長は、「大王(男王)」で、おもに、軍事と外交を担当します。
_:港湾の有力者の息子は、「男弟王」で、おもに、内政を担当します。



  • [27]
  • 保管用 チェック

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月 1日(金)22時43分50秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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2022-04-01

  • [26]
  • 『和船』(読み)わせん(後半)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月23日(水)12時35分48秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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『和船』(読み)わせん__日本大百科全書(ニッポニカ)「和船」の解説_(後半)


桃山・江戸時代目次を見る
朱印船
先に室町時代に確立した構造船には中国の影響がみられないと述べたが、これは後期倭寇(わこう)の
基地化した松浦地方(長崎県)を別にしての話である。この地方の中国技術導入が朱印船貿易時代を
迎えて開花し、17世紀初半の荒木船(あらきぶね)、末次船(すえつぐぶね)、末吉船(すえよしぶね)
などに代表される日本前(まえ)とよばれた大型航洋ジャンクを完成したものと思われる。
この日本前は合の子船(あいのこぶね)(東西技術の折衷の意)を意味するミスツイス造りともいわれ、
船体は中国式を基本にして船尾や舵に西洋の典型的な航洋船であるガレオン船の構造を交え、
船首楼や船尾楼は和洋折衷、帆装が中洋折衷というように、中国式ジャンクにガレオン船の技術を
広範に取り入れたものであった。大きさは400~500トン程度からそれ以上の大船もあり、航洋性でも
帆走性でも中国式ジャンクを凌駕(りょうが)し、ガレオン船の域に迫るものがあったと思われる。
しかし鎖国政策で不必要になって建造は停止され、
せっかくの航洋船技術も、その後の和船技術のうえに生かされずに終わってしまった。

[石井謙治]

近世的廻船の完成
近世初期の商品流通は比較的狭い領域的なものだったため、造船技術も閉鎖的であり、
それぞれの地方の風土的条件のもとに独自の技術を保っていた。それは
基本的には準構造船から構造船への移行を遂げながら、その地方の海況に応じた凌波(りょうは)性、
漕櫓(そうろ)性、帆走性あるいは使用材料の制約といった諸条件を満たすものであった。
したがって当時の主流が室町時代に確立した瀬戸内中心の構造船技術であっても、
北国地方のように瀬戸内や太平洋岸との技術的交流の少ない地方では、
伝統的な技術を生かした特徴的な船をつくっていたのである。
当時、各地方で主流的役割を果たしていた大型廻船(かいせん)をあげてみると、
瀬戸内・九州方面の二形船・弁才船(べざいせん)・あだて、伊勢・東海地方の伊勢船・二形船、
北国地方の羽賀瀬船・間瀬船(まぜぶね)・北国船・組船、琵琶(びわ)湖の丸子船などがあり、
いずれも四角帆1枚の古典的帆装のため、順風を得ないときは帆を降ろして櫓で推進するという
中世的廻船の域を脱しないものであった。

 ところが、寛文(かんぶん)期(1661~73)ごろの全国的海運網の整備に対応して、
瀬戸内や九州の弁才船は四角帆1枚ながら船型、帆装などに改良を加えて帆走性能を向上させ、
ある程度の逆風帆走も可能な帆走専用の近世的廻船に脱皮するに至った。これにより
18世紀以後は航海日数の短縮化を実現すると同時に、乗組員を4割がた減じるなど、
著しい経済性の向上を実現し、たちまち在来の諸船型を圧倒して廻船の主座につく結果になった。

 このように近世的廻船の典型となった弁才船は、木割(きわり)術の普及と使用木材の広域流通の
影響もあって、全国的に流布し、至る所で建造されるようになった。
たとえば、菱垣(ひがき)廻船や樽(たる)廻船もこの弁才船(べざいせん)だったし、
日本海の北前船(きたまえぶね)も18世紀以降は羽賀瀬船や北国船にかわって弁才船化していった。

 その特徴は、船底材の先端に棒状の船首材、後端には幅広い戸立てをつけ、これに加敷(かじき)、
中枻(なかだな)、上(うわ)枻という3段の外板と多数の船梁を組み合わせて構成する板船構造で、
これが、西洋型船のように竜骨と肋骨(ろっこつ)で骨組をつくり、
その上を幅の狭い外板で張り詰めてゆく合理的構造とは根本的に設計思想を異にする点であった。

[石井謙治]

軍船との関連
前記の弁才船(べざいせん)の構造は、基本的には室町時代末期に完成したとみられる二形船や
伊勢船と変わらなかったが、それは戦国時代に発達の頂点に達した軍船の場合でも同様であった。
当時もっとも強力な軍船であった安宅船(あたけぶね)は、船体自体は二形船(ふたなりぶね)や
伊勢船のような代表的な大船構造のままで、ただ矢倉など上回り構造を戦闘向きに艤装(ぎそう)
したにすぎないものであった。しかし1609年(慶長14)徳川幕府による諸大名の安宅船所有禁止の
あとは、軍船の主力は500石積みを限度とする戦闘力の弱い関船(せきぶね)に移った。
関船は早船(はやぶね)の別称をもつように、とくに速力を重視して、
尖鋭(せんえい)な船首と安宅船よりもはるかに細長い船型をもっていたが、
構造的には安宅船同様、弁才船と基本的な違いはなかった。

 以上のように、江戸時代では弁才船に代表される廻船形式と、関船に代表される軍船形式とが
主流をなしていた。構造上はいずれも幅の広い長大な枻板や航(かわら)を必要としたが、
それらを一材でつくりだすことはとうてい不可能であった。
そこで、何枚もの板をはぎ合わせて所要の寸法の大板を作成したが、このはぎ合わせの技術は
縫釘を使う和船特有の巧妙なもので、これによって猪牙(ちょき)、伝馬(てんま)の小船から
1000石、2000石積みの大船に至るまで、ほぼ同じ構造で建造することができたのである。
このはぎ合わせ技術こそ和船技術の真髄ともいうべきものであって、本来小船向きでつくりやすい
板船構造を、そのまま大型船にも使えるように開発された手法といって過言ではない。

[石井謙治]

ローカル型廻船
すでに述べてきたように、弁才船の全国的進出によって近世後期には姿を消してしまった廻船も二、三に
とどまらなかった。また滅亡に瀕(ひん)しながら、地方的廻船として細々と生き続けたものもあった。
前者の代表が日本海方面の北国船だが、近世初期すでに1000石積み以上の大船を建造するような、
いわば当時第一流の技術に達していた船であった。
その船体構造は中世以来の面木(おもき)造りの発展形式で、航や枻板のはぎ合わせには「ちぎり」と
「たたら」を使うという北国地方独特の手法を駆使し、船型的にも丸い船首に大きな特色があった。
しかし経済性に欠けるため、最後まで残ることができなかった。
また後者の代表には、同じ地方の羽賀瀬船があげられる。この船の基本構造は北国船とよく似ており、
帆走性能の低さのために弁才船に圧倒されたが、きわめて頑丈な船体が、岩礁の多い北国地方に
適しているとあって、若狭(わかさ)(福井県)、丹後(たんご)(京都府)あたりの中小の
ローカル廻船に幕末まで使われていた。しかしその建造は明治以後まったくとだえ、
木割書(きわりがき)や図面すら残っていないありさまなので、
北国船同様わずかな船絵馬や断片的史料によってようやく概略がつかめているにすぎない。

[石井謙治]

明治時代以後目次を見る
明治政府は、国内海運の近代化を意図して大型和船のかわりに洋式帆船を主用しようとしたが
成功しなかった。そこで1887年(明治20)以後は、500石積み以上の和船の建造禁止に踏み切った。
しかし現実には、和船に洋式帆船の技術を取り入れた折衷式の合の子船の全盛時代を現出し、
これが昭和初期の機帆船時代へと移行した。

 他方、小型和船は制約外のため沿岸漁船として近年まで全国的に使用され、
どうにか和船の姿をとどめていたが、これも主流は合成樹脂使用のFRP船(プラスチック船)に
とってかわられ、今日ではほぼ滅亡に近い状況となっている。

[石井謙治]

▽『石井謙治著『日本の船』(1957・東京創元社)』
▽『石井謙治著『図説和船史話』(1983・至誠堂)』
▽『石井謙治著『海の日本史再発見』(1987・日本海事広報協会)』
▽『橋本徳寿著『日本木造船史話』(1952・長谷川書店)』
▽『須藤利一編『船――ものと人間の文化史』(1975・法政大学出版局)』
▽『東海大学海洋学部編『海と日本人』(1977・東海大出版部)』


  • [25]
  • 『和船』(読み)わせん(前半)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月23日(水)12時33分51秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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『和船』(読み)わせん__日本大百科全書(ニッポニカ)「和船」の解説_(前半)

古くから日本において採用されている形式の木船の総称。日本型船ともいう。
ただし時代による変遷があり、大別して
単材刳船(くりぶね)(丸木船)―複材刳船―準構造船―構造船という段階を経て発展してきた。
以下船体構造を中心に、古代から近世までの技術的変遷を概観する。

[石井謙治]

縄文時代目次を見る
出土例でみる限り、すべて1本の木をくりぬいてつくった単材刳船である。
石器を使ってつくるものだけに単純な形式をとっているが、約5000年前の縄文前期以来の出土例の
ほとんどが、太平洋側も日本海側もともに船首尾を先細にして丸く削り出すという洗練された形式を
とっているのは技術の発達および伝播(でんぱ)を考えるうえで注目に値する。
使用材料は、工作しやすい点からカヤが多く用いられた。また推進具は櫂(かい)で、
支点を設けずに漕(こ)ぐパドルだが、この点は小船に関する限り古墳時代でも変わりはない。

[石井謙治]

弥生時代目次を見る
この時代になると、金属器の使用で工作技術は向上した。こうした技術があれば、大型の複材刳船や
それに舷側(げんそく)板をつけた準構造船への発展が想像できるが、確実な出土例がない。
しかし、銅鐸(どうたく)や土器にみられる船の絵とか、この時代の大陸との往来、大陸から
渡来した海辺民族のことを考えると、大型準構造船建造の蓋然(がいぜん)性はきわめて高い。

[石井謙治]

古墳時代目次を見る
この時代の船の特徴は、単材刳船のほかに、二つ以上の刳船部材を接合して一隻の船にした
複材刳船ないし準構造船があることと、材料にクスノキが主用されていることである。
クスノキは常陸(ひたち)(茨城県)を北限とする太平洋岸や瀬戸内、九州地方に生育し、
古代では直径2メートル程度の巨木がかなり豊富だったらしいことから、
大型刳船用材の第一条件である太さという点に関してはもっとも優れた船材であった。
しかしその反面、低いところで枝分れし、長い材が得られない欠点もあって、
結局長さの不足を補うため、二つ以上の刳船部材を接合する構造で大型船を建造した。
この幅の広い複材刳船に舷側板を接合して準構造船にすれば、耐波性も積載量も大幅に増大し、
推進具も支点を設けた効率のよいオールが使え、朝鮮経由の中国との交通には十分使用できたと思われる。

 なお古墳時代の船舶資料には古墳壁画の船が少なからずある。
それらはすべて耐波性の高いゴンドラ形に描かれていて、当時は
単材刳船・複材刳船・準構造船の区別なく、この形式が普及していたことを示している。

[石井謙治]

奈良~鎌倉時代目次を見る
遣唐使船
7世紀後半における律令(りつりょう)国家の形成は、それまで以上に中国文化への傾斜を深め、
遣唐使という直接的な文化導入の手段をとるようになった。
650年(白雉1)安芸(あき)国で建造させた百済(くだら)船2隻が第二次遣唐使用だとすれば、
その名からしても在来の準構造船とは別系統の、おそらくは中国南朝系の大型ジャンクであったことは
想像にかたくない。むろん船型・構造とも不明だが、現実は特別な大船を必要とした国際情勢であった。
つまり対新羅(しらぎ)関係が悪化して従来の大型準構造船による朝鮮の西海岸沿いの航路(北路)を
とることができず、九州から東シナ海を横断して一気に中国に達する航路(南路)をとらざるを
えなくなったことである。この航路をとると、荒天時の避難は不可能だし、
一船100人以上の食料・水は途中で補給できないから大量に積み込む必要がある。
そこで航洋性に富む大船が必要となり、大型ジャンクの建造となったものであろう。
船の大きさはおそらく長さ約30メートル、幅約8メートル程度の太い船で、
150トン積み程度が必要だったであろう。

[石井謙治]

国内航路の船
画期的な遣唐使船建造は、従来の造船技術に好ましい影響をもたらしたかもしれないが、
明確な形ではその傾向はみられず、遣唐使廃止(894)はその技術をも断絶させてしまった。
もっとも律令下の官物輸送や荘園(しょうえん)年貢の輸送が中心の海運では、
遣唐使船のような大船を必要とするほどのことはなく、いきおい大型でも20~30トン積み程度の
伝統的な準構造船を主用する結果になっていた。
また瀬戸内海を中心とする航路が平穏であったことから、商品流通量が飛躍的に増大しない限り
大型の構造船は不必要だったわけで、
平安~鎌倉時代の海運の主力が刳船主体の準構造船だったのは当然であるといってよい。
なお、この時代の推進具は櫂から櫓(ろ)にかわって効率を高め、舵(かじ)もまた
中国式の船尾舵に発展している。

 ただ鎌倉時代になっても複材刳船や準構造船が主用されているのは、著しい技術的停滞に違いない。
それは前に述べた海運事情にもよるが、もっと重要なことは、これらクスノキを用いた刳船構造が
堅牢(けんろう)で耐久力があったということである。
国家権力を傾けてつくった遣唐使船の脆弱(ぜいじゃく)さが、未消化の構造船技術ゆえのもので
あったとすれば、手慣れた刳船技術を主用して長期の使用に耐える船をつくるほうが、
どれほど経済的で実用的だったかしれないからである。

 他方、クスノキの生育しない日本海沿岸では、スギなどの素材を生かした別系統の
複材刳船技術が展開されていた。
クスノキのように太くはないが、すなおで長いスギ、ヒノキなどを使い、
船首から船尾までを通した片舷の刳船部材を左右二つつくり、
その間に船体の幅を広げるための船底材を入れて結合するものであった。
そしてその発展型として、近世前期までこの地方の主力廻船(かいせん)であった
羽賀瀬船(はがせぶね)や北国船(ほっこくぶね)などのような
面木(おもき)造りという特徴的な技術に転じていったものである。

[石井謙治]

室町時代目次を見る
遣唐使船廃止で断絶した大型構造船技術は、13世紀以降しだいに活発化する対宋(そう)貿易によって
新たな芽を吹くに至った。建長寺(けんちょうじ)、住吉神社、天竜寺などの派遣船が大きな
利潤を目的としている以上、大船はどうしても必要であり、もうこのころには国内海運の商品流通量の
大幅な増加があって、刳船技術を脱した大型構造船の建造が始まっていたとみなくてはならない。
また、それだからこそ15世紀初頭に始まる頻繁な遣明船(けんみんせん)の往来が可能となったので
あり、さらには1000石積み前後の大船が国内海運にも登場するようになるのである。

 ところで、遣明船がとった航路は、その昔遣唐使船がさんざんな目にあわされた大陸への直航路で
あった。だが、遣明船はさしたる苦労もなく往来しているし、といって遣唐使船のように特別の船を
つくったわけでもない。少なくとも1432年(永享4)以後では瀬戸内や北九州の大型商船を
チャーターし、これを多人数が乗り組めるように改装したものにすぎなかった。
この事実こそ、国内海運用の普通の商船が東シナ海を直航する遣明船に転換できるほど優れた
船質だったことを証明するもので、当時の構造船技術の水準の高さを裏づけるものといってよい。
しかも、先進的な中国の造船技術に頼らず、日本独自といえる構造船技術によっているところに、
室町時代が造船技術史上の画期とされる理由がある。

 遣明船の船体の技術的な特徴は、
第一に船体の長さのわりに幅が広く、刳船式船底の準構造船ではとうていつくりえないものであること、
第二に幅広い枻板(たないた)と多数の船梁(ふなばり)とで構成することで、
これらは二形(二成)船(ふたなりぶね)、伊勢船(いせぶね)、弁才船(べざいせん)などといった、
後の典型的な和船の構造的基礎がすでに確立されていることを意味している。
また帆装は伝統的な莚(むしろ)の四角帆を用い、ここにも中国の影響はみられない。
なぜはるかに優れた中国式の帆装を採用しなかったのか理解に苦しむが、
この点に関する限り遣唐使船より退歩しているといわれてもしかたがない。

[石井謙治]


  • [24]
  • 米田様 台湾ヤム族の船の名 タタラ 面白い情報をありがとうございます

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 2月13日(日)15時35分57秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
 米田様
教えて欲しいのですが
 神武 崇神 6代のかぶり 前後は別にして どうしてカブリを認識しているのか 教えていただけませんか ?
注 ラダー的系図へ話を進めない範囲で。  追記 ご教示の場所は この投稿欄でなくても構いません。よろしくお願いします 閉じる。


また なぜ10月に出雲に神が集まるのか 知らなかったのですが、ウィキペディア【 秦の顓頊暦のように10月を年始とする暦もあった 】10月が年始という情報は 私にとって 眼からウロコ。 ありがとうございます。
ヤム族の船 タタラ、 倭国へ 鉄の輸出国 「公孫氏滅亡後」 伽耶からの船もタタラ など勝手な想像が膨らみます。

  • [23]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月13日(日)15時22分19秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
.
「たたら」について

※:古事記の序文には、古い時代のことは「口承」によって、伝えられてきたことが、書かれています。
_:
_:と、すると、本来「タタラ」は、(台湾系の)「漁船」のはずだったものを
_:(日本書紀の編纂者たちが、)鉄作りの「鞴(ふいご)」に、(意図的かどうかは不明ですが、)
_:漢字を当てるときに、間違えたのだろうと思います。

※:これは、「天の岩戸」が、ドラマの「ロケハン」として、(横穴式石室を持った)石舞台古墳を
_:エピソードの場所に設定したのと、同じような気がします。

_:書紀編纂の時代の人々は、(つまり、AD50年とかAD150年とかの)時代考証が、
_:出来なくなっていた、と考えられます。


  • [22]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月13日(日)14時57分38秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

「カヌー・軽」について

人名で、時々、「軽」が出て来ます。
これを、私は、「双子」と解釈しています。

<日本書紀・允恭天皇紀>

:皇后は、木梨軽皇子、軽大娘皇女を生んだ。
:24年、ある人が「木梨軽太子が、同母妹(いろも)の軽大娘皇女を姧しました」といった。

※:男女の双子が珍しい上に、近親相姦ですから、(宦官のいない日本では)大問題になりました。
_:同母弟が、女王の代理で、(女王の夫とともに、)政治を司っていたのに、
_:(この事件は、)その政治の根幹を揺るがすものだった。

※:「軽」が出てきたら、「双子」と読むと、いろいろと、記事の読み方が変わってくると思います。


  • [21]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月13日(日)14時24分35秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 
.
『和船(わせん)』(ウィキペディアより)
:和船とは、日本において発達し、幕末以後の洋式船舶の導入の前まで、移動や漁業に用いられた
:構造船及び準構造船の総称である。


『屋形船(やかたぶね)』(ウィキペディアより)
:屋形船とは、和船の一種で、主に船上で宴会や食事をして楽しむ、屋根と座敷が備えられた船のこと。
:楼船(ろうせん)ともいう。
:現在の屋形船
全長20m前後、定員は15~100名程度。若干の業務用空間を除いて、大半が客用空間となっている。


画像は、「和船」(ウィキペディアより)。


『和船(わせん)』(ウィキペディアより)
:主な構成要素
:和船にだけという要素は存在しない。
:しかし要素の選択の傾向という点では和船は明らかに独自性を持っている。
:まず船体の構造について見ると、船底材に舷側材を棚の形で継ぎ足していくという点が、
:和船全てに共通する特徴である(ただしこうした特徴はミクロネシアやポリネシアの航海カヌーにも
:顕著
なので、和船独自の特徴とは言えない)。
:船底材は最初期の準構造船においては単材を刳り抜いたものであるが、後に東北地方に多く見られる
:ムダマハギ構造(単材から複数の船底材を刳り抜いてはぎ合わせる工法)に進化し、
:最終的にははぎ合わせた板材に棚を追加し船梁で補強する棚板造りへと進化した。
:前者の準構造船は室町時代頃までの主流であったが、
:後者の構造船も平安時代後期にはすでに琵琶湖では使用されていたことが判明している。

:推進方法は帆、長櫂・車櫂(オール)、艪、練櫂・小櫂(パドル)、棹の5種類が用いられている。


│あおもり北のまほろば歴史館 見どころ案内 その1
│国指定重要有形民俗文化財「津軽海峡沿岸および周辺地域のムダマハギ型漁船コレクション」
ムダマハギ型漁船

│青森県や北海道にかけての地域で、古くから使用されていた「ムダマハギ」型漁船。
│これは、船の発達や地域による特徴を知る上で大変貴重なものですが、急速に姿を消しつつあります。
│あおもり北のまほろば歴史館では、こうした木造船を保存し後世に伝えるため、
│国指定の重要有形民俗文化財のムダマハギ型漁船コレクション67隻を展示公開しています。



台湾蘭嶼のヤミ族の船「タタラ」・・・日本統治時代の絵葉書に見えるチヌリクラン


『チヌリクラン』(ウィキペディアより)

:南投県の九族文化村に展示のチヌリクラン
:チヌリクラン(タオ語 Cinedkeran)は、台湾台東県蘭嶼郷の蘭嶼に住むタオ族(別名ヤミ族)の
カヌーに似た木造漁船。中国語では「拼板舟」(ピンバンジョウ、拼音:pīnbǎnzhōu)と称する。
:概要
:ミュンヘン州立民族学博物館に展示のタタラ
:タオ族は、漁労とタロイモなどの作物を食料として自給的な生活を営んできており、男子が海に出て
:トビウオ、シイラなどの漁を行うために木造船を用いる。
:儀礼時に用いる大きいものでは全長7m程度で、10人が乗ることができる。
:日常の漁労に用いる、3m程度で2~3人乗りの小さいものは、タタラ(Tatara)と呼び分けられる。
:丸木船と誤認されることもあるが、21枚程度のリュウガンやパンノキの材木を組み合わせて作る、
:竜骨を持つ寄せ板造りの船で、クワなどの木釘を用いて固定する。

:船外に彫刻し、赤、白、黒の3色で装飾を施したものはイパニティカといい、装飾のないものは
:イピロアウンと称する。伝統的な着色には、赤はベンガラ(赤色酸化鉄)を含む赤土、白は貝殻を
:砕いた炭酸カルシウム、黒は煤(すす)の炭素を用いた。模様の意匠は6つある集落毎に異なり、
:また、所有者が認識できるようにもなっている。舳先とともが大きくそりあがっていることが特徴で、
:先端にはモロン(Molon)と呼ばれる彫金と羽根の飾りを取り付ける。
:側面にオールを固定するための突起があり、航海には人力で漕ぎ出す。

:陸上では横に倒れやすいため、海岸に置く場合は左右に石を置いて立てる。海岸近くに、
:地面を掘るか、石を積み上げて、屋根を付けた半地下式の船小屋を作り、収納している。

:現在、漁業に用いる事は少なくなっており、
:チヌリクランまたはタタラが観光用貸しボートとして用いられている例もある。


│「台湾 たたら ふね」で検索してでてきたもの。

│2017/08/10 18:01頂点数: 7,995ポリゴン数: 8,176
│フルスクラッチ作品
tatala & cinedkeran(拼板舟)
│この船は台湾の蘭嶼島に住んでいるタオ族(ヤミ族とも)という少数民族に作られた木造漁船であり、
タタラと呼び、中国語では拼板舟(pīnbǎnzhōu)。

│使い方と大きさによって2種類に分けられます。3mほど小さな船は漁船として使われるが、
│7mほど大きい船は儀礼時に使われたもので、cinedkeranと呼ばれます。
│モデルは2つあります
tatala.pmxは3mの小さな船
│cinedkeran.pmxは7mの大きな船
│櫂.pmxはただの櫂

│タタラの模様は色々あるが、大体はこんな感じ。
│このモデルでは台中の國立自然科学博物館に展覧しているタタラを参考として採用した。
│外見はできるだけ同じように作ろうとしたが、内部は自分の都合によって多く変更した。

http://


  • [20]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月13日(日)14時21分38秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
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前漢時代の船に関する記述

『史記朝鮮伝』
:(朝鮮王の満、孝恵帝・高后の時:BC195~BC180)
:そこで満は、〔漢から〕兵威や財物を得て〔朝鮮国の〕近傍の小邑を侵し、降伏させた。
:真番・臨屯は、みなやって来て服属し、〔その支配地は〕数千里四方におよんだ。

:元封2年(BC109年)帝は、〔渉〕何を拝して遼東〔郡の〕東部都尉とした。
:朝鮮〔王〕は、〔渉〕何を怨んで出兵し、〔渉〕何を攻め殺した。
:天子は、罪人〔から兵〕を募って朝鮮を撃とうとした。
:その(BC109年)秋、〔天子は〕楼船(ろうせん)将軍の楊僕(ようぼく)を派遣し、
:斉より渤海〔湾〕を渡航させ、〔一方〕兵5万〔を率いた〕左将軍の荀彘(じゅんてい)に、
:遼東を出発させ、〔陸海から〕右渠(ゆうきょ)を討伐させた。(云々。)
楼船将軍は、斉兵7千人を率いて、まず王険に至った。

『後漢書挹婁伝』・・・(『三国志魏書挹婁伝』にも同様の記事があります。)
:挹婁は、古の粛慎の国である。夫餘の東北千余里のところにあり、東は大海に臨んでいる。
:〔挹婁は〕漢の建国以来、夫餘に臣属している。
:青石(フリントか黒曜石)を鏃(やじり)とし、鏃にはみな毒を施している。(云々。)船に乗るの
:もうまく、さかんに寇盗をする。
〔それで〕隣国は畏れ患えて、ついに服従させることができなかった。

(ウィキペディアより)
:燧石(ひうちいし、すいせき、flint、フリント)または火打石は、非常に硬質な玉髄質の石英
:からできている岩石の一種。チャートの一種であり硬い上に加工しやすいので、石器時代には
:世界遺産スピエンヌの燧石鉱山に見られるように石器の材料として使用され、
:鉄器時代以降は火打石として利用されていた。モース硬度は6 - 7である。

『後漢書東沃沮伝』
:〔高〕句驪に臣属した。
:その租税・貂布(ちょうふ・貂の皮)・魚塩・海中の食物を徴収させ、美女を選び出して、云々。

『後漢書濊伝』
〔濊人は〕毎年10月に天を祭って、昼も夜も、酒を飲み、歌舞する。このことを〔濊人は〕舞天という。

『箕子朝鮮』(ウィキペディアより)
:『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王
:(はじめ、朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、
: 馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、
:衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。

『衛満』(ウィキペディアより)
:^ 『新撰姓氏録』によると衛満は燕の大相国だったとあり、盧綰の腹心だったように書いている。

『盧綰(ろわん)』(ウィキペディアより)
:盧綰(BC256年 OR BC247年~BC194年)は、秦末から前漢初期にかけての武将。前漢初期の燕王。


【楼櫓】(ろうろ)普及版 字通「楼櫓」の解説
:屋根のないものみやぐら。〔後漢書、南匈奴伝〕初め、戰車を作る。數牛を駕すべし。
:上に樓櫓を作りて、塞上に置き、以て匈奴を(ふせ)ぐ。

【楼船】(ろう‐せん)デジタル大辞泉「楼船」の解説
屋形船のこと。

【楼船】(ろうせん)普及版 字通「楼船」の解説
:やぐらのある船。〔西京雑記、六〕昆明池中に戈船(くわせん)・樓船有り。
:各々數百捜、樓船上には樓櫓(ろうろ)を建て、戈船上には戈矛(くわぼう)を建て、
:四角(四隅)に悉(ことごと)く幡旄(はんばう)を垂る。~余、少時猶ほ之れを憶見(おくけん)す。

字通「楼」の項目を見る。・・・1 高層の建物。「楼閣・楼上」2 物見やぐら。

『西京雑記(せいけいざっき)』(ウィキペディアより)
『西京雑記』は、前漢の出来事に関する逸話を集めた書物。著者は晋の葛洪ともされるが、明らかでない。

  • [19]
  • 大船の存在

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 2月11日(金)14時18分1秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 岐阜・大垣 荒尾南遺跡出土のつぼに描かれた線刻の舟と大船(オールタイプ)
遣唐使の時期は準構造船、弥生後期から古墳初頭期は エジプト的な 丸木舟を巨大化させたオールの船。

台湾から慶良間諸島への渡海はようやく成功した、丸木舟の巨大なタイプ。
台湾の高所から慶良間は見えていて 約100km 。 葦船で数回 失敗していた。

楽浪・帯方の陥落で 鉄の素材・鉄鉱石を生産していた伽耶の人達は 自前の船で 後に百済や新羅と称する地区や倭国連合国内のお金持ち地区へ鉄素材を販売した。  当初 畿内は貧乏だった。


  • [18]
  • 「日本の大船」「船にまつわる祭事」

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月11日(金)11時16分16秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
※:筆者である『茂在寅男(もざいとらお)』さんの主張は、勉強になります。

(工事中)


  • [17]
  • 「三国志」の時代の寒さ

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月11日(金)10時08分24秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
※:筆者である「田中重弘(たなか しげひろ)」さんの主張は、玉石混交だろうと思います。
_:とはいえ、経営者でもあった、その視点(観点)には、目を見張るものが、多々あります。

(工事中)


  • [16]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月11日(金)09時57分42秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
(工事中)

  • [15]
  • 本の紹介

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月11日(金)09時55分47秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│『田中重弘(たなか しげひろ)』(ウィキペディアより)

│田中 重弘(1938年7月30日-  )は、日本の評論家、翻訳家。
│和歌山県生まれ。和歌山県立和歌山工業高等学校染織科卒、上智大学文学部哲学科卒、
│染色工場を経営したのち1968年からウィーン大学で哲学、文学を学ぶ。
│1979年からハンガリーのブダペスト在住。

│『諸葛孔明と卑弥呼 「三国志」が解く古代史の謎』光風社出版 1989。ISBN 4875194412
│(本の著者略歴)より
│幼時、台湾の各地で育ち、云々。昭和63年に帰国。現在、柏市在住。(平成元年発行)

『諸葛孔明と卑弥呼』―「三国志」が解く古代史の謎―

※:この本は、20年くらい前に、古本屋で見つけて買った本です。
_:(本の紹介を兼ねて、)もう一度、見直してみようと思います。

(工事中)


  • [14]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月10日(木)22時57分14秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
(工事中)

  • [13]
  • 本の紹介

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月10日(木)22時52分13秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│『茂在寅男(もざいとらお)』(ウィキペディアより)

│茂在 寅男(、1914年2月10日 - 2013年5月31日)は、日本の工学博士(航海計器学)、
│作家、水中考古学(海洋考古学)研究者。

│『古代日本の航海術』小学館〈小学館創造選書〈25〉〉、1979年。

※:この本は、20年くらい前に、古本屋で見つけて買った本です。
_:(本の紹介を兼ねて、)もう一度、見直してみようと思います。

(工事中)


  • [12]
  • (無題)

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月 9日(水)20時39分42秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 

│[11] 縄文人 投稿者:当世奇妙 投稿日:2022年 2月 9日(水)15時50分20秒

│WIKIPEDIAの縄文人の記述は誤解を生むのでは?

│「縄文人」とは日本列島にやってきた旧石器人が縄文土器(定義あいまいだが)を
│使うようになって縄文人と言われたのではないですか?

※:ご指摘、ありがとうございます。
_:さっそく、修正しておきました。


  • [11]
  • 縄文人

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 2月 9日(水)15時50分20秒
  • p2324062-ipbf2022funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
WIKIPEDIAの縄文人の記述は誤解を生むのでは?

「縄文人」とは日本列島にやってきた旧石器人が縄文土器(定義あいまいだが)を使うようになって縄文人と言われたのではないですか?

日本列島に住んでいた人が「縄文人」で、大陸などの人は
縄文人と同じルーツを持つ旧石器人ではないですか?

従ってWIKIPEDIAは以下のようにすると誤解はないのではないか?

渡来ルート
(日本の)縄文人は漢民族に代表される大陸のアジア人集団と比較的古い時期に分かれ、それは約3万8000年前から約1万8000年前までの間とみなすことができた。
(日本の)縄文人(と同じ)遺伝的要素を持つ人々は日本列島のみならず、ロシア沿海州、朝鮮半島、台湾など東アジアの沿岸部等にも少なからず存在することが判明し、こうした要素を持つ(旧石器)人たちが大陸沿岸部に分散する中で一部が日本列島へ渡ってきた可能性が高そうだ。
(一方)日本列島の縄文人が大陸沿岸部に広がった可能性も否定できない。

最後の行の部分は最近のDNA研究でも言われていることですね。


  • [10]
  • RE:縄文人

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月 9日(水)14時42分38秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│[9] 縄文人 投稿者:当世奇妙 投稿日:2022年 2月 9日(水)13時40分4秒

│米田さんの見解は以下でしたね
│「河姆渡遺跡には縄文人が移住していた。河姆渡遺跡の住民は縄文文化を継承していた。」

│この根拠をお聞きしたかったのですが。

※:(前回、)「私の見解」は、うまく書けなかったので、『縄文人』(wiki)の後に「私の見解」を書きます。

『縄文人(じょうもんじん)』(ウィキペディアより)
:縄文人とは、縄文時代に日本列島に居住していた人々の総称。約1万6000年前から約3000年前まで
:現在の北海道から沖縄本島にかけて住み、縄文文化と呼ばれる文化形式を保持していた。

:定住型の漁労・狩猟採集生活を基盤として、縄文早期には日本列島全体で2万人前後しかいなかったが、
:中期には26万人まで増加した。しかし、世界的に気候が寒冷化した為、食料供給が出来なくなり、
:後期に16万人、晩期には8万人まで減少した。その後、弥生人がもたらした水田稲作技術により、
:食料の安定供給が可能になり約1000年間で8倍の60万人まで回復増加した。

:渡来ルート
(日本の)縄文人は漢民族に代表される大陸のアジア人集団と比較的古い時期に分かれ、
:それは約3万8000年前から約1万8000年前までの間とみなすことができた。
(日本の)縄文人(と同じ)遺伝的要素を持つ人々は日本列島のみならず、ロシア沿海州、朝鮮半島、
:台湾など東アジアの沿岸部等にも少なからず存在することが判明し、こうした要素を持つ(旧石器)人たちが
:大陸沿岸部に分散する中で一部が日本列島へ渡ってきた可能性が高そうだが、
(一方)現状では日本列島の縄文人が大陸沿岸部に広がった可能性も否定できない。

『黄河文明』(ウィキペディアより)
:裴李崗文化
:裴李崗文化(紀元前7000年?~紀元前5000年?)の代表遺跡は河南省新鄭県裴李崗。

※:中国の文明は、せいぜい、BC7000年前から、始まっています。それに対して、
_:縄文時代は、1万6000年前から、始まっています。(ただし、列島全体で、2万人程度。)

※:つまり、縄文人といわれる民族(集団)が、4万年くらい前に、東南アジアからロシア沿海州まで、
_:広い範囲に、総人数で、(想像ですが、)10万人程度が、うすく広く、散らばって住んでいた。

※:そこに、1万年くらい前に、漢民族に代表される大陸のアジア人集団が、中国大陸に大勢で
_:やって来て、各地に文明を作った(~BC5000年)。(人口爆発が起こった。)
_:河姆渡遺跡(&紅山文化)は、縄文人に近い集団だった。
_:舟山文化の海洋民族は、後からやって来て、定着した。
_:この海洋民族が、稲作文化(&河姆渡遺跡人)を朝鮮半島や日本に運んできた。

※:(以上が、)私の見解の表明と、(想像だらけの)根拠になります。

http://


  • [9]
  • 縄文人

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 2月 9日(水)13時40分4秒
  • p2324062-ipbf2022funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
米田さんの見解は以下でしたね
「河姆渡遺跡には縄文人が移住していた。
河姆渡遺跡の住民は縄文文化を継承していた。」

この根拠をお聞きしたかったのですが。
確か河姆渡遺跡からは縄文のある土器が出てましたね。
しかしこの土器は磁器のようなものではなかったでしょうか?

河姆渡遺跡の時代に日本の縄文人が移住する必要性は
あったのでしょうか?河姆渡よりも数千年前の喜界カルデラ
爆発の時期ならば、九州の縄文人はどこかに逃げた可能性
はありますが。

  • [8]
  • ホームランだと思います。

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 2月 9日(水)09時31分36秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
米田様 エクセレント
【 『顓頊暦』を使う人たちは、建亥月(旧10月)を「年始」として、祝う風習を持っていた。つまり、出雲神話でいうところの、「神無月(神有月)」は、『顓頊暦(せんぎょくれき)』を使う風習を持った人たちの集まりだった、ということです。 】

という事は 新暦11月15日~12月14日が 旧10月。

これだと 和歌の季語や季節感が落ち着く。



 スペイン・ポルトガルそして大英帝国という大航海時代の木造船のサイズより 古代の木造船の方がサイズが大きい。
 古代の海洋国 カルタゴはローマ帝国と地中海の制海権を争う。ローマが大陸からの資源も保有するのに対してカルタゴ・貿易国家。 利益確保への効率はカルタゴが勝るが、基礎体力においてローマは隔絶していた。
 船の最大サイズから言えば エジプトや中国も引けを取らない。
エジプトのピラミッド石加工は銅器、その銅は舟にてエジプトにもたらされた。
 中国は扶桑国を求めて 始皇帝の時期 外洋に乗り出している。

始皇帝の時期 現在のベトナム、半島、倭 いまだ部族のレベル。統一国家に至らず。海洋で活躍出来ていたのは、東南アジア・ミクロネシア/ポリネシアの丸木舟を操る民。
彼らの社会システムは 国家レベルに到達していない。

東アジアにて 海洋国家は 古代未成立なのでは ?

大型造船技術を保有していたのは 中国 ローマ エジプト こうした国は 農業国でありながら 造船技術が周辺の国々より勝っていた。

東アジアの古代 海洋の民は 国家形成へ動いていない。

銅そして鉄の採鉱ノウハウは 東アジアの場合 中国がノウハウ保有。
仮定 半島への鉄採鉱は 中国が半島を支配する過程(帯方郡他)の副産物 。

日本における 丸木舟交易は 縄文時代から認められ 原則フェアトレードなのでは?
物々交換の時期 国家体制は必要としない。
 弥生期 《大倭》という市場管理者が発生してゆく過程で 部族意識が育成。と想定。










  • [7]
  • 『顓頊暦(せんぎょくれき)』

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 2月 9日(水)09時21分32秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
(暦から考えた)「秦」の時代の影響

※:日本という国は、「秦」の時代の「人」「文化・風習」「暦」の影響を色濃く、受け継いでいる。
_:(私は、日本に対して、)そんな「印象」を持っています。

『隋書俀国伝』
:また東して秦王国(不詳)に至る。秦王国の人は中国人と同じである。

※:「不死の妙薬を求めて紀元前219年に徐福の船が出航した。」
※:『蘇伯孫』の伝承によると、「BC209 年、蘇豊の 69世孫 蘇伯孫が辰韓を建国した」


<「暦」について> (ここからは、「暦」の話です。)

│『顓頊暦(せんぎょくれき)』(ウィキペディアより)

│顓頊暦は、中国暦の一つで、秦から前漢の元封6年(紀元前105年)まで使われていた太陰太陽暦の
│暦法。顓頊は古代の帝王の名。漢に伝わっていたとされる古暦、古六暦の一つ。(四分暦であった。)

│概要
│秦のいつから施行されたかには諸説あり、戦国時代末期から始皇帝による統一(紀元前221年)の
│間であると考えられている。前漢王朝でも太初の改暦に至るまで102年間、踏襲して使用された。

│また10月を年始とし、閏月を年末である9月の後(後9月)に置く歳末置閏法をとっていた。
│ただし、10月は10月と呼び、正月と呼んだりしなかった。
│正月は立春の月であり、二十四節気の起点とした。
│また正確には始皇帝の諱である政を避諱して端月と呼んでいた。


│太初暦(たいしょれき)は、中国暦の一つで、
│漢の武帝の太初元年(紀元前104年)の改暦によって採用された太陰太陽暦の暦法。


『三正』(ウィキペディアより)

:戦国各国は夏正を採用した。秦は他国とは異なる顓頊暦を採用していた。
:月配置は夏正によるが(健寅月が正月)年始が正月の健寅月ではなく建亥月となっていた。
:この顓頊暦が秦から前漢初期にかけて用いられていたが太初の改暦にて年始を正月の建寅月とし、
:現在に至るまで2000年以上中国暦(旧暦・農暦)の年始には夏正が用いられている。

『楽浪郡』(ウィキペディアより)

:楽浪郡は、漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した、朝鮮半島の郡
:(植民地との見方も存在する一方で、完全に漢帝国が直轄する内地という見方も存在する)。
:真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。東方における中華文明の出先機関であり、
:朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たした。
:楽浪郡の住民は王氏が多く、韓氏がこれに次ぎ、この2氏でかなりの率を占めていた。

※:ここまでで、何が分かるかというと、

(その1):
:『顓頊暦』は、秦の時代・楽浪郡(BC108年~)が設置された直後(BC105年)まで、使われていた。
:楽浪郡(など)の設置に伴って、移動(移住)してきた人々は、『顓頊暦』を使っていた。

(その2):
:徐福と一緒に(半島南部~九州に)移住してきた人たちが、新羅の地に作った国が「徐那伐」だろう。
:そして、徐福の移住は、秦の時代ですから、(彼らは、)『顓頊暦』を使っていた。

(その3):
:『顓頊暦』を使う人たちは、建亥月(旧10月)を「年始」として、祝う風習を持っていた。

※:つまり、出雲神話でいうところの、「神無月(神有月)」は、『顓頊暦(せんぎょくれき)』を
_:使う風習を持った人たちの集まりだった、ということです。

※:そして、「東明祭?」/「東盟祭?」、高句麗の暦も、少しクセがあるような気がしています。


(少し、脱線ですが、)

:「呉王夫差」の子孫が、日本にやって来たという、伝承があります。
:(日本の『新撰姓氏録』によると、松野連(まつののむらじ)は夫差の子孫を自称している。)
:700年頃の(土地に定着していた)それぞれの豪族にとって、自分の出自(〇〇の子孫)で、
:誰を始祖にするか、始祖として誰を名乗ることが一番得か、あるいは、誰の子孫だったら、
:名乗ることを許されたか。
:たまたま、松野連(まつののむらじ)は、来日の時の上陸地点の伝承を持っていたため、
:「夫差の子孫」を名乗ることを許されたと、思っています。(たしか、「諸蕃」の扱いだったかと。)
:実際には、中臣氏・蘇我氏(の各支族)も、「夫差の子孫」だろうと思っていますが、
:「皇別」・「神別」を(名乗れるものなら)名乗った方が、得なはずなので、
:(中臣氏・蘇我氏の各支族は、)「夫差の子孫」を名乗っていないだけだと思います。


『四分暦(しぶんれき)』(ウィキペディアより)

:四分暦は、中国暦のなかで太陽年の長さを365と4分の1日とする四分法にもとづく暦法のこと。
:古六暦・戦国四分暦・後漢四分暦などがこれに当たる。
:中国暦の一つで、後漢・三国時代に施行されていた暦法。以下詳説する。

:四分暦(しぶんれき)は、後漢の章帝の元和二年(85年)より施行された太陰太陽暦による暦法。
:他の四分暦と区別するとき、特に後漢四分暦(ごかんしぶんれき)といわれる。
:編訢(へんきん)や李梵によって編纂された。後漢では末年の延康元年(220年)までの136年間、
:三国時代、魏では17年、_________(←:237年、つまり、景初暦の前まで。混乱の元凶。)
:呉では1年、蜀では43年間、使用された。_(←:魏は、正始元年以降の暦は、呉の暦と同じ。)


<閑話休題>

※:つまり、『隋書俀国伝』での、「裴世清」は、倭国(日本)にやって来て、
_:そこに、古風な中国の風習が残っていて、驚いたのだろうと、思います。

*****

※:ちなみに、「俀国」は、「帯方国」のことで、『三国史記・百済本記』の「責稽王」の
_:記述に出てくる、「帯方〔国〕の王女」云々、の「帯方国」の事だろうと、思います。

_:そして、これは、「帯(足:たらし)」につながっていて、
_:「たらしひこ」は、「帯方国の王」を意味していると、勝手に想像しています。

※:ちなみに、百済本記によると、570年、高斉の後主は、百済の威徳王に対して、
_:「帯方郡公・百済王」の称号を使うことを認めています。

PS:高句麗は、「遼東郡開国公・高句麗王」。新羅は、「楽浪郡公・新羅王」を名乗っています。



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