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  • 邪靡堆≠邪馬壹國

  • 投稿者:オヤジッチ
  • 投稿日:2022年 3月 7日(月)12時54分23秒
  • dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
 
「邪靡堆」とは 隋書「東夷伝」に記述される倭国の都。北史(隋書)には邪摩堆と記述される大和のことである。

『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である。

『隋書』の「東夷伝」は、607年(推古15年) - 608年(推古16年)の第2回遣隋使、小野妹子らを遣わし、「「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙無きや」(聖徳太子)の国書を持参した小野妹子、の帰国に同行した裴世清の報告をもとに記述された。

隋使の裴世清らの道程は『經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至“竹斯國”又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自“竹斯國”以東皆附庸於俀』とあり、大海の都斯麻国(対馬)、東に一支国、竹斯国(筑紫)、東に秦王国他10余国をへて海岸についたという。
竹斯国(北部九州or九州、『有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭』とあり、阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、祷祭する。)から東はすべて俀であるという。

『其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」とあり、国境は東西を旅するのに五ヶ月、南北を旅するのに三ヶ月かかり、それぞれ海に行き着く。「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺であるとする。

追)遣使の『日本書紀』と『隋書』の主な違い
・第一回遣隋使は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ。
・ここでは中国史に合わせて遣隋使として紹介しているが、『日本書紀』では「隋」ではなく「大唐國」に遣使を派遣したとある。
・『日本書紀』では裴世清、『隋書』では編纂された時期が唐太宗の時期であったので、太宗の諱・世民を避諱して裴清となっている。
・小野妹子の返書紛失事件は『日本書紀』にはあるが『隋書』にはない(『隋書』には小野妹子の名前自体が出てこない)。
・『隋書』では竹斯國と秦王國の国名が出てくるが大和の国に当たる国名は記されていない。しかし、「都於邪靡堆」とあることから、都は「邪靡堆」にあったと推察される。

原文
『俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近』

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  • [13]
  • 保管用 チェック

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 3月30日(水)15時35分17秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
2022-03-30


  • [12]
  • 「裴世清」は畿内へは行っていません!

  • 投稿者:福島雅彦
  • 投稿日:2022年 3月24日(木)22時14分21秒
  • p1162-ipad13fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  • 返信
 
※「裴世清」は現地踏査して「古(いにしえ)の魏志に謂う「邪馬臺」(國の文字を外して)は来て観たら「邪靡堆」だった」と前史の誤謬を糺しています。

*其の都の地勢は「東高西下」=一望できる範囲で水縄連山(耳納山地)の山容・山態と筑後川の西流を見事に表現している。

・畿内には此の地勢に合致する所はない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

  • [11]
  • 「邪靡堆」=「邪馬壹國」

  • 投稿者:福島雅彦
  • 投稿日:2022年 3月24日(木)18時54分21秒
  • p3150-ipad108fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  • 返信
 
オヤジッチさん、壮大な誤読です!

※「裴世清」は九州から一歩も出ていない!

*途中のルートも…

 ・「度百済行至竹島南望[身冉]羅國経都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國」。

*「(黄海を横断)百済に渡って(陸路)竹島に至り、南に[身冉]羅國(済州島)を望み(再出航して)「迥か」大海之中の都斯麻國を経て(寄港せずに)東して一支國に至り又竹斯國(博多湾)に至る」である。

・半島南西の難所の航行を避けた記述であり、対馬海流に乗り「一支國」を目指している。

5).裴世清は竹斯國から一歩も出ていナイ!

・「又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又経十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀(倭)」

 *「(竹斯國に居て)又東すれば秦王國(京筑)に至れる、其の人は華夏(中華)に同じで夷洲と為すも疑わしく明らかにする能わざるなり。

・又(竹斯國の東に)十餘國経ると海岸(別府湾)に達する(裴世清は海岸には来ていない)。

・竹斯國より東は皆(秦王國+十餘國は)倭に附庸する」=伝聞記述で、裴世清は行っていない。

※前項と「竹斯國」が二回登場するのは、最終目的地に居る事を意味している。

※「竹斯國」とは前史の国名の「末盧國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬臺(壹)國、(彌奴國)」を包括しているというか、それらが国情説明文言の一部であって国名で はなかった、と看破しての表記である。

※「秦王國」とは、「「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖(秦)ン(の)國」=「徐福」秦人の興した国=神崎郡と観る。

※俀(倭)國には、都斯麻國、一支國、秦王國、十餘國とあるが、「阿毎多利思比孤」の他には王は居ないのである。

※当然、畿内には行っていません!

※「阿毎多利思比孤」≠聖徳太子。

※8).「倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩雞彌」とは、固有名詞ではナイ!

*「天照大神」の異字表記である。

・「阿毎=「天(あま)」=「高天原」=「浮羽」=“???”(u-kil-beol)=「旭日原」の意である。

・「多利思比孤」=「照彦=照日子」=“???”(ddal-ri-da)付く、属する、(『民衆書林・韓日辞典』)の語幹+「彦=日子」である。

∴「阿毎多利思比孤」=「天(あま・あめ)出自(所属)の「彦=日子」」。

・「天照大神」=「天(あま・あめ)地方」「照=“??”(ttal-li)=付く、属する」」大神。


*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

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  • 邪馬台国時代の北部九州

  • 投稿者:当世奇妙
  • 投稿日:2022年 3月13日(日)11時10分42秒
  • p2324062-ipbf2022funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  • 返信
 
片岡さんの『続続 邪馬台国論争の新視点』雄山閣2021・9
第4章 邪馬台国時代の北部九州 で 北部九州の
区分について詳細に記している。
筑紫は「ツクシ」としている。

邪馬台国時代の北部九州の地域区分、地名に
ついて詳細に解説しており、流石九州の考古専門家と思って読んだ。
が、その是非を論ずる知識はない。

オヤジッチさんは九州なので、この片岡説明について
論議出来るでしょうね。時間のある時に意見頂けると
ありがたい。

  • [9]
  • オヤジッチさんが正  

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 3月12日(土)22時12分30秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 私の勘違い 日本書紀に記載、
ミヤコは 畿内と思っていますが、ツクシは 未解決。
筑紫・チクシは 福岡の東半分。 古代に現在の筑豊がチクシと読む 書籍の提示が必要なのでは?

筑豊と筑後 装飾古墳。 福岡 チクシは  今のところ 装飾古墳が見つかっていない。

チクシ神社は新しい。 筑紫神社と五郎山古墳 古墳時代にここがチクシ?  証明できない。




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  • Re: 出雲風土記 記載の東の接する國は 越。

  • 投稿者:オヤジッチ
  • 投稿日:2022年 3月12日(土)13時44分7秒
  • dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
  • 返信
 
いつかコウヘイさん、こん○○は。

>  出雲風土記のみ 編纂責任は 地元の在地勢力 畿内に忖度は当然。
> なぜか ミヤコからの神宝提出依頼へ 出雲はその可否を ツクシに問い合わせ。
↑ちょっと違ってませんか。
 出雲振根(いずものふるね、生没年不詳)は『日本書紀』等に伝わる古墳時代の地方豪族。『古事記』には彼に関する記載は存在しない。
 崇神天皇は群臣に詔して「武日照命(たけひなてるのみこと)、別名武夷鳥(たけひなとり)、あるいは天夷鳥(あめのひなどり)が天から持って来られたという神宝が見たい」と仰られた。このとき、神宝を管理していたのは出雲臣の遠い祖先である出雲振根(いずものふるね)であったが、筑紫国へいっていて留守だったので『當是時出雲臣之遠?出雲振根主于神寶是往筑紫國而不遇矣』、弟の飯入根(いいいりね)が、神宝を貢上してしまった。
 振根は怒って太刀を木刀に換えておいて、飯入根を斬り殺してしまった。
 上記の物語は、景行天皇の時代に「倭建命」が出雲建を殺した策略とほぼ同じで、伝承の混同が見られる。なお、『書紀』の「日本武尊」は熊襲征伐の帰路に吉備と難波の神を退治しているが、出雲には立ち寄ってはいない。
 出雲建(いずもたける)は、『古事記』等に伝わる古代日本の人物だが『日本書紀』に記載はない。


> ミヤコとはどこか?
↑崇神天皇が居たのだから、宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、『古事記』では師木水垣宮(しきのみずかきのみや)。伝承地は奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社ですネ。

> ツクシとはどこか?
↑『・・・筑紫國・・・』とありますから、九州の筑紫でしょう。

> そもそも この出雲の中心地が現在とは異なる。
> 出雲風土記記載の東の接する國は 越。
> 【 古事記には『次に筑紫島を生みき』とあって、九州全体を筑紫としています。 】
> 古事記全巻の出現時期 19世紀。 14世紀頃からは 一部知識人が存在を記載。
> 3世紀の話では 古事記 使いずらい。 古事記゜の汚れている点を脱色する工程が必要。
> 3世紀 筑紫通り地区の土器と 熊本の土器 多少 形が相違。
> 八女の土器に詳しくはないのですが 九州島 この時期 鹿児島の土器は 異次元、荒々しい。  魏志倭人伝 金科玉条も 困りもの。 古事記はそれ以下の書籍。
↑「記紀」を弄繰り回しても真実には・・・・・(-_-;)

  • [7]
  • 出雲風土記 記載の東の接する國は 越。

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 3月12日(土)10時17分8秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
 出雲風土記のみ 編纂責任は 地元の在地勢力 畿内に忖度は当然。
なぜか ミヤコからの神宝提出依頼へ 出雲はその可否を ツクシに問い合わせ。

ミヤコとはどこか?
ツクシとはどこか?
そもそも この出雲の中心地が現在とは異なる。
出雲風土記記載の東の接する國は 越。


【 古事記には『次に筑紫島を生みき』とあって、九州全体を筑紫としています。 】
古事記全巻の出現時期 19世紀。 14世紀頃からは 一部知識人が存在を記載。
3世紀の話では 古事記 使いずらい。 古事記゜の汚れている点を脱色する工程が必要。

3世紀 筑紫通り地区の土器と 熊本の土器 多少 形が相違。

八女の土器に詳しくはないのですが 九州島 この時期 鹿児島の土器は 異次元、荒々しい。  魏志倭人伝 金科玉条も 困りもの。 古事記はそれ以下の書籍。



  • [6]
  • Re: 隋の時期の奈良明日香はヤマタイ 

  • 投稿者:オヤジッチ
  • 投稿日:2022年 3月12日(土)09時23分32秒
  • dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
  • 返信
 
いつかコウヘイさん、こん○○は。

>  では ヒミコ期のヤマタイ国はいずこ?
↑山門でしょう。国鄙は八女・室岡ってことで。

> 隋の頃 チクシは 現在の筑紫通り。
↑『有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭』とあり、球磨郡―曽於郡の線より北、九州の大部分でしょう。
 古事記には『次に筑紫島を生みき』とあって、九州全体を筑紫としています。

> ヒミコ期のツクシは ?
↑狗奴国の『官有“狗古智(菊池)”卑狗(彦)』から、菊池山地の北までしょう。

> 出雲風土記記載のツクシは?
↑浅学にてわかりません。
 ただ、風土記については、注意が必要です。
 大和朝廷に提出するために書いたものなので、筑紫君磐井の記事を日本書記と筑後風土記を比べるとわかるように、大和朝廷に都合の悪い記事は忖度して、書かないか大和朝廷に都合のいいように書いていると思われます。


  • [5]
  • ツクシとチクシ  妄想編

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 3月12日(土)00時10分31秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
 3世紀の北部九州  西のチクシ    16世紀の筑前/筑後~熊本。チクシは6世紀の 磐井の支配範囲
           北部九州の 東は 豊前/豊後   16世紀の大友氏の支配範囲

ツクシは 筑豊か?   筑と豊の合わせた地名。

21世紀 嘉麻市 ツクシ幼稚園。
つくし とは 河の津が尽きた/end / つくしん坊的地形のところ。 末尾のシは 薬師(くすし)と同構造、 スという接頭語の付いたシ。 というコジツケ。

田川・嘉麻地区の現行 市長が観光誘致で唱えている ヤマタイ国は筑豊説。
 書きながら 根拠の薄い話。
遺跡を見つける 学芸員に不足しているので 遺跡が見つからない。
 嘉麻市の沖出古墳 ヒミコ期以降の時期にもかかわらず、基底石が直線的に出土し 調査担当者は 前方後円墳に比定。 何のために調査したのか?   経費が掛かった前方後円墳への再現(嘉麻市の土木業者が利益確保?)、 復元以前の古い平面図は前方後方墳だった。

九州の古墳形状の比定 時々 勝手に前方後円墳になってしまう。
 例 筑紫野市 原口古墳  

  • [4]
  • 隋の時期の奈良明日香はヤマタイ 

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 3月 9日(水)16時39分9秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
 では ヒミコ期のヤマタイ国はいずこ?

隋の頃 チクシは 現在の筑紫通り。
ヒミコ期のツクシは ?        出雲風土記記載のツクシは?


  • [3]
  • Re: オヤジッチさん 教えてください

  • 投稿者:オヤジッチ
  • 投稿日:2022年 3月 9日(水)12時53分13秒
  • dhcp-ubr1-0908.csf.ne.jp
  • 返信
 
いつかコウヘイさん、○○は。

> 【 北史(隋書)には邪摩堆と記述される大和のことである 】
> 大和とは どこの事ですか?    奈良?
↑裴世清は遣隋使小野妹子勅使としてが派遣されて邪摩堆に来たのですから、邪摩堆は当時の都、飛鳥(かつて大和国高市郡にあった地域、現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺)

>                              ヤマトいう 九州のどこか?
>                              その他
↑九州については、
 裴世清らの道程に『竹斯國・・・竹斯國以東皆附庸於俀』『有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭』とあり、竹斯國=筑紫≒北部九州でしょう。
 蛇足)
 “竹”は「チク」としか読めませんから、元々は筑紫=チクシです。ツクシはヤマト訛り。(-_-;)
 

  • [2]
  • 海路と陸路と尾根道

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 3月 7日(月)21時25分36秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
原始時代の道
けものみちと共用の徒歩。  丸木舟オール人力と引き舟。
徒歩の場合 水際のある程度の水平道路(海岸と川岸)。 人が住みだしてくると棲み分け、川や海の魚たんぱく系と草原等の動物たんぱく系。この時期から 棲み分けの中点、山の尾根沿いの道路が人為的に発生。

古墳時代前期古墳や初期の墳墓は こうした山頂/尾根沿いに立地。 近くに 弥生末の道路がある事例がほとんど。  道路は尾根沿いに展開。
 うきは 西の城墳墓 近くにミノウ山頂ラリーコースは この尾根道の流用。

河には川の民、山には山の民、中点は 尾根。


縄文時代 各地貝塚 貝を取り 中身を塩漬け干物化、貝殻は捨てて、塩の付着した貝の塩つけ製品を山間部岩塩の無いところへ 海の民は 持ち込み販売。 物々交換に付き 山の民は 皮や動物たんぱくなどで購入。


3/01 追記
オヤジッチさんが投稿されているように 半島の古代の言語の特に発声音、不明点が多い。
日本側はひらがな・カタカナの発明がやや早く、古代は8音声、日本は5音声へ変化。
福島さんが古代語の倭と半島の新羅・百済・高句麗の発音を比較するには、当時の文献が最優先。
三国史記は中世の書物、新羅の建国情報は潤色されている、他地区から年号・文献からの情報一致で 使える時期は 原則 4世紀以降。   追記閉じる。


  • [1]
  • オヤジッチさん 教えてください

  • 投稿者:いつかコウヘイ
  • 投稿日:2022年 3月 7日(月)18時06分25秒
  • kc220-213-216-247.ccnw.ne.jp
  • 返信
 
【 北史(隋書)には邪摩堆と記述される大和のことである 】
大和とは どこの事ですか?    奈良?
                             ヤマトいう 九州のどこか?
                             その他


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