【重要】teacup. byGMOのサービス終了について


  • [0]
  • 「魏志倭人伝」の正しい解釈で邪馬台国論争遂に決着 の検証

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 3月14日(月)21時43分30秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
 
 このスレは、3月18日に発売される私の著書、『「魏志倭人伝」の正しい解釈で邪馬台国論争遂に決着 』
が本当に成り立つのかどうかを検証するスレです。

(1) 榎一雄教授の放射説改変説

 邪馬台国は伊都国の南千五百里(100km程)にあり、水行すれば十日、陸行すれば一月で到る。

 このような場所は、九州筑後山門しか考えられず、勿論、畿内には行き着きようがない。

(2) 反時計回り連続説

 邪馬台国の北には連続して記される小国二十一国が、反時計回りに並んでいる。

 また、王都邪馬台国、邪馬台国へ至る道程中の六国も倭国=女王国連合の構成国に含まれ、径二十八国から、重複する奴国を引いた二十七国、それに、その余の某国三国を加えると、卑弥呼が統治する倭国=女王国連合は計三十国となる。

(3) 卑弥呼の冢は権現塚

 以上、卑弥呼の定めた王都が筑後山門なら、その地に有る権現塚が卑弥呼の冢である。

 権現塚は径五十メートル程で、一歩が人の歩幅程なら『魏志倭人伝』の記す百余歩にうまく合致する。

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

投稿者
題名
*内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
URL
sage

  • [29]
  • この戦争はいつか来た道

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 5月20日(金)00時19分50秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 返信
 
もう引退したつもりだったが、p君が官制報道に好いように騙されているようだから、最後に忠告しておこう。

現在、ロシアのウクライナ侵攻を引き合いに、日本の政府とマスコミはウクライナのゼレンスキー大統領を無暗に応援し、ロシアのプーチンを悪魔のように描いている。

日本と西欧のマスコミ発表によると、ロシアが一方的に悪者であり、テレビしか見ない多くの日本人は、ロシアへの怒りに満ちており、米戦争屋の手先の安倍などは調子に乗って、「敵基地攻撃能力」「敵中枢攻撃」などと言い出しており、それだと真珠湾奇襲と同じく、完全な先制攻撃となってしまう。


ところが、この戦争は西側が最初にウクライナで戦争を始めたことを多くの人は知らない。

https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00162.html

つまり、現政権とマスコミはウクライナ危機を利用して、日本を戦時中に戻そうと思っているのだ。

なぜ、現政権はこんなことをするのか?
それは小泉から始まった現政権が、安倍、菅、岸田に至るも米戦争屋の犬と化しているからだ。

つまり、現政権とマスコミに好いように騙されて、ウクライナに義援金を送るべきだなんて言っている連中は、勝ち目の欠片もない戦争を死ぬまで戦った、先の戦時中の日本人のDNAを色濃く、持ち続けているのである。



https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [28]
  • Re: 福島氏の行程図は只の願望でしかない。

  • 投稿者:福島 雅彦
  • 投稿日:2022年 5月16日(月)21時59分27秒
  • p1246-ipad103fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  • 返信
 
>>14
> >
>
> 福島氏の邪馬台国論はすべて、地元贔屓の自説を成り立たせる為の只の願望。
>
> 『魏志倭人伝』に、帯方郡使の梯儁らは、倭国の王都邪馬台国に至ったと、ちゃんと書いてある。
>
> 「正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拜假倭王、并齎詔、
> 賜金帛・錦・刀・鏡・采物。倭王因使上表、答謝詔恩。」
>
> 福島氏は、自説に都合が悪いこの文を、無視しているのか?
>
> はたまた、福島氏は漢文読解能力が低く過ぎて、読めないだけなのか?

※何処でとは述べていませんョ!

*男弟が「伊都國」へ出向いて受け取った、かと。

・何しろ、「倭地」は「末盧國」~「伊都國」は、行くに前人を見失う様なブッシュ(藪)=獣道。

・「伊都國」の南の「投馬國」=「水行二十日」=陸行不能の意。

∴郡使(魏使)は「邪馬壹國」へは行っていませんョ!

*参問倭地…周旋可五千余里=「拘邪韓國」領域千五百里(逆算)+海峡横断三千餘里+「末盧國」~「伊都國」五百里。

郡使(魏使)は「伊都國」止まりである。

  • [27]
  • p君は長里について語ることはいちども無い。

  • 投稿者:p君
  • 投稿日:2022年 5月14日(土)19時41分51秒
  • 061-113-037-040.jp.fiberbit.net
  • 編集済
  • 返信
 
「p君は長里について語ることはいちども無い。」

という談話室の書き込みへの返答。

海上の航行距離など測る術を持たない時代の「里」については語らなくてもいい。
不安定で不正確極まりないからだ。

今は一歩の話。

君の手の平を広げた一尺、その6倍、つまり6尺が一歩。
この基準は後に一歩が5尺になる一時期を除いて、始皇帝の時代から変わっていない。

だから一歩が50㎝という君の本など買わなくてよいし、
いやそんなお金があるならウクライナへの義援金とすべき。

  • [26]
  • 保管用 チェック

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月25日(月)22時39分25秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
2022-04-25

  • [25]
  • RE:歴史の勝手な改変は許されない。

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 4月21日(木)16時07分30秒
  • 211.130.161.32
  • 編集済
  • 返信
 


 思った通り、やはり米田さんは、誰かの説を引用しただけでしたね。

> ※:景初3年の説は、「東アジア民族史1(東洋文庫)」を執筆した、
_:「江畑武」氏・「井上秀雄」氏の説でもあります。
_:そんなことも、知ってか知らずか、「~こういった方が多いので、云々。」と
_:書くこと自体、学者の意見を調べていないことを自白しているようなものです。
_:または、意図的に、論敵を矮小化しているのでしょうか。

⇒ 学者が書いたら、信憑性が高くなるのですか?

 その割には、「邪馬台国問題」が、現在に至るも、未だに解決していないのは、彼ら学者たち(所謂プロ)にも責任があるとは思いませんか?

 つまり、学者の説をすべて、調べる必要はありませんし、米田さんのように、調べたからと云って、それが自慢になるわけでもありません。

 私が米田さんを矮小化しているというよりも、米田説が引用であるならば、その引用元の筆者の考えの範疇を超えることはないと言っているのです。
 なにしろ、「邪馬台国問題」は現在も尚、解決していないとされていますから、この問題を明白に解決させた私のほうが、彼ら学者たちよりも遥かに上なのです。

 その証拠は私の本「『魏志倭人伝』の正しい解釈で邪馬台国論争遂に決着」を読んで戴ければ、解ります。



https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [24]
  • RE:歴史の勝手な改変は許されない。

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月21日(木)13時23分16秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 

│[23] 歴史の勝手な改変は許されない。 投稿者:難升米 投稿日:2022年 4月21日(木)05時59分

│⇒ 米田さんは、歴史を勝手に改変(或いは改竄)して、平気でいるようですね。

│ 在野の(つまり素人の)(自称)古代史研究家には、こういった方が多いので、
│「邪馬台国問題」も、永久に解決することは無いのです。


※:景初3年の説は、「東アジア民族史1(東洋文庫)」を執筆した、
_:「江畑武」氏・「井上秀雄」氏の説でもあります。
_:そんなことも、知ってか知らずか、「~こういった方が多いので、云々。」と
_:書くこと自体、学者の意見を調べていないことを自白しているようなものです。
_:または、意図的に、論敵を矮小化しているのでしょうか。

※:また、景初2年の説は、(例えば、下記のように)ネットで調べれば、すぐに出て来ます。

*********************************

グローバル Web 帯方郡 楽浪郡 ? 古代史俯瞰 by tokyoblog

韓・中国__帯方郡 楽浪郡__帯方郡の太守

(三国志・魏書・馬韓伝)

「景初中明帝密遣帶方太守劉昕樂浪太守鮮于嗣越海定二郡諸韓國臣智加賜邑君印綬
 其次與邑長其俗好衣幘下戸詣郡朝謁皆假衣幘自服印綬衣幘千有餘人」

「景初中(237~239年)、明帝(曹叡)は密かに帯方郡太守・劉昕と楽浪郡太守・鮮于嗣を
 遣はし、海を越えて2つの郡を平定した。
 諸韓国の国王は邑君印綬を加賜され、国王の下のものは邑長を与えられた。習俗は衣頭巾を好んだ。
 下戸(身分の低い人)は郡に詣り朝謁して、衣頭巾を身につけることを全員ゆるされた。
 印綬や衣頭巾を自作するものが、1000人余りいた。」

魏が平定した2つの郡とは楽浪郡と帯方郡である。

238年に魏の司馬懿が遼東郡太守・公孫淵と遼隧や襄平で戦争している最中、
その機に乗じて、公孫氏の配下にあった楽浪郡と帯方郡を平定した。

ここに出てくる帯方郡太守の名前は、劉昕である。

同、238年(景初2年)6月に、帯方郡太守は劉夏に変わっている。

(三国志・魏書・倭人伝)
「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都」

240年(正始元年)、帯方郡太守は弓遵に変わっている。

(三国志・魏書・倭人伝)
「正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物」

245年(正始6年)、帯方郡太守・弓遵は、帯方郡の崎離営を攻撃した韓族との戦闘中に死亡。←(?)

(三国志・魏書・馬韓伝)
「部從事呉林以樂浪本統韓國分割辰韓八國以與樂浪
 吏譯轉有異同臣智激韓忿攻帶方郡崎離營時太守弓遵樂浪太守劉茂興兵伐之遵戰死二郡遂滅韓」

「部従事・呉林は、韓国を分割し楽浪郡本部で統括するので、楽浪郡に辰韓8国を与える旨を、
 韓族の国王に伝えた、しかし、通訳者が間違って伝えたので、韓族の国王は激怒し、
 帯方郡の崎離営を攻撃した。太守・弓遵と楽浪郡太守・劉茂は、兵を興してこれを討伐した。
 だが、弓遵は戦死した。帯方郡と楽浪郡はついに韓族を滅亡させた。」

247年(正始8年)、帯方郡太守に王頎が着任。

(三国志・魏書・倭人伝)
「其八年太守王王頎到官」

帯方郡の太守は、9年間(238年~247年)に少なくとも5名着任している。____(米田:4名)

・劉昕(238年初旬)
・劉夏(238年6月~12月)
(劉昕に緊急事態が起こり:負傷、病気、死亡など、劉夏に交代と推測。)┐(米田:239年まで、劉夏)
・未確定X氏(劉夏~弓遵の間に誰か太守がいたかもしれない)____┘
・弓遵(240年~245年)_____________________(米田:247年まで、弓遵)
・Y氏(245年、弓遵が戦死したため、後任にY氏が着任。でないと2年も空席になるので。)
・王頎(247年)

*********************************

※:掲示板(討論室)で、議論するには、このくらいコンパクトにまとめられたものでないと、
_:論点がぼやけてしまったり、読むだけで、疲れてしまいます。

※:景初3年の説(の紹介)は、投稿図の1頁で、充分でしょう。

※:現在の学者の世界では、どちらの説が優勢かどうか、私は知りません。
_:私は、景初2年・3年問題に対しては、「江畑武」氏・「井上秀雄」氏の説を支持しているだけです。

PS:時期が不明の時には、私は、西暦年号(ユリウス暦)で、統一して見るようにしています。


  • [23]
  • 歴史の勝手な改変は許されない。

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 4月21日(木)05時59分44秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
― 見解の相違じゃあ、ありませんよ。

※:私なりに出した答えを書きます。(正しいかどうかは、知りません。)

※:在位期間は、西暦226年6月29日から240年1月12日、と考えます。
_:ですので、在位期間は、13年と7か月程と、考えています。
_:(ちなみに、240年1月13日から240年2月09日の間は、空白・空位期間と考えています。)
_:西暦240年1月12日は、明帝にとっては、景初4年1月1日だったのだろうと想像しています。

※:難升米さんの答えの時、西暦239年1月23日から、(正始元年正月)240年2月10日まで、
_:帯方郡の太守や倭国の使いは、(いったい)どこで、何をしていたのでしょうか。不思議です。
_:当然、難升米さんは、答えを用意しているはずですよね。
.

⇒ 米田さんは、歴史を勝手に改変(或いは改竄)して、平気でいるようですね。

 在野の(つまり素人の)(自称)古代史研究家には、こういった方が多いので、「邪馬台国問題」も、永久に解決することは無いのです。

『西暦239年1月23日から(正始元年正月)240年2月10日まで、帯方郡の太守や倭国の使いは、(いったい)どこで、何をしていたのでしょうか。』

 実にこのことが、まさしく私の本のメインテーマの一つであります。

 私は、景初二年十二月に明帝との謁見を終えた難升米らの倭使は、景初三年早々に、倭国に帰還したと考えています。

 このとき、倭使を倭国に送還してあげた魏の使節がいて、彼らは魏の正使である、梯儁らとは別の使節でした。

 米田さんをはじめ多くの論者は、難升米らの倭使が魏の正使・梯儁らとともに帰国したものと、ぼんやりと思い込んでしまったから、間違えたのです。

 陳寿は、彼ら、即ち(仮の)帯方郡使の書いた「倭国報告書」を元にして、『魏志倭人伝』を書いたのであり、その為に、邪馬台国へ至る道程が、放射的に記されることになったわけです。

 詳しくは、私の本を、(買って)読まれると、完全に理解できることと思われます。



https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [22]
  • 見解の相違

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月20日(水)17時23分33秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 
.
見解の相違

│[21] Re: RE:[19] Re: 難升米さんへ 投稿者:難升米 投稿日:2022年 4月20日(水)16時14分20秒

│> RE:[19] Re: 難升米さんへ
│>
│> ※:簡単な質問をします。
│>
│> 「明帝の在位期間は、〇年〇ヵ月でしょうか。」
│>
│> ※:簡単でしょう。(西暦・ユリウス暦で考察をします。)

│⇒ Wikipediaを見ると、明帝の在位年(年号改変前の)は
│  (226年6月29日 - 239年1月22日)と記されています。
│  だから在位期間は、12年と7か月程になりますが、それがどうかしたのでしょうか?

│  明帝の在位年数などはまったく問題とされていません。


※:さっそくの回答、ありがとうございます。

※:私なりに出した答えを書きます。(正しいかどうかは、知りません。)

※:在位期間は、西暦226年6月29日から240年1月12日、と考えます。
_:ですので、在位期間は、13年と7か月程と、考えています。
_:(ちなみに、240年1月13日から240年2月09日の間は、空白・空位期間と考えています。)
_:西暦240年1月12日は、明帝にとっては、景初4年1月1日だったのだろうと想像しています。

※:難升米さんの答えの時、西暦239年1月23日から、(正始元年正月)240年2月10日まで、
_:帯方郡の太守や倭国の使いは、(いったい)どこで、何をしていたのでしょうか。不思議です。
_:当然、難升米さんは、答えを用意しているはずですよね。
.

http://


  • [21]
  • Re: RE:[19] Re: 難升米さんへ

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 4月20日(水)16時14分20秒
  • 211.130.161.32
  • 編集済
  • 返信
 
>>20
> RE:[19] Re: 難升米さんへ
>
> ※:簡単な質問をします。
>
> 「明帝の在位期間は、〇年〇ヵ月でしょうか。」
>
> ※:簡単でしょう。(西暦・ユリウス暦で考察をします。)

⇒ Wikipediaを見ると、明帝の在位年(年号改変前の)は(226年6月29日 - 239年1月22日)と記されています。
 だから在位期間は、12年と7か月程になりますが、それがどうかしたのでしょうか?

 卑弥呼朝献年景初二年か三年かの問題は、卑弥呼魏朝献が明帝の生前か死後かの問題であり、難升米らの倭使が洛陽で謁見した帝は、明帝(曹叡)なのか、或いは少帝(曹芳)なのかが問題となります。
 更に言うと、この問題は卑弥呼の魏朝献が司馬懿が公孫淵を滅ぼす前なのか、滅ぼした後なのかが問題とされているのです。

 明帝の在位年数などはまったく問題とされていません。

 因みに私は、あの哀愁を帯びた文面からも、卑弥呼に贈った証書を書いたのは、8~9歳の子供ではありえないと考えており、司馬懿又は曹爽が少帝の代理人として書いたとする説も又、あまりにも恣意的な説ので、私は難升米らの倭使が謁見した人物は、亡くなる直前の明帝(曹叡)だったに違いないと考えています。

>

https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [20]
  • RE:[19] Re: 難升米さんへ

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月20日(水)09時48分41秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 編集済
  • 返信
 
RE:[19] Re: 難升米さんへ

※:簡単な質問をします。

「明帝の在位期間は、〇年〇ヵ月でしょうか。」

※:簡単でしょう。(西暦・ユリウス暦で考察をします。)


  • [19]
  • Re: 難升米さんへ

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 4月20日(水)05時41分19秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
>
> (その1):三代目・魏帝の少帝(曹芳)が、改元せずに、「景初」を使うはずはない。
> (その2):服喪の期間中に、外国の使節に面会(公式行事を)することは、ありえない。
> (その3):明帝が、倭使に会ったのは、景初4年1月1日です。そして、1月1日に亡くなった。
> (その4):明帝が、亡くなった1月1日は、のちに、景初3年うるう12月1日に、改められた。
>

⇒ 米田さんは、誰かの説を引用しているだけではないのですか?
 このような偏向した説を福島さんが御自分で考えたとは思えませんがね。
 特に、「三正」とか「乾象暦」なんて言葉が出てくる時点で、怪しい話です。

 『明帝紀』を見ると、明帝が景初3年(239)2月に亡くなると、暦を改変して「乾象暦?」その月を景初3年正月にした、とだけあります。

 だから(その3)の明帝が景初4年に亡くなったとするのは歴史の改変に他ならず、同意できる人は誰もいませんよ。
 暦は改変できても、歴史事象そのものを改変するわけにはいきません。
 第一、景初4年なんて年号は、三角縁神獣鏡の一部に印字されるのみで、現実にはないものであり、実際の(240)は正始元年にあたります。

 つまり、(その1)から(その4)なんてものは、全てが福島さんの勝手な決めつけ、或いは間違った説を引用したものであり、現実にはどの資料にも記されておらず、単なる、卑弥呼朝献年を何としてでも景初3年に持って行きたい論者が、無理やり作った話に過ぎないわけです。

>
> ※:難升米さんは、「討論の場」というものを勘違いされているようです。
> ※:「討論の場」にあるのは、どちらの説が、蓋然性が高いか(低いか)だけです。
>

⇒ 以上より、私の説の方が米田説よりも、蓋然性が高いことに気付いていただけましたか?


https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [18]
  • 難升米さんへ

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月19日(火)22時26分4秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
.
難升米さんへ

│私の説は、論理的に正しい、
│米田説は、単なる思いつき説でしかない。


(その1):三代目・魏帝の少帝(曹芳)が、改元せずに、「景初」を使うはずはない。
(その2):服喪の期間中に、外国の使節に面会(公式行事を)することは、ありえない。
(その3):明帝が、倭使に会ったのは、景初4年1月1日です。そして、1月1日に亡くなった。
(その4):明帝が、亡くなった1月1日は、のちに、景初3年うるう12月1日に、改められた。

※:別に、思い付きで、自説を述べているつもりは、ありません。


│私の説は、論理的に正しい、
│米田説は、単なる思いつき説でしかない。

※:本当にそう思っているのですか?

※:私のみたところ、難升米さんは、「三正」を、ご存じではないようです。
_:「景初暦」も、「乾象暦(けんしょうれき)」も、調べていないように見えます。
_:「暦」の仕組みを調べずに、何を研究されてきたのですか?


│しかしながら、二代目魏帝の明帝(曹叡)は景初三年正月に急死しているのですよ。

※:「三正」の仕組みが分かっていれば、当たり前のことなのです。


│私の説は論理的に正しいのだから、
│単なる思いつき説でしかない米田説の軍門に下るわけにはいきませんね。

※:私は、勝ち負けを争っているつもりはありません。(勝つ気もありません。)
_:討論の場に、「勝ち負け」を持ち込まないでいただきたい。

※:難升米さんは、「討論の場」というものを勘違いされているようです。
※:「討論の場」にあるのは、どちらの説が、蓋然性が高いか(低いか)だけです。




  • [17]
  • Re:  難升米さんへ

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 4月19日(火)18時19分41秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
> (米田が理解した、難升米さんの論理)
> ┌
> │(A案)景初二年説派:二代皇帝明帝(曹叡)が書いたものである。
> │(B案)景初三年説派:三代皇帝の曹芳の代理が書いたものである。
> │
> │あの証書は明帝自身が書いたものに他ならないわけである。・・・だから、景初二年説は、正しい。
> └
>
> ※:ところが、私は、景初三年説ですが、二代皇帝明帝(曹叡)が書いたものである。と考えています。
>
> (難升米さんの論理風に書くと、下記のようになります。)
> ┌
> │(A案)景初二年説派:二代皇帝明帝(曹叡)が書いたものである。(×)
> │(B案)景初三年説派:三代皇帝の曹芳の代理が書いたものである。(×)
> │(C案)景初三年説派:二代皇帝明帝(曹叡)が書いたものである。
> └
>
> ※:つまり、「(C案)景初三年説派:二代皇帝明帝(曹叡)が書いたものである。」という可能性を
> _:無視して、難升米さんは、「B案」は、成り立たないから「A案」は、正しい。とする。
>
> ※:この辺の論理の組み立て(&検証)が、あまりにも“ずさん”だと、私は考えます。
>
> ※:(今まで通り)ご自分の論法(主張)が、正しいと、主張されるのであれば、
> _:「出禁」の可能性が高いです。
>
> ※:難升米さんの投稿に対しては、「イエローカード」が出ていることをご理解下さい。
>

⇒ 米田さん。出入り禁止まで匂わせて、えらく強硬に私の説の否定にかかっていますな。

 しかしながら、二代目魏帝の明帝(曹叡)は景初三年正月に急死しているのですよ。

 卑弥呼朝献景初三年説では、
 景初三年六月に帯方郡に至った倭使が洛陽に到着したのは、どう頑張っても、景初三年九月以降になります。
 そして、倭使が、三代目・魏帝の少帝(曹芳)と面会したのは、景初三年12月なのだから、
 倭使が魏を訪問することすら知りようもない生前の明帝がどうやって、倭国に対する詔書をしたためたのですか?

 もしかして、米田さんは、私が出入り禁止にビビって、自説を覆すとでも思われたのですか?
 残念ですね。
 私の説は論理的に正しいのだから、単なる思いつき説でしかない米田説の軍門に下るわけにはいきませんね。


https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [16]
  •  難升米さんへ

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月19日(火)09時08分31秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
.

  難升米さんへ



│[11] 普通に考えたら卑弥呼の魏朝貢は景初二年 投稿者:難升米
│  投稿日:2022年 4月 4日(月)16時51分

│卑弥呼魏朝貢が景初二年なら、難升米らの倭使に渡した証書を朗読したのは、
│三代皇帝の曹芳ということになるが、
│あの証書はどう見ても、8~9歳の子供が書いたものではなく、
│本人にその認識があったかどうかは別にして、
│当時既に死が目前に迫っていた二代皇帝明帝(曹叡)らしい、実に趣のある文である。

│だが、卑弥呼魏朝貢は景初三年説派は、あの証書は曹芳の後見人である、
│司馬懿か曹爽が書いたものとする。

│しかし、そのような考えは明らかに自説を無理に成り立たせるために作られたものであり、
│普通に考えたら、あの証書は明帝自身が書いたものに他ならないわけである。


「難升米」さんの論法についてです。


※:本を出版されたとのことなので、あからさまに、文章の批判をすることは避けてきたのですが、
_:「難升米」さんの論法について、疑問があります。

(米田が理解した、難升米さんの論理)

│(A案)景初二年説派:二代皇帝明帝(曹叡)が書いたものである。
│(B案)景初三年説派:三代皇帝の曹芳の代理が書いたものである。

│あの証書は明帝自身が書いたものに他ならないわけである。・・・だから、景初二年説は、正しい。


※:ところが、私は、景初三年説ですが、二代皇帝明帝(曹叡)が書いたものである。と考えています。

(難升米さんの論理風に書くと、下記のようになります。)

│(A案)景初二年説派:二代皇帝明帝(曹叡)が書いたものである。(×)
│(B案)景初三年説派:三代皇帝の曹芳の代理が書いたものである。(×)
│(C案)景初三年説派:二代皇帝明帝(曹叡)が書いたものである。


※:つまり、「(C案)景初三年説派:二代皇帝明帝(曹叡)が書いたものである。」という可能性を
_:無視して、難升米さんは、「B案」は、成り立たないから「A案」は、正しい。とする。

※:この辺の論理の組み立て(&検証)が、あまりにも“ずさん”だと、私は考えます。

※:(今まで通り)ご自分の論法(主張)が、正しいと、主張されるのであれば、
_:「出禁」の可能性が高いです。

※:難升米さんの投稿に対しては、「イエローカード」が出ていることをご理解下さい。


  • [15]
  • 保管用 チェック

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月15日(金)10時16分34秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
2022-04-15

  • [14]
  • 福島氏の行程図は只の願望でしかない。

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 4月 9日(土)21時10分11秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 返信
 


福島氏の邪馬台国論はすべて、地元贔屓の自説を成り立たせる為の只の願望。

『魏志倭人伝』に、帯方郡使の梯儁らは、倭国の王都邪馬台国に至ったと、ちゃんと書いてある。

「正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拜假倭王、并齎詔、
賜金帛・錦・刀・鏡・采物。倭王因使上表、答謝詔恩。」

福島氏は、自説に都合が悪いこの文を、無視しているのか?

はたまた、福島氏は漢文読解能力が低く過ぎて、読めないだけなのか?


https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [13]
  • 行程図

  • 投稿者:福島 雅彦
  • 投稿日:2022年 4月 7日(木)11時12分1秒
  • p3236-ipad110fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  • 返信
 
郡庁(楽浪郡徼=帯方郡)から「邪馬壹國」への行程図
楽浪郡徼=帯方郡郡庁
↓  從郡至倭海岸水行(郡治の海岸・千五百里=六日)
↓  歴韓國乍南乍東 (陸行)
↓ (韓地+狗邪韓國=五千五百餘里=二十七日半)≒二百里/日
狗邪韓國=倭地まで(七千餘里)
    ↓ (洛東江沖巨済島経由・水行二日)
 「對海(馬)國」(千餘里)
    ↓ (水行一日)
 一大國(千餘里)
     ↓ (水行一日)
末盧國(千餘里)
      ↓ (東南陸行五百里=二日半)累計=萬五百餘里
      ↓ (從郡至倭(郡使常駐の倭地)……水行十日陸行一月)
      伊都國  →  奴國  →  不彌國
         ↓       (東南至百里)    (東行至百里)
         ↓≪郡使往来常所駐≫=伊都國より先へは行っていない。
         ↓(千五百餘里 )
↓(水行二十日=瑞梅寺川→今津湾・博多湾→御笠川
↓ →宝満川→筑後川→有明海→矢部川⇒投馬國)
↓       ↓→巨瀬川→筑紫の日向↓
以北が成立する⇒投馬國(西) ⇔ (東)邪馬壹國
              郡庁より萬二千餘里女王之所都
※倭(伊都國=郡使常所駐)に至るには水行十日陸行一月。
※参問倭地…周旋可五千余里=実際に郡使が観て廻った倭地は延べ五千餘里 。
狗邪韓國(千五百里=逆算)+三海峡横断(三千餘里 )+末盧國~伊都國(五百里)=五千餘里 。韓地は方四千里《陸行六千餘里÷一月 ≒二百里/日》
*郡使(魏使)は「伊都國」から先へは行っていない。


  • [12]
  • いろいろな説の紹介と比較

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 4月 7日(木)07時47分22秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
新しい討論室で、議論をしたいと思っています。
そのための資料の提示です。

  • [11]
  • 普通に考えたら卑弥呼の魏朝貢は景初二年

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 4月 4日(月)16時51分49秒
  • 211.130.161.33
  • 返信
 
卑弥呼魏朝貢が景初二年なら、難升米らの倭使に渡した証書を朗読したのは、三代皇帝の曹芳ということになるが、あの証書はどう見ても、8~9歳の子供が書いたものではなく、本人にその認識があったかどうかは別にして、当時既に死が目前に迫っていた二代皇帝明帝(曹叡)らしい、実に趣のある文である。

だが、卑弥呼魏朝貢は景初三年説派は、あの証書は曹芳の後見人である、司馬懿か曹爽が書いたものとする。

しかし、そのような考えは明らかに自説を無理に成り立たせるために作られたものであり、普通に考えたら、あの証書は明帝自身が書いたものに他ならないわけである。


https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [10]
  • 保管用 チェック

  • 投稿者:米田 喜彦
  • 投稿日:2022年 3月30日(水)23時12分2秒
  • fp76ee5538.tkyc003.ap.nuro.jp
  • 返信
 
2022-03-30

  • [9]
  • 難升米らの倭使を送還したのは誰か?

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 3月27日(日)09時44分32秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 返信
 
過去の論者の殆どは、難升米と都市午利らの倭使を倭国に送還したのは、正使の梯儁らだと考えてきたようだ。

ところが、その場合、「王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯」、つまり、この時の帯方郡使が倭国の対外貿易港があると記される伊都国に直接入港せずに、手前の末盧国に上陸したことの説明が付かない。

梯儁らは賜遣之物を倭王に下賜する使命があるのだから、「行くに前に人を見ず」と称される程の悪路を五百里も陸行するはずがないのである。

つまり、この時の帯方郡使は正使の梯儁らではなく、倭使を倭国に送還する為に遣わされた(仮の)帯方郡使と考えるべきなのである。

彼らは、倭国を調査する「倭国調査隊」の使命をも帯びていたから、わざわざ手前の末盧国に上陸し、送還してきた倭使に案内させて、末盧国から伊都国迄の悪路を陸行で辿ったのである。


https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [8]
  • 帯方郡使とは?

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 3月26日(土)18時36分46秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 返信
 
『魏志倭人伝』で倭国の王都邪馬台国を訪問した魏の使節は、魏使とは記されずに、必ず帯方郡使と記されている。

つまり、彼らは魏の洛陽から邪馬台国を訪問したのではなく、帯方郡から倭国に遣わされた使節だったのである。

ところが、過去の論者の殆どは洛陽を出発した魏の使節が、邪馬台国を訪れたと考えており、「帯方郡使」とは記さずに、「魏使」と記している人が多い。

実際には、魏帝は「倭国を訪問せよ」と「帯方太守」に命じるわけであり、「帯方太守」は自らの部下を帯方郡から倭国に遣わしていたのである。


https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [7]
  • 南邪馬台国へ至ること水行十日陸行一月

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 3月24日(木)16時26分16秒
  • 211.130.161.33
  • 返信
 


この文を書いたのは誰なのだろうか?陳寿なのか?
しかし、陳寿が自分で書いたのなら、その情報は何処にあったかが問題だ。
それは『魏略』にあったのだろうか?
ではその場合、魚卷は何処からこの情報を得たのか?

私はこの情報は、帯方郡使が記録した「倭国報告書」にあったと考えている。

その「倭国報告書」を書いた帯方郡使は長年の間、梯儁らだと考えられてきたが、
私はこの「倭国報告書」を書いた連中は梯儁らではなく、
難升米らの倭使を倭国に送還した名もない(仮の)帯方郡使だったと考えています。



https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [6]
  • 遂にうちに届きました。

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 3月22日(火)19時05分22秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 返信
 
『「魏志倭人伝」の正しい解釈で邪馬台国論争遂に決着 』

初版本がうちに届きました。

結構かっこいいですね。

自分が書いた本ながら、そのセンスの良さに驚きました。

この本は必ずや、売れることでしょう。


https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [5]
  • 完全に自説に都合の良い考え

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 3月20日(日)21時42分50秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 返信
 
>>4
> ※「南至邪馬壹國女王之都所」の後ろに「水行十日陸行一月」と。
>
> *しかし、何処から何処までとは記述していない!!!!

⇒ それは不彌国から邪馬台国迄でしょ?これを記述していないと言い張るのは、実に完璧なご都合主義説。

>
> ・「伊都國」~「投馬國」までは「水行二十日」と明記。

⇒ べつに明記されていませんよ。福島さんが勝手にそう思い込んでいるだけ。
 これが明記されているなら、不彌国から邪馬台国迄も「水行十日陸行一月」と明記されていますね。

>
> ・「投馬國」は「伊都國」の南千五百里=郡庁~萬二千餘里 。

⇒ それは女王国=邪馬台国の話では?なんで、いきなり投馬国に変わってんの?

>
> ・「邪馬壹國」以北の九ヶ国=「狗邪韓國」「對海(馬)國」「一大國」「末盧國」「伊都國」「奴國-1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」。

⇒ 過去の論者は全員そう考えて来たから間違ったのです。
 実際には、女王国以北の国は連続して記載される二十一ヵ国も含まれます。
 それらの二十一か国は、反時計回りに連続して並んでいることから、少なくとも戸数に関しては略載されているのです。

>
> ∴「投馬國」と「邪馬壹國」は東西に位置し「伊都國」から等距離である。

⇒ その場合、投馬國と邪馬壹國は東西に並んでいると書けばよいだけで、両国の道程を別々に書く必要はありません。


> *「伊都國」から先への「水行二十日」を先に記述したので、郡庁~「伊都國」までの「萬五百里」の所要日数を追記して、「萬二千餘里」の合所要日数が判る様にしている。
>
> *萬二千餘里の所要日数=水行十日(外海)陸行一月+「水行二十日(内陸河川)」である。

⇒ この時代、河川水行説が成り立たないことは私の著作中に明白に書いてあります。

 もし、このことが気になるなら、私の本、
『「魏志倭人伝」の正しい解釈で邪馬台国論争遂に決着を』買って読んでください。

>

https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [4]
  • 水行十日陸行一月は…

  • 投稿者:福島雅彦
  • 投稿日:2022年 3月20日(日)17時00分18秒
  • p5110-ipad31fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
※「南至邪馬壹國女王之都所」の後ろに「水行十日陸行一月」と。

*しかし、何処から何処までとは記述していない!!!!

・「伊都國」~「投馬國」までは「水行二十日」と明記。

・「投馬國」は「伊都國」の南千五百里=郡庁~萬二千餘里 。

・「邪馬壹國」以北の九ヶ国=「狗邪韓國」「對海(馬)國」「一大國」「末盧國」「伊都國」「奴國-1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」。

∴「投馬國」と「邪馬壹國」は東西に位置し「伊都國」から等距離である。

*「伊都國」から先への「水行二十日」を先に記述したので、郡庁~「伊都國」までの「萬五百里」の所要日数を追記して、「萬二千餘里」の合所要日数が判る様にしている。

*萬二千餘里の所要日数=水行十日(外海)陸行一月+「水行二十日(内陸河川)」である。


  • [3]
  • 放射説改変説

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 3月20日(日)15時02分41秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 
『魏志倭人伝』の解釈が間違っていた理由

投馬国へ至る南水行二十日。邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月。
過去の論者はこれを連続的に読んで、合計した水行三十日陸行一月が不彌国-邪馬台国間の千三百里には長すぎるから、『魏志倭人伝』の記載は不正確としたのである。

この問題を解決するには、榎一雄教授の放射説があるのだが、過去の論者は誰も放射説を信じなかった。

何故なら、放射説は帯方郡使が伊都国迄しか行っていないとする説だからだ。

私も梯儁らの帯方郡使は倭国の王都邪馬台国に実際に行っていると思う。
つまり、このままでは放射説は成り立たないわけだ。

ところが、投馬国へ至る南水行二十日。邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月。
これらの記事を書いた帯方郡使は魏の正使・梯儁らとは異なる、倭使を倭国に送還した(仮の)帯方郡使だったと考えれば、放射説は成り立つことになる。


https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [2]
  • 遂に発売されました

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 3月20日(日)03時29分44秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 返信
 
3月18日金曜日

『「魏志倭人伝」の正しい解釈で邪馬台国論争遂に決着 』

が遂に発売されました。

下記URLから購入可能なので、ぜひお求めください。


https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/


  • [1]
  • 郡より女王国に到ること萬二千余里

  • 投稿者:難升米
  • 投稿日:2022年 3月16日(水)03時51分47秒
  • dhcp05-049.ctb.ne.jp
  • 編集済
  • 返信
 


『魏志倭人伝』には(帯方)郡より女王国(邪馬台国)に到ること萬二千余里と記されている。

ところが、(帯方)郡より伊都国迄で既に萬五百余里も消費している。

だから、伊都国から邪馬台国迄は萬二千余里ー萬五百余里=千五百里しか残っていない。

すると、伊都国(糸島市)の南千五百里(百km程)の位置にあるのは、筑後山門である。

千五百里が百km程なのは、各島間の千余里が70km程だからである。

この場合、畿内説は勿論、成り立たないが、九州説も宇佐説や宮崎説などは成り立たなくなる。


https://www.amazon.co.jp/dp/4909566430/



レンタル掲示板